声劇_化け猫をまつ_2名朗読版【50分。1:1】
【概要】
「過去形で語るのもおかしいですね。妻は存命です」
化け猫を妻とした男の、魂のノロケ話。
役者の性別は問いませんが、役の性別は変更できません。
文字数:11600 字
上演時間目安:50 - 60分
登場人物
男性1名
女性1名
◆クォン
男性。
語り部。セリフの文量はこちらが圧倒的に多いです。
行商人。この世とは異なる場所で二人の男女「お
語りの中では、
◇ユエ
女性。
クォンの妻。右目に猫、
語りの中での舞台は東方の国であり、ユエは西方からの流れ者。
原作:「化け猫をまつ」
https://kakuyomu.jp/works/16816700426252918144
【画面右上の「ぁあ(ビューワー設定)」から、組み方向を縦組みにすると読みやすいかと思います】
利用規約はこちらです。ご了承の上でのご利用をお願いいたします。
https://kakuyomu.jp/works/16817139555946031744/episodes/16817139555946036386
以下本文
* * *
◆クォン
妻は美しいひとでした。
いや、過去形で語るのもおかしいですね。妻は存命です。
美しいひとですよ。
右目に猫の魂を、
美しいひとですよ。
さてですね、今から始まるのは私のノロケ話なんですが、あの、お
そりゃあ私にとってはなんだかんだ良い思い出ですし、話すに
――そうですか。では、こっぱずかしくもありますが、こんなところで出会うのも何かの巡り合わせでしょうから、お迎えが来るまでの間、精いっぱい語らせていただきましょう。
おほん。
いま出会いだの巡り合わせだのと申し上げましたが、私と妻の出会いは、痛みを伴うものでした。鎖骨と鼻が、ゴツンと。
忘れもしません、雨季が明けたばかりのカンカン照りの日でしたよ。私は内陸から港の方へと下っていましてね。盆地で買い付けた
あ、ヴスアーはご存じない? これは失礼しました。あれは日持ちのする果物でして、グニグニと手のひらで揉みこんでやってから、皮に切り込み入れて果汁を吸いだすんですよ。
淡白な甘さで暑い日の渇きにもいいし、
で、そのヴスアー、本当は港で売るつもりだったんですが、さすがに悪くなるんじゃないかと心配してたもんですから、ここで売れてくれたのはむしろ運がよかった。それでまぁ気分も懐具合もよくなりましたし、なんか面白い物でもありゃしないかと、
そしたら、空にまるいものが飛んでた。
ああ、
よーく見て、よーく狙って、それ。
スポン。
ゴツン。
◇ユエ
「ぎゃ!」
◆クォン
これが初めて聞いた妻の声でした。
私もそれなりに痛かったんですが、妻が──この時はまだ初対面の娘さんですが、彼女が両手で鼻を押さえてぴょんぴょん跳ねてましてね。この時の私に言ってやりたいです「声を、かけろ、すぐに」とね。「大丈夫ですか?」とか「うっかりして申し訳ない」とかいくらでもあっただろうに。
でも、かけられませんでした。
びっくりしたんです。眩しくて。あんまり眩しいもんで、私が見ているのが本当に人間なのかわかんなくなっちゃったんですよ。
いやいや例え話じゃなくてですね。
彼女は遠い西の国から流れてきたひとでして、全体的に色が薄くて白っぽいんです。髪も磨いた
しかし当時の私はまだ若造で、西の人なんて見るのも初めてで、自分は今何を見ているんだ?言葉は通じるのか? 話しかけていいのか? という気持ちでいっぱいでした。
そのうち、ぴょんぴょんピカピカしてた彼女も落ち着いてきて、私にもだんだんナリが見えてくる。
あのころ私はちょうど二十歳で、彼女は少し年下に見えました。袖無しの赤い服からすんなり伸びた腕。肩口あたりで、くりんくりんと跳ねる髪。
彼女がしかめっつらの左目を開けます。妻と私の、最初の会話です。
