第15話 おやすみ


 温泉から上がって十五分ほど、杏は戻ってきた。



「おまたせ! もしかして、結構待たせちゃった?」

「いや、そこまで待ってない」

「そっか、良かった。ちょっと飲み物買ってくるから待ってて」



 荷物を置き、杏が自動販売機に向かう。

 いつもの巻き髪ではなくストレートの髪型なので、一瞬だけ知らない人に声をかけられたと思ってしまった。

 最初に出会ったあの雨の日に見た彼女と同じなので、少し懐かしい。



「拓斗くん、何か飲んだ?」

「脱衣所にビンの牛乳が売っていたから、それ飲んできた」

「あー、そういえばあったね」



 杏が一息つくと「したっけ、帰ろっか」と、二人は旅館を後にする。

 すっかり外は暗くなっていた。



「どうだった、温泉」

「最高だった。久しぶりってのもあったけど、歩いた後だったから余計に気持よかったな」

「満足してくれたみたいで良かった」

「……杏」

「ん?」



 隣を歩く杏に拓斗は伝える。



「今日は、ありがとうな」



 北海道の五月の夜風は少し肌寒い。

 拓斗も杏も頬を赤く染めて、顔を見合わせる。



「急に、どうしたの……?」

「たぶん杏に誘われなかったら、自分から外に出ようとか……そもそも、こうして旅行に行こうなんて考えなかっただろうなって。リハビリにもなるし。だから感謝してるんだよ、俺なりに」



 素直に感謝を伝えようと思ったのに彼女がこちらを見つめるから、自然と長い言葉で、しかも声が小さくなってしまった。

 そして少し間を空けて、杏は口元に手を当て笑った。



「……なんだよ」

「ううん、なんでもない。ただ最初に出会った頃の拓斗くんとまるで別人みたいで、なんだかおかしくなっちゃった」

「別人って……俺をどんなんだと思っていたんだよ」

「うーん、ロボットみたいな?」

「またそれか」

「でも、そんな感じだった」



 杏は一歩前に出て振り返る。

 通り過ぎる車のライトに照らされて見えた彼女の表情は、少しだけ嬉しそうな、そんな気がした。



「今の拓斗くんの方がずっといいよ。つんつんしてる拓斗くんじゃなくって、でれでれしてて」

「俺はツンデレじゃない」

「ふふん、別に。……あっ! てことはあれだね。これからも拓斗くんを旅行に連れ回してもいいってことだ」

「は? そういうことじゃないだろ」

「でも感謝してるって言った!」

「それは……はあ。年に一回までだ」

「少なっ!」

「これぐらいに設定しておかないと、毎週お前に連れ回されそうで怖いからな」

「もう、そこまでしないよ。それに拓斗くん、ご両親からの仕送りそんなに貰ってないでしょ?」



 図星を突かれて、拓斗は目を見開く。



「……なんでそれを」

「なんででしょう。茶々が教えてくれたのかも?」

「んなわけあるか。教えろ」

「主婦の勘だよーだ」



 そんな他愛もない話をしながら二人は駅に向かう。

 登別から札幌までの列車はそこまで本数が多くない。

 二人はベンチに座って列車を待つことにした。



「帰ったら、ちゃんと茶々にご飯あげてね?」

「ああ、わかってる」

「たぶん玄関まで迎えに来て『にゃあ、にゃあ』って鳴いてエサの催促するね」

「だな。たらふく食べさせてやるよ」

「食べさせすぎたら太るよ。ただでさえあの子、段ボールの上とベットの行き来でしか歩かないんだから」

「そんな太らないだろ。いつも適量しかエサあげてないし」

「私はいっぱいあげてるよ」

「おい!」



 杏の方を見ると、彼女の目蓋がゆっくりと開いたり閉じたりしていた。



「眠いのか?」

「ん、少しだけね」



 そういえば駅に向かう途中もあくびをしていたなと思い出す。

 すると丁度良く、列車がホームに到着した。



「行くぞ」

「うん」



 ボーッとしながら歩き出す杏。

 朝早くに起きてクマ牧場を楽しみ、お腹一杯バイキングを食べ、最高の温泉を堪能した。

 杏だけでなく拓斗も眠たさがあった。


 列車に乗った二人は席に座る。

 杏は変わらず眠たそうだ。



「寝てていいぞ」

「え?」

「俺も寝るから。着いたらどっちか起きるだろ」

「んん……」



 何か考えていたが睡魔に負けたのか、杏は頷き、頭を拓斗の肩に乗せる。



「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「おい」



 窓際に座っているのだからそちらに体を寄せればいいのに。そう思ったが、杏は目蓋を閉じて眠りにつこうとしていた。

 さすがに無理に起こすわけもいかず、拓斗は腕を組んで大きくため息をつく。


 何も考えず自分も眠りにつこう。

 そう思った拓斗だったが、おもむろにスマホを取り出し、インカメラでこちらに向ける。

 いつも杏に一方的にからかわれることの多い拓斗。これがあれば、少しは彼女の恥ずかしい顔を見れるのではないか。そう思った。



「……難しいな」



 杏だけを撮るのは難しい。

 彼女を起こさないように撮ろうとしているから右手は使えず、左手で撮る為に拓斗の顔も入ってしまう。

 なんとか杏だけを。

 試行錯誤していると、通路を通る他の客たちの視線を感じた。



「何してんだ、俺……」



 これではまるで恋人の寝顔を撮ろうとしている彼氏ではないか。

 拓斗は恥ずかしさから適当に写真を撮り、スマホをしまって目を閉じる。

 周りの視線から逃れるように、拓斗も眠りにつこうとした。



「……」



 すると、右肩に乗った杏の頭が動き、



「盗撮は犯罪だよ、拓斗くん?」

「──ッ!?」



 耳元で囁かれた。

 ビクッと反応する拓斗だったが、右肩を重くするように杏は頭で押す。



「起きてたのかよ」

「そんな、目を閉じて三秒で寝れるわけないじゃん。というか、盗撮するならシャッター音ぐらい消したらどうですか? カシャッ!って」

「……」

「待ち受けにしてもいいよ?」

「しない。いいから寝ろ」

「はーい」



 笑いを含んだ「おやすみ」に、拓斗はため息が混じった「おやすみ」を返すと、目を閉じた。

 

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