声劇_化け猫ほうむる【5幕 180分 最小編成2:2】

【画面右上の「ぁあ(ビューワー設定)」から、組み方向を縦組みにすると読みやすいかと思います】


利用規約はこちらです。ご了承の上でのご利用をお願いいたします。

https://kakuyomu.jp/works/16817139555946031744/episodes/16817139555946036386


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【概要】


「わたしがいま感じてるのは、あの子の亡骸なんだろうね」

右目に猫の魂を、下腹に魔女の魂を抱え、死ぬことのない娘「化け猫ユエ」

年を取らないまま三十年の結婚生活を終え、未亡人となったユエは“故郷”である西方の都市シュダパヒを訪れた。


この街で暮らした記憶は、魔女に喰われて既にない。

もし元の名を呼ばれてしまえば、ユエの魂は今度こそ魔女に喰らいつくされる。

それでも、かつて家族だった人に伝えなければならないことがあった。


魔女の影が残る街の中、思い出は無くなってしまったのにあの頃の「あの子」の気持ちは胸に入りこんでくる。

もうどこにもいない「あの子」を抱いて、化け猫ユエが爪を振る


原作:「化け猫ほうむる」

https://kakuyomu.jp/works/16816927860682417668


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兼ね役表

2:2で役を兼ねた時の例を以下に記載します。あくまで例ですので、ご参考までに。


(リールーを男性が演じる場合)

女性1:ユエ / 子宮の魔女 / あの子

女性2:セレーラン / 月明かりの魔女 / プルイ / エーラ / しっぽ髪(終盤のみ)

男性1:ウェラン / クォン / ケト(一言のみ)

男性2:リールー


(リールーを女性が演じる場合)

女性1:ユエ / 子宮の魔女 / あの子

女性2:セレーラン / 月明かりの魔女 / エーラ

男性1:ウェラン / クォン / ケト(一言のみ)

男性2:リールー / プルイ / しっぽ髪(終盤のみ)



ユエ、リールー、ウェラン、セレーランの4名を基準として割り振るのがわかりやすいかと思います。

2:2はあくまで目安です。



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人物登場表


第1幕


ユエ、リールー、ウェラン、クォン、セレーラン、月明かりの魔女、子宮の魔女、あの子(ユエ兼役)


第2幕


ウェラン、プルイ、エーラ(一言だけ)、ユエ、リールー


第3幕


ユエ、リールー、エーラ、月明かりの魔女、ウェラン


第4幕


ユエ、リールー、ウェラン、しっぽ髪、ケト(一言だけ)、エーラ、月明かりの魔女、子宮の魔女


第5幕


あの子(ユエ兼役)、ユエ、リールー、ウェラン



<< 登場人物 >>


◇ユエ (女性。年齢不詳)

 15歳で魔女と猫の魂を抱え、年を取らず、死ななくなった。産まれた土地を離れて東の国々を放浪していたが、再びシュダパヒに戻ってきた。

 名前の意味は東方の言葉で「月」。両親からもらった元々の名前があるが、その名で呼ばれると子宮の魔女に正体がバレて魂を喰われてしまう。

 実年齢は55歳だが、体が老いず思い出を失う背景から、振る舞いとしての年齢は不詳。


 語りも担当。子宮の魔女と兼役可

 「あの子」と必ず兼役



◆リールー (不問。年齢不詳)

 ユエが14才の時に召喚し使い魔として契約を結んだ王族猫おうぞくねこ。現在はユエの右目。眼球振動で頭蓋骨を震わせユエと会話をする。

 ユエが忘れても、リールーが覚えている。

 語りも担当。



▽子宮の魔女 (女性。幼女 - 少女)

 下腹したばらの居候とも。ユエの子宮に宿る魔女の魂。主に終盤に登場。

情念に満ちたモノの怪が(食物的な意味で)好物。幽霊は嫌い。人間は食べないが、周りに食べられるものがないと、人間をモノの怪に変えて喰う。


 ユエと兼役推奨



●ウェラン (男性 54歳)

 エスタシオ家の当主。54歳。画家。両脚に成長障害があり、極端に足が短い。

 キャブレ・グリューに入り浸っている。酒飲み。別れた妻と娘がいる。

 ウェラン(語り)も担当。

 クォンと兼役推奨。



◎エーラ (女性 13歳)

