第一話

――曰く、この世界を、迫る危機から救い出せ、と。


 等軸アキラが“お告げ”を受けたのは、ヘッドマウント型VR機器を初めて被った日のことでした。


《かつて人間の文明が悪徳を極めた時に、我は硫黄の火を降らしたり洪水を起こして、それを滅ぼしたと伝わっている。

しかし、それは決して我が怒りや人間への戒めで起こされたものではなく、例えるなら羊毛が増えすぎた羊に毛刈りを行うようなものなのだ》

 

 その声はVR機器のスピーカーを介していながら、まるで心に直接語り掛けるように響いてきました。滅ぼされたものが反面教師として後世の人間の道徳倫理に役立てられたり、物質的な繁栄の残骸から新たに健康な文明が芽吹いていく。

 飽和したものが毛を刈られるように数を減らされて、その副産物である羊毛を使って新しいものが生み出されるという、言い方を変えれば焼き畑農業のような仕組みであるのだと。アキラは反射的に問い返します。


「だから、あなたは再び現実の世界で災いを引き起こしたというのですか?」


 アキラが『災い』と呼んだ事象は2020年の冒頭、その末長く遺される爪痕の大きさと裏腹に、ずいぶんと静かに訪れました。悲鳴や怒号、破壊の音が聞こえることもなく、ネットに飛び交う不確かな情報も、思えば事態の深刻さと矛盾するような現実の静寂に、耐え切れなくなっていたからではないか、とアキラは思い返します。

けれど感染症に限らず、病と呼ばれるものは往々にして、それが死に近ければ近いほど病院という場所に囲い込まれて、一般の目には触れないようになっているものであると、等軸アキラはパンデミックと呼ばれる災害を、そんな風に解釈していました。


《我ではなく、地球上の多くの人々がそう祈ったのだ》


お告げの主は答えました。


 毎日遠い職場まで勤務できてしまう満員電車だとか、インフラの過剰な発達によって際限なく残業させられる社会、無駄な広告や有益でない情報が増えすぎたインターネット。

 人間が増えすぎたからではなかったとしても、何かが過剰なものによって我々は苦しめられているのではないか、と。

 

 そして声高に叫ばれることがなくとも、密かに同じような想いを抱くものたちが増えていって、彼らの祈りを聞き届けた結果として世界は今のようになったのだとお告げの主は言いました。アキラは、その続きを引き継いで問いかけます。


「そして現実の社会に割かれるはずだった時間や資産という“羊毛”を使って、編み上げられた大きな布地のようなものが、わたしが訪れようとしている仮想現実の世界だというのですか?」


 お告げの主は返事を言葉ではなく、首を傾げることで表現します。敬虔な宗教家でもある等軸アキラにとって衝撃的だったのは、自らの信じる神と『面と向かって』お告げを受けた人間は、聖書の中にすら居なかったことでした。


 アキラの信仰において神様それ自体に具体的な姿はなく、また神様の坐す『天』とと自分たちの生きる『地』は概念的に隔てられています。

 けれど仮想現実用ヘッドマウント機器は空間を一人称視点で体験するだけでなく、両手のコントローラーの位置を追従させて『離れた場所』に居る相手と身振り手振りを伝え合うことを可能にします。

 だから動きをトラッカーに追従させた仮の姿であるアバターを介して、神様と面と向き合ってコミュニケーションすることは、偶像を崇拝してはいけない教義に何も反していないのです。


 そして意気揚々と使命を負って仮想現実に降り立ったアキラは、神様に与えられたアバターを『豆腐』と呼ばれたのでした。



「ええい、ネットリテラシーの授業で“画面の向こうに居るのは同じ人間です”って習わなかったのか!?」

「えっ、神の使者じゃなかったんですか」


 ニラヤマのツッコミに耳を貸さず、豆腐は『UDON毛刈り』の羊になったまま羊毛の直方体をどんどん巨大化させていきます。それだけでなく何やら1680万色に光り始めて、視界一面に広がる目に優しくない光にワールドが埋め尽くされます。


