林檎の本 三節 ペスト大流行

曇天模様の空と空気は今日もイングランドを包み込んでいた。

それはアイザックの研究部屋まで押し寄せていた。部屋を照らす一本のろうそくは机上の学術書を照らすもあまりに心もとない。

部屋にいる少女の心を照らすように、あまりに心もとなかった。

「…最近外、やばくない。」

「やばいな。」

短い質問と単調な返答。

だがそれだけでもお互いの言いたいことは自ずと伝わっていた。

「どうすんの…。」

「いや、俺にはどうにもできない。」

「それはそうだけど…。」

答えの無い押し問答は実に愚かなことであるが、今の会話がそうとも言えるだろう。

青年は腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、すぐそばにある窓に手をかける。

硝子窓をグイっと開けると冷たい外気が部屋に入り込み頬と首筋を撫でていく。

突然入り込んだ新しい空気に吹かれて、ろうそくはそのまま炎の息を絶やしてしまった。

まるで人の命のように。

「窓開けて平気なの。」

「開けて換気した方がいいだろ…。」

特徴的なアホ毛は風に揺られ、白髪を持ち上げていく。青年の名は「アイザック・ニュートン」。

ケンブリッジ大学の学生であり、カレッジで一人暮らしていた。

その中、突如現れた奇怪な恰好をした少女「ケヴィン」と出会う。不可解にも少女はアイザック以外からは姿を視認することができず、アイザックの部屋に居候することになった。


というのが、あくまでアイザック側から見たあらすじである。登場人物にとっては不可解この上ないあらすじは読者から見ても不可解でしかない。

なぜなら、読者そのものが本の中に入り込んでいるからである。主役以外と交流することは叶わないが、その分主役を間近で観察することができるのがこの古本である。

しかし、少女はなかばそれに気づいていない。不思議なタイムスリップをしたという認識でしかないのだ。

これには口を弧の形に浮かべて見守る自称魔法使いも徐々に真顔に戻っていく鈍さである。

少女と青年が邂逅してから本の中では一年程が経過した。だが、少女の体感時間ではたったの三日である。

流石に少女自身、時の流れが狂っていることに勘づき始めたのか時折青年に今日の日付を質問していた。だが、質問したところで本で流れる時の速さの制御など不可能である。

気づけば一年。振り返れば一年。しかし、体感速度は三日の少女はめまぐるしく変わる世界に追いつくのに精一杯であった。

そんな中、また事件が発生する。

現代でも我々人類を悩ます疫病の流行が重症化したのだ。

不衛生極まりない環境の中、イングランドに疫病が流行するまでそうそう時間はかからなかった。

いともたやすく人の命を奪い、社会に混乱をもたらすそれの魔の手はケンブリッジにまで届いていた。


「よし、決めた。」

「え?何を?」

風に吹かれてからしばしの時間、アイザックはケヴィンに向き合う。深紅の瞳はろうそくがなくとも爛々と輝いておりさながら太陽のようである。

「実家、ウールスソープに帰る。」


次頁をめくるころには、彼ら一行はすでにウールスソープに戻っていることだろう。

カレッジで最低限の荷物をまとめ、馬車に乗り込みケンブリッジから一時間。それか二時間ほど揺られればアイザックの生家は目前だ。

青年が生まれ落ちた時から孤独を感じながらも暮らしてきた家は、ある程度の広さを持った牧場と家の前には木が立っていた。

少女はすぐに察知する。

ニュートンのリンゴ伝説の木だ、と。

だが、思想に耽っている間にも青年は足早に生家へと足を踏み入れていく。落ち着いた農村ウールスソープに立つ家だ。さぞ、穏やかで静かな家なのだろうとケヴィンも足を踏み入れると


「兄ちゃんお帰り~!!」

「兄さんだ!!お帰りなさ~い!!」

「…おかえり。」

「おう。ただいま。」

わらわらとアイザックより背丈の低い少年、少女たちが顔を見せて部屋の中から出て来た。

「ベンジャミン、ハンナ、メアリー…。相変わらず騒がしいなぁお前ら。」

「兄さん帰ってきても農業の手伝いにならないどころか足手まと、ぐえっ!!!」

ベンジャミン、と呼ばれた少年は開口早々に余計なことを口にしたのだろう。容赦のないアイザックの拳を真正面から受けて倒れしまった。

手の骨の音を鳴らすアイザック本人は「うるせぇ弟だなぁ」と死んだ魚も驚く光のない目を倒れた家族に向けていた。

「私の兄さんでもこんなことしない…。」

「さぁて!部屋に行くか~!」

ケヴィンの心からの吐露を露ほどにも耳を貸さないアイザックは自宅の階段をずんずんと昇っていく。

ぎぃぎぃと音を立てる階段はやや古い家相応の代物だ。一階はまだガラス製の窓から降り注ぐ光で満たされているが、二階のアイザックの自室は一つの窓から光が差しているぐらいだった。

「天井ひく…。」

「うるせぇなぁ。これでも少しは広めの部屋なんだぞ。」

「はぁ…。」

荷物を乱雑に部屋の床に放り投げれば、アイザックはすぐに部屋に備え付けられた椅子と机に向き合う。

どこにいてもこの人間は研究をするのか、と脱力したケヴィンは彼の並べる論述書を覗き込んだ。

しかし、何が書かれているのか理解するのが難しかったのだろう。結局少女は首を傾げながら、家の散策へと出かけたのだった。


ペストの大流行でアイザック・ニュートンは大学在学中にウールスソープへと戻ることになった。

そこで微分積分、万有引力の法則、光学に関して数多くの発見と証明を成し遂げた偉業の年にもなっている。

少女はこれから、過ぎ去る早い時間の中でそれを目の当たりにするのだろう。

自称魔法使いは、また笑みをこぼした。


_____小ちゃなワニさん、なんとまあ

光る尻尾を磨き上げ

金のうろこの一面に

ナイルの水を浴びせてる!


なんと陽気ににやつくか、

なんと巧みに爪広げ、

優しく笑うそのあごに、

小魚たちを迎えるか!

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