第14話 温泉
時間制限である90分間、二人はバイキングを堪能した。
「それじゃあ、温泉から上がったらここで待っててね」
「わかった」
夕焼け空へと変わり始めた時刻。
二人は別れ、拓斗は男湯へと向かった。
拓斗の他にも客はいたが、それでも落ち着いた、静かな空間だった。
服を脱ぎ浴場へ。扉を開けた瞬間に湯煙が立ち込める。
シャワーで体を流してから湯船に浸かると、自然と声が漏れ出た。
「……ふう。温泉に来たのなんて、いつ以来だろうな」
考え、思い出される記憶は中学生の頃だ。
高校進学と共に北海道へ来て寮生活を始め、休みもなくサッカー漬けの毎日。
友達と出掛けることすらあまりなかったから、当然、遠くの温泉地へ旅行することなんてなかった。
一人静かに、お湯に深く浸かりながら目を閉じる。
「今日は一日、楽しかった……」
小学生の日記みたいな感想だが、純粋にそう思えた。
怪我してからずっと家で一人、退屈な毎日を過ごしていた。
もちろん茶々に元気はもらった。もしもあの子がいなかったら……なんて、考えたくはない。
ただ怪我をした日には、こうして楽しいと思える日が来るとは思っていなかった。
「それもこれも、杏には感謝しないとだな」
最初は騒がしい台風女だと煙たがったが、結果、これまで彼女と一緒にいて笑顔を絶えなかった日はなかった。
彼女といるときだけは嫌なことを考えなくて済んだ。
それはたぶん、杏がサッカーのことを話題に出さないでくれているのも理由の一つだろう。
「ってか、あいつって俺がサッカーしてたこと知ってるのかな……?」
知ってはいるだろうが、そんな疑問すら浮かぶ。
なにせクラスメイトたちですら、少し仲良くなっただけでサッカーの話題が出て来るのだから。
嫌だなと感じても、白石拓斗という名前はイコールでサッカーをしている人物となるのだから、仕方ない。
だけど杏は、彼女が家に来て初めの頃に段ボールの中の話題が出てから、サッカー関連の話をしなくなった。
気を使ってくれているのだろうな。
「もしかしたら、こうして温泉に連れて来たのも何か意味があったり」
壁に貼られた温泉の効用を眺めながら、ふと思った。
ただすぐに首を左右に振り、考えすぎかと思考を一切取り払い、極楽気分を堪能した。
♦
「拓斗くん、喜んでくれてるかな……」
露天風呂に浸かりながら、杏は空を見上げる。
ここへ来る予定は元々、もう少し遅い時間のはずだった。
星が見える夜に、こうして露天風呂に浸かりながら空を見上げる。そうしたらきっと、彼も元気になってくれるだろう、そう思った。
ただ歩き続ける毎日。
他人である杏が想像していた以上に、拓斗が疲れているように見えた。だから予定を前倒ししてここへ来た。
夕焼け空も綺麗だけど、ここから見える夜景はもっと絶景だっただろうな。
はあ、と杏は大きくため息をつく。
「夜じゃなくたって大丈夫。だってここに来たのは夜景を楽しむ為じゃないもん……いや、楽しんではほしいけど、本当の目的は怪我に良く効くってネットに書いてあったからだもん」
有名なスポーツ選手だって、怪我したときにここへ来たとネットに書いてあった。
この温泉に浸かり、怪我が治ったと。もちろんここの温泉に即効性のある魔法みたいな効果はない、気休め程度、良く効くかな程度かもしれない、それでも。
「それでもまた、私は見たいのですよ……」
杏は反転して湯船の縁に両腕をつき、大きくため息をつく。
思い出されるのは、フェンス越しにずっと見つめていた一人のサッカー選手。彼がピッチを走り活躍していた頃の姿だった。
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