第十六話

「その人が女だから、好きになったんですか?」


「え?」と思わず返したのは、それが『元カノと別れたという話』に対する第一声で、おおよそ考えられる限りの脈絡のないものだったからです。


「えっと、あーつまり、」


 意図が思うように伝わっていないのをミズナラの沈黙から察したらしく、言葉を探すような仕草を数秒してから「その人がプロの漫画家になって、休職中の自分では会いづらいって感じたんですよね。だけど卒業する前から趣味が同じでも相手は不登校で、わざわざ会いに行かないといけないのは同じだったんじゃないですか。

 だから『プロの漫画家』になったら会えないっていうのなら、その人を好きになった時は『誰』だと思っていたのかなって」と、これまた伝わっているか自信なさげな声で言ったのは、初めて出会った時のニラヤマでした。


 その頃ミズナラはまだムロトと同じ“ソドム”近隣のコミュニティに居て、退廃の限りを尽くしていました。

 たまに日本人の多い全体公開パブリックインスタンスの、主に初心者が集まるチュートリアル用ワールド等を渡り歩いてはEDENに来たばかりの初心者を『非日常的なVR体験へと誘ってくれるお姉さん』として案内し、それ以外の選択肢を知られる前に所属しているコミュニティの構成員や自身のパートナーにしていたのです。

 パートナーといっても『多夫多妻制』或いは『掛け持ちOK』がそのコミュニティ内での常識で、寝るの意味はどちらでもありました。

 情事を行った相手とそのまま朝まで添い寝することもあれば、無職のフレンド同士で朝まで飲み明かして昼まで寝落ちして、起きたら再び乾杯をするような自堕落な生活もしていました――それはアキラの知る、学友向けの裏アカウントにも書かれていない秘密でした。


 それまでの学校生活でミズナラは、場に合わせることなく素のままで誰かに好かれるように振る舞えたので、職場とプライベートの顔といったものを使い分ける考えも、その必要も感じていませんでした。

 だから仕事の同僚に対して必要以上に自分のことを話したり、不平不満を口にしたせいで距離を取られて初めて、給料のために働いているような場では個人の事情なんて求められていないと知ったのです。

 そして職場に出かけることに苦痛しか感じない自分の現状を、クラスの人気者として交友関係に悩むことのなかったミズナラしか知らない、かつての学友たちに相談することもできずSNSで連絡を取り合う頻度すら徐々に減っていった中で、人恋しさを解消できるEDENという場を知ったのでした。


 ニラヤマは勿論EDENに来たばかりの新規ユーザーとして知り合って、けれど決して理想的な『お姉さん』の振る舞いができた相手ではありませんでした。

 それはミズナラがEDENに傾倒していった結果、現実で遠距離恋愛中だった彼女と別れた日の夜だったからです。ミズナラが元カノと別れた直接の切っ掛けはVR-EDENをやってることが、どこかから当時の彼女にバレたことでした。

 それを知った当初、彼女はEDENについて否定するより興味を示し、自分もそこに行くから案内をして欲しいと求めたのです。

 それを断ったことで言い合いになり、関係に不可逆な亀裂を生んでしまったのだと――やけ酒でべろべろになったミズナラは、不可解な質問をしてきた当時のニラヤマに答えました。


「――その人だから好きだったんです、好きだったんですよ」


 かつて現実のミズナラが不登校気味だった元カノの家にプリントを届けにくる仲になったのは、部活所属が強制だった学校で単純に漫画好きだったミズナラと、幽霊部員でもとやかく言われない場所として豆腐が同じ漫画研究部を選んだことが切っ掛けでした。


 クラスの人気者であったミズナラも、沢山の人が集まらない場所で好きな漫画の話などをして過ごす時間を求めていたのです。

 そうしていくうちに部活として漫画を自分で描いてみる話に行き当たり、狭い漫研部室のある学校に行かせる口実のつもりで始めた中で、彼女は創作者としての才能を開花させていったのです。

