第5話 悪夢


「いや、遠慮しておく」

「なんでさ」

「なんでって……」

「拓斗くん、ずっと寮生活だったんでしょ? 料理とかしたことあんの?」



 料理したことなんて今までの人生で一度もない。

 実家では母親の手料理が。サッカー部の寮では寮母さんがいた。朝昼晩と栄養バランスや体作りのことを考えられた完璧な料理が出てくるから、自分で料理する必要がなかった。



「まあ、なんとなく」



 両親からも自炊について心配されたが、彼女の申し出に頷くつもりはない。



「ほんと?」

「ああ、ってか、なんで……」



 そもそも、杏と初めて会った日からまだ一日しか経っていない。それ以前に彼女と関わったことも一度もなかったはず。

 こうして家に来ること自体がおかしな流れなのに、料理まですると申し出てくれた。


 この優しさは、ただ単純に彼女がお人好しだからなのだろうか。


 というより、どうしてここまで自分に関わろうとするのか。こんな周りを寄せ付けない腫れ物の自分を。

 そう聞こうとしたが拓斗は止めた。



「自分のことはちゃんと自分でする。北海道で一人暮らしするって決めたとき親と約束したからな」

「そっか……」



 これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。

 それは両親に対しても、周りの人間に対してもだ。

 これまで多くの我が儘をしてきたのだから、これ以上かけるわけにはいかない。


 杏は拓斗をジッと見つめ何か言いたげな様子だったが、大きくため息をつく。



「まあ、無理強いはしないけど……何か困ったことがあったら言ってね? 料理のこととか、勉強のこととか、茶々のこととかね」

「気が向いたらな」

「もう、適当なんだから」



 母親のように優しく微笑むと、杏は立ち上がる。



「まっ、茶々の元気な姿も見れたことだし、今日は帰ろっかな」



 夕暮れ空を見ながら彼女は大きく伸びをすると、そのまま茶々へと駆け寄った。



「それじゃあ、お姉ちゃん帰るからねえ。寂しい? ねえねえ、寂しい?」



 頭を撫でようとすると、茶々はぷいっとそっぽを向き、定位置である段ボールの上へ逃げて行く。



「がーん、さっきはあんな仲良かったのに」

「さっきのは、エサをくれたからだろ」

「エサを貢がない女には媚を売らないと言うのか、このダメ男! ろくなホストにならないぞ!?」

「……こいつをホストにする気はないんだが」

「じゃあもう一回、エサあげてこようかな……」

「帰れ」

「飼い主もひどい!」



 杏はぶーぶーと文句を口にしながら玄関へ。



「それじゃあ、またね。拓斗くん」

「ああ」



 パタパタと手を振って去っていく杏。

 台風が去り、玄関を閉めると、不意に家の中がいつも以上に静かになった気がした。



「料理、か……」



 拓斗は大きくため息をつく。


 いざ話題に上がると考えさせられる。

 杏の前では問題ないと言ったが、今日から自炊をしなければいけない。

 フライパンやまな板、包丁といった一般的な調理道具は母親から渡されたが、使ったことなんて一度もない。



「だけどこれからは料理も学んでいかないとな」



 もし日常生活で問題があれば、学校から家族へ伝えられるだろう。そうなれば両親に迷惑をかけるだけじゃない、地元に帰ることになる。


 ──拓斗は、俺たち弱小サッカー部のヒーローだな!


 そう言って応援し、送り出してくれた地元の仲間たちに会わせる顔がない。

 怪我して帰ってきたなんて、みんなのあの希望に満ちた表情を見た拓斗は言えない。















 ♦











 ──大勢の観客が見守るグラウンド。


 チームメイトからのパスを受け、拓斗はペナルティーエリアに侵入する。

 行く手を阻むディフェンダーは二人。一人を抜き、もう一人もドリブルでかわす。

 ゴールキーパーと一対一の状況で、拓斗は左足に重心をかけ、シュート体勢に入る。


 この位置からのシュートには絶対の自信を持っていた。

 だから拓斗の表情には、はっきりとした自信が見えた。


 このまま右足を振り抜けば──。

 だが不意に、左後ろに人の気配を感じた。

 先程かわしたディフェンダーが、必死の形相で追ってきていた。


 だがこの姿勢までいったら右足を振り抜くしかない。

 拓斗はディフェンダーを無視してシュートを放つ。

 右隅に放ったシュートはゴールキーパーの手を弾き、豪快にネットを揺らした。


 拓斗は喜びから笑みを浮かべた。

 だがその瞬間、左足の足首が内側へと力強く押された。


 背後からボールを狙っていたディフェンダーのスライディングは、ボールとは関係ない拓斗の片足で立っていた左足を捉え──押した。

 はっきり言って無謀すぎるスライディングに怒りを覚えた拓斗だったが、そんな感情も消え去るほどの衝撃が左足と両耳を襲う。



 ──ブチッ!



 何かがはっきりと切れる音がした。

 その場に倒れ込んだ拓斗にも、すぐ近くで歓声を上げようとしていた観客にもはっきりと聞こえるほど大きい音だった。

 その瞬間から、拓斗の世界は大きく変わった──。



「──ッ! はあ、はあ、はあ……夢、か」



 あの日から何度も見た悪夢。


 今もはっきりと覚えてる。


 足を前に出したまま固まり、青ざめた表情のディフェンダー。

 笑顔から一変、血相を変えて駆け寄ってくるチームメイトたち。

 網状のフェンスの奥で、両手で口下を抑えて悲鳴を上げる観客。


 あの場の空気も、周りの人々の表情も、左足の痛みも、今もなお全て鮮明に覚えてる。



「くそっ……」



 左足に手を触れながら、拓斗は苦しそうに声を吐き出した。


 カーテンの隙間から太陽の光が差し込む。

 スマホの画面を付けると、時間は既に10時を過ぎていた。


 溢れ出す全身の汗を拭い、起き上がりキッチンへ。

 コップに入れた水を一気に飲み干し、大きく息を吐く。


 そんな時だった──。


 ──ピンポーン!


 インターホンが鳴った。

 拓斗は松葉杖を突いて歩くと、インターホンを取った。



「はい」

『お願いしまーす!』



 受話器を取ると、開口一番こんなことを言われた。











 ♦







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