 シュダパヒに住む、魔法の素養をもった貧しい少女。13才。姓はパコヘータ。母は娼婦であり、ウェランの絵のモデルもしていた。街の魔法使いと知り合いで、いろいろ手ほどきを受けたことがある。

 語りも担当

 プルイと兼役可

 セレーランと兼役可



☆セレーラン (女性 35歳)

 ウェランの従妹。医師。三十代半ば。比較的よくしゃべる。女性で医者になるにあたり周囲の反感や偏見も多かったが、ウェランにいろいろと励まされ、後押ししてもらった。ユエに対しては好意的に接している。

 エーラ、プルイと兼ね役可。



△あの子 (女性 15歳)

 故郷シュダパヒで家族と共に暮らし、元の名を名乗っていた頃のユエ。



▼月明かりの魔女 (女性 老女)

 かつてシュダパヒ近郊の森に暮らしていた魔女の老婆。「あの子」に魂のかけらを渡した後、老いて死んだ。


 ユエ&子宮の魔女以外と兼役可



〇プルイ (女性 20歳)

 郊外に住むウェランの娘。20才。怖い話や怪奇現象にまつわる話が大好き。

魔力ビンの配達所で事務をしている。名前の由来は「雨」

 エーラと兼役可

 セレーランと兼役可

 月明かりの魔女と兼役可



■クォン (男性 23 - 50歳)

 ユエの夫。故人。夢の中に登場。

 東の国で行商をしていたが、濡れ衣を着せられて夫婦ともども隣国へ逃亡した。50歳の頃に病で死去。唄が好き。帳簿の欄外に日記のようなものをちょいちょい書いていた。

 他の男性役のいずれかと兼役推奨



□しっぽ髪 女性

 シュダパヒ魔法協会の代表。大人としての演技であれば想定年齢は自由。

「王族猫とバクラウァの夜」からのゲストキャラ。

(ユエと会話あり。ユエ役以外の女性による兼役を想定しています)



★ケト 不問

 しっぽ髪の使い魔。年齢不問、性別不問。セリフ一言「どっしり構える!」のみ。

 「王族猫とバクラウァの夜」からのゲストキャラ。誰と兼ねても可。



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45000字

上演時間目安 180分



(以下本編)



<第1幕>


●ウェラン(語り)

 シュダパヒ大社殿たいしゃでんの鐘の音ひびく頃、手に手に長い杖をたずさえて男たちは街を行く。至る所に立ち並ぶガス灯へ、ガス灯へ、男たちから杖が伸ばされ、火が入り、火が入り、熱にマントルが明るく輝く。

 宵闇よいやみせまる大地にぽつぽつと光の点が広がり、放射状に伸びる八本の大きな道と、それらを結ぶ8つの八角形が浮かび上がる。街の姿は、朝日に光るアカネグモの巣にも似ていた。


 しかしクモの巣とは異なり、街は自ら輝く。


 ここシュダパヒにおいて夜とは、闇によらず、光によって始まるものであった。

 中でもひときわ輝くキャブレ・グリューはショーの開演時間を控えて、遊び好きの紳士淑女、今風いまふうに呼んで「パヒジェンテ」がうきうきと集まってくる。

 シルクハット、山高帽、羽飾りの帽子、花飾りの帽子、サテンの飾り紐やスパンコールで彩られた帽子など。華やか、鮮やか、きらびやかな帽子たちがキャブレに吸い込まれていく。

 その流れの中に、場違いなかぶり物があった。

 わらの円である。


◇ユエ(語り)

 円は遥か東方の国で編まれた古い平笠ひらかさであり、笠の持ち主、つまりわたしはツル草を固く編んだ旅行たびこうを背負う。

 腰から上には使い込まれた麻の袖付きに、赤い刺繍の毛織りの胴衣。腰から下には紺染めの筒袴つつはかま


●ウェラン(語り)

 そのいで立ちは異国情緒というには情緒が過ぎて、異国そのものだ。

 娘はキャブレ前に張り出された貼紙看板はりがみかんばんを見つめていた。

 麦わら色の髪を首の後ろで緩く結び、キャブレの光に照らされた娘の、二つの瞳。


◆リールー(語り)

 右の瞳が、私だ。


◇ユエ(語り)

 わたしよりもわたしの事を知っている、金色をした猫の右目。


◆リールー(語り)

 左の瞳は、人間のものだ。


◇ユエ(語り)

 つまり、わたしの生まれつきの目。

 この街の明かりはなんだか眩しいし、四十年を過ごした東の国と比べるとここは肌寒い。よってわたしは、盛大にくしゃみを。ほ。


◇ユエ

 ほ。

 ほあっ……じぶち!


