025 誰が為に
《直ちに撤退を推奨します。繰り返します——魔王を観測しました。直ちに撤退を推奨します。繰り返します。魔王を——》
騒ぎ立てるアラート音。視界の四方を、真っ赤に染まった文字が幾度となく流れる。
魔王……?
魔王だと?
システム音が繰り返すその単語に、全身の血液が逆流するかのような気持ち悪さの中で納得した。
なるほど、道理で。
勝てる未来が視えないワケだ。
「……っ」
そこにいるだけで世界の終わりを感じ取ってしまえるほどの、凶大すぎる存在感。禍々しいなんてチャチな言葉では表現できないほどに、こいつはれっきとした魔王だった。
「今期は七人揃うのが早かったわね。前回からまだ百年しか経ってないのに。まあ、そういうこともあるでしょう」
そこへ、撫でるようにうっすらと魔力が纏い、瞬く間に絢爛な黒のドレスがなびく。
「貴方たちにとって私が初めての魔王になるのだけれど、そうね。まずは自己紹介からしておきましょうか」
指先でドレスの裾を摘み、艶やかに
「アドルフォリーゼ。そちらでは第三位魔王として通った名かしらね」
微笑ひとつ。たったそれだけで、ヤツは——
まるで彼岸花のように撒き散らされた血液と内臓。その影響は彼らだけでは留まらず、恐れ知らずにもこの場に向かってきていたゾンビの群れも爆ぜていた。
だというのに、この場の誰もが一切、一言も声を発しなかった。いや、発することができなかった。喉の奥に桃色の殺意がねじ込まれて邪魔をしているかのように。
あのオーガですら、真っ先に突っ込んでいきそうだというのに呆然としてやがる。幽鬼のような恐ろしさを見せつけていたあの黒騎士ですら、あれの前では金魚の糞以下。
たとえこの場の全員で襲いかかったとしても、十秒も保たない——そんな予感がした。
「以後、お見知り置きを。他の魔王を代表して私が、宣戦の合図として花を咲かせてみました。いかがでしたか、
早く逃げろ——殺されるぞ。
ここまでわかりきった勝敗を前にして、俺は足がすくんで動けなくなっていた。
ユズキの話でチラッと出てきた魔王の話を思い出す。
確か、七体もいるんだっけ?
こんなバケモノが、あと六体もいやがるのか?
無理だろ。勝てるはずねえ。
気合とか根性とかスキルの相性でどうにかなるレベルはとうに超えている。
経験の差が、格の差が、もはや違うのだ。
ラッキーパンチひとつ狙うのに、何回殺されればいいんだ?
俺は———
「ねえ。少し踊りましょう」
「———っ!?」
鼻と鼻が触れ合う距離——下から覗く真紅の瞳。
反応できなかった。
いつの間にか距離を詰められ、そうでなくとも必殺の間合に身を浸しているというのに、俺はなんの反応でもきず棒立ちだった。
美少女の皮を被ったバケモノが、細指を踊らせる。トン、と鎖骨に魔王の人差し指が押し当てられた刹那。体内を
*
潰れそうになる意識を保てたのは『常在戦場』のおかげだろう。いや、この場合は最悪だったと言えるかもしれない。意識を失ってしまえればどれだけよかったか、想像を絶する地獄の波が彼の体を蝕んでいた。
「ぐ——が、ああああああぁぁぁ———」
「ふふ、やっぱり丈夫。とてもおもしろいスキルを取ったのね」
全身を貫く魔痛に意識を飛ばせないユウキは、喉が潰れるほどの絶叫と共にようやく地面に着弾した。そして感覚で理解する、己の現状を。
全身の骨という骨が砕かれ、体外へ噴出していること。
削がれた肉の奥から内臓が露呈していること。
心臓および生命を維持するのに必要不可欠な機関が、死滅していること。
そしてその水面下で、影のような何かが蠢いていることを。
《——スキル『痛覚耐性』を獲得しました》
これほどの激痛を受けてなお、死ねない。死にきれない。
とうに死を迎えていてもおかしくはない死傷だというのに。
皮肉にもスキルが、この体を生かし続けていた。
「踊りましょう。ねえ。ねえ。早く立たないと、貴方の仲間が死ぬわよ」
「———」
「いいの? やっちゃうわよ? ほら、立ちなさい。頑張って。ガーンバレ、がんばれ」
「———」
「貴方はやればできる子でしょう? だって、一億年前もそうだった」
ああ、俺……何してんだろ。
思考が
目はギンギンに冴えている。
体は動かせる。
まだ戦える。
だというのに、何故。
指一本すら思い通りにならない——否、動かそうとすらしていなかった。
このまま、倒れていたい。
そう思うのは、初めてのことだった。
どんな強烈なカウンターを喰らっても立ち上がってきた彼が、初めて敗北を認めた瞬間だった。
「……無理だ」
天と地ほどの差とはまさにこのことで、ああ、だからこそ悔しいとか負けたくないとかそういった気力が湧いてこない。負けたってしょうがないと、思っているから足腰に力が入らない。
肉体以上に、精神が粉々だった。
頑張れば手に届く範囲で戦ってきた彼が、彼岸の向こう側を知った。
