第4話 無自覚に



「大丈夫大丈夫、ちゃんとお姉ちゃんが洗ってあげるからねえ……って、もう! 暴れないの!」



 風呂場から聞こえるシャワーの音と杏の楽し気な声、そしてネコの悲鳴。

 ブツを回収して捨ててから、拓斗も風呂場へ向かった。



「別にこれぐらい自分で──」



 浴室の扉を開けると、靴下を脱ぎ、風呂場でネコの体を洗う杏と目が合った。

 ネコが暴れたのだろう、着ていたブレザーもYシャツもところどころ濡れていて、見てはいけないものが透けていた。

 拓斗は慌ててそっぽを向く。



「あー、床とか濡らしちゃってごめんね。ネコちゃん暴れちゃった!」

「それはいいが……はあ、バスタオル持ってくるから待ってろ」



 タオルを取りにリビングへ戻る。

 すると、風呂場から大きな声が聞こえた。



「よし、綺麗になったね」

「……ほら、バスタオル」

「ありがと。よしよし、今拭いてあげるからねえ」



 彼女にバスタオルを渡すと、ネコを拭こうとするが、



『にゃあ!』

「あっ、待って!」



 すぐに彼女から逃げ出したネコは、リビングに向かいブルブルと全身を震えさせた。

 カーペットには斑点模様の濡れた跡や、ネコの足跡がはっきりと付いていた。



「あらら、リビングも濡れちゃったかも」

「まあ、それは後で拭いておく……それより、ほら」

「ん?」



 もう一枚のバスタオルを杏に渡す。

 制服もそうだが、髪の毛先も少し濡れている。



「ああ、ありがと!」

「風邪でも引かれたらあれだからな」

「昨日のどしゃ降りで風邪とか引かなかったから、たぶん大丈夫だよ!」



 毛先にバスタオルを当てながら、満面の笑みを浮かべる杏。



「それでも……拭いておけ」

「あっ、うん……ありがと」



 風呂場や廊下にできたネコの足跡を拭きながらリビングに戻ると、主の苦労も知らず、暴れネコはカーペットの上で毛繕いを始めていた。



「そういえば、この子の名前とかって決めたの?」

「名前か……まだ考えてない」

「えっ、かわいそう。早く名前決めてあげないと……あっ!」



 リビングに戻ってきた杏はベッドに座りながら目を輝かせていた。

 その表情を見て、なんとなく言いそうなことがわかった拓斗。そしてその予感は的中する。



「私が決めていい!?」



 そんなことだと思っていた。

 だが、



「まあ、いいけど」



 拓斗の中で「この名前がいい」っていうのがなかったから、彼女に決めてもらった方がいいかもしれない。

 狭いリビング。ベッドは彼女に座られているため、拓斗は壁を背にして床に座った。



「どんなのがいいかな……茶色の縞模様の毛並みで、オスだから……トラ太郎とか?」

「……意外と普通の名前なんだな」

「え、どういうこと? もしかして、キラキラネームみたいなの付けるんじゃ?とか思った?」

「まあ」



 彼女の見た目が原因だろう、完全な偏見だが。



「ひどい! ちゃんとした名前付けるよ」



 ねえ、とネコに声をかけるが、体を洗われたことで杏に恐怖心を抱いたのか、少しだけ距離を取られていた。



「もしかして、嫌われた……?」

「かもな」

「そんなー、忘れたの? あの寒い雨の中、助けてくれたお姉ちゃんだよ?」



 立ち上がって近づこうとするが、警戒して勢いよく逃げてしまった。



「がーん!」

「まあ、すぐに機嫌直すだろ」

「そうならいいけど……あっ、エサは? 食べさせたい!」

「エサ? エサならキッチンに」と、拓斗が立ち上がって取りに行こうとするが、

「私が取ってくるから拓斗くんは座ってて!」



 杏はバタバタと足音を鳴らしながら取りに行った。



「餌付け作戦! ほーらネコちゃん、美味しいエサだよお」



 固形のエサを手の上に数個乗せて近づくと、ネコの興味が向いた。

 だが一瞬だけで、なかなか近づいてこない。まだ警戒しているのだろう。



「もう、許してよ……お腹いっぱい食べさせてあげるから」

「人が買ったエサだけどな、それ」

「まあまあ、細かいことは気にしない気にしない。んー、ネコまる?」



 壁の隅にいるネコへ、四つん這いになりながらにじり寄っていく杏。

 拓斗の存在を忘れているのか。スカートの丈を短くしているから、見てはいけない部分が後ろにいる拓斗に見えそうだ。

 注意するべきなのだろうか。だがそれを言って気まずい空気になるのも嫌だ。だから拓斗は見ないようにそっぽを向いた。



「ネコまるはダメ? じゃあ、にゃごろうは?」



 それっぽい名前で呼ぶがネコは反応しない。



「にゃん太? トラ次郎? こう太? トラまる?」



 それっぽい名前を呼ぶが反応がない。だが、



「うーん、茶々ちゃちゃ?」



 そう呼んだ瞬間、ネコは『にゃあ』と鳴き、杏の下へとゆっくり歩き出した。



「茶々!」

『にゃあ?』



 杏は興奮気味にネコへと近づく。

 すると、手に乗せたエサをネコは口にして食べ始めた。



「茶々! 茶々だよ、拓斗くん!」



 嬉しそうに瞳を輝かせながらこちらを振り返る杏。



「ああ、そうだな」



 その表情を見て、拓斗は釣られて笑ってしまった。



「あれ、拓斗くん……今、笑った?」

「え……?」



 拓斗は顔に手を当てる。

 口角が上がっているのを、指で触って初めて気づいた。

 大怪我をしたあの日から笑わなかった自分が、無意識に笑っているのに驚いた。



「……別に」



 だが不意に、目の前で自分の顔を見てニヤニヤする杏が視界に入って、拓斗はそっぽを向く。



「俺だって笑うときはある」

「でもでも、今日はずーっとムスッとしてたじゃん。ロボットみたいに」

「……ロボットって」



 まあ、自分のことを知らない他人から見たらそうかもしれないか。



「それより、ネコの姿も見せたんだ、そろそろ帰れ」

「えー、まだいいじゃん。というより、この子は茶々だよ。ちゃんと名前で呼んであげて」

「茶々な、はいはい……」

「まったく、ツンデレ飼い主さんは困ったものですねえ、ねっ、茶々?」

『にゃあ……?』



 茶々を覗き見ながら首を傾げる杏。

 彼女は帰る様子も見せず、ベッドに座る。

 そんな彼女と、不意に目が合った。



「なんだよ」

「ううん、なんでもない」



 とは言うが、彼女の表情はどこか嬉しそうだった。



「そういえば拓斗くん、ご両親は東京に住んでるんだったよね?」

「まあそうだけど」

「じゃあ卒業までずっと一人暮らし?」

「そうなるな。それがどうかしたのか?」

「じゃあさ……私がご飯とか、作ってあげよっか?」

「……え?」



 唐突な申し出に、ポカンと口を開けたまま固まる拓斗。

 彼女の表情からはからかっているようには見えず、少しだけ恥ずかしそうに、頬を赤らめて視線を外に向けていた。









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