旅する明日菜

北見崇史

旅する明日菜

「タグボート」


 港湾は荒れ果てていた。港に造られた倉庫の群れは、どれ一つとして原型を留めていない。頑丈だった鋼鉄の扉は、瘡蓋のような錆びに食われて穴だらけになっていた。屋根もそのほとんどが落ちて鉄骨が骸骨みたいに顕わとなり、その骨組みさえ、あちこちが溶けて、ぐにゃりと曲がっている。繋がりを留めるボルトは無残に錆び付いて、崩れ落ちてきそうな危機をどうしようもなく予感させた。コンテナを悠々と吊るすはずだったガントリークレーンも、まるで巨大な蟲の化け物が朽ちてミイラ化したみたいになっていた。岸壁のほとんどを構成するコンクリートは、どこもかしこも欠けて抉れて穴だらけだ。骨材である砂利石がボロボロと崩れて、その有り様はひどかった。錆びた鉄筋の先端が、その邪まな意図を隠そうともせず突き出していた。地上は瓦礫や木片が散乱して、油断するとつまずいたり転んだりしてしまう。

 だから、足元に気をつけながら明日菜は歩いていた。水溜りに緑褐色の藻が繁茂し、その場所を占有しようと、羽毛の抜け落ちたセグロカモメとカラスが、枯れた泣き声を響かせながら争っている。車輪が壊れ放置されたリヤカーに近づき、そして荷台を見た。腐りかけの鮫が十匹ほど雑に寝かされていた。生臭くてドブのような臭気が少女を包み込んだ。魚の死骸よりも、荷台の板にこびり付いた鱗や干からびた血の跡に、太った銀バエがたかっている。明日菜はなにげなく手で払ってみるが、ハエは一瞬身構えるだけで逃げようとはせず、相変わらず汚らしいものを舐めまわしていた。手を振ったことでかえって臭いがきつくなり、それが腕に巻きついたのではないかと錯覚して、思わず何度も手を振った。

 空はどんよりと曇っている。海面から漂ってくる風は冷たくも温くもない。ただ微かに空気が触っているという感覚だ。焼けた鉄と石油の燃えカスみたいな臭いが、ところどころにわだかまっていた。明日菜は、この刺激臭が鼻について嫌だった。まだ魚の死骸の臭いのほうがマシとさえ感じていた。なるべく鼻で息をしないようにしながら、岸壁に係留されている船を見物してまわった。小型の漁船が多かった。やはりと言おうか、どれもが古く廃れている。船体が傾いたり沈みかけているものが多々あった。

 少女は、甲板や操舵室まわりにコケの生えた、沈没寸前の老漁船のそばで立ち止まった。白い塗装がブツブツと痘痕模様にまくれ上がり、明日菜の全身の産毛をざわざわさせた。いっそのこと、この瘡蓋のような塗膜を、心ゆくまでこそげ落としたい衝動に駆られていた。興味本位に乗り込もうとしたが、船体と岸壁の間にある微妙な隔たりにひるんでしまった。少女は、思い切って跳び移れば海に落ちてしまうことはないだろうと考えたが、なんとなく気配が気になって後ろを振り返った。水銀灯にとまっているカラスが小首をかしげながら見つめている。そう、待っているんだね、とつぶやいた。明日菜は乗船をあきらめて、また歩き出した。

 岸壁が河口に向かって切れた場所に、明日菜は行き着いた。焼けただれて廃墟と化した倉庫の前に、一隻のタグボートが係留されていた。ずんぐりした黒色の体躯の外周に、たくさんの古タイヤが貼り付いている。ディーゼル機関が唸っているので出港が近いのだろう。煙突から吐き出される排気煙があたりに充満していた。明日菜はその臭いが嫌でたびたび息を止めた。キョロキョロと落ち着かないようすでいると、タグボートから太った赤ら顔の男が勢いよく降りてきた。黄ばんだランニングシャツからはみ出した肩に、びっしりと毛が生えている。それが自分に絡みつくのではないかと不安になって、少しばかり後ずさんだ。

 赤ら顔の男はかまわず少女のすぐ目の前に立ち、首を振って船に乗るように促した。明日菜は、またもや船と岸との境界が気になった。とび移ろうかどうか躊躇っていたが、赤ら顔の男が腰の辺りを引っつかんで放り投げるようにしてタグボートに乗せた。そして、すぐに自らも乗り移った。

 甲板には赤ら顔のほか、数人の男たちがいた。誰もが太って誰もが薄汚れていた。酒やけしているのか、顔もむくんで大きくなっていた。馬や牛のような面構えだ。唐突に霧笛が鳴った。その音があまりにも大きくて、明日菜は思わず首をすぼめた。巨大なトルクがスクリューに伝わり澱んだ海水をかき混ぜた。首に入れ墨がある男が舫いを解いた。さらに霧笛が何発も鳴った。タグボートは出港した。

 明日菜は工具箱に腰掛けていた。力強い船の加速に気分が少しばかり浮ついた。タグボートは、船尾からロープで何かを引っぱっていた。波の抵抗を受けるそれらをつつこうとセグロカモメたちが群がるが、波と飛沫が邪魔をしてうまくいかない。下手をすると海に呑み込まれるので、しょうがなく旋回している。それらは折れ曲がった腕を波間からつき出していやらしく手招きするが、鳥たちは警戒を止めない。カモメはしばらく上空をうろついていたが、あきらめて飛び去っていった。

 タグボートがゆっくりと河口を遡ってゆく。両岸の拓けた土地には、石油関連の工場が凝縮して立ち並んでいた。直線的でありながら複雑に絡み合ったパイプラインが縦横無尽に行き交い、巨大な燃料タンクが連なる様は、まさに人工建造物の樹海だ。だが、実際は打ちひしがれている。人々の英知と努力、献身の結晶が、まるで爆撃でもされたかのように破壊されていた。しかも、それはまだ続いているようだ。明日菜が見ている間にも、パイプラインを支えている鉄骨があちらこちらで崩壊し、時折、大轟音とともに大きな火柱が空を切り裂いた。衝撃波が空気を震わせ、少女の頬を微妙に叩いた。長い長い排煙筒が根元から折れて、立ったまま気絶した人間のように河へと倒れこんだ。油臭い水面にものすごい水しぶきがあがり、ややおくれてから幾段もの波紋がやってきた。ボートはしばらく揺れ続けて、さらにそれからも揺れ続けた。明日菜ほんの少し気持ち悪くなった。馬面をした大男が黄色い脂肉の干物をすすめたが、少女は首を左右に振った。食べなければならないよ、と諭されて仕方なく口にした。思ったとおり生乾きで生臭くて、しかも毛が生えているので嫌でたまらなかった。しかし、それでも噛み続けた。干し肉からにじみ出るすえた脂が唇から顎へと滴り流れたが、それでも噛み続けた。

 川幅が極端に狭くなり水量もだいぶ減っていた。水が汚れているので喫水下がどのくらいの深さになるのかはっきりとしないが、人が溺れることはないだろう。両岸は護岸されたコンクリートの壁であり、おそらく水面下もコンクリートで舗装されている。前進するにつれてボートと川の幅がほぼ同じになってしまい、とても窮屈そうだった。船体の外周を取り巻いている防舷物のタイヤが護岸をこすり、キューキューと耳障りな音をたてた。両側から圧迫され船は時折止まりかけるが、大出力の発動機が呻って川上へとぐいぐいと押し上げた。

 川の両岸は住宅が密集していた。民家の多くは古くて汚かった。真っ黒なタールを塗った板張りの家もあった。左岸沿いにいくつかの商店が看板を出していたが、商売をやっている様子はないし、それらのシャッターもひどく傾いでいる。揚げ物とドブと小便の入り混じった臭気が漂っていた。タグボートの姿に惹きつけられるように、人々が川の両岸に集りだした。誰もがやせ細り咳き込んでいた。見るからに病人だらけで、咳き込みすぎて吐いている者が多かった。ある老婆などは、よれよれの襦袢から瘦せ細った肋骨を露出させて、死に物狂いで嘔吐している。吐しゃ物がボートの舷側に飛び散った。明日菜にはかからなかったが、臭いは相当なもので、出来るだけ深く息をしないようにしていた。操舵室から赤ら顔が出てきた。先端に鉤のついた長い鉄の棒を足もとから拾いあげた。そして両岸に集った病人たちを引っ掛けて、タグボートの甲板上に叩き落とした。たちまち、明日菜の周りは病人だらけになった。

 マシな奴から治療すると船長が言った。いますぐにでも死にそうな病人たちは、うつむいたまま顔を上げようとはしない。マシなやつからだ、と再び赤ら顔が宣言した。船員がひとりひとりを吟味し始めた。彼らは陶器の置物のようにじっとして動かない。馬面が若い女の首筋を舐めまわすように嗅ぐと、そのか細い首根っこをつかんで甲板に押しつけた。周りの者たちは、そこから少しでも離れようとのそのそと動いた。赤黒く汚れた白衣を着た船員がやってきた。そして、押さえつけられている女の衣服を乱暴に剥ぎ取った。全裸にされた女を、他の者はなるべく見ないように顔をそむけたが、それでもしっかりと盗み見していた。

