第5話 理帆の初恋

高3の夏休みは8月11日までの3週間が大学受験対策の特別授業日だった。出席は任意だったけれど、クラスの半分以上はどれかの科目に出席していた。私は英語と数学の授業には全部出席したが、他は化学の授業だけに出席した。数学と化学は不得意科目克服のためだったが、英語は先生に会いたかったからだ。


理帆は数学だけでなく英語の授業にも来ていなかったが、国語には出席してたらしい。「らしい」というのは、選択した授業が違うため会う機会がほとんどなかったからだ。理帆は国語がかなり苦手で、漢文はできたが、現代文と古文は惨敗のこともあった。源氏物語や伊勢物語の恋のかけ引きなんて、理帆にとっては関心の埒外だったのだろう。



8月12日から16日までは先生方のお盆休みなんだろう。学校は授業も部活もなかった。だが学校に来て自習してもよいことになっており、私は登校することにした。伊原先生に会いたかったからだ。伊原先生は30代独身の男性教師で、高校の近くのアパートにひとり住まいしていた。自分から当番を買ってでたらしく、お盆休み中も毎日来ていた。



英語担当の伊原先生は職員室に詰めていたが、私は入試問題の英語のポイントを聞きに行ったりしていた。職員室に行く途中廊下を歩いていると意外な光景を見た。理帆が他のクラスの男子生徒と二人で教室で話をしていた。背中しか見えないが理帆にまちがいない。


あれは確か5組の岩本だ。岩本は成績優秀で、不得意科目のない万能の優等生だった。数学と物理だけは理帆にかなわなかったが、その他の科目はすべて理帆より上だった。英語の実力は理帆のほうが上に見えたが、テクニックの差なのか試験では岩本が上のことが多かった。第一志望は東大法学部という噂で、前回模試でも岩本がトップだった。



理帆の顔は見えないが、岩本が笑っている。岩本はスポーツもできて、ハンドボール部のキャプテンだったが、3年の1学期で部活をやめていた。芸術科目は男子では珍しく書道を選択していて、達筆で何度も受賞していた。岩本を知らない生徒はいないはずだ。当然理帆も知っていただろう。岩本は1学期まで生徒会長だったのだから知らないはずがない。


私は1年の時、岩本と同じクラスだったので話したこともある。声も滑舌もよく弁舌もたつ。入学時の自己紹介で将来は政治家になりたいと言っていた。アトリボが綱紀委員になった真の理由は岩本が好きだったからだと私は読んでいた。なぜなら生徒会の会議がある日は、機嫌がすこぶるよい。面倒くさいとかなんとかと言いながら一度も欠席したことがなかった。



さわやかで明るい岩本と無愛想な理帆では、こういってはなんだがミスマッチだった。私はこっそり5組の教室を盗み見した。理帆の声は聞こえないが、岩本に国語を教わっているらしい。岩本のよくとおる声が教室に響いていたが、教室に他の生徒はいなかった。


岩本:「自分で考えるからわからないんだ。理由は、ホラ、ここに書いてある」


理帆が頬に手をあてて首をかしげている。


岩本:「真崎がどう思うかじゃなく、主人公がどう思うか?それが問題なんだから」


理帆がコクコクとうなずいている。



理帆と岩本はいつどこで知り合ったのだろう。クラスが同じだったことはないはずだ。もっとも理帆は自分から話しかけないだけで、話しかければ相手が男子でもまったく臆せずに応じるほうだから、話しかけたのは岩本のほうなんだろう。


「さすがは前生徒会長の岩本」私はこっそり感心した。黙っているときの理帆は「話しかけないでくださいオーラ」が出ていることが多い。おおかた数学か物理の難問でも考えているのだろうが、理帆に話しかけるのは女子でも勇気がいることなのだ。


盗み見していると岩本と目が合った。ヤバイ。だが岩本は気がつかないふりをした。


その日の帰り、まだ陽が高かったが私は岩本と理帆がファミレスにいるのを見た。教室で岩本と目が合ってるし、ガン見するわけにもいかなかったが、こっそり様子をうかがった。岩本と理帆が楽しそうに話していた。理帆が笑っているのに私は驚いた。



