ふたりの幸せ

想空

ふたりの幸せ

 僕と彼女が付き合いはじめて、はや三年。

 僕らはこの三年間一日も欠かすことなく、どんなに些細なことでも毎日何かしら会話をした。今日あった面白かったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと。


 周りからお似合いだと散々言われてきたような僕らだってたまには喧嘩もするけれど、お互いがお互いのことを大切に思っていて、ずっと一緒にいたいと思えていたのは事実である。

 まったく、これ以上なく幸せなことだ。


 僕は暇な時はほとんどいつもギターを弾いていた。こんな小さなアパートの一室で弾いては隣人にも大家さんにもこっぴどく怒られることが分かっていたので、カラオケやそこらの公園で。


 特に、この曲を完璧に弾けるようになるぞ!といった目標もなく、ただその時々で鳴らしたい音に従って弦を弾く。何か違うな、と思ったら弾く弦を変えてみたり、場所を移動してみたりする。それでもダメな時は、ああ、今日は調子が悪いんだな、と思って、ケースにしまったギターを背負って家への道を歩く。

 彼女はそんなマイペースな僕の行動にも、一緒にいたいのだと言っていつもついてきた。


 今日はカラオケに行く気分にはなれず、公園でもさぞ幸せそうな親子がブランコを漕いでいたので、家からは少しばかり遠い河原にやってきた。

 たまには川の流れを聴きながら草むらに腰を下ろすなんてのも良いものだな、と実際に橋の下の日陰に座ってみて思う。ここなら人目にも付かなそうだし、隣の部屋の口うるさいおばさんに苦情を言われることもない。僕がそんなことをポロッと口に出すと、彼女は呆れるように笑う。苦情を言われるのは貴方のせいでしょう、と上品に笑う彼女の微笑みは、すぐそこで太陽に煌めく水面に似ていた。

 綺麗だよ、そう伝えると、彼女は恥ずかしそうに、ありがとう、と言った。


 軽くチューニングをして、今日はどんな音を鳴らしたい気分だろうかと自分に問いかけてみる。そうだな、この揺らめく水面と、辺りに漂う夏の終わる匂いにちなんで、何か夏の憂いを表せるようなメロディがいいかな。

 僕は適当にメロディを作って遊ぶのも好きだし、クラシックも流行りのポップスも好きだ。しかし彼女はあまり音楽には興味が無いようで、流行りの曲の流行った部分だけを断片的に知っているという感じだ。曲名も歌手の名前も知らないが、あっ!そのフレーズ聞いたことある!みたいな。

 ということで、最初は彼女でも分かるような有名な夏のバラードを、味わいながら、しっとりと。


 僕の演奏は特別な技巧が凝らされている訳では無い。なぜなら僕が弾きたい時に弾きたい音を弾くだけだから。しかしそれでも彼女は、僕が一曲を演奏し終わると毎回必ず小さく拍手を送ってくれる。

 こういう所が彼女の良いところだ。もちろん彼女には他にもたくさん長所があって、例えば料理が上手なところとか、絶対に遅刻しないところとか、あと意外と甘えてくるところとか……と、惚気話はこのくらいにしておいてね。


 小一時間そこで音たちと触れ合い、気が済んだので家に帰ることにした。

 少し日が落ちてきた帰り道を歩いていると、向かい側からいかにも悪い事をしていそうなやさぐれ集団が歩いてくるのが見えた。派手な髪色とピアスをして、てかてかしたジャケットを着ている彼らは、明らかに絡んだら面倒臭そうだった。

 だが不運なことにその内の一人と目が合ってしまったので、僕らは引き返さずに素通りすることに決めた。彼女はやはり少し怯えていたが、何かあったら僕が守る、と言い聞かせた。彼らだって揉め事を起こしたい訳じゃないだろうし、大丈夫だろう、多分。


 やさぐれ達の横を通り過ぎるその時、僕はとりあえず目が合わないように変な方向を向いていた。そのせいで、彼女がやさぐれの一人の肩にぶつかって転んだということに気づくのが遅れてしまった。

 彼女の小さな悲鳴でハッとした僕は急いで彼女に駆け寄り、ぶつかってきたであろう男を睨んだ。

「あの、人を転ばせておいて謝罪はないんですか」

 僕は勇気を振り絞ってそいつに言った。彼女は大丈夫だと必死に主張していたが、僕は許せなかった。

「ああ?何言ってるのか全く分からないねぇ」

「あんちゃん、余計なことほざいてねぇで早くうちに帰った方がいいぜ?」

 彼らは全く聞く耳を持たなかった。女性が転んで膝をついているというのに、彼女には目もくれず、ゲラゲラと笑って去っていってしまった。

 

 もう謝らないでよ、と彼女は僕に笑いかけた。僕は家に帰るまでずっと、何なら帰ってからも彼女に何度も謝っていた。僕が守るなんて言って余所見をしていたせいで、彼女は傷つけられた。ぶつかってきた奴よりも、そんな自分が許せなかった。