 そしてミズナラが創作の道を諦めることを『大人になった』と正当化するには、プロの漫画家となった彼女の存在は近過ぎたのでした。


 ニラヤマは彼女――元カノがEDENを知ろうとしたことについて、彼女なりに歩み寄ろうとしたのではないかと質問しました。

 それは確かにEDENという場所に来てから日が浅いニラヤマ、そしてEDENに来なかった彼女にとっても妥当な理屈で、だからミズナラは改めて説明します。


「例えば僕のコミュニティは、肉体的な性別が女のユーザーを入れないんです。まあ向こうも参加したいと思わないでしょうけどね。それは……なんだろう。美少女のアバターをVR性行為に使ってるのを怒られたくないとかじゃなくて。単純に、ここには『一種類の人間』しか居ないんです。男子校って通ったことありますか?」


 ニラヤマは少し迷ってから答えます。


「まあ、一種類の人間しか居ないところに通ってはいますね」

「本当に女の人が一人も居ないと、皆が『一種類の人間』なんですよ。性別なんて、そもそも認識することがない。全員男なら、男らしくなくて良い。そうでない者が訪れたら宇宙人みたいに警戒して、決して輪の中に入れることはないでしょうね。

 女子校に男子も入れないわけだし――って高専に通ってた須藤さんからの受け売りで、僕は共学出身なんですけど」


 高専ってなんだ、とニラヤマは一瞬思いました。ニラヤマは中高一貫校から大学受験する人間しか見たことが無かったし、クリエイターなんて職業はVRに訪れるまで一度も見たことがなかったからです。

 でも、そういう立場だからこそ、須藤というユーザーが言ったらしい理屈をよく理解することができました。


「差異がなければ何者か『らしさ』を求められたり、認識させられることもない、っていう話?女性の居ない場所で女役は代用品ではない、有名な歌劇団だって男を排した劇の中に、女らしくなくて良い男役を求めますし」

「多分そう、それで合ってる」


 この時、ミズナラは妙に物分かりの良いニラヤマが、少し悲しそうに黙ったことに気付きませんでした。

 ミズナラは、彼女の漫画家としてのSNSアカウントでVR-EDENへの参入を仄めかす呟きがあった時、そのことを責めて言い合いとなり――そこで決定的に関係が断ち切られるような言葉を、互いにぶつけ合ったのだと話します。


 そこまで聞けばEDENに来たばかりな当時のニラヤマも、彼女が何を間違えたか理解できました。それは彼らと異なる『何者か』であるまま、ここに来ようとしたこと――そこから築かれる関係はどうあっても対等なものにならない。

 その素性や価値観を肯定して崇める者と、そこに価値を見い出せず繋がることのできない者に、一つであった人間たちを分けてしまうのだと。


「だけど仕方ないじゃないですか。それに、あの人だってプロの漫画家って肩書きがついてから同じ創作をしている人同士ばかりでSNSでも繋がるようになって、不登校だった頃のあの人しか知らない僕なんかと話してるよりも楽しいに決まってますよ」

「そう……なんですかね?ごめんなさい、誰かを好きになるって分からなくて」


 ミズナラも、不思議と怒りは湧きませんでした。

 どこかのワールドを案内し終えた二人きりで、そして相手が了解していないといけない情報なんてものはなく、だから分からなければ問いて答えることが許されました。少なくとも、なるべく心を踏み荒らさずに相手のことを理解しようという、曲がりなりにも敬意のようなものが互いにあったのです。


 ミズナラがそのことを口にすると、ニラヤマはまた少し考えてから話します。

 例えば人が二人居るだけなら互いに違う部分があるだけで、その性質にマジョリティもマイノリティもない。そして『その性質を持つ人間』として接するのではなく、それまでの会話や振る舞いを通して積み上げられてきた人物像に『その性質である』ことを含んでいるだけではないのかと。


「私は知らない人と会って、世間話をするのが好きなんでしょうね。お互いに判断材料はその人の容姿や振る舞いと会話した内容しか無い中で、親しくするなんて考えられないような素性や立場の人とも、そうと知らずに話してみれば意外と親しくなれるかもしれない」


 もし元カノさんが『何者』でもなくEDENに来ていたら仲直りできたのかもしれないですね、とニラヤマが言ったことを冗談と受け取ってミズナラは笑いました。それが当時のニラヤマにとって、今まさに実現しつつある事だと知らないままに。



