第1話 30年と数ヶ月前の出来事

 母親の葬儀がすべて終わったのは、17歳を迎える誕生日の前日だった。誕生日の朝には、こんな時だけれどもといいながら家族が祝いの言葉を伝えてくれた。


 あの日、深夜に母の容態が急変したと伝えられ、家から10分ほどの父の職場でもある総合病院の病室に着くと、そこには120日間の闘病生活が終わった母の姿があった。


 それから後の記憶は断片的で、家に帰って自室のベッドに入ると少しばかりの涙が出た事、葬儀会社の人達が丁寧に遺体をドライアイスと一緒に棺に納める準備をすると話していた事、他には、斎場に泊まって朝を迎えたことなどの断片的な光景をぼんやりと覚えている。


 通夜や本葬で何があったかほとんど覚えていないし、祖父母の葬儀と記憶が混濁していると思う。この他に明確に覚えていることは、会食の会場で母の親友から伝えられた母からのメッセージだ。


『将来、何になりたいのか分からないけれど、もし医者を目指したいのであれば、頑張って欲しい』


 そして僕は進路を変更した。人は易きに流れるものだ。


 もともと高校1年生の学力テストの結果からも、現役では国立大医学部は難しい状況ではあったし、母の言葉を受けてそれは僕のやりたい事ではないという実感があった。これまで漠然とそんな進路に決めていた理由は、成績がいくらか良かったことと、理系の進路上にそれを越える適当な目標がなかったというだけのことだった。1、2年を余計に費した程度で終わるか分からない受験勉強に時間を費やすモチベーショはなかった。


 それからはマイペースに面白そうな問題だけを時間をかけて解く日々を過した。そんな僕の進路の再設定は容易ではなかった。ギターが好きだったからギタービルダーを養成するESPが運営する専門学校の資料を取り寄せてみたり、小学生の頃から半田ごてを握り、中学時代にアマチュア無線技士2級の資格を取得するほど電子系が好きだったから私大の工学部への進学を考えてみたりした。けれど、どの進路も下がりきった成績と高いままだった僕のプライドとは折り合いをつけることはできなかった。


 最終的に選んだのはNHKが深夜に放送していた新設大学の特集で知った現在の職場でもある会津大学だった。エキセントリックなコンセプトによって設立されたこの大学は、日本における大学の序列というものを完全に無視していた。そしてそれが魅力的だった。やっかいなプライドと折り合いをつけるには格好の言い訳になった。


 僕はそれまで歩んできた人生のレールから、まったく別のレールに飛び移ると新しい人生をスタートさせた。いまから振り返れば大学生活は新しい人生を歩むためのリハビリのようなものだったのだと思う。


 良く知られている10代半ばで家族を失った人達のストーリーは華々しい。それは困難な環境を生き抜き人生を切り開いた人達の体験が、他者に受け入られる、価値のある話だからだと思う。そんな人達のように僕が医学部に進学するものだと思っていた者もいた。周囲では同時期に父親や兄弟を失った者がいた。僕の人生はまだ希望がある方なのだと知った。失う家族の属性によってその後の人生の難易度は変化する。世の中は不公平だ。


 逃避的に歩んできた僕の人生には世に問う価値があるとは思わない。ただその後の個人的な回復の経過については書き残しておくことには幾らかの価値はあると思う。

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