「一つ目の“災厄”の預言だ!我が変じた虹色の羊の毛を刈ると、このワールドに存在する羊の毛は二度と生え変わらなっぐぁああ あ あ!!!」


 豆腐は最後まで言い終わらないうちに、雑音で飛び飛びの叫び声を上げながら動きを鈍らせていきます。ニラヤマが、ワールド備え付けの毛刈り器を豆腐に押し当てたのです。

 そして虹色に光っていた羊毛をバリバリと刈り切った瞬間に、ブツッと接続が切れた時の音が聞こえて二人はワールド移動中のローディング画面に移動します。そしてニラヤマは探し続けていた『虹色の羊』の正体に今更ながらに気付いたのでした。


「あ……噂になってた虹色の羊ってアイツのことか」


 後になってから分かったことですが、この時ワールドから切断されたのはUDON毛刈りに居た二人だけではありませんでした。

 時差のある全世界にサービスを提供するために、ほぼ年中24時間で稼働し続けているVR-EDENですが、たまにシステム障害の対応やアップデートなどで一時的にアクセスできなくなることがあるのです。

 多くの場合と同じように十数分以内でEDENへの再接続は可能になったのですが、今回は完全に元通りとは行きませんでした。ニラヤマたちの居たUDON毛刈りの羊から、羊毛が生えなくなっていたのです。



「……はっ、はっ、ゲホ」

 

 ニラヤマという男(声としては男性のものであり、少女らしい振る舞いをしているわけではない彼のことを、現実世界でそう呼んで差し支えはないでしょう)との会話を打ち切られた等軸アキラは、ヘッドセットを外して咳き込みます。

 ゴーグル型のHMDで顔が蒸れて前髪が額に貼りつき、慣れないVRに酔ってせり上がった胃液が、声を作って喋り倒した喉を刺激したのでした。

 ただでさえ慣れないVRの世界で、初対面のどこの馬とも知れぬ相手とわけの分からない会話をしてしまったと、アキラは今更ながらに恥ずかしくなります。アパートの隣の人に聞かれていたら、頭がおかしくなったと思われるかもしれません。


――そして、自分ではない何者かになったようだった、と思いました。


 アキラは人が見ている、声を聞いているという状況で、緊張などの要因でうまく喋れなくなる症状の持ち主でした。そういう意味ではニラヤマと言葉を交わし、神の使者を名乗った『豆腐』とアキラは同一の存在ではありませんでした。

 それを何故だろうと考えながら背後にあるベッドに直接倒れ込もうとしたところで、PCの近くに置いていたスマホの着信音が鳴ります。


「は、はいっ等軸アキラです!すっすいません、ネームの方ちょっと立て込んでて……」と、相手も確認せず飛びついた電話口から「えっ、とアキラさん、ですよね?あの、学校でクラス同じだったんだけど、覚えてる?」と覚えのない声が聞こえてきて心臓が口から飛び出しそうになります。

 アキラが返事できずに居るのを気にせず、相手は「最近何してる?」と聞いてきます。ようやくアキラが声の出し方を思い出して「別に……」「ああーえっと、もし暇してるなら同窓会、来ないかって誘うように言われてて」と、電話口からの声に続きを邪魔されます。

 暇などしていないのは、かけてきた相手を間違えた最初の応答で分からないのだろうかと考えた後、向こうは自分の仕事を知らないのかとアキラは鼻白む気持ちになります。決して店頭に平積みされる程でなくとも、漫画を描いて収入を得る立場になったことも。もっとも、暇ではないのにVRSNSをやっていたのも事実でしたが。


「……あ!そうだ○○さんの連絡先知らないかな。仲良かったでしょ?」


 それはアキラが卒業と同時に付き合い始めて、少し前に別れた相手の名前でした。一度しか学校のクラスに顔を出したことのない自分に、どうして電話をかけてきたのかアキラはそれで理解します。

 卒業後に自分がその人と付き合い始めたらしいという噂から、連絡先を聞き出すのが本題であったのだと。そして自分のことなど恐らくどうでも良かったのだと分かって、アキラは怒りですっと頭が冷えていくのを感じます。

