11. 聖女様は帰還したらしい


 リタはアレクサンダーと共に再び馬に跨り、東の教会を目指した。

 一人一頭の馬に乗ってきたらしいウィリアムとレネーは、二人に先んじて駆けていった。

 東の区画だけ結界がうまく展開できていないということは、どこかで魔力線の断裂があったのだろうと考えられる。

 となると……。

 最悪のケースがリタの頭に浮かぶ。

 魔物の群れがすでに押し寄せていて、戦闘により魔力線が破損したのだとしたら。

 移動の間、リタは気が気ではなかった。



 結界を通過し、さらにもう少し行くと、騎士たちが慌ただしく動き回っていた。

 そのうちの一人を捕まえる。

 彼は一瞬迷惑そうな顔をしたが、正装をしているアレクサンダーを見て態度を改めた。



「結界が消えた後、全員で街を離れようと扇動する者たちが現れ、現在、民衆を大勢引き連れ、外へと向かっております。また、すでに魔物も街に入り込んでいる状況です」



 こんな状況で外に出るなんて!

 リタは思わず叫びそうになる。

 しかし、考えてみれば、彼らにとっては結界が復元されるかどうかわからないのだ。それならば、このまま留まって魔物だらけの聖都で過ごすことになるよりは、早めに行動して街を出た方がマシと判断してもおかしくはない。



 リタとアレクサンダーは東の教会へと急ぐ。

 中央教会から延びる魔力線がどこかで断線しているのだとしたら、直接東の教会で魔力を注がなければならない。



 教会に着くと、都を離れようとしていたと思われる民衆を庇い、騎士たちが攻め込んできた魔物たちと戦っていた。

 その中にウィリアムとレネーの姿を見つける。

 さすがにスティエン学院で優秀だった二人なだけあり、苦戦することなく魔物を倒している――が、いかんせん魔物の数が多く、殲滅にはまだ時間がかかりそうだった。



「あなたは私についてきてください」



 ウィリアム王子たちの加勢に向かおうとするアレクサンダーをリタが引き止めた。



「何か考えがあるのだな?」



「はい。アレクサンダー様は魔法で雨を降らすことができますよね」



「ああ――まさか、ここでやれと?」



 彼は目を丸くする。



「ええ。聖都を離れようとしたみなさんの目を醒ましてあげようと思いまして」



 リタはアレクサンダーに向かってウィンクをした。

 それを見てアレクサンダーはやれやれと肩をすくめる。



「仰せのままに」







 リタとアレクサンダーは塔の中の螺旋階段を上り、頂上手前の踊り場までやってきた。

 中央に結界を起動するための装置が設置されている。

 魔物の来襲により魔力線が断線してしまった今、ここに直接聖属性の魔力を送り込む以外にこの区域の結界を修復する方法はない。



 リタは外縁部の手すりに手を置き、地上の状況を確認する。

 ちょうどレネーが最後の魔物を魔法で焼き殺したところだった。

 怪我を負った人も多いが、幸い、命に関わる怪我ではなさそうで、リタは安堵する。

 みな口々に、騎士やウィリアム、レネーに感謝の言葉を伝えている。

 一難が去り、空気が弛緩しかけたとき、中年の男が大声を出した。



「俺は出ていくからな! 王子様がなんと言おうと、この国はもう安全じゃない! お前らだってそう思ったから俺についてきたんだろ?」



 男が群衆に訴えかけると、何人かが「そうだそうだ」と賛同の声を上げた。ざわめきが広がっていく。



「出ていくことを止めたりはしない。だが、怪我人もいるんだ。一度結界の中に戻った方がいいだろう」



 ウィリアムが再び熱を帯び始めた民たちを宥めるが、男たちの意志は固く、引き下がる気配はない。



「怪我人が出たのは国の責任でしょう! 結界は消えないと主張し続けて、結果それが嘘だったわけだ。本来ならここは結界の内側のはず。国が嘘をつかなければこんなことにはならなかった! そもそもあなたたちが聖女様を追い出さなければ、何も起こらなかっただろう!」