 見かけは二十歳そこそこなのに、体は痩せて皺だらけだった。そして胡桃大の腫瘍が背中一面に、いや尻にも太ももにもできていた。船長が明日菜に向かって立つように言った。船員がやってきた。明日菜が腰掛けていた工具箱の蓋を開けて、中に詰まった石のようなものを次々とバケツに移した。こんもりと盛られたのは、たくさんの牡蠣だった。それをバケツごと白衣の男に手渡した。男は素手でつぎつぎと牡蠣をこじ開けて、中身を甲板に投げすてた。糞便のできそこないのような黒くて臭い身は、引き剥がされてもなお生きていて、ぬめった体をナメクジのようにくねらせていた。 

 牡蠣殻の外側表面には、幾重にも折り重なった鋭いヒダと、尖ったフジツボがあった。内側のきらびやかな螺鈿模様とくらべると、相当汚くて剣呑な印象だ。若い女はうつ伏せに寝かされている。屈強な船員たちによって、身動きできないよう手足を押さえつけられていた。とっとと治療を始めろと船長が怒鳴った。白衣の男が女の首筋に片ひざをのせて、全体重をかけた。身動きどころか声すらも出せない状態になった。彼は傍らに散乱する牡蠣殻を拾うと、その汚らしくも荒れた外側で女の背中を擦り始めた。

 デキモノを切除するというよりも、背中の皮膚をズタズタに引き裂いているようだった。白衣の男は、なんの遠慮も手加減もなくゴシゴシと擦った。胡桃大の腫れ物は牡蠣殻の鋭いヒダで挽き肉状につぶされ、血まみれの破片が背中からこぼれ落ちていた。当然、デキモノだけを選んでつぶしているわけではない。そもそも白衣の男にそんな心優しい意思など微塵もなく、ようするに背中全体の肉を掻き毟っているのだ。

 わき腹のブツブツをこそげ落とし、次に尻をこすろうとするが、多少付いている肉が引っかかってうまくいかない。すると白衣の男は二枚の牡蠣殻を合せて、とがった先端で挟みとるように引っこ抜こうとする。だが腫れ物は女の皮膚深くまで根を張っているので、しぶとかった。女の尻の皮が、つきたての餅のようによく伸びた。白衣の男はかまわず手を空に向かって振りあげた。尻の皮が破けて、腐った胡桃は膿んだ脂の固まりとともに引き抜かれた。細かく枝分かれした根っこは、硬くしまった地面にはびこる雑草と同じだ。さらに太もものデキモノも容赦なく引き抜かれた。皮膚が破れるさいに、バリバリと忌まわしい音が聞こえてきそうだった。 

 耐えることなどできぬ猛烈な痛みであることを、明日菜は知っていた。肉が裂けて、体中穴だらけになっても死ねない女の苦悩を知っている。助けることは禁忌とされているし、他になんの力にもなれないし、その気もなかった。ただ女が為した事をおもって見つめているだけだ。

 牡蠣の身と血と肉片で、あたりはひどく汚くなった。強力な膝で押さえつけられている女の首が、不自然に曲がっていた。骨が折れてしまったのだろう。それでも血泡をふきながら何事かを言おうとしている。明日菜は少し屈んで聞き耳を立てた。女はありきたりなことを呟いていた。そう、ここはそうなの、と明日菜は言った。

 中年のサラリーマンが汚れた甲板を拭きだした。雑巾がないので腹ばいになりながら、自らが着ている背広とシャツでぬぐいとっていた。治療する場所を掃除するのは次の者の礼儀なのだ。ひょろ長い顔に大きな目玉、こけた頬がいかにも不健康そうだ。馬面が、男の頭をむんずと掴んでから無遠慮にさすった。禿げあがった頭部を嘲っているのだが、サラリーマンはされるままで抵抗はしない。諦めきったか細い息を吐きながら、図太い腕にされるがまま上下左右に振り回されている様は、とても惨めだった。

 こいつの治療は面倒くさいと赤ら顔が言った。ああ、内側にあるからな、と白衣の男が返した。その手に握られている牡蠣殻は、山芋のように細長くて先が尖っていた。サラリーマンは床みがきを止めようとしない。馬面が男を立たせて、後ろから羽交い絞めにした。男は抵抗もせずに素直に従った。白衣の男が前に立ち、そして割られていない生きた牡蠣殻を、痩せた男の口の中へとねじり込んだ。

 ぐおおおっ、と重苦しい嗚咽が流れ落ちた。白衣の男は、ねじを回すように牡蠣殻を男の口の奥へ、そして咽の奥へと押し込んでゆく。はじめに歯と牡蠣がぶつかり、それらは次々とへし折られて、乾いた音とともにこぼれ落ちた。猛烈な苦痛に耐えかね、サラリーマンがジタバタと暴れた。しかし、レスラー並の怪力が抑えているのだ。比べると蚊ほどの抵抗力もなかったが、死ぬ以上の痛みに体が反射しつづけた。しまいには肩の関節がはずれ、白衣を小突いていた足も、膝の皿を錆びた鉄パイプで砕かれて静かになった。サラリーマンの腹の中に飲み込まれていく牡蠣殻は軟らかく見えた。とても突破できないような穴に、面白いように入ってしまう。やがて細長い牡蠣殻のほとんどが呑み込まれた。長物を咥えた男は、白目をむいて激しく痙攣している。白衣の男は、裂けた口からほんの少し出ている牡蠣をぐりぐりとまさぐった後、今度は引き抜き始めた。ねじ込むときと逆に回転などさせなかった。なにかが引っかかった感触を確かめるようにゆっくりと、それでいて力強く真っすぐに引き抜いた。

 たくさんの豆状の肉塊が、ドロッとしたドブ色の粘液に包まれながら、細長い牡蠣殻に巻きついていた。見た目がいかにも汚くて、ひどく臭そうだった。だから、それが男の病巣なのだろうと判断できた。処置が終わった男は先ほどの若い女と同じく、船尾から海へ放り投げられた。すぐにボートが引っぱる者たちの中へ絡みついて、塊の一部となった。それらの病気は治療されたが、その過程で被った傷は、その後の人生において一ミリたりとも治癒することはない。引き裂かれ抉られた肉体は痛々しい傷口をさらしたまま、尽きることなく出血し続けるのだ。

 船長がタバコに火をつけた。不衛生極まりない甲板に尻をつけて、信じられない量の煙を吐き出していた。チャッチャと口を鳴らし明日菜のほうを見て一本を差し出すが、少女は首をふった。意外そうな表情でもう一度繰り返すが、明日菜はやはり拒絶した。 

 タグボートは、粗末で小汚い家が密集する地域を奥へ奥へと邁進していた。やはり多くの人間が川岸に集まっている。だれもが激しく咳きこんでいるか倒れているか、または吐いているかだ。船は彼らを捕まえて処置を施し、そして後ろに引き連れていた。ごくたまに自ら落ちてくる奴もいた。そういった者は、たいてい全身が膿んだデキモノで覆われていた。見るからに救いようのない外見をしている。そんな手の施しようもない人間にも船員は慈悲深かった。彼らは、泰然とこそげ落とすのだ。

 治療とはいえこんなことをしていると、抉り取った腫瘍だらけになって船が沈んでしまうのではないかと、明日菜は心配になってきた。全員ではないが、少なからずの人間には降りてほしいと願うようになった。干し肉をあげたら、ひょっとしたら降りてくれるのではないかと思いついた。でも、さっきもらった分はもうない。船長に少し分けてくれと頼むが、赤ら顔は全部人にあげたと言った。誰が持っているのかを明日菜は訊ねようとはしなかった。知らないほうがいいと思った。



「アーケード」

 

 アーケード天井下の建物群は、相当の奥行きがあった。しかし巨大な構造物なのに通路の幅は一間半ほどしかなく、しかも極端に暗くて陰気だった。入り口に立つと、はるか向こう側の出口が見通せない。通路の両側にそびえているモルタル塗りの建物は、かなりの高さがあり、商店街というよりもビルみたいだった。ただ二階以上には窓も何もなくて、絶壁のように切りたった壁だ。通路がよほど暗いのは、そこを照らす灯が、両側の建物に入居する店と看板しかないからだ。

 アーケード商店街ではあるが、商店はたまに酒店があるくらいで、あとはスナックや居酒屋などのいわゆる飲み屋がほとんどだった。あちこちの飲み屋から香ばしい煙がでていた。煤けた提灯の焼き鳥屋からは、火事かと思うほどに大量の煙が吐き出されている。煙は通路の隅々まで行きわたり、乾ききった食欲に香りの罠を仕掛けていた。

 ぞろぞろと親子連れがやってきた。どこから涌いて出てきたのか、それらは狭い小径を埋め尽くしていく。どれもが母親と小さな子供たちだ。父親らしき男は見当たらない。どの親子も枯れ枝のように痩せて、垢だらけのみすぼらしい服を着ている。なかには着る服がなく、素っ裸な幼児もいた。暗い通路は暖房があるわけでもなく、吹き抜ける風は肌寒い。どの子供も洟をたらし、肌は金タワシで擦ったように荒れて、その足取りは鎖で縛られているかのように重かった。

 明日菜はアーケードの入り口に立っていた。通路のどこかで炊き出しをしている店があると知っていたからだ。腹が減っていた。肉を焼いた香ばしい煙が漂って、空腹の体を揺さぶる。配給されるのが、たいした量ではないとわかっているが、食事への期待度が否応なしに高まっていた。このさも美味そうなニオイを嗅いで食べることが、いいおかずとなるのだ。

