Episode004:一億人の魔力
あの日から、アルさん達一行は週に一度やって来ては魔法陣制作に励んでいてくれている。
自分達の仕事も忙しいはずなのに、本当に申し訳ない。
曰く、もう1ヶ月もあれば完成出来るだろうとのことだった。
一方俺はというと、何か少しでも恩返しになればと一層家事に励んでいた。
最近では狩りの腕も上がり、なんとか様になってきている。
情けないが、俺に出来るのはそれくらいしかなかったのだ。
──そんなある日のこと。
「完成したぞおおおお!!」
ジレンさんが叫んだ。
家の外にまで響く叫び声。
遂に魔法陣が完成したらしい。
完成した魔法陣は、より繊細かつ緻密に描かれていた。
魔法陣というより、これは最早芸術作品の域だ。
何がどうなっているのか。
俺はおろか、ハイロさんやアルさんもこれを描くのは不可能だろう。
というか、2人は完成した魔法陣を見て苦笑いを浮かべていた。
感動半分、呆れ半分といったところだろうか。
少し上から目線の物言いになってしまうが、ともかく素晴らしい出来栄えだ。
こちらの世界に来てから苦節3年。
ようやく見えてきた兆しに、勝手に涙が溢れた。
やっと帰れる。
そう思った。
しかし、製作者である二人は浮かない顔をしていた。
「この魔法陣は大きな欠陥を抱えてます」
とは、サーシャさんの言葉だ。
成人した人間の魔力量の平均は1000〜2000とされている。
対して俺の魔力量は約5万。
サーシャさんやジレンさんは数十万。
そして、アルさん、ハイロさんに至っては数百万の魔力量を誇っている。
しかし、この魔法陣を起動する為に必要な魔力量は2000億。
つまり、少なくとも成人1億人分の魔力が必要になる。
絶望的な数字だ。
現実的じゃない。
だがこれでもかなり削ったのだという。
これ以上削ることは出来ない。
2人はそう言った。
その日以降、俺は部屋に引きこもるようになった。
実を言うと、魔法は地球に帰る最後の手段だったのだ。
この3年の間に、出来ることは全てやってしまった。
もう帰れない。
帰るあてがない。
思えば、心底絶望したのは初めてだった。
この世界に来てしまった時にも絶望はしなかった。
それはまだ心のどこかで帰れると思っていたからだ。
けれど、その望みは打ち砕かれた。
いや、実際には僅かながらに可能性は残っている。
1億人が俺に協力してくれるという可能性だ。
しかし、それはありえない。
不可能だ。
極々僅かな可能性に縋れるほど、俺はまだ強くなかった。
腐敗した日常が漫然と過ぎていく。
誰も何も言わなかった。
それが救いだった。
冬が過ぎ。
春が過ぎ。
季節は夏を迎えた。
木々は青々と生い茂り、空は青く澄み渡る。
窓から映る小さな世界だ。
久しぶりに外に出てみようかと思った。
いつまでもハイロさんに迷惑をかけ続けるわけにもいかないだろう。
何かきっかけがあったわけじゃない。
小さな世界にいるハイロさんを見て、ただ何となくそう思ったのだ。
それでも中々扉を開くことは出来なかった。
扉の前で、俺は何も出来ずにしばらく突っ立っていた。
異様なまでに扉が重い。
しかし、ここで折れたら俺はきっと二度とこの扉を開けることが出来なくなるだろう。
意を決して扉を開けると、すぐにハイロさんに出会した。
ハイロさんは一瞬目を見開いて、いつもの優しい笑顔を向ける。
「おはよう」
ただ一言そう言って、なんでもないことのように料理を続けた。
むしろ面食らったのは俺の方だ。
今まで何も言われなかったから、説教されたりだとか、一喝されたりだとかはないと思っていたけれど、こんなに反応が薄いとは思わなかった。
しかしそれでいい。
その方が心地いい。
「……おはよう、ございます」
「今朝は野菜スープを作っているんだ。君も食べるかい?」
「いただきます」
「もう少しで出来上がる。待っていてくれ」
「いえ、俺も何か手伝います」
「そうかい? なら、テーブルを拭いてスプーンを出しておいてくれないか」
「はい」
台拭きでテーブルを拭いてスプーンを並べている間に野菜スープが運ばれてきた。
今朝方、庭の畑から採れたばかりであろう新鮮な野菜がゴロゴロ入った色鮮やかなスープだ。
そこに厚切りのベーコンも入っている。
これだけで十分腹は満たされそうだ。
ぐう、と腹が情けない音を鳴らす。
「ハハッ、いただこうか」
「は、はい……」
恥ずかしい……。
「いただきます」
「いただきます」
手を合わせてスープを啜る。
──……何故だろう。
あの日以降、何を食べても味なんてしなかったのに、このスープには確かな味を感じる。
ハイロさんの性格がそのまま滲み出たかのような優しい味付けだ。
「……美味しい」
「それは良かった。まだ沢山あるから、遠慮なく食べなさい」
「はい」
結局、俺は3杯のスープを平らげた。
最近はきちんとした食事を摂っていなかったから、こんなに食べたのは久しぶりだ。
そもそも空腹を感じたのすら久しぶりだった。
「ハイロさん……」
朝食後、本を片手にコーヒーを啜るハイロさんの双眸が俺を見据える。
「うん? どうしたんだい?」
「今日は少し……外に出てみようと思います」
「そうか。気を付けて行っておいで」
ハイロさんはそれだけ言うと、また本に視線を落とした。
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