私がなろう系を嫌う理由

 私がなろう系をなぜ嫌うか、まだ話していなかったので、ここで話そう。

 私は軽薄なものが嫌いである。

 先程、なろう系が続々と生まれるのは、ネット小説特有の「手軽さ」が原因だと述べた。

 手軽にぼーっと書けば、当然内容は薄くなる。

 小説というのは、一流作品も三流作品も、ノンフィクションで無ければ結局虚構の世界である。しかし、その虚構を生み出しているのは現実世界の作者の指であるから、現実の味がするのだ。

 その味が濃ければ濃いほど、読者はその本の世界へ入り込み、熱中する。存在しない世界なのに。

 こう考えると、読書というものはひどく意味の無い、徒労に思える。しかし、読書の結果、読者の精神がいい意味でも悪い意味でも大きく不安定になった時、ただ文字を読むだけの行為は徒労では無くなる。なぜなら、虚構が現実を揺るがすからである。

 私は、こんな下らない物を書くくらいだから、一応何冊かその手の物を読んだ。しかし、それらの虚構が、現実を根底から揺るがす様を見たことがない。揺らすとしても、せいぜい、よく起こる茨城の地震程度だ。

 私は、本を読む時、自分の日常の軽薄さを糾弾し、破壊してくれる事を本に求める。

 なろう系は、日常の否定はする。しかし、それまでで、転生してからはゲームをプレイするように全く違う世界で色々やるだけだ。転生とは、コンピューターのスイッチである。

 本を閉じると、スイッチは切れ、現実に戻される。

 なろう系は、現実と虚構との一線を絶対に超えない。文を読んでいる間はちょっと揺らぐことはあっても、ぱたんと閉じればそれまでだ。

 私が信奉する三島由紀夫は、「ほんとうの一流文学というのは、宗教という崖の1歩手前まで読者を身が溶けるような甘い言葉で連れ去り、置いてけぼりにしてしまうものだ」と言った。

 これは全くその通りで、三島の作品を読んだあとは、特に「天人五衰」なんかを読んだあとは、崖の上で膝から崩れ落ち、秋の冷たい風に吹かれるような感じがした(あんなに穏やかな破滅なのに!)。

 その秋の冷たい風こそ、私が求めるもので、なろう系では絶対に吹かない。

 だから、必然的に、私はなろう系を嫌いになるのである。

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