「もう別れたよ、それで電話の要件は済んだか?」

「えっ?あーいや、等軸さんも学年LINEとか参加してなかったから最近どうしてるか気になるし、何してるか知りたいから一緒に同窓会来ない?」


 相手が咄嗟に取り繕った質問は、ますますアキラに興味がないことを示すものでした。


「いや知らないのかよ漫画家やってるってさ。わたしのこと知りたいなら描いた漫画の一冊も読めば良いのに、用が無いなら最初から興味あるフリなんてすんなよ」

「そんな、ちょっと等軸さん自意識過剰過ぎるよ」


 半笑いで否定する相手の声を、アキラはもう聞いていません。


「じゃあ、わたしとお前が同窓会とかで会って、何の話をすれば楽しくなるんだ?本当は興味なんてないくせに。わたしが居場所を見つけたことが妬ましいから、学生時代のこと笑い物にして貶めるつもりだろ」

「何それ、あんたの漫画を読んでない人はあんたに話しかけちゃ駄目ってこと?」


 スマホの電子書籍で購入すれば読めるものにすら興味を示さない相手が自分のことを本当に知りたいはずがないと、常々アキラは考えていました。

 ならば何故、彼らが現実で会おうとするのかといえば、それは別れた連れ合いと同じように、本当は『自分の得意分野である場所』でしか会うつもりがないからだと。


「ああ、そうだよ!少なくとも、自分から一歩も歩み寄ろうとしないで歩み寄りを求めてくる相手に、応じてやる理由も義理もあるわけないだろ!?」


 そう言い捨てて逃げるように電話を切り、間髪置かずに着信拒否と残っていた学校関連のSNSの繋がりを全てブロックします。そこまでしてようやくアキラは、電話口で吐き切った息を吸い直すことができました。

 自意識過剰過ぎるなんて百も承知でした。電話を切ってから十分も経てば相手もまた、等軸アキラを電話で同窓会に誘うという貧乏くじを引かされたのだと、遅ればせながらに推察することくらいはできるのです。


 そして学校関連のアカウントを全てブロックし終えた後のSNSで、アキラは一時的な接続障害の収まったVR-EDENのUDON毛刈りというワールドで、不具合が起こっているという書き込みを見つけます。


 その時アキラは、神の使者を名乗ってニラヤマに『豆腐』と呼ばれた存在と、等軸アキラが異なる存在である理由を理解することができました。それは仮想現実という世界に、過去から引き継いできた全ての負債がないからだと。

 生まれ持った肉体の欠陥や容姿のコンプレックスも、過去に積み重ねてきた失敗も知る人の居ない場所。時間と距離の物理的制約だけでなく、過去にも縛られることのない自由な楽園が、小さなゴーグル型のVR機器の中に広がっているのだと。


「使命さえ……そうだ使命さえ果たせば。そして、あいつともう一度、友達になることさえできれば……」


 それまで相応に敬虔な信徒である自覚があったからこそ、神の意で創られた世界の秩序を守ることで、自らの信仰を証明することができる『お告げ』を受けたことは並々ならぬ意味を持っていたのでした。

 まるでVR機器を被っていない間の景色こそが嘘であるかのように、アキラは再びVRSNSという世界の中に没入します。アキラ、いや『豆腐』はその世界が自らの信じる神によって創られたことを知らしめて、そこに居る者たちを神の御心という真に正しき指標に従わせるつもりでした。


 現実で諦めたものを取り戻せるかもしれないと考える、自身の欲望や妄執からは逃れられないことを知らぬまま。そして今までの負債を埋めようとするほどに、その負債を生み出していた自身の欠陥が浮き彫りになることに気付かないまま。



「主なる神はEDENを名乗るこの世界が真に楽園であるかを見定めて、裁定を下すために我を遣わされた!

もしも七日の間に我が正しき心を持っている者、滅ぶべきでない場所に出会えなければ、この世界とそこに住まう者たちは一掃されるであろう!あの『毛刈り』のワールドの滅びはEDENに主なる意志が存在するという“しるし”であるのだ」


 豆腐はユーザーが集まって話せるように作られた“集会所”ワールドで、高らかにそう宣言することにしました。

 一人きりで居たいニラヤマのようなユーザーに話しかけたのが間違いだったと、最初からこうすれば良かったのだと豆腐は思いました。宣言した通りに奇跡や災厄を起こすことができるのなら、どんなに信心のない人間が見ても信じるしかないはずです。


 豆腐はとりあえず数十人の定員ぎりぎりまでユーザーが集まっている、全体公開のインスタンスを預言の場所に選びました。

 移動した先では互いの声が届かないくらいの距離を取って、数人のユーザーで集まっている会話の輪が点在しています。

 豆腐はどこか一つのグループを自分に注目させることができれば、彼らを引き連れてインスタンス中を預言して回るつもりで、様々なアバターで会話している集まりの間を移動して回りました。


