第十八話


 ミズナラが放ったのは、あくまで豆腐に対する決別の言葉でした。

 けれど、それを聞いた時にニラヤマは理解しました。なぜ豆腐とミズナラが、彼らと現実の繋がりを持たない自分によって引き合わせられたのか。


 二人ともの事情を知っている一人きりの人間で、そして二人の別れ話の顛末にEDENの行く末が懸かっている。今まで恋人どころか友達さえ持つことのなかった自分が、その役目を与えられた理由を。


「――っミズナラと会った時の、あいつ」


 もし神が居るとしたら。それが豆腐の言う通りEDENの運営という姿で、今もこちらを眺めているとしたら。ニラヤマは天を仰ぎます。マイクを切ってヘッドセットを外し、現実の天井に向けて叫びました。


「全部、このためか?このためだったのか!?」


 ニラヤマだけが気付ける理由、ミズナラには気付けない理由がありました。豆腐が『心を読める』と言ってミズナラの懸想を言い当て、世間を神とするような振る舞いを問い詰めたのに対して、ニラヤマには最初そのような素振りを見せなかったこと。


 それ以上に今起こっている出来事の全てが、かつて元カノと別れるに至った経緯についてミズナラの立場から話された事象の再現であること。


「豆腐がミズナラの元カノだな!?豆腐だけがそれを知っていて、だから初対面の時にあれだけ動揺したんだし、一緒にワールド製作しようなんて使命の役に立たないこと言って、距離を詰めようとして失敗したんだ」


 その時、まるでニラヤマの声が聞こえていたかのように、あるユーザーから非公開インスタンスへの招待が送られてきます。


「用事を思い出したのでちょっと移動します」


 ニラヤマが周囲に言い置いてから招待を承認して、ディスプレイに表示された招待先のワールドは、やはりアパートの一室でした。



 ミズナラの気持ちを豆腐こと等軸アキラは、よく知っていました。家にまで、辛うじて登校した部室にまで会いに来てくれたミズナラに誘われ、教室で授業を受けるという『普通の学校生活』を送ろうとしたことがあるから。


 だから自分が今から何を言おうとしているかも、よく分かっていました。それが絶対に良い効果を生まないとしても、止められないことも。


――友達がホモになった。


 そんな言葉が脳裏に浮かんで、豆腐は今ようやく自分が失恋したのだと分かりました。ミズナラは不登校の自分に漫画を描くという道、それを通した人との繋がり方を教えてくれて、ずっと背中を追いかけながら描いていたのです。

 だから学校を卒業して離れ離れになった後、精神状態の良くなかった彼がVRに居場所を見つけたと知った時、純粋に嬉しかったのでした。自分とは違う道に進んだ彼が未来を見据えて、新たな文化圏へと踏み入れたのだと羨ましくさえ思いました。

 そして、また同じように好きな漫画について話して、自分の描いたものの感想を聞いたりしたかったのです。けれど自分が会うことのできた彼は、ずっと女役メスに堕ちたユーザーを撫で回して砂糖を吐くような惚気話ばかりを共有しているのでした。


 豆腐はEDENに滞在する彼らが『未来』を生きているという言葉を、もう決して信じてはいませんでした。幾つもの側面を見せ合う時間としては、たった2.3時間と週に1.2度会うだけでは短すぎました。

 そして少しでも創作のことを考えている彼はVRの中には存在していなくて、対話をする相手は自分のパートナーや同じ界隈の人しか居ないのです。

 快楽を得る行為に、それが正しいことだという界隈に属して、そうすることで肯定されて、それ以外の人は自分のように自然と訪れなくなる。


 それは一種のカルト宗教のように閉じた価値観で、だけど前人未踏の行為であるというだけで彼らは開拓者の気分でいる。もう新しいことなど一つも探し求める気はないのに、閉じた世界の外に向けて何も創り出すつもりなどないのに。


「――我が失った『青春』とはどのようなものか、どれほど大きいものを失ったのかと後悔し恐れる日がなかったと言えば嘘になる」


 同性愛であることや、同性愛でもないのに同性と性的なスキンシップを取ることが気持ち悪いのではありません。ただ彼にとって自分と創作の話をすることは、もう可愛いアバターを着た女役メスと触れ合うことより楽しいことではないのだということが悲しかったのです。

 彼らが創作に触れる者として、そして現実や創作に感性を持つものとして死んでしまったのか、それとも人と触れ合うことが怖いままの自分が、同性同士で寂しさを癒す術を見つけた彼らに置き去りにされたのか。


 豆腐は自問しながらも答えを既に出していました。


――一つの場所に閉じていく彼らに『置いていかれた』と感じるのは何故だろう?