「あっ、あのー初めまして……豆腐さんって人とフレンドなんですか?」という声が背後から聞こえてきて、ニラヤマは回想を打ち切られます。


 それはムロトの挑発を受けて、豆腐に『知恵の実』の接続を切られた直後のことでした。振り向いたニラヤマは、はい、いいえの答えを返す前に話しかけてきた相手の容姿をじっくりと眺めます。

 石膏のような肌と彩度の低い衣服に改変された市販の美少女アバターに見覚えがあるような気がしつつ、ニラヤマは相手の素性を探る意図で「こちらのインスタンスにはどういう経緯で来たんですか?」と言います。


「ああ、なんか色々と話題になっていたのでフレンドたちと一緒に見に行こうって話になったんです。もう一つ、人の多いインスタンスをさっきまで見てきたんですけど、こっちに移動してワールドだけ見て回ってから帰ろうかなと」


 そう言って相手が指差した先には、一様に彩度の低い衣服や髪と肌の色で統一されたアバター達がなぜかコタツを囲んで集まっていました。

 とはいえ『弾かれインスタンス』の中には刺青を入れた肌を惜しげもなく曝け出す“ソドム”の一行、ふさふさとした毛並みを持つ人狼や昆虫のような四本腕といった人外に近い形態のアバター達といった様々な集まりが点在していて、コタツに入っている彼らの一行だけが特別に異彩を放っているわけではありませんでした。


 そしてニラヤマは一行の中にフレンドが数人居ることを確認すると、迷うことなく“カナン”の主であるユーザーの前に歩みを進めて、こう言いました。


「こんばんは、先週ぶりですね」

「ああ……どうもニラヤマさん」


 まだ二人のネームプレートは、互いがフレンドであることを示す色に変化していませんでした。そしてカナンの主からは無論、ニラヤマもフレンド申請やその許可を求めるような言葉はまだ一度も発していません。

 フレンド申請を送る時というのは個人差があり、閉じたイベントである“カナン”の主催者、ましてフレンドになることが友人限定で開かれる会員制のクラブに参加できることと同義であるなら慎重になるのは当然ですし、ニラヤマの方も会話をして人となりが分かっている相手のフレンド申請しか受理することはありません。

 一方で、別にフレンドになるという儀式をした相手でなければ、言葉を交わしてはいけない理由もないのです。


 ニラヤマが豆腐に、もし“カナン”に行くことができれば願いを取り下げても良い、と言ったのは、自分自身の力でそこに行く算段が付きつつあったからです。

 誰かのフレンドのフレンドと、フレンドになった上でインスタンスに参加すれば別のコミュニティに行き当たる。そんなことを繰り返していたニラヤマは、既に“カナン”の一行が訪れる友人交流にまで行動範囲を広げていたのです。


 そうして次は“カナン”の主や一行が訪れる友人限定でフレンドを増やし『当たり前に居る人』になることで、徐々に外堀から埋めていくつもりでした。その時はミズナラが『知恵の実』で繋がりを拡大していることなど、まだ知る由もなかったのです。


「そういえば、さっきの話なんですけど」とニラヤマに声をかけてきたユーザーが言うより先に「あの豆腐っていうユーザーや、知恵の実ってアイテムの機能について、何かご存じなんですか?」とニラヤマは言います。


 質問してきたユーザーを含めた周囲は、ニラヤマの問いに少し間が空いてから「ああ……いや」と沈黙します。


 それで彼らの何人かが『律法体』や『契約の箱』について知っているようだとニラヤマは推測しますが、ミズナラの配信や豆腐との繋がりがこの集団との関係に、どのような影響を及ぼすか分かるまで自分の素性を明かすつもりはありませんでした。


 そして壁のディティールを補完するために肖像画イコンやフライヤーを張り付けることや、皆が知っている曲を賛美歌アンセムと呼ぶことなど大聖堂とクラブ文化の類似点を与太話として語り、自分を何者としても定義されないまま共に時間を過ごします。