◇ユエ
「いたい」
◆クォン
「すいません、よそ見してました」
◇ユエ
「動かないで」
◆クォン
「なんでです?」
◇ユエ
「平笠で方角を見てる」
◆クォン
なんの事やらさっぱりでしたが、彼女はずいっと近寄ってきた。透き通った琥珀みたいな左目がですね、その視線が私の頭に乗っかった
◆クォン
「初対面の男に、近づきすぎだと思うんですよね」
◇ユエ
「うん、ごめんね。すぐ終わる。──あっちか」
◆クォン
彼女はちょっと背伸びして、私の頭から笠を取ります。
頭の両脇に彼女の腕が伸びてきて、ピリピリと頬に痺れるような感覚が走りました。
◇ユエ
「はい、ありがとう。動かれたらせっかくの術が狂うところだったよ」
◆クォン
「ああ、そりゃあ……よかったです。あの、右目をずっと閉じたままですけど、そちらは大丈夫ですか?」
◇ユエ
「これ? 右目は生まれつき──町も離れるし、隠すことないか」
◆クォン
右目が開きました。
カンカン照りの明るい陽射しにキュっと縦にすぼまる、金色の猫の瞳がはまってました。
◇ユエ
「聞いたことある? 西の国から来たまじない師『平笠の化け猫』の噂」
◆クォン
「全然ありませんけど、世の中、いろんな人いますね」
◇ユエ
「う……そうだね」
◆クォン
これが彼女との出会いです。
恥ずかしながら、私は浮かれていました。
お二方も出会ったばかりの頃、ふわふわと熱に浮かされたようになったことはございませんでしたか?
彼女が笑った時、小鼻にくいっとシワが寄りましてね。あ、もう一度見たい。このひとと仲良くなりたい。この機会を逃してはならない、と強く感じて、名乗りました。
◆クォン
「私の名前はクォンです」
◇ユエ
「ん? うん。わかった。急になに?」
◆クォン
「まじない師さんに名前を預ければ、
◇ユエ
「ないよ?」
◆クォン
ですよね。知ってます。私は腹の内を明かします。
「あなたの名前を知りたいんですよ」
◇ユエ
「わたしの名前にも
◆クォン
「やや、あなたが気づいてないだけで、あるんじゃないですか? 商売繁盛とか」
◇ユエ
「適当なこと言うね?」
◆クォン
「じゃあ試しに教えてみてください。次に会うときには、儲かって儲かって、店なり家なり持ってますよ」
◇ユエ
「へぇ? どうしようかな」
◆クォン
「ナントカの恩返しって、昔話にもあるじゃないですか。通りすがりの人に親切にしたら、それが何倍にもなって帰ってくる。さぁ! いま! 絶好の機会です!」
◇ユエ
「変な人だね、きみは。まあいいや。わたしはユエ。ただのユエ」
◆クォン
ユエさん。
この後三十年、何度も口にした名前です。わたしは、ちょっといい所を見せたくて言いました。
「シーイーの言葉で、月を意味するお名前ですね」
◇ユエ
「うん。じゃあそういうことで」
◆クォン
「待ってくださいよユエさん」
◇ユエ
「あるといいね、
◆クォン
追いかけようとはしたんですが、ユエさんの姿は人混みに溶けて見えなくなってしまいまして。まるで獣が草むらに隠れるような巧みさでしたよ。
なるほどまさに化け猫! なんてことを思いましたが、まさかの翌々日に再会しましたよね。
私たちは全部で三回、偶然に出会いました。
二回目に会った時、ユエさんは足をくじいて立ち往生してましたので、最寄りの町まで荷台に乗せて行きました。
三回目は、ダンダラココというモノの怪の腹で出会いました。
これらの事を、ユエさんは覚えていません。
(クォン、一息つく)
◆クォン
さてさて、二回目に会った時のお話です。
私は
足を投げ出して、荷台の囲いに背中を預けて、ずいぶんくつろいでいるなぁと思ったものです。ぼってりとした日差しは午後深くに傾いて、斜め後ろからユエさんの声がします。
◇ユエ
「この馬の子、お尻が白いね」
◆クォン
「変わってるでしょう?