 自分の不甲斐なさに肩を落とす僕に、彼女は明るく言う。私はこんなに元気だしさ、ほら、今日はご飯頑張って作るからさ!元気だしてよ、と。その日の夕飯は彼女の得意料理で、僕の好物だった。彼女も何とかして元気づけようとしてくれているのだと感じて、それだけで心が温かくなった。

 こんな良い彼女を持って、僕は幸せだ。


 食後の皿洗いは、今日は僕が担当した。いつもは料理に関する家事は彼女が、掃除やごみ捨ては僕が担当していたが、今日は彼女が頑張って夕食を作ってくれたので僕が二人分を洗った。

 その後はいつものようにテレビで音楽番組を観たり、最近始まったどこかのラノベみたいな名前の恋愛ドラマを観たりしていつの間にか眠りについていた。

 それはいつもと何も変わらない、二人の日常だった。


 翌朝目覚めると、彼女がお腹の辺りを押さえて気分が悪そうにしていた。彼女が体調を崩すのは本当に久しぶりで、僕も、どこが痛いんだ原因は何なんだと焦ってドタバタとしていたが、とりあえず熱を測って横になっていて貰った。

 しばらくすると大分落ち着いたようだったので薬を飲ませると、すぐに寝息を立て始めた。どうやら日々の疲れが溜まって風邪を引いたようで、熱もあるようだった。


 僕は彼女が寝ている間に何かお腹に優しいもの、お粥でも作ろうかと思い、彼女を寝かせたベッドを後にした。料理なんて全くと言っていいほど出来ないしお粥の作り方すら分からないが、今は彼女のためだ。インターネットという文明の利器に頼り、少々時間はかかってしまったものの目的のものが完成した。

 それを持って彼女のところへ行くと、彼女はまだ穏やかな顔で寝ていた。仕方が無いのでお粥の入ったお椀を枕元のテーブルに置いて、僕も少し休もうかと思った。


 ピンポーン、とインターホンが鳴る。なんてタイミングが悪いんだろうか、こっちは一休みしようと思っていたのに。

 そう心の中で悪態をつきながらドアを開けると、宅配便が届いていた。そういや最近ネットで彼女とお揃いのマグカップを買ったんだっけな。小さめのダンボールを受け取ってその場で開けてみると、ピンクと水色で同じデザインの、可愛らしいマグカップが二つ並んでいた。

 早く彼女の風邪が治って、ふたりでこれを使うのが楽しみだ。



 

 真夏日だというのだから、いくら生活費を稼ぐためとて配達の仕事なんてするもんじゃない。と、俺は配達業者の制服に身を包んで荷物を受け渡しながら思う。

 今日最初のお客は、一人暮らしなのか彼女とでも住んでいるのか、やつれた小柄な男だった。

 次の届け先の住所を確認しながらアパートの階段を下りていると、踊り場にいた四十代前後であろう女に唐突に話しかけられた。


「あなた、205号室に配達に行ったの?ねえ、あの人大丈夫だった?変なこと言われなかった?」

 ああ、ついさっき行ったのは確かに205号室だったが、なんの事かよく分からなかった。

「大丈夫って、まあ普通に見えましたけど」

 そう俺が答えると、その女は顔をしかめて小声で何かを話し始めた。

 「あなた、これからもここに来ることあるだろうから、教えといたげるわ。あそこの男の人ね、三ヶ月くらい前に溺愛してた彼女さんを亡くしたのよ。不運な事故だったわ。それはあたしも可哀想だなと思ったんだけどね、その時からあの人、おかしくなっちゃって。誰もいない空間に彼女さんを見つけようとしては独り言、みたいな。まあとりあえず、正直変な人だから深く関わらないことね、いい?」


 その話を聞き終わって思ったことは色々あったが、まずそんな事は俺に話すことじゃないだろう。深く関わらないことね、なんて言われても、ただの配達員が客の私生活に深入りすることもないのだから、注意喚起なんか必要ないのに。そもそもそんな状態の人間が住んでいるなら大家にでも相談すればいいし……

 しかしまあ、特に俺に話した理由も無かったのだと思うが。この年頃の女性は噂話の類が好物だからな、気にする事ではないだろう。


 アパートの屋根から日向に出ると、真夏日の日光が肌を刺してきた。服の袖で額の汗を拭ってから、俺は運転席に乗り次の目的地を目指した。

 車内の冷房を強めにかけるのを忘れずに。

 

 




 彼女は起きてからもお粥に手をつけることはなく、そうとう具合が悪いのだろうと思った。昨日の夕食もほとんど食べていなかったし、思えばもうずっときちんと食べていないような気もする。そんな彼女の変化にも気づけないなんて、とまた自分を責める。

 ああでも、彼女ならきっと、そんなに自分を責めないでと言ってくれるんだろうな。彼女のその優しい言葉を聞くために、僕は、誰もいないベッドに向かって言う。


 ごめんね。元気ないって気づけなくて。いつまでも、君がいないって信じられなくて。


 どうしてもふたりの幸せを諦められなくて、ごめんね。

 

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