 男はウィリアムとレネーを責め立てる。

 興奮で、言葉遣いが荒くなっていることに気づいていないようだった。



「それは……事情があるんだ。あと三日もすればすべて元通りになる。それまで待ってくれないか?」



「それを信じられるとでも? 俺たちは出ていきます。魔物がいない今が絶好の機会だからな――おい! お前ら、行くぞ」



 男はウィリアムの横を通り過ぎる。

 彼に続いて集団が街の外へと歩き始めた。彼らはウィリアムの呼び止める声が聞こえていないかのように進んでいく。

 怪我を負った人や介抱する人はその場に取り残され、心細そうに彼らを見送っていた。



 リタは眼下の諍いから視線を外し、隣のアレクサンダーを見上げた。

 アレクサンダーがこちらを向き、目が合う。

 リタは、右手でそっと彼の左手に触れた。彼の手は一瞬驚いたように硬直したが、すぐに優しく握り返してくれた。

 リタは右手から彼に魔力を送る。

 溶けてひとつになるような、不思議な感覚。

 後は彼に任せれば、きっとうまくいく。

 アレクサンダーが反対側の手を空に向かって掲げ、すうっと息を吸い込んだ。



「――求むるは渇いた大地を潤す恵み。山河を巡る生きとし生けるものの源。神聖なる天上の御方、どうか我らに祝福を与えたまえ」



 流麗に紡がれた言葉は空へと飲み込まれていった。

 直後、リタの頬にポツンと水滴が当たったかと思えば、それはすぐに雨へと変わる。

 地上にいる者たちはみな、足を止め空を見上げた。

 塔の踊り場に立つリタたちに気づき、こちらを指さす者がちらほらと見えた。

 雨の勢いが弱まっていき、やがて止んだ。

 リタは眼鏡を外し、レネーにうざったいと評された長い前髪をかき上げた。

 黒く染めているけれど、雨に濡れた今なら、少しくらいはもとの銀色に近い色に見えるだろうか。



「聖女はただいま帰りました。もう誰も、この街を出ていく必要はありません」



 リタが声を張り上げた。



「聖女?」



「出ていったはずじゃないのか?」



「おい、あれってエンケルの王太子じゃないか?」



「え、それじゃあ、ほんとに?」



 そこかしこで困惑の声が上がる。

 彼らは聖女と名乗り出たリタのことを半信半疑で見つめている。

 と、そこでどよめきが起こる。

 怪我人たちがいる方向だ。



「怪我が治ってるわ!」



「お、俺もだ」



「いったい何が――まさか」



 突然の雨、聖女を名乗る女、怪我の治癒。

 これらの情報で、ちゃんと気づいてくれるといいのだけど。

 リタはアレクサンダーの手をぎゅっと握った。



 ざわめきは次第に収まっていく。誰もが黙って塔を見上げた。



「わたくし、ヘンリエッタ・クロフォードは、聖女ただ一人に国家の命運がかかる昨今の情勢を危惧し、しばしの間、聖属性魔力の研究を行っておりました。研究は無事成功し、今後結界の魔力不足を嘆くことはなくなりました。結界の拡張も可能になり、スティエン公国のますますの発展が期待できるでしょう。そこで、みなさまには、この国の未来を担う一員となっていただきたいのです! どうかこの街に残り、これからも国を支えていただけませんか」



 リタは言い終えるとすぐに群衆に背を向け、結界の装置に魔力を送り込んだ。すぐに淡く光る膜が空に広がっていき、両隣の教会へと向かっていく。

 無事に結界が展開されたの見て、リタは倒れそうになった。

 さっき中央の教会で魔石で補えなかった分の聖属性魔力を注いできたところである。大規模な治癒魔法を行使し、さらに今、残りの魔力を結界装置に注ぎ込んだことで体内の魔力はもう、ほとんど空っぽだった。

 アレクサンダーに支えられ、ゆっくりとその場に座り込む。すると、下の方が再び騒然とし始める。



「また何か問題ですか?」



 リタは声に疲れが乗っているのを自覚した。

 アレクサンダーが手すりから身を乗り出し、地上の様子を確認する。



「いや、どうだろう。君に対して戸惑い半分、称賛半分といったところだろうか。とりあえずは丸く収まったように見える」



 戸惑うのも無理はない。

 出ていったはずの聖女が実は国内で研究を進めていたなんてだれも普通は考えないのだから。

 レネーには話しておいてもよかったかもしれない。

 リタと共に婚約破棄を演じたウィリアム王子の隣で、レネーは他の民たちと同じように驚愕の表情を浮かべていた。それを彼女を思い出し、少しおかしくて思わず笑みがこぼれる。

 レネーには借りができちゃったな。

 聖女が隣国に亡命したという噂が広がってからは、聖女を追放したとしてウィリアムとレネーに対する風当たりは強く、事情を知るウィリアムはまだしも、作戦のことを何も知らされていなかったレネーはしばらく嫌な思いをしていたはずだ。

 いつか埋め合わせをしなくちゃ。



 考え事をしているうちに眠気がやってきた。

 喧騒を遠くに聞きながら、アレクサンダーの腕の中でリタはまぶたを閉じた。

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