◇ユエ
「へえ、よろしくモンチャン。重くてごめんね」
◆クォン
「どうってことないですよ、こいつには。けっこう揺れますが、痛みませんか?」
◇ユエ
「骨は折れてないみたいだし、足の下に敷く布たくさん貸してくれたし、ぜんぜん平気。本当にありがとうだよ。これはどっちだろうね。クォンの名前を聞いたからか、クォンに名前を教えたからか」
◆クォン
「なんの話です?」
◇ユエ
「足をくじいた時に空っぽの荷車を引いた知り合いの行商人が通りかかる御利益の出どころについて」
◆クォン
「素人には難しい質問ですねぇ」
◇ユエ
「真面目なお返事だなぁ。クォンには何か御利益あった?」
◆クォン
「商売繁盛とはまた違ったみたいですけど、はい」
◇ユエ
「へえ、昨日の今日なのにすごいや。どんないい事?」
◆クォン
「ユエさんに会えました」
◇ユエ
「きみは、急にそういうこと言うね」
◆クォン
「いえ、これでも結構ほんとうにそう思ってるんですよ。ほら、おとといぶつかったお詫びもできませんでしたし」
◇ユエ
「あー、いいよあれは。わたしもよそ見してたから」
◆クォン
「でも、ユエさんは顔打ったじゃないですか」
◇ユエ
「そうだけど、うーん、なら、いま乗っけてもらってるのでおあいこってことでどう?」
◆クォン
「こんなことでいいんなら、はい。……そういえば笠で方角を見るっていうのは、まじない師さんはよくやるんです?」
◇ユエ
「笠はあまり使わないかな。くるくる回るけどもっと小さい……
◆クォン
「はあ、そういうものですか。あそうだ、実はあのあと『平笠の化け猫』の噂について、ちょっと聞いてみたんですよ」
◇ユエ
「うん。まぁだいたい噂通りだよ。モノの怪退治専門のまじない師で、流れ者で、
◆クォン
「化け猫ユエというのも」
◇ユエ
「同じ同じ。わたしわたし」
◆クォン
「人喰いだってのが」
◇ユエ
「それは間違い。でも人喰いの噂を聞いてたのに、よくわたしを荷車に乗せたね。怖いもの知らず?」
◆クォン
「いやあ、鼻ぶつけて『いたい』って言う人がそんな恐ろしいモノとも思えませんでしたし」
◇ユエ
「モノの怪もヒトを誘うときは怖くないから、気を付けなね?」
◆クォン
この時の言葉は本当でしてね。
ユエさんと三回目に出会った時、私はモノの怪の腹の中におりました。
あれは年も変わって、雨季が来て、またその終わりに差し掛かったころでした。私の荷車は満杯の籠細工(かございく)を運んでましてね。本当ならもう宿場町に入っている予定だったのですが、途中で車が泥にとられたりと、思ったよりも時間がかかってしまったのですよ。
もう日も暮れてしまう頃合い、やれやれと提灯に火を入れたらゴロゴロと空が鳴りました。これは土砂降りが来るぞ参ったぞと思ったら人家の明かりが見えまして。
「ごめんください」
返事がないので、ままよ、とモンチャンと荷車を土間に引き入れましてね。やれやれ、といったところで
◇ユエ
「わあ! クォンだ!」
◆クォン
「ユエさん!?」
◇ユエ
「モンチャンも元気そうだね、久しぶり!」
◆クォン
小鼻にシワが寄ってまして、私は言葉に詰まりました。なんでしょう、嬉しそうにしているのが、とても愛くるしくて、嬉しそうなのが、とても嬉しくてですね──。
あ……すみません、続けます。おほん。
ユエさんは
◇ユエ
「早くこっちあがっておいでよ」
◆クォン
その暇がもらえませんでした。
高床の中二階なんて普通は寝床ぐらいしかありませんから、私は期待半分、緊張半分で急な
中二階では、
◇ユエ
「わたしがいなかったら、朝にはこの世とさよならしてたよ。気をつけろって言ったでしょ? ほら、座って」
◆クォン
そして、ユエさんは
◇ユエ
