第321話 心臓のドキドキ

「あるじぃ~、あるじぃ~! エナを置いてっちゃやだぁ~」


「もう、エナ。まだ寝てないと駄目じゃないか。体だってまだすごく冷たいんだよ。いきなり走り出したら心臓に負担が掛かっちゃう。とりあえず、下着を脱いで足先だけ入ろうか」


「うん……」


 僕はエナの薄手の内着とショーツを脱がし、綺麗に畳んだあと、脱衣所の籠に戻しに行った。


 エナの体はまだ氷のように冷たくて動ける方が不思議なくらいだ。内側の体温は戻ったのかもしれないが、表面温度は未だ低いままで、いきなりお風呂に入れる訳にはいかない。


 僕はエナを抱きかかえ、お風呂場に再度入る。桶を取り、お湯を張ったあと、エナの足を入れる。


「足、暖かい。主の体もあったかぃ」


「さっきまでお風呂に入っていたからね。エナの体が冷たすぎるんだよ。だから、もう少し温かい恰好をして寝てないといけなかったのに……」


「でも、主がいなかったから……、エナ、怖くなっちゃって匂いで追ってきた……。エナ、主といっしょじゃないと嫌なの……」


 エナは恐怖からか、僕から離れようとしない。死にかけたのだから仕方がないと言えばそこまでだが、エナに恐怖心を与えてしまった。もしかしたら成長の妨げになるかもしれない。


 少々の恐怖なら心の成長をもたらしてくれる。でも、あまりにも強すぎる恐怖は逆効果だ。加えて、そんな場面を助けてくれた存在がいたら依存してしまうのもうかがえる。子供達には自立してほしい僕にとって親離れは必須事項。


 まぁ、僕の方が子離れできるか不安だ。でも、今のエナは傷心している。心の傷を治せるのは、長い時間をかけてゆっくりと行うしか方法はない。


 僕はエナを抱きしめて頭を撫でる。すると、しっぽが揺れた。尻尾が揺らせなくなるほど、心壊れていないようだ。よかった。


「主……。エナ、耳にまた囁いて……。あれ、大好きなの……」


「刺激が強いってモモが言っていたから危ないよ。何回もするものじゃないんだから。夜に何回もしたから、少し休ませないと。


「うぅ~。でも、でもぉ。主に囁かれると元気になるの。だから、お願い。エナ、大好きだよって言って」


「なに言わせようとしているの。もう、本当に甘えん坊なんだから……」


 僕はエナの耳元で囁いた。するとエナが縮こまり、桶に入っている足をバシャバシャと掻きだす。いったいどうしてしまったんだろうか。


「エナ、どうしたの。落ち着いて」


「あるじ~、エナもスキィ~、主が大好きなの~」


「はは……。ありがとうね」


 エナは僕に抱き着いてきて。尻尾をブンブンと振る。体の表面が既に温かくなり、解れていた。これだけ温まっていたらお風呂に入っても大丈夫だと思い、一緒に入る。


「あるじ、あるじ~。チュッチュ、チュッチュ~」


 エナは唇を尖らせて僕に迫ってくる。


「しないよ。そう言うのは好きな人とするものなの。僕が出来るのはおでことか頬とかだけ」


「ぶぅ~。エナ、主好き。主もエナが好き、なら丸でしょ」


 エナは頬を膨らませ、両手で丸を作っていた。


「そう言う問題じゃないんだよ。そう言う好きとはまた違うというか、僕もよく知らないんだけどさ……レイトが言うには心臓が高鳴るくらいドドドって言うらいいんだよ」


「ドドドド……って言うの」


 エナは僕の胸に耳を当て、心音を聞く。


「うぅ……、トクン……、トクン……って言ってる。エナ、胸がすごいドドドってなってるのに主はなってない。何でぇ……」


「そう言われても、別に心臓が鳴るようなことは起こってないから。エナも熱いお風呂に入ったからドドドってなっているだけだよ」


 僕はエナの胸に手を当てる。小さな心臓がドドドドっと脈打っており、苦しそうだ。


「エナ、少し深呼吸をして心臓を落ち着かせよう。大きく吸って、吐いてを繰り返す。そうすればしだいに治まっていくはずだよ」


「う、うん……」


 エナは息を吸って吐いてを繰り返した。その時は僕を背に座っている。尻尾がお湯の中に浸かり、ビチャビチャだ。まぁ、髪と大して変わらないので気にする必要もない。エナは数分間深呼吸をし続けていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……。あるじ、ドキドキって止まらないよぉ。主に抱き着かれてると昨日の夜みたいになっちゃう……。あったかくて強くて優しくて……エナの大好きな主なのに凄く苦しいよぉ……」


「大丈夫。苦しくないよ。エナは少し緊張しているだけ。何か楽しいことを思い浮かべてみて。走ったり遊んだり、食事をしたり。色々好きなことがあるでしょ。僕もそれと同じだよ。昨日の怖かった経験は雪山で薄着を着ていったらいけないという教訓になったでしょ」


「う、うん……。寒いのいや……、暖かい所の方がいい。でも……熱い所もいやぁ……」


 エナはお風呂から出る。僕は思った。源泉が冷えていたとしても十分に熱かったということに。温度計がないので分からないが、四五度以上あるかもしれない。そんな中に入っていたらそりゃあ、エナの心臓がバクバクなるのもうなずける。

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