それを受け入れるほどの覚悟も、芯の強さも、戦う軸も持ち合わせていない彼は、とても脆かった。
「貴方は、どうして戦ってるの?」
どうして、か。
さあ。どうだったっけ。
フラッシュバックする景色。
薄暗い部屋で交わした、たった一夜だけの思い出。
……何故だろう。
どうして俺は、こんな時に、おまえのことを思い出しているのだろうか。
「そんなボロボロになってまで、どうして戦ってるの?」
顔を覗き込んでいるそいつは、いつぞやの懐かしい女だった。
なんとなく声をかけて、話して、飯食って、寝て。
それだけだ。
それ以降の関係はなかったはずで、なのに今となってどうして——
「今の貴方に魅力を感じないわ」
「——っ」
引き戻される現実。
そこにいたはずの女はどこにもいなくて、顔を覗き込んでいるのは桃色の悪魔。
同時に、ユウキは耐え難い屈辱に襲われた。
昔、ボクシングを始めるきっかけとなったとある人物を前にして、ユウキは言った。
——凄みを感じない。
憎くて、怖くて、どうしても殴り殺してやりたかった人物が小物だと思い知ったあの時に出た、素直な言葉。
それと酷似した言葉を、ユウキは今、目前の敵に吐き捨てられた。
それが、どうしようもなく体を疼かせた。
「初対面だからね。挨拶代わりで殺すつもりはなかったけど、やっぱりやーめた」
踵を返す魔王。
切長の瞳から排除され、視線は後方から追いかけてきた仲間に向けられる。
「殺しましょう。魔王らしく残虐に。別にいいでしょう? 貴方たち、つい最近出会ったばかりで大した絆もないし深い関係もない。ユズキ、と言ったかしら? あの子は死んだほうがマシよ、個人的に」
そう。ここであいつらが死に瀕したとしても、ユウキは動かない。
魔王の言う通りだからだ。異世界に来て二週間あまり。一度や二度、背中を預けて戦っただけの女とついさっき出会ったばかりの男。漫画のように仲間のためにだとか綺麗事を言えるほど深い関係じゃないのは、彼もよくわかっていた。
「根絶やしにしましょう。今度こそ、人間という種を残らず駆逐してやりましょう。小賢しい老兵も、赤児から大人まで全て残らず。それでも貴方には、関係のないこと。だって貴方、異世界人だから」
そう。ここは異世界で、ユウキの生まれ生きた世界ではない。大切な人などこの世界には、どこにもいない。
そう、どこにも。
「この夢は永遠に終わらせない。貴方たちに奪っていい権利なんてない。だから、ねえ——中途半端な覚悟で、起き上がらないでくれる?」
「——うる、せえ」
ようやく絞り出した言葉は、焼かれるような痛みを伴った。
フラつく脚に拳を叩き込み、ユウキは血に濡れた瞳で目前の敵を見据える。振り返った魔王は、悦びに満ち満ちていた。
「私、死に物狂いで戦う貴方のことが好きだったの」
「……てめえ、さっきから一人でなに昂ってやがる。こっちは随分と前から置いてけぼりなんだよ」
「ええ、そうね。そうよね。ごめんなさい。でも嬉しかったから」
言葉通りに表情を歪めて、喜びを魅せる魔王は問いかける。
「それで、どういった心境の変化なのか。教えてくれるかしら?」
その
続きを訊かなくともどうなるかは、彼女から無意識に発せられる純粋無垢な殺意の覇気から感じ取れた。
しかし、ことの中心である少年は毛ほども揺るがなかった。
「うるせえ。ぶっ殺すぞ、アマ」
「———」
「てめえ、俺を殴っておいて逃げられると思うなよ」
絞りきったのは、掠れかすれの啖呵。身をバラバラにされんばかりの魔圧の中で、命を削って震わしたのは、そんな言葉だった。
「戦う理由とか、んなのどれだけ考えたって思い浮かばねえ。誰かを守るためとか、誰かのためとか……悪ぃけど、
どうしたって見つからなかった。誰かのために戦う理由など。
それが見つかれば、あるいは魔王に対抗するほどの気力が湧いてきたのかもしれないが。
「生憎と、こっちに来てからは戦闘続きでな。愛を育む時間なんて、どこにもなかったんだよ」
故に、モチベーションは自ずと内側に向けられる。
立ち上がるための理由は、己に見出した。
「殴るのはいい。殴られるのは、腹が立つほど嫌だ」
殴られたなら殴り返す。奪われたなら奪い返す。
そうだ。俺は、そんな正確だったから、ボクシングを始めたんだ。
「勝ち逃げなんてさせねえ」
勝ち目がなくとも、俺は俺が受けた仕打ちを倍にして返してやりたい。
そうじゃないと、許せない。この胸の内で迸る憤怒がおさまらない。
「俺は、俺をコケにしたヤツを許さねえ」
「くは——」
不良漫画の登場人物さながらの応えに、第三位魔王は破顔した。
おかしくてしょうがない、ああ、思っていたのとは違うが貴方らしいと笑って。
「じゃあ、今度はエスコートしてくれる?」
「任せろ。ぶっ殺してやる」
そう吐き捨てて、産声を上げ始めた憤怒に身を委ねた。
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