「ダンダラココ。家オバケ。わたしたちはそのお腹の中にいます。このモノの怪のいいところは、虫の類が中にいないこと。どんな大雨でも雨漏りしないこと。洪水でも流されないこと。
◆クォン
「すごいですね。住みたい」
◇ユエ
「ね。で、悪いところは、まぁ、モノの怪だしね。中に入った人を食べることです。そうならないように、今からきみに粉を
◆クォン
「わかりました。お願いします」
ユエさんの右手には
「近づきすぎだと思うんですよね」
◇ユエ
「目ぇ閉じて。粉が入るよ」
◆クォン
従います。おでこに粉袋をとんとんされました。
「変わった匂いしますね。
◇ユエ
「いろいろだね。この匂いでダンダラココを誤魔化して、朝までぐっすり。はい、とんとん」
◆クォン
「モンチャンには何もしなくていいんですか?」
◇ユエ
「モンチャン
◆クォン
「ユエさん、いつもモノの怪の腹ん中で寝るんですか?」
◇ユエ
「まさか。ダンダラココは季節モノだよ。今日は運がよかった。はい、とんとん」
◆クォン
「あの、ユエさん」
◇ユエ
「なに?」
◆クォン
「私と暮らしませんか?」
◇ユエ
「──はい、おしまい」
◆クォン
おしまい、が、粉叩きの事なのか、この話題のことなのか、それとも私との関わりの事なのか、わからないまま目を開けました。ユエさんは怒ったような、悲しんでいるような、そんな表情をしていて、この時だけはとても頼りなく見えました。
雨と心臓の音ばかり聞こえていたのを覚えています。
ユエさんが私から目をそらし、目を泳がせ、ぎゅっと目をつぶりました。再びその両目が開いた時には、力の抜けた、呆れたような笑みが浮かんでいまして、こう言われました。
◇ユエ
「きみは、急に、そういうこと言うよね」
◆クォン
(ひと息ついて、お二方を見る)
はい。
ずっと後になって、いろいろ忘れてしまったユエさんから、私たちはいつ結婚したのかと尋ねられたことがあります。私はこの日の事を話しました。ユエさんは随分と笑っていましたよ。モノの怪の腹の中で結婚した夫婦なんて、世界中探したってわたしたちぐらいだと。出会った頃と変わらない姿で、小鼻にシワを寄せてね。
さて、そんな思い出のダンダラココも、日の出前にユエさんがきれいさっぱり食べてしまいました。
◇ユエ
「わたし、こういうひとだけど、本当にいいの?」
◆クォン
右腕についたダンダラココの血をべろりと舐め取り、ユエさんは文字通り「もう一つの顔」を見せて言います。
鋭い牙を持つ白猫の顔、モノの怪喰いの化け猫としての顔です。
人の頭が猫の頭にすげ変わるところも、細い指がダンダラココの
情けない話なのですが、もしモンチャンがいなかったら、ユエさんの問いに答える決心はつかなかったかもしれません。
ユエさんに、モンチャンが鼻面を擦りつけたんですよ。あいつは動物ですから、私たちが何を話してるかなんてお構いなしです。それで、ユエさんの素の部分がちらりと見えました。
私は立ち上がろうともがきました。大事な事を言うのに、腰を抜かしたままではいけません。
ユエさんが手を貸してくれまして、私は軽々と助け起こされました。「ユエさん」と声をかけます。握ったままの手から、緊張がわかります。
「私は、あなたがいい」
猫の顔へ言いました。人の身体に猫の頭が乗っているのは異様ですが、瞳をみれば、やはりユエさんだとわかりました。
「そりゃ、たまたま三回あっただけの相手です。それはバカな私でもわかっちゃいるんです。でも、初めて会った時からですね、次の町に、あの道を曲がったところに、猫の右目のまじない師さんがいないかと期待しない時はありませんでした。