 なんということもありません。豆腐はただ理想のため一緒に歩んでいける友達を一人、失ったことが悲しいだけなのです。生きていく世界が変わることが、もう二度と同じ場所で会えなくなるのが『死』でなくて一体なんだというのだ。

 きっと彼らの眼にも色褪せた自分の姿が映っていて、どちらの視点から見ても相手の方が死者であるのでしょう。


――全ての人との繋がりが、砂のように指の隙間から零れ落ちていって、たった一つだけ手元から離れていかないのは何の変哲もない立方体ユニティキューブ。だから、わたしは創るのだ。もう生きては会えなくなった彼らにも届くような、わたしがまだ生きているのだと全ての世界に証明するための爪痕を。


 空を満たし乱回転し宙へと立ち上るワイヤフレームの立方体、やがてそれらは対流する二つの渦となってインスタンス全体を包み込んでいきます。等軸アキラこと豆腐は、ずっと身の内に溜め続けていた未練を振り払うように吼えました。


「安心したぞ、この程度のものを貴様らが懐かしみ、そこに縋りつかなければならぬほど今の楽しみに飢えているというなら、我が半生も捨てたものではなかったというわけだ!」


 豆腐には、まだ知らないことがありました。

 例え未来の技術として語られていた仮想現実であっても、誰もが未来性を求めて訪れているのではないということ。

 新しい何かに触れることを期待して訪れた者たちも、その場所で過ごすうちに大切にしたい現在が生まれ、今と同じ時間が明日も訪れることを願うようになるのだと。

 限られた時間で果たすべき使命を与えられてEDENに訪れた豆腐は、それを十分に知るだけの時間を過ごすことがでなかったのです。


 そしてミズナラはEDENの住人たちの在り様を否定するような、豆腐の言葉だけを『知恵の実』を介して他のインスタンスにまで中継していました。

 それはEDEN内の支持率によって決まる『契約の箱』で、豆腐が選ばれる可能性をゼロにするムロトの授けた策でした。


 自らの不快を既存の価値観ルールに当てはめて、他者の存在を否定する言葉。相手を直接害する手段が存在しないインターネットの世界では、日夜それらが砲火として飛び交っているのです。

 それでも仮想現実では決まった土地を取り合うのではなく、人を媒介にして幾らでも場所を生成していくことができます。だから人々の反応が海を割ったように共感と反感の二つに分かれたとして、両者が幾度の議論を経た後で同じ場所に居合わせることはないのです。それこそが『放課後の終わらない』所以であると。


「――要はさ、あんたら出不精なんですよ」


 途中まで『新しさ』という文脈に担保されていた豆腐の演出も、今となっては他のユーザー達が言葉や身振りを交わすことすら阻害する、大音量と光の台風でしかありません。

 捨て台詞を言うだけ言って自分を傷付けるミズナラの返答を聞きたくない、そんな心境を表すような景色の中で豆腐は別の誰かの声を聞いた気がします。

 そして箱型パーティクルの作り出す巨大な渦の外側に居たミズナラは、決してこの場に現れるはずのない人間の姿を見ました。


「――ニラヤマ、さん。どうして」


 ミズナラが呆然と呟くのは、この場所にニラヤマが現れるということが全ての状況を引っくり返しうると分かっていて、だからこそ彼がこの場所に訪れることは絶対にないように細心の注意を払って根回ししていたからです。


 その時、教会の天蓋が割れて見覚えのあるユーザーが落ちてきます。


 今まで姿を消していたのか別のインスタンスに移動していたのか、ともかく正当なジョイン方法でこのインスタンスに戻ってきたのではなさそうなムロトが「今しかない、やれ!」と叫ぶと同時に、彼がお告げの開始を妨害するために仕込んでいたユーザー達が動き始めます。

 といっても行えるのはブロックや追放投票の開始くらいで、それより先にジッ、と音がして全員の『知恵の実』が不快なピンク色マテリアルエラーに変化します。

 それは取りも直さず彼らが『知恵の実』の所持者として、正式サービスに繋がりを引き継ぐ権利を失ったということで、呆然とへたり込むムロトの協力者たちを通り過ぎたニラヤマは色とりどりの箱型アバター達を一瞥します。


「自分の積み上げてきた価値が通用しない場所に行くのが怖くって、それは相手も同じはずなのに向こうから来てもらうことばかり期待する。だから、お互いに自分の持ち場から動こうとせず、歩み寄ってくれない相手やその居場所を否定するしかなくなるんでしょう」