 明日菜は、親子連れを次々と追い越しながら配給所を探した。どの母親も子供達も、だらしなく歩いているので邪魔で仕方がない。追い越すさいには、なるべく子供達とは目を合せないようにしていた。彼らは資格がないので配給所に立ち入ることはできない。だから食べられない状態が、ここに来てからずっと続いている。下手にかまってたかられても、どうすることもできないのだ。

 二人の女の子を連れた母親が、一軒の立ち飲み屋の前で立ちすくんでいた。時おり意を決したように曇りガラスの引き戸に手をかけようとするが、どうにも躊躇って格子に指すらかけられない。母の逡巡を諦めきった小さな瞳がうつろに追っている。いつまでたっても進展しない様子に、女の子たちは首に巻きつくようについた青黒い痣を、所在投げに掻いたりしていた。

 母子が店に入ることもせずに立ちすくんでいると、太った中年男が店から出てきた。ネクタイをだらしなくほどき、千鳥足が危なっかしかった。焼酎とイカの入り混じった息が臭かった。母親にぶつかるが、一声かけるわけでもなく気にもしていない。ふらふらと壁によりかかると、うおうっと勢いよく嘔吐した。壁と地面の境界線に濃いシミが広がる。ズボンを履いていないほうの女の子が、男の汚物に顔を近づけて臭いを嗅いでいた。そして、なにがしかの期待をこめてじっと見つめていた。母親は何も言わない。その様子を見た太った男が、いかにも不快そうに女の子をなぎ払った。彼女は、ぶたれた頬をさすりながら明日菜のもとへ来た。下手にかまうと面倒なので無視していると、もう一人の女の子もやってきた。二人でじっと見つめるが、明日菜は明後日の方向を向いてやり過ごした。

 この能無し親子に比べると、店のママや客に芸をみせて食べ物を恵んでもらおうとする親子は、そこそこに芸があった。だが、相手にもされなかった。せいぜいが、おしゃべりのネタにされるくらいだ。ほとんどの母親は、自分で芸をしないで子供にやらせていた。ある母は息子に気がふれたような踊りをさせられたり、土下座を延々と続けさせられたりと、いたって単調な芸をさせた。そして必死さのあまり過激になった。母は息子の頭を地面や壁に叩きつけたり、爪を立てて無理矢理目玉を抉ったりした。客も見慣れたもので、その程度では反応しなかった。さも小ばかにしているママの態度に母はますます焦って、四角い看板のかどに息子の顔面を何度も突き刺すが、看板を壊された店のママが怒って、かえって逆効果になった。悪態をついて客と一緒に店に戻るとき、皺だらけのビニール袋を、その母子に投げつけた。母親は嬉々として中を覗いた。入っていたのは、ペットボトルのキャップや廃電池の類だった。せめて葡萄の皮でもと願っていた女は、ひどく落胆した。八つ当たりするように息子を蹴るが、すでに大きく傷ついていた息子は、地に伏せたまま反応を返さなかった。

 配給所はホルモン焼き屋の隣にあって、すでに数人が並んでいた。開けっ放しの引き戸の中から、あるよあるよ、と威勢のいい声が響いていた。肉を焼く香ばしい煙が、並んでいる者たちの胃袋をぎゅうぎゅうと揉みあげた。心底お腹がへっていた明日菜は、ホルモン屋の魅惑的な煙に巻かれながら待っていた。片隅から灯油の臭いが漂っている。古びた灯油ストーブが、多少の燃焼不良を起こしながら灯っていた。 

 あるからあるから、そんなにがっつかなくてもあるから、と配給所の係員はしつこいくらいに声を張り上げていた。だが、配給を受けに来た者たちは気が気でなかった。長机の上には小さな鍋が二つと、プラスチックトレイに、一盛りのコッペパンがあるだけだったからだ。先頭の女性が待っているのに配給はなかなかされない。あるから大丈夫だからと、カラフルなハッピを着た鉢巻き姿の係員は言うが、誰も本気にしていなかった。 

 ふてぶてしく椅子に座っている禿げ男が、コッペパンを食べ始めた。Yシャツをはち切れるばかりに膨らましたタヌキ腹に、ボロボロと大量の食べかすがこぼれ落ちた。列に並んだ者たちが烈しく罵声を浴びせて、ようやく手が止まった。しかしそれも一呼吸の間で、また食べだした。そして衆目が見ていることなど気にせずに、すべてのパンを食い尽くしてしまった。皆は、歯を食いしばって必死の形相で抗議した。明日菜は、自分の分まで食べつくされた悔しさと、お腹が満たされない落胆で涙が出てきた。満足して鼻をほじっている禿げ男が、憎たらしくて仕方がなかった。

 あるからあるから心配ないよう、と係員が言っている。小さな二つの鍋を指し示しながら、焦って殺気立つ皆の様子をやや呆れたように見ていた。明日菜達は入れ物を持参していた。他もお椀だったり紙コップだったり、中には工事用のヘルメットを持っている者までいた。係員はようやく汁を配りはじめた。緊張していた行列が静かに溶かされていった。明日菜も、両手で隠すように持っていた茶碗によそってもらった。汁の中身は少々の脂身と菜っ葉の破片が浮いているだけだが、脂身からこってりとしたダシが出ている。また黄色くはった膜が唇に貼りついて、いつまでも余韻を残した。そしてなによりも熱い汁は、冷えた体をほどほどに温めてくれるのだった。

明日菜は、コッペパンを食べられなかったことが悔しかった。乾いた口内にまとわりつく、あの粉っぽさがほしくてたまらなかった。この脂っぽい汁で流しながら食べたら、どれほど愉快なのだろうと想像した。汁気と粉っぽさが絶妙な加減で混ざっては、腹の底に流れ落ちてゆく。なんともとろけるような食感と風味が、明日菜の妄想の果てでまざりあい、踊っていた。 

 皆が一応の安堵にひたりながら汁をすすっていると、一段と陰気臭い親子が入ってきた。母親は襤褸切れのようなすさんだ襦袢一枚、見た目性別不詳な二人の幼児は、一人が頭からズタ袋をかぶり、もう一人はジャージの上だけなのだが、サイズが大きすぎて裾が地面を擦っていた。垢と汚れで腐った油のような臭いが漂った。不潔を通りこして不浄の存在といっていいほどだった。  

 明日菜は、威勢のいい係員が、間違ってこの親子に汁を与えるのではないかと不安になっていた。鍋の中身はあと少ししか残っていない。せっかくおかわりしようと熱い汁を急いですすっているのに、盗られてしまっては元も子もない。きっとこの母親は子供をダシにして芸を始めるはずだ。どうでもよい芸を見せて食い物に有りつこうとするのだ。

 案の定、薄汚い親子は鍋の方へ引き寄せられるように近づいていた。明日菜は残っていた汁を一気に流し込んだ。まだまだ熱かったが躊躇わなかった。こうなったら親子より先に並んで、早々とおかわりをきめこむしかないとの気合に満ちていた。

 母親が両手を出してどんぶり型に手を合わせた。汁を受ける容器がないので、その手の中へ入れてくれとの意思表示だ。誰かが、くそばばあと罵った。例の禿げ男が鍋を手ではらった。残り少ない汁が入った鍋は、鋭い金属音を響かせながら床に転がった。もちろん、明日菜が期待していた残り汁はぶちまけられた。ズタ袋があーあーと泣きだし、そして母親が語り始めた。

 夫は、他人の誰に対しても薄弱であり卑屈だった。嘲笑され見下される人生が、彼の鬱屈した精神を支えていた。その代償として、妻と子供達には容赦なく接した。暴力は日常茶飯事だった。直接の打撃もさることながら、人としての尊厳をえぐるような罵倒が心底こたえた。論理的で、さらに技巧を凝らし、ペンチで生爪を剥がされるような苦痛を、心のすべての領域で受けつづけた。

 だから、夫が眠っている間に出刃包丁で首を切り裂いた。ただもう無我夢中で、でたらめに何度も何度も振り下ろした。なんだかほんわかして自分がわからなくなって、ようやく蛮行を収めることができた。彼の頭部と体はすでに離れていた。出刃包丁の肉厚な鋼が、首の骨を砕いていた。シーツと枕にべっとり染みた血と肉の破片が、薄い闇の中でもはっきりと見えた。生臭さと共に立ちのぼる、ほのかな湯気が気持ち悪かった。血まみれの手を水道水で洗い流し、下着を着替えてから子供達に手をかけたのは、我ながら落ち着いていると自賛した。上の息子の首を絞めるのは、多少の哀れみと説明不可能な憎しみが混じりあって、えも言われぬ気持になった。カッと見開いた瞳が暗闇によく映えたが、またそれが逆説にはたらき、なんだか愛おしく見えた。私はその罪を背負って落ちてきた。だから、子供達のためならどんなに苦しくてもためらわないと言った。