この広い世の中で、お互い勝手に生きてるのに、三回も会えたんです。でも、次からは偶然じゃなく、必然がいいです。ユエさんには私の所に帰ってきてほしいですし、私はあなたの所に帰りたい」
「ユエさん、あなたが好きです」
ユエさんの表情は読めません。金と琥珀の瞳で私を見つめています。真珠色の毛でおおわれた口が動いて、牙の隙間からユエさんの声がします。
◇ユエ
「わたしは……」
「わたしは、誰かに再会するのって、きみが初めてだったんだよ。知ってる人にもう一度会ったってだけなのに、きみはなんだか嬉しそうにしてて、わたしもそれがなんだか嬉しくて──
笠の神様が指す先に、クォンがいたりしないかな、とは、思ってた」
◆クォン
ユエさんの頭が、猫から人へと戻っていきます。真珠色の毛が抜け、磨いた稲藁みたいな色の髪が肩口で、くりんくりんと跳ねます。
その髪先が、夜明けの光を含んでいました。やっぱり眩しいひとでした。
◇ユエ
「わたしにはね、秘密がたくさんあるんだ。これからクォンは、それを知っていくことになるよ。それでも、わたしを嫌わないでくれたら、うれしい。
……えっと、そんなふうにまっすぐ、す──好きとか言われたこと、ないから、どうしたらいいかわかんない」
◆クォン
つい先ほどまで猫頭でモノの怪をむしゃむしゃ喰ってたひとが、顔を真っ赤にしてうつむきました。握った指先がもじもじと動いていまして私も一気にのぼせ上りまして
ベェヘーヒェ!
と
「ええっと……とりあえず出発しましょうか。私は城下へ向かうつもりでしたが、ユエさんは、どんな予定でしたか?」
◇ユエ
「いいよ、きみと一緒に行く。笠の神様は一回お休み」
◆クォン
「それじゃあ、道すがら、話しましょう。これからの事だとか、いろいろ」
◇ユエ
「そうだね。わたしも、相棒の事を紹介したいし」
◆クォン
「え、そんな人いるんですか!?」
荷車の車輪が回ります。私たちは城下へと進みます。
平笠の化け猫、化け猫ユエ。
私の生涯の伴侶でした。
◆クォン
ふぅ。
こうして私とユエさんと右目殿の三人で、たどたどしく新生活を始めていくことになりました。
(お二方から、「三人?」と疑問の声が上がる)
◆クォン
あ、はい。三人です。
驚かせてしまって申し訳ないのですが、ユエさんの右目には猫の魂が宿っておりまして、この右目がユエさんの相棒でした。今までにお伝えした出来事はこの右目殿に全部見られていたわけですね。ははは。
私も最初は非常に戸惑いましたが、そのうち右目殿も義理の兄のような感じになりました。
いや、そんな、おめでとうだなんてお恥ずかしい、もう三十年も昔の事ですのに。
ああ、でも、つい昨日のように思い出してしまうものですね。お二方も最後まで仲むつまじいご様子で、なによりでございます。
あの、もしお二方にも何かお話したいことがおありでしたら喜んで聞きますが──
そうですか、では引き続き。ここからはいささか辛いお話もございますが、ユエさんの事、語らせていただきたく。
おほん。
鼻をぶつけたことも、荷車に乗ったことも、ダンダラココの腹の中でかわした言葉も、ユエさんは覚えていないと、先に申し上げました。
ユエさんは
ユエさんがモノの怪を喰うのは、この魔女の飢えを満たすためです。
魔女が飢えると、ユエさんの魂をかじって思い出を奪います。
ですのでユエさんはモノの怪を喰うために、まじない師としてモノの怪退治におもむきます。
ダンダラココのように簡単に喰えれば良いですが、危険は多く、文字通り死ぬような目にも遭うのだそうです。
刺された、斬られた、
ユエさんからその事を聞いた時には、正直申し上げて「それでも命あっての物種だ」と呑気に構えていたところがありました。しかし結婚して三年がたったある日、大きな出来事がありましてね。
