第6話 卒業
理帆はその後も岩本と時々会っていたようだが、告白しないまま年を越した。クリスマスもお正月も特に進展はなかったようで、二人は友達のままらしい。岩本とは冬休み中に時々電話で話していたようだが、詳しくは知らない。
1月になると高3全体が受験モードになり、受験理由の欠席者が出るようになった。私は岩本に会ってじかに理帆への気持ちを確かめたかったが、口を出さずにいた。理帆も岩本もそれどころではないだろうと思ったからだ。私が出る幕はなかった。
2月になって、理帆から意外なことを聞かされた。この頃には数学を教わることはなくなっていたが、理帆とは時々話していた。理帆の母方の親戚がアメリカにおり、理帆はMITに進学することになりそうだという。
理帆の母親はMITの卒業生だったが、理帆の才能がMITに認められたらしい。理帆はアメリカで生まれ、10歳までアメリカで育ち、日本とアメリカの二重国籍だった。国語が弱いのも空気が読めないのもそうした生い立ちが影響していたかもしれない。アメリカでの生活に慣れるために、理帆は高校を卒業後すぐに渡米するというのだ。
岩本はこのことを知っているのだろうか?理帆にきくと話していないという。私にはよくわからなかったが、理帆は数学の専門誌に短い論文を投稿していたらしい。MITが理帆の入学を許可したのはその論文が評価されたからだというのだ。論文は理帆が高校2年のとき数学の先端分野にのめり込んで書いたものだが本人はそのことを忘れていたという。
私は私でいろいろあった。
国立大学の教育学部に合格したのだが、思うところあって入学を辞退したのだ。理由は私なりにあるのだが、ひとつは日本の教育制度に疑問を感じたことにある。親には叱られたが、自分なりに必死に理由を説明して私立大学の理学部への進学を決めた。奨学金とアルバイトで高い私学の学費を自己負担することで納得してもらったのだ。
伊原先生に報告するのはつらかったが、自分の意志で決めたことを先生は褒めてくれた。私は思わず伊原先生の胸に額をつけて泣いてしまった。こっそり資料室に案内してくれて、いろんな資料を見せてくれたのに、先生を裏切ってしまうような結果になってしまった。それが申し訳なくてつらかった。先生は「泣くな。みゆきはそれでいいんだ」と言って、あとは何も言わずにやさしくハグしてくれた。先生のシャツの胸に私の涙のあとが残った。
私は伊原先生のことを一生忘れないだろう。私の初恋の人は伊原先生なのだから。
卒業式の日から1週間後に理帆はひとりで渡米することに決まっていた。
卒業式当日は保護者らで混雑したが、翌日、理帆と話すことができた。
私:「いろいろありがとう。せっかく合格できたのに辞退しちゃって。ごめんね」
理帆:「でも、数学の楽しさがわかったでしょう?」
私:「理帆は変わんないね。で、岩本君にはお別れ言ったの?」
理帆:「うん。合格おめでとうって言って。そのついでに」
私:「ついでに? 理帆らしいね」私は笑った。
理帆:「おかしい? 私との別れより東大合格のほうが大事でしょう?」
私:「そりゃ、そうだけどさ。岩本君は何か言ってた?」
理帆:「特に何も。私が渡米すること知ってたから。元気でねって。それだけ」
理帆はまぶしそうに空を仰いだ。
雲ひとつない青空だった。
理帆の心には一片の雲もないんだろうか?
私:「理帆は岩本君が好きだったんでしょう?」
理帆:「どうかな?美帆に話したら『18歳の初恋おめでとう』って言われたけど」
私:「そうなの?」私はまた笑った。美帆ちゃんが私と同じこと言ったなんて。
理帆:「わからない。でも岩本君には感謝してる。一緒にいて楽しかったから」
私:「それだけ?」
理帆:「私、語彙が足りないね。今の気持ち、なんて言っていいかわからない」
私:「そのうちわかるようになるよ。きっと」
理帆:「そうかな?だといいけど」理帆がちょっとだけ寂しそうに目を落とした。
私:「理帆。元気でね。時々は日本に帰ってくるんでしょ?」
理帆:「わからない。母からは理帆はずっとアメリカにいなさいって言われた」
私:「え? そうなの?」
理帆:「母は、私に日本は合わないって言うの。日本に帰ってこなくていいって」
私:「まさか、そんなこと。それ、ママの冗談よ」
理帆:「私、アメリカ国籍を持っているから」
私:「そうだったんだ」理帆はアメリカ生まれなのを思い出した。
理帆:「私、学校でずっと浮いてたでしょ?自分でもわかってたんだ。ほんとは。
平気じゃなかった。みんなと一緒にお弁当食べたり、おしゃべりもしたかった」
理帆が泣いていた。
理帆の泣いた顔を私は初めて見た。
想像したこともなかった。
私:「そうだったの。早く言って欲しかったな。『みゆきの恩返し』できたのに」
理帆は私に抱きついて声をあげて泣いた。
私の肩のあたりに理帆の熱い涙がしみてきた。
私も泣いていた。
涙があふれて止まらない。
まさかこれが永遠の別れなんてことないよね。
無理して理帆に何か言おうとしたけど何も言えなかった。
私:「また会えるよ。理帆。理帆が帰ってこないなら私が理帆に会いに行くから」
理帆の耳もとで、私はやっとの思いでそう囁いた。
理帆:「ほんとうに?約束だよ。みゆき。きっとだよ」理帆が私の目を見て言った。
理帆は私をやっと呼び捨てで呼んでくれた。やっと理帆に近づけた。嬉しかった。
理帆と私は自然に唇を合わせた。
理帆と私の約束のキスだった。
理帆の唇は柔らかくて甘い匂いがした。
嬉しくてキスしながらまた涙があふれた。
アトが見たらびっくりするだろうな。
キスしながら一瞬だけアトの顔が浮かんだ。
つづく。次回が最終話です。
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