 そんな話に誰も興味を示さなかった。明日菜と同じように残り汁を期待していた茶髪の兄ちゃんが、さも苛立ちながら工事用ヘルメットをガシガシと壁に打ち据えた。しらけた室内を、一同の冷徹な視線が乱反射した。言うだけ言うと、母親は皆に謝りもしないで配給所を出て行った。出て行きたくない子供が執拗にぐずったが、家畜のように引きずられていった。明日菜は、だからこんなところに落とされる羽目になるのだと、心の奥底で烈しく罵った。同情を請うには、同情されるだけの物語を披露しなければならないのだ。

 空気が冷えてきた。片隅に置かれていた錆びだらけの灯油ストーブが、いつの間にか沈黙していた。あの禿げ男が火を消していたのだ。明日菜は配給所を出て通路をぶらつくことにした。時々、天井が割れてガラスの破片が降ってくる。たいていは、注意力のない子供に直撃した。ガラス片で切り裂かれた顔の皮をびらびらさせながら、のべつまくなく泣き喚くが、母親は子供の具合よりもよほど気になることがあるので、まるっきり放置している。その傍を通りすぎようとした明日菜に向かって、子供が泣きながら食って掛かってきた。その憤慨する気持ちがなんとなくわかる少女であるが、いつものようにあっさりと通り過ぎた。

 まだら模様に黒ずんだ赤提灯の前に、配給所のあの親子がいた。先ほどとはうって変わって、母親は忙しく動いていた。二人の子供に折檻し、その芸を店主に見せて媚を売っている。それは明日菜がアーケードにやってきて、もっとも苛烈な芸だった。小さな二人は、打ち据えられるたびに、ライターの炎で焼かれる虫けらみたいに撥ねまわっていた。ズタ袋が黒くびっしょりと濡れていた。長ジャージの幼児は、手足があらぬ方向に折れ曲がり、砕かれた顔の骨の破片が薄い皮膚を貫いていた。母親の、一呼吸おいてから店主の顔色をうかがう上目使いの目線が、ひどくいやらしかった。赤提灯のオヤジが白いビニール袋を母親に投げつけた。嬉々として中身を取り出すが、入っていたのは、やはり廃電池やペットボトルのキャップなどのゴミだった。女は汚らしい文句を吐き出したあと、さらに烈しくわが子をぶちのめした。通路に横たわる小さな二つは、もう動かなくなった。明日菜は、それらに触れてしまわぬよう慎重に跳び越えて、アーケード通りの先へと向かった。 



「遊園地」


 遊園地に降りそそぐ冷たい雨がみぞれに変わり、やがてそれも湿った雪となった。アスファルトにたまった水たまりに雪が融けこもうとしている。シャリシャリとした踏み心地はいいものだが、そうすると足もとがびっしょり濡れしまってひどく冷たい。

 明日菜の頭と肩も、少しばかり白く濁っていた。融けた雫がうなじを伝わり、肌の表層を冷たく撫でる。時おり、ぶるっと刺すような悪寒が走るが、少女は気にしないようにしていた。それでもさすがに寒さに堪えかねたか、どこかに傘がないかと探してみる。しかし、割れたブラウン管テレビや廃冷蔵庫、破れた布団などの粗大ゴミはあちこちに転がっているが、傘らしきものは落ちていなかった。

 遊園地のコーヒーカップといえば、内臓がでんぐり返るほどよく回るが、ここのカップは止まっていた。長年放置されているのか、どのカップも茶色い水垢で汚れ、底部は苔に覆われていた。汚いうえに、壊れて欠けたカップ群は回転する素振りさえ感じられなかった。

 それらの動かない遊具には人が座っていた。中年から初老にかけての女性達で、皆一様に太っていた。しかも全裸だった。とくに何かをしているようなことはなく、ただのけぞるようにだらしなく座っている。そのうちの一人がゆっくりと立ち上がり、のそのそと降りてきた。皮がたるんで境界線のなくなった醜い裸体が、明日菜の前に立ちはだかった。そして遊園地を案内してやるからついてくるようにと言った。

 腰の辺りのぶよぶよした肉が、歩くたびに上下に波打っていた。人というより極太のミミズが闊歩しているようで、明日菜は目の前の生き物を見ているのが嫌になった。できればそれの前を歩きたいと思ったが、壁のごとく立ちはだかる肉が邪魔していた。雪は再びみぞれに変わり、空はいよいよ暗くなってきた。遊園地にいるのに少女の心が浮き立つことはなかった。

 ほら、いっぱい並んでいるだろう、とミミズ女が指差した。たしかに大勢が一列に並んでいた。全員が男性で、頭の禿げた年寄りから幼顔の少年まで年齢は様々だった。ミミズ女と同じく全裸で、靴はおろか靴下さえもなかった。明日菜は女に促されるまま、男たちが列を成しているジェットコースター乗り場にやってきた。よほど寒いのか、男たちは濡れた痩せ犬のようにガタガタと震えていた。

 わたしをみりゃあ、元気いっぱい、すぐにおったつさあ。ミミズ女は自らの手で胸を鷲づかみにしたり、ことさら陰部を強調するような仕草で男たちの前を歩き出した。

 必殺の淫乱ポーズが長蛇の列を舐め回してゆく。みぞれで濡れる熟れすぎたミミズ肌に、男たちの視線が注がれた。ミミズ女は、それきたとばかりに乳首をつまんだり股間を手で拡げたりした。容赦のない悩殺ポーズに男達の股間が反応し、寒空に抗うようにいっせいに屹立した。肉がだぶついた醜い顔をにっこりと微笑ませ、ミミズ女は得意げに腰を振った。男たちの表情は虚ろで悲壮感あふれるものだったが、欲情は治まることを知らなかった。

 ジェットコースター発着小屋の屋根に設置されたパトランプが回りだした。ミミズ女がストリップを続ける中、男たちの行列がノロノロと進み始める。みぞれは大きな雪粒となって、強い風と共に斜から吹き付けてきた。寒さは男たちの体の芯まで蝕んだ。骸骨みたいにひどく痩せた老人が、涙を流しながら激しく咳込んでいた。小さな背を丸めて咳を吐き出すたびに、勢いで上下する顔面が、年不相応に猛ったモノにぶつかりそうになった。老人はゲホゲホ喘ぎながら、それを手で除けるようにしていた。

 左耳にいかがわしい形のピアスをつけた茶髪の若者が、列から離れて明日菜に近づいてきた。ガタガタと震えているが、やはり陰茎はどうしようもなく猛っていた。あいつが誘ってきたからやった、あれは強姦なんかじゃないと拙い言葉で訴えた。うるさい奴だなあ、と少女は思った。ミミズ女が若者を怒鳴りつけると、彼の陰茎を掴んで列へ引っぱっていった。

 ジェットコースターが待機していた。座席はなく安全バーもなかった。余計なものがほとんどないシンプルな構造で、背もたれになる薄っぺらな板があるだけだ。じつに重い足取りで男たちは乗り始めた。各人がそれぞれの場所に収まり、簡素な車両の目だった付属物である長板の前に立った。強力な遠心力で振り落とされないように、彼らは卒塔婆に背中をべったりと密着させ、後ろ手にしっかりと掴んでいた。全裸の男達が性器を屹立させながらきれいに並んだ。彼らの表情は泣いてくしゃくしゃになっているもの、念仏を唱えるもの、無表情で前を見つめるもの、観念して薄ら笑いを浮かべるものなど十人十色だった。もう寒さなど忘れたみたいだ。

 プラットホーム上を、ミミズ女がセクシーな腰つきで歩いた。男達の悪辣な息子が熱心に反応した。面白がって挑発するように、ミミズ女の図太い指が、まだあどけなさの残る少年の穂先を撫で回した。懇願するように瞳から大量の涙が流れ出た。そういえば、こんな可愛げな少年が何人もいたなと明日菜は思った。

 出発だよ、と言うと同時に、ミミズ女はポーズをきめた。右手の平を後頭部にあて左手で腰を掴み、少しばかり前かがみになる非常にエロチックなものだ。  

 これで七千と五十二回目だと、太った中年がつぶやいた。俺は体に肉がたくさんついているから不公平なんだよ、とめそめそしている。いいや俺みたいなガリのほうがかえってきびしいんだ、と隣の痩せ男が言った。すぐ骨にいくからな、と目を瞑った。湿った雪粒を受けるにまかせる表情は、完全に諦めの境地だった。

 サイレンが出発を告げた。美しく発声しているカナリアを踏み潰したら、こんな音を吐き出すのではないか、と思ってしまうような実に苦しげな響きだった。男たちの何人かが嗚咽を漏らし泣いていた。ミミズ女が自らの股間に手をやり勢いよくこすった。とくに泣きべそをかいている若い男に近づき、その手の臭いを嗅がせた。強烈に嫌悪する表情とは裏腹に、彼の陰茎はますます硬直していた。

 車両がゆっくりと動き始めた。ホームに立つ明日菜に、冷たい風がさらっと当たる。最後尾の丸顔の男が両目をきつく瞑りながら、ひたすら念仏を唱えていた。ガチャガチャと打ち付けるような振動と共に、彼らは坂道を登ってゆく。ミミズ女がひどい臭いの屁を何発かたれた。少女は少しだけ距離を置いた。

 ジェットコースターは頂点まで登りつめた。湿った雪が降りつづく灰色の空に一瞬停止した後、滑るようにして落ちていく。内臓を押しつぶすような重力と迫りくる暴虐に、全裸の男達が一斉に悲鳴をあげた。

