第9話「陸(おか)のあるじ、諱(いみな)は秀吉」
源次郎の大坂屋敷は大坂城近くにある。
今年初めの大地震で大坂城の瓦屋根や金箔壁が一部落ちてしまって、修繕の荷車が宵闇のはじまりではたいまつも灯さず、街路を交差して砂塵をたてる。
天満川からの水の香り、小ぶりな屋敷の門から上がり口まで6、7歩、矢竹が左右にささめく根本、ひすい色に優しく小さな初春の花が咲いている。
青磁色の小袖半身が墨色、右袖に大きく翼広げた蝶羽根、
「
海焼けした海野六郎十五歳が源次郎へと歩く。
矢竹林のみどりが映ったような小袖翠の竹垣に牡丹絵柄に白灰伊賀袴
背中に細く垂れた小姓結の黒髪流れ、源次郎の眼下に立ち止まり
長四角の紙封を両手指揃え差しあげる海野。
受け取ってきなり色の長方形を表裏して源次郎は
「あ、これ手紙? 封書なのか、へえ、便利な造りだなあ」
四角の一辺が開く封筒、袋になっている中から折り畳んだ手紙をつかみ出し開き嬉しい声
「筆に墨でなく、ペンでインクの文字を横へ書く
南蛮帆船団、総大将・弁慶丸どののご返書だな」
読み上げる源次郎
「『外洋航路で売りさばれ働かされている日本人奴隷たち
とくに女性たちのありさまはひどい
日本人を守ることもせず陣取り合戦する島の誰にも
我らが一回分の交易を放り投げて戻る価値はない
副臣をわざわざよこした気持ちはうけとる、真田の源次郎、名は覚えた』
――――――――――これだけ?」
海野は返事もせず強い眼光にて眺めただけ、源次郎は
「さすが
さっそくとりつくしまもない」
意志強い手紙の横書きの文字を見つめる主君を
切れ上がった一重目でギラっと睨んだまま、十五歳の小姓・海野は低音の大人の声
「
奴隷にされた日本の女性は、子供のころから体を売らされ
男や年老いた女は牛馬のように使い捨てにされている
帰りの港でも南蛮船の船倉から鎖に繋がれ、売りに引き出される女子供を見た
異国の数々で売り渡る途中に、たくさん死ぬが
海に捨ててしまうそうだ」
ふいときらつく目線を前へ外し、主君が追う目線をうるさいとはらい背をむけて
海野は
「次にまた、私を異国へ派遣するなら
刀をふるい、日本人奴隷をうばい戻す権限なくば
行かぬ」
すたすた屋敷の護衛の間へと庭を歩いていく。
異国の封筒を懐にしまう源次郎の耳元に、低めだが知性薫る女の声がする
「殿さま、お待たせしておりますよ」
源次郎はうなずく、屋敷玄関へ歩きだす
彼を呼んだ女の姿はない。
源次郎が玄関にあがると
客人は、一歳になったばかりの赤ん坊を胸に抱いて、金糸刺繍の絢爛な羽織まぶしく、唐織紅小袖に
客の男は、しわい顔に目がしらからアーモンド型にクリンと開いた目に、ややエッジのぼやけ始めた濃茶の瞳
そげたほおから薄い唇に申し訳程度の髭に白毛混じり、ちょろりと細い顎髭を
紅葉の大きさの赤子のふくふく白い指が掴むと、しわい口元でにこーと笑った。
あぶあぶ喜ぶよだれいっぱいの口にきゃーと高い笑い声あげた赤んぼうに、とろけそうな目を向けて
四十九歳
いつも声が絢爛で明るい
「まっぺん笑ってちょうーお姫どの
おとと様のおかえりぞー」
玄関前の板間へ一歩踏んだ源次郎は
秀吉の声を聞いた瞬間にその場で座り、両親指と中指人差し指をそろえおき額つけて深く頭を下げる。