 へらりとした調子で、最早聞き慣れた声が話しかけるのを、今度は豆腐も聞きました。


「今更そんなことを言ってどうする、貴様もまた我を否定するのか!?」


 豆腐は威嚇するように、視界を覆い尽くすほど高密度の箱型パーティクルを、ニラヤマの居る方向に向けて高圧水流のように放ちます。人々が逃げ惑う中ニラヤマだけが「これじゃ会った時と同じだな」と笑い、手に持っていたものを振りかぶります。


 そして『毛刈り棒』が一振りされた軌跡にある箱型パーティクルが丸ごと消滅した時、豆腐は思い出します。このユーザーの『契約の箱』が、あらゆる箱型に対して絶対の権能を持つことを。

 それは何度も『変身』機能を刈り取られ、再び植え直されるまで不快なピンクマテリアルエラーの状態で転がるしか無かった豆腐が一番よく知っていました。そして『変身』による演出と音響が止まった時、それは浮遊感すら伴う巨大な静寂となって、彼らの会話をインスタンス内に響かせます。


ミズナラが「ニラヤマさんが言っていた創作による繋がりだって大きくなれば、こんな風に『良い』と言わなければ同じ場所に居ることができない同調圧力になるんです」と言い、豆腐が「しかし『終わらない放課後』など、お気持ち表明によって賛成と反対を分け、自らと同じ考えの者だけを集めることによる、まやかしの理想郷ではないか!」と反論します。


 つまるところVRSNSが物理的・社会的な制約を脱しようと、そこに集まるのが人である限り楽園には成り得ないのだと既に二人とも理解していて、そこでニラヤマが「そうだと知るために、私たちはここに来てるんじゃないですか?」と言いました。


「何だと?」

 と豆腐が思わず返したのは、それが考えられる限りで脈絡のない返答だったからです。


「えっと、あーつまり、」


 意図が思うように伝わっていないのを察したらしく、ニラヤマは数秒ほど言葉を探してから「あなたが言ったことじゃないですか、豆腐。失った『青春』とはどのようなものかと、後悔し恐れる日はもう来ないって」と言いました。


「そ、それは」


 ミズナラに対する感情的な否定の言葉であって、と口にできない豆腐に「でも、良いところもあった、楽しいこともあるのだとも認めている」とニラヤマが後を継ぎます。

「逃がした魚を釣り直して隣の芝を自分の庭に植え替えて、葡萄が酸っぱいかどうか確認できたってわけでしょう?それによって何が満たされて、何が満たされないのかは実際そこに訪れて自分の目と耳で確かめるしかない。そのためにEDENに来ているんじゃないですか?」


 ゲーム制作ソフトに創りたいものを描いてアップロードする。

 それは一からプログラムを書いてゲームを創ったり、現実で資材を持ってきて建築するより遥かに簡単な行為で、けれど実際にできたワールド等の設計や構想の至らない部分は、実物として使用されるうちに判明していく。

 それは電卓ツールがあったところで問題を解く計算式コンセプトを立て間違えていたら無意味なのと同じように、自分が願ったものを真に必要としていたのかを確かめる行為でもあるのだと。


 そしてアップロードされた『自由にできる小さな世界』が実用されて、皆の見ているEDENと言う世界を創り出す。それはアバター同士の触れ合いであったりワールドとそこに訪れる人、インスタンスという形になっていて、とニラヤマは言います。


「異なる世界同士がぶつかって争いになったり、逆に誰も予想しないような結果をもたらしたりする。もしかしたら『契約の箱』は最も分かりやすい形で頭の中の世界を実現させることで、互いの見ている世界に相互作用を引き起こすための機能かもしれない」

「待て、何をする気だ」


 もしニラヤマが願望を実現する『契約の箱』によって、真に必要とするものを願っているかを間接的に確かめるというのなら、ニラヤマの『毛刈り棒』は今から何を刈ろうとしているのか。

 それは無論、箱型である豆腐やミズナラのファンアバターでもなく、そして誰かのワールドの一平面にも留まらず、何かとてつもない不可逆な変化を引き起こそうとしているのではないか。

 そんな豆腐の問いを背に受けながら、ニラヤマはここに来る直前にあるユーザーと交わしてきた言葉に想いを馳せます。


 それは豆腐の演出とミズナラによるとアイドル性による派手な争いの裏側で、その状況を作った黒幕同士が決して表に出ることのない協定を結ぶ、もう一つの決戦でした。

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