 それは湾曲したレール上を、たくさんの男を乗せて疾走していた。ものすごい速さでいくつかの山や谷を越えた。乗客は気が遠くなりそうな重圧に顔が引きつり、迫りくる殺戮の予感に、心の底から絶望していた。

 男たちは凌辱の領域に差しかかろうとしていた。そこには錆びた鉄筋や鉄くずの類が、レールの両側から無秩序に散乱しているのだ。しかもレールの土台となっているトラス構造の骨組みにしっかりと絡みついているため、少々の衝撃では地上に落ちることはなかった。多数の尖った番線やささくれた鉄くずが、レール上まで突き出している。廃墟に繁茂した雑草が、その邪まな触手をあちこちに伸ばしているようであった。  

 轟音を引きずりながらジェットコースターが通過する。すると男たちの体は、悪意を持った鉄線や鉄くずに否応なしに触れることとなった。太った者も痩せた者も、皆等しく肉がえぐられ骨を叩き折られた。湿り気がある白色の雪粒に鮮やかな朱色が混じり、生臭い臭気が辺りに降り注いだ。とくに外側に直立している者の損傷はひどく、ある者は破れた腹部からとび出した腸が風になびき、さらに後ろの者の顔面をぺたぺたと舐めまわしていた。その気色悪さに歯を食いしばってイヤイヤをした途端に、鉄骨の端が激突した。熟れたトマトを拳でつぶしたごとく顔がなくなり、空に舞う腸も吹き飛んでいった。男たちは、それぞれが目も当られないほどに損傷していた。

車両は円形に一回転するゾーンにさしかかった。レール上に無数の有刺鉄線がばら撒かれていたが、ジェットコースターは躊躇なく進んだ。数十の鉄蜘蛛の巣が絡み合った只中に、突っ込むようなものだった。比較的原形をたもっていた内側のものたちも等しく引き裂かれた。尖った鉄線は柔らかい肉にしつこく絡みつきながら、あらゆる部分をもぎ取っていった。

 ジェットコースターは脱線することなく、アフロヘアーのような鉄線の塊を啓開しながら突き進んだ。血液が詰まった風船を炸裂させたみたいに、血しぶきがばら撒かれた。後には、引き裂かれた肉体の残骸がさらされた。千切れた幾本もの陰茎が、鉄線にぶら下がっているのが見ものだった。寒風にさらされて、だらしなくうなだれる様には以前の覇気が全くなかった。

 車両がプラットホームに戻った時には、血肉がこびり付いた背骨が床に転がり、粉々になった脂肪や毛髪が長板にくっ付いていた。ミミズ女がリズムをとって恥ずかしい踊りをしている。 

 鼻の先っぽに、汚いデキモノを付けた若い男が一人やってきた。ひどく痩せていて、もちろん全裸だった。皮をかぶった華奢な陰茎を、右斜め上に向けていた。男はミミズ女に指示されるがままバケツに水を入れて、それを血肉で汚れた車両にぶっかけていた。寒さがよほど身に堪えているのか、ぶるぶる震えて、時おり立ったまま下痢をしていた。ミミズ女もバケツを持ち、ほいさあほいさあと景気のいい掛け声をかけながら振った。ただし、水はすべて痩せ男にぶっかけられた。冷水を浴びるたびに、痩せ男は縮こまり粗相をした。何度も何度も冷水をかけられ、痩せ男はむせび泣いた。何度も何度もやられる気分はどうだ、とミミズ女が楽しそうに言った。それから執拗に冷水を浴びせられる日々が続いた。

 明日菜は退屈で仕方がない。もうそろそろ雪が止んでいいのではないかと思った。するとミミズ女が、もういい飽きたと言った。痩せ男がノロノロとホームを去ろうとするが、ミミズ女が口笛を鳴らして呼び止めた。男の汚い鼻頭をつまんで、きれいになった車両に乗せた。例の陰鬱なサイレンが鳴り、ジェットコースターが灰色の空へと登っていった。二人で見送った後、面白い乗り物があるからついてこいと言った。明日菜は彼女に従うかどうか迷っていた。



「親方」


 親方を呼びに来る小間使いは、城の石段の隙間に生える雑草取りの息子だ。少しばかり頭の中身が足りなくて、言いつけられた事柄の一つしか覚えることができない。だから親方は、その小間使いがやってきたら城に行かなければならないと理解する。細かい要件を聞いたところで彼は答えることができない。戸口に小間使いが立って拙い文句を並べたら、出かける支度をしなければならないのだ。 

 親方は大勢から尊敬されていた。職人としての完璧さと想像力豊かな趣向は、彼にしかできない至極の技であると認められていた。ほとんど見えない神経を一本一本剥離する緻密さは、その目的がどうであれ、広く民衆に知られていた。親方は賞賛されることはあれ、同業者からの羨望と妬みをかうことはなかった。その圧倒的な技量は人智を超えたものとみなされ、誰の追随も許さなかったからだ。また大抵の者は、その突きぬけた能力の虜になることを極度に恐れた。信心深い者はとくに、死神よりも忌避すべき存在として、アスナンという名すらさえ口にすることを避けた。 

 仕事道具を現場に預けておくのは、ひどく横着なことであり、職人としての資質に欠けることだと親方は確信していた。だから毎夜入念に手入れをされたそれらは、家の中の常に目の届くところに置かれていた。仕事の時は、それをノッポの小間使いが荷車で運ぶのだ。城への道すがら、たまに行き交う人々がうやうやしく声をかける。親方は軽くうなずくだけだ。ごくたまに、事情を知らぬ無垢な子供が荷車に整然と並べられた道具に手をのばし、親が目を離したすきに触ってしまうことがあった。親方は一瞥をくれるだけでとくに叱ることもしないが、それを知った親のほうが大変だった。親方に余計な疑念を抱かせないよう瞬間的に、しかし強烈に子供を叱るのだ。そして必ずと言っていいほど教会に連れてゆき、神の許しを請うのだった。

 王が親方に会うことはなかったが、その意思は忠実な臣下により明確に伝えられていた。考えうる限りの技巧を凝らし激烈な痛みを与え、責め苦の果てに絶命させよというものだ。こと親方に依頼される仕事に限り、例外はなかった。だから地下の牢獄には、鉄の器具、高熱の炉、鍛冶道具、手枷と鎖、一瞬エロチックな妄想をかきたてる木製の椅子など、拷問に必要な様々なものが用意されていた。それらは長年の経験から鍛錬された逸材ばかりだったが、親方はさらなる改良を加えて、極限の苦痛を抉り出すものへと進化させていた。その技術は、もはや地獄の地平に達するものだと評価されていた。彼の仕事を目撃した者は、たとえ職務といえども、そこにいなければならない宿命を心の底から呪った。牢番はとうの昔に正気を失っている。そこへ続く回廊を歩いているだけで発狂してしまう者さえいた。

 親方には、相手を憎いだとか恨んでいるとかいう感情はなかった。ただ命ぜられる仕事を忠実にこなすだけだ。自らの技術に誇りをもって職務を全うするのが、誠実に生きる秘訣だと確信していた。だから対象が凶悪な罪人、敵の捕虜、婦女子や子供でも分け隔てなく平等に対処した。  

 つい先日まで顔見知りだった者達が送られてくることもあった。謀略が露見し、侍従たちが捕まったのだ。二度と馬鹿げた反乱が起きぬよう見せしめとするため、王は綿密にしかも徹底的に痛めつけよと命じた。親方に解体されてゆく様を記録するため絵描きも呼ばれた。逆らえばどういう運命を辿るか、後で民衆に知らしめるのだ。 

親方の繊細な指がやわらかな部分を切り裂くたびに、年端もいかぬ女の子の呻吟が滴り落ちた。親方の手にかかった生娘を見れば、拷問を命じた王でさえも後悔するだろう。痛みの大渦に巻かれながら、幼い魂は一刻も早い死を切実に求めていた。死にたくとも死ねない業を呪い、この世のありとあらゆる事象を呪った。自らの妻子を惨殺される様を見せられた男は、神に救いを求めなかった。ただ親方の名を叫び続けた。アスナン、アスナン、と死ぬまで叫び続けた。



「赤いトラクター」 

 

 広大な大地は程よく耕かされていて、日光に暖められた肥えた黒土から、ほのかに香ばしい匂いが昇っていた。雲雀がよほどの高さまで舞い上がって、絶叫に近い鳴き声を容赦なく振り落している。耕作地の終わりはあまりにも遠くて、その地平を見ることはできない。はるか向こうに聳える山脈の麓に終わりがあるのだろうと想像するが、はたしてそこに凛とした境界線が存在しているのかはわからなかった。

 カーキー色の作業着をきた男がトラクターから降りてきた。トラクターは農作業などに使用されたことがないと思えるほどきれいで、真っ赤な塗装が黒い畑によく映えていた。男の下腹は妊婦のように丸く、ベルトと作業ズボンがはち切れるばかりに膨らんでいる。股間のチャックが半分ほど開いていることを知っているが、男は気にしていない。何度直しても、必ず半分は開いてしまうからだ。汚れひとつないゴム長靴も、まるでエナメル靴のように艶々としていた。デザインは年寄りが好むような古臭いものだ。

