林檎の本 二節 アイザックの研究部屋
洋紙の香りはかび臭い古本の匂いとはまた違ったものだ。
部屋に揺らめくろうそくは吹いてしまえば、すぐに消えてしまいそうなほどに朧気で小さい。
積み上げた本と紙の数から、容易に持ち主は勤勉な者なのだろうと感じさせる。
興味深そうに眺める少女はこんなに呑気に考え事をしている場合ではないことを理解していた。
ケヴィンはつい先ほどまで胡散臭い古本屋にいた。自称店主に進められて嫌々古本を手に取り、開いたことは少女の記憶に新しい。
だが、次に意識が浮上した時少女がいたのは古本屋では無かった。人々が忙しなくいきかう、馬車が走り去る、時代が明らかに違うイギリスだったのである。
コーヒー店に集うコートを着た男性達、道端で開催されるバザール、石畳の道路を走り去る馬車。
その後方を振り返れば、大げさなほどに豪華絢爛な建造物があった。
少女がそれをケンブリッジ大学だと知るのに早々時間はかからなかった。各地の優秀な人材が集う学び舎であることは、無知な少女の目にも明らかである。
しかし、問題はすぐに発生した。少女の姿が誰にも見えていないのである。
行きかう人に声をかけようにも、何もない場所から女の声がすると怯えられてしまう。揺らめくろうそくを消してみれば、見えない誰かの仕業だと恐怖する人。少女はどうしようも無くなり大学のふもとにある橋の下へと避難したのだった。
意図せずして、見えない少女が大学内を徘徊している噂話はケヴィンが原因だったのである。
誰にも見えないのであればどうしうようもない。途方に暮れていた少女は同じくして途方に暮れている青年と出会った。
何故なのか、少女の姿は青年にみえるらしい。突然の邂逅に少女は内心震えていたが、もはや一から十までのこの怪奇現象には慣れつつあった。
「ここがどこなのかさっぱりだぁ…。」
「俺の部屋だけど。」
「マジレスやめてよ。」
本を開いたらタイムワープでもしたのか、と愚痴の一つでも零したくなる少女に斜め上の角度から水を差してくる青年。
綺麗に整えられた白シャツに赤のリボン。紺のプリーツをスカートを履いた少女の姿は現代であればただの女子高校生である。
だが対照的に青年の恰好は、皺のよったシャツにくすんだ色のズボン。格好に頓着しない人であったとしても、現代ではあまりお目にかかれない姿だ。
否、この場だとお目にかかれないのは少女の方だろう。
「ここに連れてくるまでの間、誰かに見つかったらやべ~って思ったけど誰にも見えないんだな。こわすぎる。なんだお前。」
「いや…、知らない…。聞かないで…。」
双方頭を抱えたくなる状況に青年は仕方ない、と一場面区切らせた。
「…俺はアイザック・ニュートン。お前は?」
「え!?本物!?」
「いや名を名乗れよ。」
「…ケヴィン。」
「よし。」
ケヴィンは金色の瞳を大きく見開いた。怪奇現象に慣れつつあったが、眼前の青年がかの人物であるとは想像もできなかった。
「教科書に載ってる人だ…。」
「は?なにがだよ。」
「いや…。うん…。」
「よくわかんねぇ女だな…。」
中学、否小学校の時からときおり理科の教科書で肖像画が載っている人物。あの「アイザック・ニュートン」だとすれば少女が驚くのにも無理はない。
だが、肖像画と比べ髪も短く年若く見える。深紅の瞳はろうそくの炎を反射し、火花が散っているかのように輝いていてた。
「はい。紅茶。」
「ど、どうも…。」
ティーポットに茶葉をいれお湯を注ぎしばらくたったのだろうか。少女は思想と感嘆にふけり、青年の動きを殆ど見ていなかった。
淡い香りを伴った湯気は、古本屋の時とは違い確かな安心感を運ぶ。
少女はカップに口をつけ、熱いものを避けるように少しずつ少しずつ茶を含んでいく。
「わ、おいしい。」
「だろ。俺のお気に入りのやつだ。」
「得意げ~。」
「うるさいな…。ほら、そこに座れよ。」
青年の指さした先は、お世辞にも綺麗とは言えないベッドである。だが、この部屋唯一の椅子は彼が陣取っている。ならば、仕方なしと少女は恐る恐るベッドに腰かけた。
「かった。」
「本当におまえ口うるさいな。」
「え~…。」
本当のことを言っただけなのに…。と口を尖らせる少女の動作に、青年は手を左右に振り煙に撒こうとする。
本日何度目かの嘆息のあと、青年は再度口を開いた。
「さて、お前これからどうするんだ。」
「どうって…。」
「俺以外に姿も見えない、口もきけない。住むところもない。どうするんだ。」
「貴方の部屋を借ります!」
「図々しいな…。」
不満を顔に表すも、否定をしない青年は間接的に自身の部屋に少女を住まわせることを了承したことになる。
それに意外性を感じたのか少女は沈黙を保ちながらも、内心は驚いていた。
「意外といい人。」
「おい、黙れてないぞ。」
「すみませ~ん。」
「…ったく。じゃあ俺の部屋では好きにしてろ。あんまり外に出るなよ。また変な噂されるだろうし。」
「お腹すいた。」
「話聞けよ…。」
体感だと一日ほどしか経過していない。だがそれはそれとして、少女は空腹であった。何か食わずしてはいられないと主張する少女にほとほと呆れながらも青年は手元に置かれていたビスケットを差し出した。
「やさしい~。」
「…研究の邪魔はするなよ。」
「うっす。」
こうして少女と青年の誰にも気づかれない生活が開始した。青年はひたすらに研究をするのをただ観察する少女の姿はもはやその光景自体が奇怪である。
それを意にも介さず、時は流れ続ける。少女はどうしたら元の世界に戻れるか思案しない日はなかったが、戻れないのであれば仕方がないと今の世界に順応していった。
もちろん、この世界で流れる時が早すぎることにもすぐに気づくことになるのだろう。
_____「へんてこりんすぎ!」とアリスは叫びました。
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