第4話 だいたい18歳までの競争《ゲーム》

 進学しない者にとって高校までの教育の価値とは何だろう。


『学校での学びは実生活とは関係ない。数学など必要ない。いつ使うのか。』とは良く耳にする言説だ。日本人であれば生活に必要な素養や日本語の読み書きは真剣に勉強しなくても日常生活の中で身につくだろう、そんな感覚なのではないかと思う。


 しかし現実は残酷だ。数学の問題が解けない理由の一つには、数学の知識ではなく日本語で書かれた文章の意味が理解できていないのだとする指摘がある。知識をほぼ必要としない問題であっても、日本語が理解できずに空欄のままにする者がいる。


 これは進学しない者にとっても深刻な状況だ。日本の強みはパート社員から正社員までの全従業員が同等のレベルで業務を遂行してきた点にあった。日本語の理解が十分でないことは、指示の背景や意図を汲み取る事が難しくなる事につながる。結果として指示内容を忠実に遂行することしかできなくなり、仕事の質を向上するどころか、従来の品質を保つことすらずっと難しくなる。


 体感では役割が分化することで指示をする者と、指示されていないことを実行しない者の二極化が進み、責任がはざまに落ちてしまっている実感が強い。


 NHKが放送した電子立国の中で、半導体工場の生産性を著しく落としていた原因が近隣を走る電車の振動であることに気がついたのは、工場でウェハ(Wafer)への露光作業を行っていた現場の従業員だった。座って作業をしていても振動には気がつかない。時刻から関連があると確信して上申しても、工場長までその声が届くものだろうか。自分が作業したウェアの歩留まりなど、担当外のことに気を向けるだろうか。稀な例かもしれない。けれど過去の日本の現場において実際の改善までつながったのは事実だ。格差が大きく役割が固定化されている米国では、同様のことは起こらなかっただろう。現在の日本の状況は、より米国の状況に近づいている。


 読解力が低下し、格差が拡大し、さらに役割が固定化していく、そんな社会で生きていく力を身につけることが必要だ。そして学校での学びから、その力を養うことは十分に可能だと思う。


 僕がリーマンショックのあおりを受けてハローワーク通いをしていた頃、高校生を対象に数学や英語を中心とした家庭教師のアルバイトをしていた時期がある。ある高校生が学校で教わったテクニックを使い、問題を一瞥するやすぐさま正確に解いてみせてくれた。しかし、同時に問題文の意味や、その等式がどのような関係を表しているのかを考えようとした素振りはまったくなかった。


 学校が受験テクニックを教えている事実に衝撃を受けつつ、問題文の意図を理解しようとしない、それでも得意気な生徒の今後が心配にもなった。


 問題が解けることが正義だという考えもあるだろう。解けない者の負け惜しみかもしれない。社会に出た後に無駄な能力だと思うのであれば結果が一番大切だ。そうだとしても、問題を一瞬みただけで即座にテクニックを使って解いたその様は異様に感じられた。いまでもその違和感を強く記憶している。


 大切なことは問題を理解した上で、自分の習得した知識の中から適切なものを選択し、あるいは組み合わせて対応することだ。これは日常生活や仕事においても自然に行われていることだ。しかし実際の仕事において必要なことは、知識ではない。結果だ。だからテクニックを使っても良いではないか。そうかもしれない。けれど知識から選択なしに、短絡的に結果を得ようとすると足元をすくわれる。


 コンピュータにかかわるエンジニアの重要な業務の一つは、システムが正常に動作しなくなる障害事象への対応だ。この時にまず類似の現象の検索をすることがいつもの手だ。システムへの理解が十分であれば、検索結果に正解がないことも見抜けるだろう。あるいは的外れな解決策をいくつか分析することで、自力で正解を導ける場合もある。どんな場合でもシステムの状態を把握し、仮説を立て、追加手段を併用しながら証拠を積み上げ検証することで、根拠を持って原因を特定する。


 問題にどうやってアプローチするか。このトレーニングは学校での学習によって出来るはずだ。


 しかし、未熟なエンジニアは過去の経験や検索結果に正解があると思い込む。解答を探し、短絡的に答えに飛びつく。知識の源泉である検索エンジンからまったく同じ事象を解説しているようにみえる検索結果を提示された時、それが解決策だと信じてしまう。検索エンジンは現代の教科書であり、これを利用することは重要なテクニックだ。けれど対象となるシステムの構成や動作原理を理解していないから、自分の知識と検索結果に含まれている情報の断片を組み合わせて問題に対処することができない。そしてこの時の問題は当人がそのことに気がついていないことだ。


 柔軟な汎用機械としての人間でも経験を積むだけで、ある程度は精度良く問題に対応することができるようになる。しかし膨大なパターンを覚えることはできない。それはコンピュータが得意なことだ。障害対応の度に同じことを繰り返していては、人間らしい工夫もない。いつか疲弊して倒れてしまう。そうならないためにはシステムを理解し、障害の原因を考え、検索結果から得られた情報を組み合わせ、仮説が正しいか検証し、妥当な原因を考えることだ。


 世の中には正解のない問題の方がよほど多いのに、初等・中等教育で教えられることは、厳密に正解が確定できる範囲に限られている。それは安心・安全な箱庭で、贅沢な環境だ。優秀な科学者が学ぶべきことを厳選し、教科書にまとめている。それでも議論はあるし、時には事実とされていたことが変化することもある。しかし、生きる力を育む最高品質のトレーニングができる環境であることは間違いない。そして事実が変化することは当然だ。


 科学の定義はいくつかあるが、宗教との比較ではポパーの反証可能性によって科学を定義づけることが便利だ。この定義では絶対的な経典や真理のある宗教とは違い、科学ではそれまで正しいとされてきたことを否定する力がある。科学的であれば正しいと判断するのは間違いで、実際にはある前提の元で信頼できる根拠が存在するというだけだ。科学的言説は否定されることで変化し、強化される。


 この科学の定義は詐欺被害を軽減するためにも役に立つ。科学の衣をまとった詐欺的理論は反証させないようにどのような問題にも理由を提供する万能理論であることが多い。そうでなければ詐欺的に相手を納得させることができないからだ。


 教科書に書かれていることは絶対ではない。しかし現時点では、正しいと信じるに足る根拠があって掲載されている。その前提が変化すれば教科書に書かれていることは正しくなくなる。それは科学とは何かを理解すれば当然なのだけれど、そんな前提や背景を学校ではかなりの部分が説明されることなく、あろうことか宗教のごとく信じるように強制されている側面があると思う。


 僕は学校で教えられてきたことが、どういう理由で正しいとされているものなのか、ちゃんと教えてもらえなかった。時には盲目的に信じることを強制されてきたようにも感じる。試験の成績だけが正義だった。けれど現実社会には正しさを訴えても通用しない。なのにあまりにも多くの人達が正しさを求め、正しさに囚われている。


 生きていく上で大切なことは正しい解答をみつけて自分のものとして主張することではないと思う。主張はするべきだ。けれど、まずは相手が主張する正しさについて、そう信じるに至った過程や背景を考えて理解する能力が必要だろう。そういう視点で世の中をみると、声を上げて正しさを主張する人達の多くには同意できないが同情できる点が発見できる。世の中を住みやすいものにするためには排除することでも、同じ信仰を押し付けることでもなく、相手をそのまま認めてあげられる力が必要だ。そこを出発点としなければ何も変わらず、無益な衝突が生まれてしまう。

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