 土の具合がよくないと作業着の男が言った。明日菜にはとてもよく肥えた畑に見えるのだが、いいやこの土壌はアルカリ性が強いんだと、少女の気持ちを見透かしたように言った。二人は運転席に戻った。血の雨が降る前に耕さなければならないと、ハンドルを右に左に回しながら男が呟く。明日菜は、彼の肩に手を置いて後ろを見た。トラクターの後部には、土を耕すための機具が連結されていた。鉄さびの浮いた骨組みに両手を後ろ手に縛られた裸の男女が、うつ伏せに固定さていた。それぞれの背中の上に器具のアームが伸びていて、その末端が各人の後頭部に取り付けられていた。それらは常に顔を地面に押し付けておくための機構だ。しかもアームには上下左右に振動する機能がついているので、顔で土を耕すことができるのだ。

 作業着の男がトラクターのエンジンを切って再び畑に降りた。後ろにまわって、器具と本体を繋ぐボルト類を外す。耕耘機具に組み込まれた男女が左右同士お互いの顔を見た。終わったのかとの安堵の表情を浮かべている。続いてアームの連結部の留金が外された。桎梏から解放された五人の男女は、あたりを気にするように立ち上がると、腹の中に溜まった黒土を力いっぱい吐き出した。あまりにも多くの土を耕し続けていたため、吐き出す量も相当なものだった。嘔吐は、あきれるほど長く続いた。作業着の男は五人が落ち着くのをじっと待っていた。明日菜はトラクターに乗ったままである。

 黒土の畑は突如としてなくなり、岩や瓦礫の大地が果てしなく続いていた。はるか向こうに雪を頂いた山脈がみえる。作業着の男は、空の缶コーヒーを配りながら休憩すると言った。煙草がほしい奴はいるかと聞くと、茶髪で切れ目の女が手をあげた。フィルターなしの両切り煙草を一本彼女の口にくわえさせて火をつけた。ライターの炎は煙草に移ることはなく、茶髪女の鼻を焼き続けた。

 人を騙し続けたおまえ達のことだから、この荒れ地を耕すのは簡単だろうと作業着の男は言った。五人は大きくかぶりを振った。小太りの女はキンキンと金切り声をあげて、その無茶な発言を非難した。自分にはそのようなことは無理であると、物理的に不可能な理由を筋道たてて話し続ける男は必死だった。おまえバカだろうと、チンピラが露骨な言葉で愚弄した。五人全員が激しく拒絶していた。

 いっぷくしたからそろそろやるか、と作業着の男が腰をあげた。無理だ無理だと、五人の男女があたふたする。ほらと作業着の男が指さした。いつの間にか彼らの背後に置かれた物体を見て、五人はどうしようもなく絶望した。そこには真っ赤に塗装された巨大な機械があった。五つの大きな皿が据えつけられているのが特徴的だった。巨大な耕耘装置に上向きに設置されたそれらは、回転することが明白だ。

 試してみるから乗れと言われた五人は、あらゆる悪態を投げつけながらも皿の上に乗った。そして、鋼鉄製のチェーンで手と胴体をしっかりと固定される。皿のようなテーブルは、人の背丈より二回りくらい小さかった。固定された五人の男女の誰もが頭と足が出ていた。作業着の男が、その器機をトラクターの後ろに取り付けた。運転席にいる明日菜に向かってエンジンをかけろと言ったが、少女は立ったまま何もしなかった。溜息交じりにやってきて、キーを回せばいいだけだよと言って、自らキーを回した。五人を乗せた五つのテーブルが回りだした。まだまだ低回転だと作業着の男は呟いた。  

 五人の男女は、目が廻る吐きそうだ死んじまうと喚いていた。明日菜は、その物言いはふてぶてしいと感じた。助けて助けてと悲鳴混じりの金切り声が不快でたまらない。真っ赤なトラクターは、礫岩が露出した荒れ地をしっかりと踏みしめていた。土がよくないと運転手が言った。慣れた手さばきでレバーを入れてからアクセルを踏み込んだ。

 水平に回転していたテーブルが、ゆっくりと傾き始めた。横回転から縦回転に変わり地面へと降りていく。五人の男女は、迫りくる大地の匂いを回転しながら嗅いでいた。止めろ止めろと精いっぱいの抗議をするが、その回る声は空気に拡散されて断片も残らない。なるべく地面に接しないように首をすぼめたりつま先を折ったりしたが、せいぜい数センチしか縮まらない。

 降ってくるな、と運転手が言った。明日菜は窓ガラス越しに空を見上げた。濃い朱色に染まった肉厚の空が、重く圧し掛かろうとしていた。

 耕耘機が大地にぶつかる。振動が真っ赤なトラクターを震わせた。砕かれた五人の頭蓋骨と足の破片が、四方八方に飛び散っていた。運転席を囲む後ろのガラスが汚くなった。コツコツとガラスを叩くのは五人の砕けた骨だろう。運転手は、今度の奴らはあまり良くないと不満顔だ。気合の入れ方が足りないんだ、と愚痴をこぼし作業を中断した。そして明日菜に見てくるように言った。

 血の雨はまだ降っていないが、空は今にも泣きだしそうだった。耕耘機の一部となっている五人の男女は泣き叫んでいた。お願いだから止めないでくれと懇願した。礫岩に削られた肉体は、トラクターが止まるたびに元通りになることを明日菜は知っていた。目が回っても頭が砕かれても死ねない。死にたい、死にたいと金切り声が言った。別の女が何か言おうとした時、耕耘機が動き出した。男女を乗せたテーブルが回り始め、徐々に傾きを深くしながら回転数を上げた。バチバチと大きな音が鳴り、数回転で五人の男女が砕かれたが、岩場はほとんどけずれていなかった。この広大な大地を耕すには相当な期間が必要となるだろう。そういえば、遥か遠くの山脈も畑にするのだと明日菜は思い出した。あと数千年はトラクターに乗らなければならないと、うんざりしてしまった。



「刑場」

   

 刃受け用の砂の準備をするのが小僧の役目だ。藁では柔らかすぎて、切った後の踏ん張りが効かないし、材木では固すぎて刃が欠けたり、噛んで抜けなくなってしまう。粒の細かい川砂が、振り落される鋭い鋼を丁度よく受け止めてくれるのだ。

 小僧は血で汚れた砂を、刑場近くを流れる小川で洗う。木桶に砂をすくい入れ、何度も往復する。湿った砂でいっぱいの木桶は子供にはよほど重いが、小さな身体にそれこそ渾身の力を込めて運ぶ。そこは川岸が抉れた溜まりになっているので、砂を入れても流れてしまうことはない。優しく揉むように洗うと、汚れだけが精麗な清水にほんわかと溶け出して、重荷をおろした砂がゆっくりと沈んでいく。穢れた色水は、穏やかに渦巻く水流に押し出されて、綺麗な水と入れ替わるのだ。

 小僧は捨て子だった。無縁墓地に転がっていた赤子を、刑場の小間使いのじいさんが拾ってきた。夜鷹か世捨て人が、邪魔になったわが子を狼や猪の餌にでもする気で捨てたのだろう。片方の耳の半分が、ネズミか何かに食いちぎられていた。そんな状態で泣いていなかったのは、すでに息絶える寸前だったからだ。気配だけで見つけられたのは幸いだったし、野良犬の乳で生きながらえたのは奇跡だった。小僧が刑場の野山を走り回れる年になると、じいさんは逃げようとした囚人に叩き殺されてしまった。以後、小僧は刑場の後始末を継ぐこととなった。穢れに満ち満ちた仕事だった。

 山奥に隠された刑場は、実際の罪人よりも、無理矢理罪人とされた人間のほうがより多く送られてきた。男女の区別も年齢の差も気にされなかった。その地の領主の癪に障る者は、問答無用で殺さることになった。しかも処刑方法には独特の流儀が存在し、それは永らく継承されていた。  

 同田貫は小川の流れの中に落ちていた。川上で落ち武者狩りがあったことがあり、その時に遺棄されたものだろうと思われた。錆びて刃こぼれしていたが、刃を研げば使い物になるのではないかと小僧は考えた。飾り気のない剛刀に魅せられて、彼はたちまち虜になった。毎日飽きることなく磨き、小さな身体で振り下ろし続けた。刑場の小役人は、そんなもの拾ってきてどうするんだ、縁起が悪いし餓鬼が長寸の刀など十年早いとあざ笑ったが、小僧は全く気にしなかった。   

 牢の中はあきれるほど不潔なのに、人とそれ以外の生き物がたくさん押し込まれていた。吸血虫が肌に刺さりネズミが生き肉を齧る牢獄で、捕えられた者たちは糞尿を垂れ流しながら順番を待つのだった。自分の番になると人知れず首を切り落とされるか、磔になって肺腑をえぐられるか、最悪は刀の試し切りに供されるかだった。

 十年余りがたった。小僧だった男は青年となり、ようやく名を呼ばれるようになった。砂五郎とか 砂法師とか、その時々によって枕詞のように砂がついた。長い間、試し切り用の砂を磨き続けたからだ。

 刑場に送られてくる真正の罪人は、いよいよ少なくなった。大抵が領主に敵対して破れるか、逆らって捕えられた者だ。だから農民よりも豪族出身者が多くなり、当然女子供も巻き添えを食った。