「……ここは後回しにしてやろう、いずれ全員が知ることとなるのだからな!」


 そして捨て台詞だけ残した豆腐が別のインスタンスに移動したのは、誰と話すこともなく広めのワールドを二周ほど回り終えた後でした。

 

 全体公開のインスタンスと言えど、彼らの大多数は知っているユーザーが一人でも居るところに集まって、そこに居る人たちが知っているであろう話題について話しているのです。

 しかし彼らが豆腐について知っているのは、どんなアバターを使っているかという外見と、VR-EDENという場所に居るというユーザー全員の共通点だけなのです。

 

 今楽しんでいる話を切り上げてまで「お前は誰だ」と問い掛けてくれるユーザーは居なかったですし、豆腐もたった一つのVR-EDENという共通点を否定して脅かすような宣言で割って入っていくことはできませんでした。


「ねー聞いた?さっきワールドから切断された時のアップデートで、一部のワールドが壊れてるんだってさ。UDON毛刈りとか羊が消えたらしいね」

「まあVR-EDENはβテスト中のサービスだし不具合とかバグは割とあるけど、作ったワールドの規格がアップデートで噛み合わなくなるのは勘弁して欲しいな」


 次に入ったインスタンスで豆腐はUDON毛刈りの異変について、そんな話をしているグループを見つけました。

 なのでインスタンス内のユーザー達の注意を引くために、UDON毛刈りに居た羊のように七色に光り輝きながらインスタンス内を飛び回ります。

 

 そして初めてニラヤマ以外から話しかけられたのは「お前のアバターはうるさくて目に悪い」と英語で言われて、そのまま目の前でブロックされた時でした。

 確かにVRSNSでは目立つために気味の悪い造形の3Dモデルや、目を眩ませるほどの光や大音量をまき散らすことも可能ですが、あまりにも主張が強すぎるとその場の景観や雰囲気を壊してしまいます。

 行き過ぎた技術というものが存在しないとしても、技術を見せびらかすことには行き過ぎがあるのです。


「……もしかしたら、我は大きな考え違いをしていたのではないか?」


 豆腐が自らの過ちに気が付いたのは周囲のユーザーのほとんどからブロックされて、インスタンスからの追放投票が開始された後でした。

 

 豆腐は“お告げ”を受けてEDENに訪れるよりも前から神を信じていましたが、将来性や収入を考えて神に身を捧げる――つまり聖職者になる道を諦めたことが、ずっと自分の中で負い目になっていました。

 だから神から“お告げ”を与えられた時、今度こそ自らの信仰を証明する機会であると喜び勇んで『神の使者』を名乗るようになったのです。

 

 それは大多数の人々が神の存在を信じていないと知っていて、あくまで運営に雇われたエージェントとして名乗れば良かったにも関わらず、偽りなく自分が『神の使者』であると名乗れてしまう欲求に抗えなかった豆腐の過ちでした。

 

「もしも運営や開発の他に、宣言した通りに奇跡や災厄を起こすことができると自称する者が居たとして、悪意あるハッキングを行った不正なユーザーだと通報されるだけだろう。

 あの少女ニラヤマの言った通り、信仰を取り戻すために与えられた奇跡の力であっても、それを求めていない相手に一方的に押し付けたのは、我の傲慢さによる行いだったのだ」


 豆腐は一定数以上のユーザーにブロック・通報を受けた新規ユーザーは、荒らし対策として自動的に一週間アカウントが凍結されるという規約を思い出します。

 ただでさえブロックされた相手の画面では豆腐の姿も声も存在しないように扱われるので、お告げどころか自分の意志を伝える手段すらも失われてしまうのです。

 もしアカウントの凍結までされたとしたら、七日の間にお告げで与えられた使命を果たすことなど不可能でした。


 ポン、と音を立てて豆腐のディスプレイにニラヤマのアイコンが表示されたのは、まさにその時です。

 それはニラヤマが今居る場所に豆腐を移動させる、招待インバイトと呼ばれるアイコンでした。

 一も二もなくニラヤマの招待を承認した豆腐は、短いローディング画面を挟んで別のワールドに移動していました。

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