私たちは、王太子殺しの下手人として濡れ衣を着せられました。
私は行商の先で捕らえられ、牢に入れられました。
理由なぞわかりません。
ユエさんはモノの怪退治に出向いた先で役人や将兵に追われ、ついに追いつかれ、そして、魔女が出たそうです。
つまり、死ぬような傷を、負わされたのです。
こうしてお話している今でも私は、この仕打ちを許しておりません。文字通り一生、私はあの国を許しませんでした。
あの時。
王族殺しの一味として処刑場に引き出され、柵越しに石と罵声を浴びながら私は、なぜ自分がそんな所にいるのか理解できませんでした。モノの怪退治に出ていったユエさんと右目殿は、馬宿に預けっぱなしのモンチャンは、無事でいるのか。つい数日前まで静かに暮らしていたはずなのに、なぜ、私は首をはねられようとしているのか。
まさに処刑されようというその瞬間に、甲高い猫の
正午の日差しを背負って空から落ちてきたユエさんの姿を、私は生涯忘れることはありませんでした。稲妻のように着地し、処刑人たちをなぎ倒し、嵐のように私をさらって行った最高の化け猫です。
そして、私と、ユエさんと、右目殿と、モンチャン。全員で国を出ました。
しかし、ユエさんは私の事を忘れてしまっていたのです。
私との思い出をなくしてしまっていたのです。
私の顔さえ忘れてしまったのに、それでも、助けに来てくれたのです。
ユエさんは言いました。
◇ユエ
「わたしの右目があなたの事を教えてくれた。
だけど、それだけじゃないんだ。
わたしの家の──わたしとあなたが暮らしていた家のあちこちにね、幸せだったっていう気持ちが残ってた。
昨日までのわたしにくれた幸せを、これからの、あなたの命に返そうと思ったんだよ」
◆クォン
国境を越え、昼間の人目を避けて隠れた林の中でした。
また生きてユエさんに会えた喜びとは別に、また無事に家族がそろった安心とは別に、私は言いようのない寂しさを覚えました。目の前にいるユエさんは、私がともに暮らしていたユエさんとは違うのだと知りました。
夜明けの中でもじもじと指先を動かしたときの気持ちも
夕暮れの荷車の上からモンチャンを眺めていた時の気持ちも
私と初めて言葉を交わしたときの気持ちも
彼女は覚えていないというのです。
「ユエさん、今までみたいに『きみ』と呼んでくれませんか。私は、私が、今までユエさんにしてきたことは、私がそうしたいから、したのです。少しでもあなたが喜んでくれたら嬉しいと、それだけのことだったのです。
ただの一度も、何かの対価だったことはありませんでした」
ユエさんは、私が見た中でも一番くるしそうに顔をゆがめました。
◇ユエ
「だけど、あなたの事は、やっぱり、思い出せないんだ。
ごめんなさい。なくしてしまってごめんなさい。あなたはいい人だったはずなのに、ずっと一緒にいたはずなのに、なくしてしまって、ごめんなさい」
◆クォン
私はたまらず彼女を抱きしめて、泣きました。
だって、ユエさんは何も悪くないじゃないですか。何も悪くないのに、私は何も取り返してやれないじゃないですか。
泣き疲れました。日が暮れます。出発です。なるべく国境から離れなければなりません。十何年かぶりに大泣きして、薄っぺらく感じる肺に空気を吸い込み、私はユエさんに告げました。
「私の名前はクォンです」
◇ユエ
「うん……知ってる」
◆クォン
「いいえ、私はまだあなたに名乗っていません。私はクォン。強い、という意味です。あなたの名前を教えてください」
少しあり、ふわっ、と力の抜けた微笑みを見せて、ユエさんが名乗ります。
◇ユエ
「わたしはユエ。意味は、シーイーの言葉で、月」
◆クォン
「素敵です」
◇ユエ
「うん。わたしもこの名前が好きだよ」
◆クォン