 磔が多かったのは、死骸の始末が容易だからだ。斬首は首の始末が結構面倒なのだ。相変わらず、刀の試し切りも行われていた。これは、とくに領主の恨みをかった者と、その一族が対象となった。見せしめの意味合いを含んでいたが、刑場の関係者以外いない山奥では、それほど効果はなかったであろう。

 試し切りは両手両足を縛り、それぞれを逆の方向へ引っ張って身体を一直線にする。そして、凛と伸びきった腹のあたりに刀を振り下ろすのだ。熟達の者がやっても、きれいに切断されることは稀だった。固い魚の頭をおろすように、何度も叩きつけるのが常だった。強固な背骨によって跳ね返されるため、台座となる砂の上は、血と肉の破片と洩れ出た髄液でひどく汚れた。後始末に駆りだされる下人は、磔や打ち首のほうがなんぼ楽かと、愚痴を言う日々だった。

 たくましく成長した砂男は、あの同田貫を体の一部として使いこなせるようになっていた。太い人間の胴体を、それこそ一刀両断のもとに叩き切ることができた。砂にめり込む際の刀刃の音が違うと、刑場の者達は感心した。屍骸を片付ける下人たちにも、無遠慮に散らかされた物を、かき集めなくてよい分だけ楽になったと好評だった。

 罪人も罪人でない者も、女も子供も砂男の剛刀によって真っ二つにされた。領主の命により、いつの頃からか磔も斬首もされなくなってしまった。領地は荒れつづけたが、領主が存在する限り処刑は終わらなかった。狂った領主による暗黒の日々が永らく続いた。刑場には、砂と呼ばれる男しかいなくなった。皆逃げ出してしまったのだ。昨日も今日も、同田貫は振り下ろされた。刃受け用の砂は、とうの昔に洗われなくなってしまった。



「肉体の不思議展」    


 巨大なドームの中で、肉体の不思議展が開催されていた。ドームの入り口前にはたくさんの客が集まり、食い物屋の屋台もいくつか商売をしていた。串に刺した生肉を立ち食いしたり、おしゃべりをしたり、誰もが楽しそうだった。

 明日菜は会場に入るために、発券機で入場券を買おうとした。だが、銭を持っていないことに気づいて立ちつくしていた。後ろに並んでいた蛇女がポケットの中にあるだろうと言った。明日菜はポケットをまさぐろうとしたが、少女が着ている服にはポケットがなかった。手に持っているだろう指摘されて指を開いてみた。耳があった。半分ほど齧りとられた幼い耳だった。受付の外科医に手渡そうとするが、彼は受け取りを拒絶した。血まみれの手を面倒臭そうに振って入場をうながした。

 どこからか薄汚い物乞いがやってきて、それをくれと言った。少女の前に跪き、頭を地面に額をこすりつけて泣きながら空腹を訴えるのだ。すると、すぐさま赤パンツ一枚のレスラーたちが彼を掴んで立たせた。外科医がやってきて、乞食の咽仏にメスを入れて引き下ろした。何度か引っかかったが、メスは咽元から腹までを縦に切り裂いた。腹腔の圧力で腸がとび出してしまい、下腹部付近にトグロを巻いていた。医者は、大きな裂け目に手を突っ込んで手術を始めた。その手つきは誰が見ても危なっかしくて、素人のように下手糞だった。臓物が雑に切り取られる度に叫び声が響いた。地面にできた血溜まりは、乾ききった土に吸収されることなく膨らんでいった。

受付が滞ったために列が長くなってきた。明日菜は耳をポケットの中へ入れようとしたが、ポケットがないことを思い出した。仕方なく握ったまま入場することにした。なんとなく邪魔に感じ、物乞いにあげてしまえばよかったと悔やんだ。

 展示場内はひどく混んでいたが、どうにか最初のブースまでくることができた。巨乳のコンパニオンが、ちょうど初老の男の頭蓋骨をとり外しているところだった。ただでさえ不細工な顔をいやらしく微笑ませ、千枚通しの先で露出した脳を突いていた。男の手が唐突に上がったと思うと、両方の目玉があらぬ方を向いたり、いきなり嘔吐したりした。おお、これは不思議だ不思議だと、観客がやんやと歓声をあげていた。

 脳を弄り回されている男を、明日菜は知っていた。石積みの赤い牢獄で責め殺したことを、しっかりと記憶していた。男には同じ年の妻がいた。年をとっても美しく気品があって、初めてふれた時は首筋から百合のいい香りがした。 

 親方に下された命令は、嬲り殺される妻の姿を存分に見せよ、というものだった。それが絶対的な権力者を裏切ろうとした者への罰だった。背信行為の大まかな経緯を親方は承知していたが、だからといって仕事に特別な処置を加えることなどなかった。いつものように、よく鍛錬された技量を当たり前に発揮するだけだった。血で汚れてもいいように、親方は鱈の皮を貼りあわせた前掛けを身に着けるようにしていた。拷問される者は、まず初めに親方の汗と、ほんのりとした磯臭さを感じる。すぐにそんなどうでもよくなるし、そして二度とその臭いを嗅ぐことがないのが、親方の手にかかる者の唯一の幸運だった。

 恐怖で固くこわばった夫人の顔の皮を、慣れた手つきで刻んだ。生皮を剥がし、劇薬をすり込むまでを、ゆっくりとやるのが効果的だ。絶叫は拷問を受けている妻よりも、それを間近で食い入るように見つめる、かつて王の一番の側近だった男から先に発せられた。続いて妻の断末魔をかき消すようにすさまじい怨嗟の言葉が発せられたが、それも目前であらぬ姿に変えられていく女を見せられているうちに、泣きながらの懇願に変わった。もちろん、明日菜は手を止めなかった。罵詈雑言や泣き落としに心を乱されるなどなかった。王にまで畏怖される気高き職人なのだ。そんなことはあり得なかった。

 巨乳が男の脳を突っつき続けている。だが単調な見世物は客の興味を失わせてしまう。みんなが飽きたころ合いを見計らって、コンパニオンは脳の頂点に千枚通しを深く突き刺した。男は少し痙攣しながら鼻血を垂らした。博識と品位を兼ねそなえた名士が、白目むいて鼻を垂らしている姿は滑稽だった。明日菜は、あのいい匂いのする夫人はどこにいるのだろうと見回した。すると少し後ろのほうに倒れていた。床に血だまりがあって、傍らに抉り取られた脳が放置されていた。無知な人民をさんざん扇動し、多くを無残な死に追いやった夫婦にはふさわしい姿だなと、少女は思った。

 次にどのブースに行くべきかを、明日菜は決めらなかった。混雑で身動きが取れなくなっていたのだ。ただ波に身をまかせて、あっちにこっちに流されていた。押し出されるように行き着いたのが、痩せた中年の女がいるブースだった。女は河原に打ち捨てられた病気の馬みたいに床に横たわり、肩でか細く息をしている。明日菜には、やはり見覚えがあった。刑場の飯炊き女だ。こいつは性根が悪く、おまけに手癖も悪かった。よく賄い飯までくすねていたので、たくあんと実のないみそ汁だけの朝飯が続くことが多かった。なんにしても手癖の悪さは天下一品で、常人では考えられないことを平気でやるのだ。

 特におぞましかったのは、死骸から臓物を引き抜いてカラカラになるまで干して、それを万能の薬と称して売っていたことだ。その効用はほぼ迷信の範疇なのだが、それがまたよく効くと、たいそう評判になって売れに売れた。この女が卑劣でえげつないのは、まだ息のある罪人から抉り出したことだ。ごくたまに磔になった者のなかに、急所をはずれて息のある罪人が埋められることがある。彼女には、せめて止めを刺してからという考えはなかった。出刃と壺をもって、女は穴へと身を沈めた。そして腹を裂いて臓物を引きずりだした。かっと目を見開いてすがり付く罪人の顔を押しのけて、嬉々としてほじくり出した。屍骸を始末する下人は見て見ぬふりをした。僅かばかりの銭をもらっていたのと、月夜に照らされた殺戮の光景があまりにも恐ろしくて、とても口に出すことができないのだった。人の為せる仕業ではなく、まさしく鬼畜の所業と言ってもよかった。

 その飯炊き女が目の前に倒れている。なにやってんだ早くやれと、客が騒ぎ始めた。子どもの鬼が女を立たせて、ボロ布のような服をひん剥いた。そして、首の下からヘソまでの皮膚を四角く切って皮を剥がした。肋骨と内臓が露わになった。ずり落ちてこないように何がしかの仕掛けがしてあるはずだが、明日菜にはわからなかった。赤黒いこぶし大の臓器がドクンドクンと脈打っている。一人の客が近づき、心臓の筋肉をニッパーで軽く切り裂くと、黒い血がこれでもかというほど流れ出てきた。その痛みは死をも超えているのだろう。飯炊き女が、人とは思えぬ奇声でギャーギャー喚き散らした。絶叫するたびに、まるで心臓の中で爆弾が爆発したように血が噴き出した。

 けたたましく銅鑼が鳴ると、さらに客が寄ってきた。めいめいが手にしたニッパーやペンチで、胃壁を切り裂いたり腸をつまみ潰したりした。女の身体は、不可侵な部位を凌辱されるたびに跳ね上がった。かつて自分がやったことと同じ境遇を、月が陽の光を浴びて擦り減るまで味わうのだ。血まみれの工具を手にしながら観衆はもり上がっていた。おう不思議だ、肉体は不思議だなあと満足していた。