その上段の玄関畳にさらり伽羅色の袴がすべり、たきしめた香のよい匂いさせて秀吉が大切に赤んぼうをささげ支えて、すとーんとあぐらかく
おくるみの中で浮遊感にびっくりした顔した赤ん坊が「きゃーぶ」と喜んで、秀吉はにこにこ顔だが
天下に爪をかけている、それほどの男には言葉だけで匂わす凄み
「面白がりは、おとと様ゆずりか
クソ度胸は、おとと様の父上どのに似とるのう」
秀吉が眼下に平伏している源次郎へむける表情は
ほんわか優しくおおらかに
「大坂城も城下も、大地震のかたづけで骨が折れるところに、おみゃあの文がきての
地震で崩壊した
よこしたきりで
どえりゃあ心配したがね―――――――――よう無事でもどった、源次郎
おみゃーのざいしょと、わしとのもめ事もあるもんだで、嫌われて……」
眼光も声も重く怖く、秀吉は
「真田領に帰って、父御・
わしを殺す戦準備でもしておるかと思ったぞ」
「まったくそうしたい」
源次郎の言葉にぎょうとした表情すなおな秀吉に、平伏したまま低い声に春風の言い草のせる源次郎
「わたしの『ざいしょ』の父で、よくも遊んでくださいました
我が真田を、徳川さまを釣り上げるエサになされましたな」
青磁小袖の背から袖まで銀縁に藤・辛子・桜の色さした蝶羽が、槍使いの張り詰めた筋肉横断した背を、くすくす揺らして源次郎は
顔あげひょいと背筋ただした。
源次郎の、深い栗色の瞳に黒いエッジ綺麗な澄んだ瞳の優しい微笑に
秀吉は満面に喜び見せて
「おぉ、怒ってはおらぬか」
秀吉のあぐらのそばに片膝すすめ
源次郎は、赤んぼうを抱きうけ慣れた手つきで片腕に包み
一瞬秀吉の双眸を覗き込むようにして
「怒っていますよ、とても」
口元やさしく微笑ませ、最近、秀吉が好んで呼ばせる名で呼ぶ
「上様」
礼を尽くす距離まで膝でさがり
「徳川を討伐せよと、真田にご命令くだされたのは上様のはず
父は徳川討伐の軍を作り上げ、まずは信濃佐久郡を攻略の目標に掲げて
『攻略したら知行をやる』と、家中の戦意を高揚させておりました、それなのに
先月初めまえぶれもなく、美濃大垣城に置いた一柳伊豆守(ひとつやなぎいずのかみ)どのへ
『家康は許したので、東国へは出陣しない』と、お伝えなされましたね」
繊細なエッジの顎からほお額、横顔が特に品よい源次郎は、細めると長いまつ毛がよりわかる双眸で
腕の中の赤んぼうへ微笑み
「真田には『
最初のご命令と、逆だ
真田領に攻め込み斬りとる気まんまんの北条・徳川の間で
戦っていた真田が抜いた刀ごと、間抜けな、
声を張らない源次郎が、静かに話すぶん届いたようで秀吉はふーとため息。
おくるみの中のわが子に微笑んで源次郎は
「あきつ、
彼の腰の後に、秀吉へ平伏した姿で女が現れた。
鼓と水仙えがいた京紫の小袖に薄黄の内絹、女の白銀いろの水仙と紫紺輪鼓描き流れる豊かな胸元へ、ふわと抱かれる赤んぼう。
好色な秀吉は赤んぼうを見るフリして、女の姿を観察している
( 一七歳の源次郎と同い年か、ひとつふたつ年上の女房か
…おや、膝からふくらはぎ、右手の甲から上腕まで大きな刀傷があるわ
しかしなんと美しい目をした女じゃ…おもむきが凛と椿のようじゃのう)
にこにこと「いいなぁ…」うっかり呟き眺める秀吉から
冬椿の風情の妻女・あきつは
関白さまが恐れおおく目を向けることすらできません、という形式に乗っ取って頭を下げたまま、源次郎との子の阿菊を抱いて膝ですり下がる