岩本と理帆が付き合ってるらしいと噂が立ったのは9月下旬になってからである。噂を流したのは私ではない。私は数学の師匠の理帆に恩義を感じて黙秘していた。ネタ元はおそらく前生徒会メンバーの誰か。私はアトリボではないかとにらんでいる。


噂を立てられていることは知っていたはずだが、理帆はまったく気にしてなかった。


9月になっても私は今までどおり金曜日の放課後に理帆から数学を教わっていた。宿題以外に受験対策用の問題の解き方を教わることもあったが理帆は親切だった。というか最初と態度が変わらなかった。特に親しくもならないが嫌がりもしない。わかるまで説明の仕方を変えて何度でも教えてくれた。面倒臭がることがなかった。


理帆は金曜以外の放課後はまっすぐ帰宅してたと思っていたが、岩本と会っていたようだ。塾が同じだったらしい。たまたまかどうかは知らない。岩本が理帆を誘ったのかもしれない。理帆の様子に変化が現れたのは11月になってからだった。




金曜の放課後、いつものように数学を教わっていたのだが、理帆の様子がおかしい。なんとなくぼんやりしている。目はノートを見ているのだが、話が途切れたりした。


私:「どうしたの? 具合でも悪いの?」

理帆:「え? ああ、なんでもない。どこからだっけ?」

私:「疲れてるみたいね。今日はここまででいいよ。帰ろうか?」

理帆:「そう? じゃ、そうしようかな」


今日アトリボはいない。推薦の内定もらったとかで放課後友達と遊びに行ったのだ。私は岩本との噂には一切触れないようにしていた。師匠に気を遣っていたのである。



珍しく帰り道で理帆のほうから話しかけてきた。


理帆:「みゆきさん。変な質問なんだけど。誰かを好きになったこと。ある?」


理帆は私のほうを見ずにまっすぐ前を向いたまま言った。恥ずかしがってはいなかったが、ちょっとシビアな顔だった。ああ、岩本のことだな。とは思ったが、私は知らないふりをした。


私:「あるよ。そりゃ。女の子なら誰だってあるよ」

理帆:「誰だってある? そうなの?」理帆が目を見開いた。

私:「そうだよ。誰も好きにならない子なんていないよ」


理帆は黙っている。数学の難問を考えてるときと同じ顔だ。


私:「理帆。恋と数学は違うよ?恋は理屈じゃないよ?」


理帆はちょっとびっくりしたのか、立ち止まって大きな目を見開いて私を見た。たぶん理帆は自分の感情を理屈で説明しようとして考えこんでるのだろう。


私:「好きな人ができたら、その人のことを考えてしまう。ふつうのことだよ」


理帆は何も言わずにまた前を向いた。それからしばらく黙って歩いた。


理帆:「そういうとき、どうしたらいい?」理帆は子供みたいな目をして質問した。


私:「告白するか。黙ってその人のことを想い続けるか。ケースバイケースかな」

理帆:「たとえば、どういう場合に告白する? みゆきさんなら」

私:「相手も私のことを想ってくれてる。そう確信できたときかな。ずるいけど」

理帆:「確信?どうやればそれができるの?」

私:「さあ。それができれば楽なんだけど。まあ、態度とか?カマかけるとか?」

理帆:「カマかけるって?」

私:「うーん。相手から告白してくるように持っていくのよ。フンイキとかで」

理帆:「フンイキ?」


理帆はちょっと私の目を見てまた考え込んだ。


私:「ムードだよ。告白しやすいムードをつくるの」


そういう私も恋の経験は少ない。まして理帆には高度すぎるだろう。


『理帆が岩本に恋してる』これはホンモノの『恋わずらいだ』私は思った。


私:「何か私に手伝えることはない?理帆のためならなんでもやるよ?」


数学を合格ラインに引き上げてくれた恩師のためだ。私は本気で言った。


理帆:「なんでも?私、どうすればいいんだろう?」理帆が天を仰いだ。

私:「恩返しならいつでもするよ。みゆきの恩返し。期待していいよ」


ピュアな理帆。私はこのときほど理帆をカワイイと思ったことはなかった。理帆には失礼だが、AIが人間に恋愛感情を持った瞬間に立ち会ったようだ。でも自分で恋だとわかってるからコンピューターと同列扱いは失礼だな。ごめん。理帆。18歳の初恋おめでとう。私はその夜、こっそりつぶやいた。






つづく。

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