 集団の波は、右に左に揺れながらどんどん移動していた。たくさんの客が集っているブースでは、人が生きたまま解剖されたり捌かれたりしていた。彼らは次回の展示会で再び同じことをされる。泣こうが叫ぼうが、人間の不思議をみせる展示品として、果てしなく引き裂かれるのだ。  

 明日菜は奥へ奥へと押されていった。展示品が顔見知りばかりで、あまりいい気がしない。足首に何かが絡みついて転びそうになった。誰かの手が足首を掴もうとしているのだが、彼は気にしないようにした。靴の中が、砂でジャリジャリとするのを嫌がっていた。額に巨大な角を生やした少年から同田貫を手渡された。使い慣れたはずの日本刀が、ひどく重くて持っていられなかった。明日菜は誰かに刀を預けようとしたが、いつの間にか客がほとんどいなくなっていた。どこからか嫌な臭いがする。同田貫を鞘から抜くと、ぷんと腐敗臭がしたので、明日菜は仕方なく刀を捨てて歩き出した。

 初老の夫婦が椅子に座っているブースへやってきた。そこは人気がないらしく、客は誰もいなく静かだった。親方は夫婦と対峙する位置に立った。夫の濃い青色の瞳が、まっすぐ我が子を見つめていた。鋭く重たい視線が、彼の人生の苦労を訴えている。

 なぜ俺たちまで落とされるのか、と明日菜に尋ねた。夫人は皺がよった目じりを震わせて、一粒ずつ涙を流した。なにかを言おうとして思いとどまり、再び口を開きかけたが、結局黙ってうつむいた。夫が気遣うように妻の肩を抱く。父に寄りかかる母の身体が、とても華奢であることに気づいた。彼が夫人の手を握ろうとして、一歩足を踏み出そうとした。すると工事現場のヘルメットを被った警備員がやってきて、ダメだダメだ、展示品に手を触れてはダメだと楽しそうに注意した。太った警備員は汗だくになりながら赤い警棒を振っている。ピーピー笛を吹きながら、何人たりともブース内に侵入しないように目を光らせていた。

 夫人がいつも泣いているのを明日菜は知っていた。ずっと泣き続けなければならないのは気の毒だが、もう自分とは関係ないのだ。とうの昔に縁は切っているのだと言い聞かせた。



「落ちてゆく」


 大人が四六時中付き添ってあげなければ子どもは旅をできない、というのは間違いだ。少なくとも、明日菜は指示したり助けたりはしていない。あとをついてくる子どもたちは、年長でも十歳を少し超える程度で、ほとんどがあどけない顔の児童ばかりだった。掛け声をかけあったり歌で気持ちを盛り上げて、底なしの闇に沈んでしまいそうな足取りに活力を与えていた。

 どの子ども怪我をしていた。傷が足に集中しているのは、鉄屑の山を越えたのと、灼熱の地面を素足で歩いたからだ。子ども達に靴を履くことを許されていない。とくに年長者の少年と少女は怪我の度合いがひどくて、えぐれた肉の向こうに骨が見えた。火傷が化膿して不気味な色の水膨れが、ふくらはぎから太ももまで、ブツブツとたくさんできていた。歩くたびにそれが破れて膿汁がこぼれる。どれほどの痛みを耐えているのだろうか。だが年長者は気丈にもそんなそぶりを見せない。逆に小さな子どもたちの一人一人を気遣って、なるべく目を離さないようにしていた。 

 明日菜が引率する子ども達は、どれくらいの数になるかはわからない。随分と長い間、いくつもの険しい山を越え、気の遠くなりそうな深い谷の底を、這いずりまわるように進んでいた。食べるものはないし飲める水もなかった。子ども達は、なぜ自分たちが落とされたのかを知らない。ただ、どことなく運命なのだろうと承知していた。自分たちがどこに向かっているのかもわからない。感じられるのは不安と疲労ばかりで、生きているのか死んでいるのか、思い当たってみることもなかった。時おり確固とした痛みを経験すると、ああ、この地を歩いているんだなと、幼いながらに思うだけだった。 

 厚く波打ちながらたれ込める黒色の雲から、稲妻の閃光が方々に落ちていた。いびつに尖った山脈が真っ赤な溶岩を吹き出し、暗く汚れた空を紅く着色した。硫黄臭い空気が、渦を巻きながらなだれ落ちてくる。まともに吸い込むと咽喉が爛れてしまうので、年長者が襤褸切れで口を覆うように言っていた。

 子ども達が岩だらけの乾ききった大地を歩いていると、鬼や悪魔がぞろぞろと集まってきた。刺だらけの巨大な棍棒を持った鬼が、辺りに転がっている石を砕いていた。地面をできるだけ均して、歩きやすいように道を造っている。背中に邪悪な翼を生やした悪魔の群れが、子ども達の列の両側にたかってきた。石などに躓いて転んでしまっても、傷つかないように支えようとしているのだ。

 生の目玉や臓物を両手に抱えた悪魔がうろうろしていた。血が滴るそれらをあげようとするが、彼の唯一で貴重な食べ物に対して、子ども達は気味悪がって身を捩るだけだった。それでも手渡そうと試みるが、別の悪魔がその手を遮った。静かに首を振る同僚に何事かを言ったが、すぐに諦めてメソメソと泣きだした。同じことをしようとしていた者が、その様子を見て声もなくうなだれた。暴虐の極地で鍛えられた者達も、この子ども達には無力であることを思い知っていた。

 底知れぬ暗闇がはるか遠くに存在している。毛むくじゃらの大鬼がやってきて、引率者に、あそこに行ってはいけないと言った。ひどく怒っていて、何があってもあそこに落ちるべきではないと、千の理由を口にした。無限の理由があるうちの千を聞いたところで歩みは止まらない。明日菜の業に停滞や拒絶は許されていないのだ。

 大鬼は必死だった。威嚇するように棍棒を振りあげたり、その毛だらけの野太い脚で地面を何度も蹴ったりした。だが、彼は暴力に訴える気などなかった。最後は泣きつくように懇願し始めた。この子たちを連れて行くのはやめてくれ、ここで十分痛めつけられているではないかと、力の限り訴えた。地獄の地平を知るものの苦悶はとても息苦しく、その心情を、そこにいるすべての番人たちが共有していた。

 明日菜は心の内側を表情に露わさなかったが、その実際は地獄の番人たちと同じ思いだった。無垢な魂たちを、これより下へ連れて行きたくはなかった。純粋で穢れを知らぬ幼い者達を、なぜあのような地へ落とさなければならないのかわからなかった。慈しみを受けこそすれ、罰せられることなど微塵もないのだ。 

 小さな男の子が転んでしまい、うずくまったまま立とうとしない。足の裏の火傷が痛いのだろう。再び地に足を置くことを恐れている。年長者の一人が、自分の身にまとった僅かな襤褸切れを破って、転んだ子の足に巻きつけようとした。靴下代わりになれば、痛みも和らぐと考えたのだ。しかし、男の子はその襤褸切れを見るなり立ち上がった。そして礼を言ってからそれを受け取り、後ろを歩いているより幼い女の子の、やけどをした手の平に巻きつけた。痩せた青鬼が一匹近寄ってきて、脂からとった軟膏を塗ってやろうとするが、男の子は丁重に断った。痛みはその小さな魂をズタズタに引き裂いているはずなのに、健気にも気高くふるまうのだった。

 明日菜は、この旅のやり切れなさに胸が張り裂けそうだった。清い子ども達を、まったく救いのないところへ連れていかなければならない。絶望ですら希望に思えるほどの深淵に落とされる。そこでは後悔する余裕など許されない。あまりにも酷いことが絶え間なく永久に連続するために、最悪のなんたるかを考えることができないのだ。

 もう無理だ、勘弁してくれと声に出さずに吠えた。俺に課せられた宿命は重すぎる。たしかに幾つもの生涯で、俺は多くの者を切り裂いてきた。なにが正義なのかを考えることなく、命じられるままに自らの技術に溺れ続けてきた。しかし、それも遠い遠い過去の出来事だ。もはや思い出せる人生は一つか二つしかない。それさえもおぼろげで、まるで夢の微睡みの中で、さらに夢を見ているようだ。もし俺の生涯が罪というならば、ここで存分に痛めつけるがいい。神経の一本一本をほじくっても足りないのなら、俺が手を下した痛みをすべて与えるがいい。心ゆくまで肉を引き裂き、骨を砕いて臓物をぶちまけるんだ。うんざりするほど俺の悲鳴を聞かせてやる。だから、この子たちを導く役目を俺に負わせるのは止めてくれ。苦しくて死にそうなんだ。すでに俺の正気はなくなっているんだ。  

 子ども達が歌いだした。その牧歌的な歌声は、周囲に集まった番人たちをむせび泣かせた。ある者は天に拳をあげて怒号を発し、この運命を強いた者を激しく罵った。ほかの番人たちも怨嗟の声をあげるが、魔物たちの慟哭が、あどけない歌声を超えることはなかった。  

 地獄だ地獄だ。金切り声で耳から血が出てくる。

 地獄だ地獄だ。子ども達が落ちてゆく。落ちてゆく。 


                                   おわり

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旅する明日菜 北見崇史 @dvdloto

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