源次郎は妻へ
「警護は」
「関白殿下さまご
「ありがとう、海野も戻りました、あなたはやすんでください」
関白秀吉へ深く深く頭を下げるあきつの、胸元に見えた
その姿がもう見えなくなって秀吉が目をしばしば
「源次郎の妻女は
「強いですよ、わたしなど一撃で叩き伏せます
どうぞ上様も怒らせないよう真田にご留意を」
「おう脅されたぞ、怖いこわいじゃ」
うくくっと楽しそうに秀吉は、源次郎に右手のひらで座敷の最上座へどうぞと示される。いつの間にか設られている秀吉好みの朱塗金うちの食膳、温かみ広げる火鉢、脇卓へ誘われ
通された客間に上位者の動きなれた貫禄で座ると秀吉は
「一箇月の大地震がのう、なにもかもなあ、くずしたのじゃ、怖おうてのう
わしあぁつぎは地割れか、津波か、いいや空から星でも堕ちるか、と思うたらもう
なんでもいいから徳川を手中にして安心しとうてな、真田を使うてもうた」
源次郎は答えず立ち上がり、座敷をとおらず廊下まわり書斎へいったようで
「どうした源次郎、近くに来てくれ」
秀吉はあぐらかいてそわそわと言い被せる
「源次郎、お主は上杉で一〇〇〇貫をろくし一軍も任されておった
それを奪うてでも、真田から人質をとって安心したかったのはわしじゃ
農地豊かな上杉で一〇〇〇貫ならば、わしの大坂城下で二〇〇〇石にも
いま儂がお主に与えておる
――――――――源次郎、なんか言うてくれ」
源次郎は客間の横の木襖ひらいて下座に座る、膝脇に丸めた図を二つ置き
畳半分はある大きさの一枚を秀吉の前に置いて
「すこし大きな買い物をしたいのですが、おゆるし願えましょうか」
しゅうと横に開くと、秀吉は喜ぶ
「おお、おお、これの売り手はイスパニアかポルトガルか」
「
源次郎が告げるなりすぐに秀吉は目を怖くした
「帆船じゃぞ」
「こちらも」
源次郎はキャラック船キャラベル船図面の横に、二枚目の図面を大きく開く。
秀吉は眺めるなりしわいまぶたを大きく見開き
「はっはあ、国の
これは手に入らねば、
2枚めの図面は組織図だ。
ふたつの主要塞、すぐ下に十三の出城、出城にはそれぞれの役割仕切る大隊が並び、小隊、さらに医療システムまで整った、国をまもる城塞と将軍たちのかかわりの図式。
秀吉は、きらきらと子供のように残忍に宣言
「滅ぼさにゃならんのう」
源次郎は真剣な目でゆっくりうなずき
決意の口をひらく。
秀吉が見た図面に、熊野で今日も新たな線を描きこんでいるのは、由利。
総大将自身が
望月乗船する副大将船「
その下に配置される十三隻の船、十三人の船大将、ここに振り分けられた役割。
準列と性質と機動性と乗組員人数、由利が図面に詳細に明記してしあげ。
しとしと雨がふりはじめたので、由利は図面を油紙につつみ鉄の書筒に入れすたすた森へ向かう
大樹かさなる脇道で腕ふりあげ、ぶっさ、と鉄書筒つきさして
本道へひょいひょいと明るい女着物はおった紅い髪ゆらしてもどる。
その派手で大きな由利の背中とすれちがう気配も気がつかせずに、黒着流しの才蔵がすらと書筒を綺麗な指先に抜き取った姿勢で
消えた。
「だあっしぃお!」
雨に濡れて冷えたのか、由利のでっかいくしゃみが聞こえる。
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