そう言って、ユエさんが平笠を手に持ちました。
◇ユエ
「クォン。わたしとくれば、また危険に巻き込まれるかもしれないし、わたしはまた何か大切なことをなくして――(さえぎられる)」
◆クォン
「(さえぎる)いいですよ。大丈夫です。私は強いので負けません」
◇ユエ
「返事が早いよ……ありがとう」
◆クォン
そして、ユエさんが平笠を真上に投げ上げます。少しの風があります。上弦の月が夕方の空高くに見えました。これから満ちる月、やはりユエさんの名前は素敵だ、などと
あ、これは、と。なりました。以前の事があるので私は動けず、笠はそのまま、きれいに私の頭にはまりました。
すぽん。
◇ユエ
「あははははははは! ははははは!」
◆クォン
ユエさんがお腹を抱えています。
ベェヘーヒエ! とモンチャンが声を上げます。まったく、人目を避けているのにこの大騒ぎですよ。
方角が狂いますからね、私は動きません。
ユエさんが笑い収めて、笠に描かれた模様を読みます。
模様を読むユエさんの表情が好きです。
やがてユエさんは背伸びして私の頭から笠を取り、そのユエさんと目が合います。
◇ユエ
「改めて、よろしくね。クォン」
◆クォン
「こちらこそですよ、ユエさん。また、好きになってもらいます」
◇ユエ
「あなたは、急に、そういうこと言うんだね」
(沈黙)
◆クォン
この日から長い間、私たちは居を定めることなく暮らしてきました。
私たちの間には子どもができませんでしてね。ユエさんは、もしかしたらお腹の魔女のせいかもしれない、と言っていました。
私が三十歳になるころ、ユエさんが年を取らないことがわかりました。
やがて私たちの大切な耳長馬が年老いて、とある山の
あのひとの怖さに対して私ができたことは、せいぜい長生きすることだったと思うのですが、病を得てしまいましてね……。
ただ、ユエさんが私と一緒にいてくれた三十年は、私を幸せにしてくれたと、伝えることはできました。
願わくば、あのひとにとってもそうであってほしいと、そう思うばかりですよ。この期に及んで、なお。
右目に猫の魂を、
美しいひとですよ。
ところでお二方、私は生前にユエさんから聞いたんですが、人が死ぬと、その魂はまた別の世に生まれ変わるんだそうですね。ですが、死んでから生まれ変わるまでの間にこんな待合室があるだなんて、あのひとも知らなかったことでしょう。
教えてあげたいような気もします。
これは冗談半分で訊くんですが、幽霊とか亡霊とか、そういうモノになるのはどうすればいいのかご存じですか?
いや、ははは。
べつに誰にも恨みはありませんよ。ただ、できれば家族の側にいたいなぁと思うのは、自然な気持ちじゃないですか。それに、あのひとはね、職業柄といいますか、見えるんですよ、亡霊が。
あ、いや、やめておきましょう。現世に残る亡霊を祓うのも、まじない師ユエさんの仕事でした。死んでなお妻に迷惑かけるわけにもいきませんしね。
ああ、もう行かれるのですか。話を聞いて下さり、ありがとうございました。どうか次に産まれる世界が平穏でありますよう。
あの、お二方。
もし私の見立てが外れていたら申し訳ないのですが、あなたがたはもしや、ユエさんのご両親ではありませんか?
──わかりますって。笑った時のシワ、興味をひかれた時の目の形、照れた時の口のとがり方、あのひとがそっくりです。
私はここであのひとを待とうと思います。
生まれ変わりを待つ人に、ノロケ話をしながら、いつかユエさんが
それでは、行ってらっしゃいまし。
右目に猫の魂を、
美しいひとですよ。
<<化け猫をまつ 完>>
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