林檎の本 一節 ケンブリッジ大学の橋のもと
見えない少女がカレッジを徘徊する、という噂が出てから少しが経った頃。
一人の青年がレンガ製の橋の下で佇んでいた。
常日頃からケンブリッジを包んでいた雨はイギリス全体を帯びるほどの豪雨に変わっていた。
白銀の短髪は雨に濡れたのか、前髪から後ろ髪まで張り付いている。それに嫌悪感を催したのか、時折毛先を指に絡めては橋の下から様子を伺っていた。
「傘まで忘れたし…は~…これじゃあカレッジにまだ戻れないか…。」
曇天模様の笑顔を浮かべれば、その場に青年はしゃがみこむ。落ちていた小石を手に取れば、目前に流れる小川へ勢いよく投げ込んだ。
ぽちゃん、と音をあげて水底へと落ちていく小石を太陽の如く真っ赤な瞳で追い切ると青年は嘆息する。
「この放物運動、そろそろ証明できそうなのにな~…」
青年は不運であった。
生まれる前から父は死去。
生まれて三年ほどして、母は自身の元から離れ孤独な幼少期生活を送ってきた。
祖母との二人暮らしをするも孤独であったことに変わりはない。
母は再婚した男のそばで暮らしているものだから、ますます性格を拗らせていった。
陰湿な性格のせいか中々友人といえる存在もできなかった。
だが、少年には好んでいたことがあった。何かを作る事だ。
日時計を作り、水車を作り、凧を作っては村人を驚かせていた。その多才で器用な天性の才能を村人たちは「小さな魔術師」とよぶほどだった。
しかし、少年は欠点も持っていた。
興味を持たない事には全く見向きもしないことだった。
実家に戻ってきた母に牧場を見ることをたのまれるも読書に夢中になり挙句の果てには、隣家の小麦畑に飼っていた羊が顔を突っ込むほどだった。
勉学に没頭する分だけ農作業を怠る少年を見て母は常日頃ため息をついてたいことは、彼の記憶にも残っている。
幸いにもその才能と天性の頭脳が買われ、名門大学に入学することが叶うもこれまた不幸が彼を襲う。
母が学費を出さなかったのである。
農作業に従事してもらうことを希望していた母にとって、大学への進学はまさに想定外。
比較的裕福な家の元出身であった少年は、不自由のない生活を送ってきた中でかなり大きな不運に見舞われたのである。
「はぁ…。」
このようなため息を何度もついてきたであろう、少年から青年へとなった彼は準免費生として大学への入学を果たす。
学費を免除するかわりに他の生徒の召使になる、という制度を使った彼はただでさえ陰気な性格をますますこじらせていた。
友人といえる存在は相変わらずできず、他の生徒からは見下され、自尊心を傷つけられ。
散々といえる道のりを歩んできた白髪の青年は今日もまた不運に見舞われていた。
「暇…。」
「そうだよね…。」
「うん…。」
青年がぽつりと誰にも当てていない独り言をつぶやくと、鈴の音が鳴るように誰かの声が呼応する。
「ん?」
自分しかいないと感じていた、認識していた青年は顔を上げる。
首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「いや…。」
なんでも、と口にしようとした時、なんでもない状況ではないことに気づいたのか勢いよく呼応した先へと顔を向けた。
そこには
「あ、どうも…」
桃色の髪を丸く結わい上げた見慣れぬ少女がそこに立っていたのである。
__下へ、下へ、下へ。他にすることがなかたので、アリスはすぐまたしゃべり始めました。
「わたしがいなくてダイナ、今夜すごく寂しがるでしょうね!」
噂話は最初は影を見たとか、声が聞こえたとか、姿を見たとかそんな他愛ない話だった。だが日を追うごとにただの階段話ではなくなっていった。
話しかけられた、本が移動した、つけたろうそくがふっと消えた。など実に様々である。
その噂話はとある大学の中で広まりに広まり、それは友達がおらず孤立していた青年の耳にも入っていた。
噂話は所詮噂話と馬耳東風を決め込んでいた青年は、この日この時を持って信じざるを得なかった。
「ひょぇっ!?」
きゅうりを見せられた猫のごとく飛び跳ね、後ずさりを決め込んだ青年の顔色は曇天の空よりも曇っていた。
情けない声を出しながら息を吸い込む青年は特徴的なアホ毛をぷるぷると震わしている。
「そこ動くんだ…。」
少女は呆れを隠しきるつもりもないのか、一言ぽつりと呟くと後ずさる青年に億すことなく近寄った。
「あの…。」
「な、なんすか…。」
「いや、聞きたいのこっちなのに何で後ろに逃げるんですか…。」
「いやいやいやだって…君、恰好がおかしいし…。」
「え?」
時は1650年。ケンブリッジ大学の橋の下に、一人の大学生と未来の少女が邂逅。
魔法使いは愉快気に本を捲る。一冊の伝記をめくる。死の書をめくる。
さぁ、見えない少女が見えるようになった。
さぁ、少女は一冊の世界へと落ちていった。
アリスはまだ喋り続ける。魔法使いは頁を捲り続ける。林檎の刺繍が入った本を捲る。
古本屋にいた少女の姿はそこにはない。だって、本の世界へと落ちたのだから。
魔法使いはまた頁を捲る。
その本の題名は「アイザック・ニュートン」だ。
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