第23話 考え方



 朝早く起きてラーメン屋でバイトをして。


 終わったらそのまま杏の家で朝食をとる。


 学校の授業にも少しずつだけど慣れてきた。


 友達とはまだいえないけど、それでもクラスメイトとも仲良くなれた。


 学校が終わると真っ直ぐ家に帰り、早く飯をくれ、と催促する茶々にエサをやる。


 そんな姿を眺めていると、騒々しい台風女が家に遊びに来る。


 許可してないのにベッドに座り、許可してないのに茶々にちゅーるをあげて、一人だけ茶々の機嫌を取ろうとする。


 そのまま彼女はキッチンへ行き、拓斗の夜ご飯を作る。


 杏の家で食べる父親の料理にも引けを取らない美味しさ。


 彼女は料理を作り終えると、茶々の体に顔を埋めて、先程のちゅーるで得た茶々の機嫌を捨てて彼女は帰る準備をする。


 茶々の不満そうな顔はあえて見ず、拓斗の「ありがとう」の言葉だけを受け取って。


 ──そして一日が終わり、また新しい一日が始まる。


 退屈なわけじゃない。

 つまらないわけじゃない。

 だけど、だけど、だけど。


 拓斗の心が完全に晴れることはない。

 まるで魚の骨が喉につっかえているような、そんな感覚。

 苦しいわけでも、悲しいわけでもない。

 ただ、心の一部では走り出そうとしているのに、体が鎖で縛られているようだった。


 そして動かせまいとしているのは、あの日に怪我をした左足だ。



「よし、今日はこんなところかな」



 バイトを始めてから一週間が経った今日、拓斗は病院に来ていた。

 内容は怪我をした左足の状態を見て、軽いリハビリをするためにだ。



「はい、スポーツドリンク」

「すみません、ありがとうございます」



 拓斗の担当の先生──三笠正彦みかさまさひこ

 年齢は40代前半。180と身長は高く、痩せ型。知的な雰囲気があり、黒縁の眼鏡の奥に見える目は優しくいつも笑っている感じがする。


 そんな三笠にスポーツドリンクを受け取ると、二人はベンチに腰掛けた。



「痛みはあるかい?」

「いえ、痛みは大丈夫です。少し疲れましたけど」

「ははっ、そうか。久しぶりに走ったから疲れるのは仕方ない。でもあれだね、少し見ない間に歩くのには慣れてるみたいだね」

「まあ、そうですね。旅行へ行ったり、バイトをしたりして、普段から歩くようにしているので」

「なるほど」



 三笠は嬉しそうに、何度か頷いた。



「そうやって日頃から体を動かしていれば、きっと回復も早くなるはずだ。予定していた一年よりもずっと早く完治するかもね」

「完治、ですか……」



 拓斗は俯く。

 その表情には嬉しさと悲しさが混同しているようだった。



「まだ、悩んでいるみたいだね」



 三笠に言われ、拓斗は返事ができなかった。


 サッカーが嫌いになったわけではない。

 もう歩くこともできる。走ることは、長い時間なら難しいけど少しなら問題ない。

 順調に回復に向かっている。このままリハビリを続ければきっと、一年……いや、もっと早くに回復できるだろう。

 そうしたらまたサッカーができる。


 だったら戻るべきなんだ。

 サッカー部にまた顔を出して、サッカーに触れるべきなんだ。

 そう心では理解していても、一歩が踏む出せない。



「こればっかりは体ではなく心の問題だから、急いで決める必要はないかな」

「はい……」

「ただ重く考えすぎかもね、白石くんは」

「重くですか?」

「ああ、そうさ。白石くんって、女の子に告白したことあるかい?」

「え、ないですけど……」



 突然の質問に戸惑っていると、三笠の表情が少し怖くなったように感じた。




「はあ……じゃあ付き合ったことは? それはあるだろ?」

「いえ、付き合ったこともないです」



 すると三笠は横目でジッと拓斗を見る。明らかに先程よりも怖い。



「……本当に?」

「本当に」

「絶対に絶対に絶対に?」

「は、はい」

「──嘘だあッ!」

「え!?」



 急な変貌に慌てる拓斗。

 三笠はすぐに眼鏡の位置を直し冷静を取り戻す。



「……すまない。本当に、ないのか?」

「ないですって。興味がなかったですから」

「興味が、ない……。女の子に”は”興味がない、と」

「はい?」

「いや、なんでもない。そうか、それじゃあこの例えだとわかりづらいかもしれないけど、告白するときって重く考えすぎたらいつになっても声を出せないんだ。だけど軽く……そう、この子に告白して振られても他の子に告白すればいいんだ、って考えると自然と告白するのが楽になるんだよ」

「は、はあ……」

「そういう考えに至ってからは、学生時代は彼女いなかったことがなかったんだよ、僕」



 要するに、振られても次々に女の子に告白したから彼女いなかったことがない、ということなのだろう。

 サラッとクズ野郎の発言をしたが、聞かなかったことにした。



「それと同じさ。怪我が治って復帰したら今まで通りのプレイができるだろうか? 一年のブランクがあったらもう無理なんじゃないのだろうか? もう大きな怪我はしないだろうか? そうやって色々なことを、重く考えていないかい?」

「それは……」

「行動する前に多くの疑問符を並べて、その疑問符たちが自分の行動の邪魔をする。だから重く考えないで、もし好きな子に振られても別の子を好きになって告白する感覚でいけばいいさ」

「……それは、どうなんですかね」

「ん? まあ、失敗や後悔のことばかり考えていたら何もできないからさ」



 例えはアレだったが、三笠の言うことは確かにそうだ。

 重く深く考えすぎて自分自身を縛り付けていたのは事実だ。



「そうですね。重く考えすぎていたのかもしれません」

「そうそう、まあ決めるのは君だ。これからゆっくりリハビリして考えれば──」

「──あ、あの、すみません」



 ふと、リハビリ室の扉が開いた。

 そして恐る恐るといった感じで入ってきたのは制服姿の杏だった。



「ん、ここはリハビリ室だけど、どうかしたのかな?」

「えっと、拓斗くんの様子を見に来たんですけど……あっ、拓斗くん!」

「杏、どうしてここに?」



 杏が拓斗へと駆け寄ってくる。

 その後ろ姿を目で見送った三笠が、拓斗に視線を向ける。


 ──付き合ったことないって、言っていなかったかい?





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