 そうして、その場のインスタンスで特別ガードが堅いユーザー以外の全員とフレンドになっていけば、そのユーザーも毎度フレンドでない人間と顔を合わし続けるよりも、フレンド申請を受けてしまった方に気が楽になるという、ある意味でムロト達がやっていた『駒取り』の鏡映しを“カナン”の主に仕掛けているのでした。


 ただでさえ誰かのフレンド申請を無視、或いは拒否することは相応に精神力の要る行為です。

 それがマナーを守らなかったり初対面で素性の知れない相手だという理屈のある時はともかく、周りの誰がインスタンス主の友人限定にも姿を現し続ける、他のユーザー全員とフレンドになっているユーザーとなれば、拒否して別のインスタンスで再び顔を合わせるよりは『試験』を介さずともフレンドになる方に天秤が傾くのです。


――さて、と今この状況でニラヤマは考えます。


 眼前の“カナン”の主に何を話して自分をどういう人間だと思わせたら、フレンド申請を承認してくれるだろうか。

 友人限定から出てこない“カナン”と『同じインスタンスで会う』という最大の関門を突破して、自分に関する厄介な情報――カナンの破滅を願っていたことも知られていないまま『雑談』を行えている千載一遇の好機です。


 或いは一度で“カナン”の主まで行かずとも、取り巻きの誰かと意気投合してフレンドになれば再び会う機会も跳ね上がるでしょう。多少の時間がかかろうとニラヤマはそれをやってのけるという自信がありました。

 けれど、それは本会場のインスタンスで起こっている豆腐とムロトの争いが、自分が駆け付けても後戻りのできない状態になるよりも短い時間だろうか、と。


 考え込むニラヤマをよそに「このインスタンス、賑やかになってきたなー」と明らかに自分の主張を滲ませた感想をコタツの一角に居たユーザーが口にして、数人がそれに同意するように頷くと誰からともなく、こう言い始めます。


「ここ全体公開の『弾かれインスタンス』みたいだし、そろそろ友人限定にでも移動しますかね」


 それを言ったのはニラヤマが既にフレンドになっているユーザーであり、“カナン”の主にフレンド申請を仕掛ける最大の好機でもありました。


 閉じた輪はその外に居る者を寄せ付けないと同時に、内に居る者同士の親密感を上げる効果も持ちます。よりプライベートな内容や踏み込んだ意見について口にされることが多く、そこで表立った衝突もなく会話できた相手は信頼されやすくなるのです。

「……いや、そういえば今日『知恵の実』を配布している人が、運営の使者からのお告げを配信するって噂を聞いたんですよ。ここの動画プレイヤーで、少しだけ見て行きませんか?」


 しかしニラヤマは彼らを引き留めて、製作者として内密でワールド内に仕込んだ動画プレイヤーを起動させます。


 ニラヤマは、豆腐と離れ離れになった時点でそれを静観する選択肢もありました。

 豆腐が負けても“カナン”の滅びという願いは達成され、自分は『知恵の実』の所有者として繋がりを引き継ぐことができる。場合によっては千々になった“カナン”の中から既に面識ある者を、自分の手元へと引き抜いてくることも可能かもしれない。そこに豆腐というユーザーが居ることは有り得ない、というだけの話でした。


 確かに豆腐とは様々な局面を共に乗り越えて、ワールド製作という楽しみを初めて共有した相手でもあるが、それは決して『替えが効かない』という程の要素ではありません。

 ただ、ムロト達に追い込まれた豆腐が自棄になって、ニラヤマを巻き込むような自殺行為を取るかもしれないという懸念で、最低限の見捨てない態度は必要だと思っただけだと自分に言い訳をしながら。


 少しの読み込み時間の後で垂れ幕をスクリーン代わりに表示されたのは、ニラヤマの予想もしないような光景でした。

 ミズナラの配信画面の向こうから咆哮のように聞こえてきたのは、罵声だけでなく興奮と熱狂の声でした。波のようにアバター達が上下に揺れる中心に、誰もが見慣れた立方体が回転していました。

 配信画面の向こうで全員ではないが、決して少なくない数のユーザー達の手を伸ばす先に浮かぶ、何の変哲もない箱――それは『豆腐』と呼ばれる、製作ソフトを触る者なら誰でも目にする白灰色の立方体でした。

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