◆リールー

 ご加護あれ。


◇ユエ

 ……なに? それ?


◆リールー

 このあたりの人間はな、くしゃみに「ご加護あれ」と声をかけていた。


◇ユエ

 ふーん。何かのおまじない?


◆リールー

 おそらくな。ユエよ、先ほどからこの絵を気にしているが、なにか覚えでもあるのか?


◇ユエ

 ううん、そういうんじゃないよ。この女の人の踊り、脚が強くて、よく跳びそうだなって思ってっ、へっ。ほっ。ほぁっ……じぶち!


◆リールー

 暖かな寝床か上着を見つけねばならんな。


◇ユエ

 もっとモコモコしたのを用意するんだった。あらかじめ教えといてよリールー、西の夜は冷えるぞって。


◆リールー

 私は暑い寒いの感覚から離れて久しいのだ。すっかり失念していたよ。


◇ユエ

 寒くて迷子で、こまったね。こっちに来てから『笠の神様』も調子が悪いし……。街の名前はシュダパヒで合ってるんでしょ?


◆リールー

 うむ。だが、あまりに様子が変わってしまっていて、どうにも私の記憶と合わんのだ。この四十年の間に全く別の「シュダパヒ」でも出来たのではなかろうな。


◇ユエ

 そこのひとー?


◇ユエ(語り)

 と、わたしは手近な男の人に聞いてみた。


◇ユエ

 無いって。


◆リールー

 聞こえておる。


◇ユエ

 (辺りを見回す)迷子の迷子の化け猫ちゃん、住んでたおうちがみつからなーい。みぎめに聞いてもわからない。ひだりめの持ち主おぼえてない。


◆リールー

 ユエ待て! あれを見ろ。屋根の上だ。


◇ユエ

 ……嘘だ。おばば? 生きてたの?


◆リールー(語り)

 元の色が分からないほど古びた頭巾や毛織のショールと、いささか馴染まない茜色のひざ掛け。あのひざ掛けには私も見覚えがある。


◇ユエ

 猫は、


◆リールー(語り)

 ユエが魔力を取り込み、私から魔法を引き出す。


◇ユエ

 よく、跳ぶ!


◆リールー(語り)

 ユエの跳躍。人々のどよめき。

 立ち並ぶ建物の屋根の上、老婆を乗せた安楽椅子が滑走して逃げる。


◇ユエ

 ちょっ、待って、話ぐらい聞いてよ!


◆リールー(語り)

 ユエも走って追うが、安楽椅子にぐんぐんと離される。ユエがさらに魔法を要求してくる。


◆リールー

 受け取れ!


◇ユエ

 にゃあああああっ!


◆リールー(語り)

 猫の魔法「猫まとい」。ヒトの頭が猫の頭にすげ変わり、私の視界にも白い毛先と薄紅の鼻先が入る。化け猫が夜を駆ける。


◇ユエ

 あなたの子は今でもわたしのお腹にいるんだよ、月明かりの魔女!



●ウェラン(語り)

 娘が屋根を跳びまわっているとかでキャブレ・グリューの周りは騒然としており、私はカフェテラスで酒を飲んでいた。

 アプシンに角砂糖を溶かしつつ、強いアルコールにかすむ目で見上げると、流行の写真機を構える若者たちがキャブレの屋上テラスに見えた。

 そういえば離れて暮らす娘も写真機を欲しがっていた。最近の発明で、夜でも写真が撮れるようになったと聞く。ガラス玉の中にアルミニウムとエーテルを封じ込め、雷の魔法を走らせるのだそうだ。閃光玉せんこうだまと言ったか。

 「来てるらしいぞ!」と誰かが叫んで、カフェの空気も多少は緊張して、私は緑色のアプシンをちびちびと舐めていた。


◆リールー(語り)

 安楽椅子は疾走す。

 屋根の煙突や配管を巧みに利用し、曲芸のように滑走する。

 ガス灯明るしと言えど、屋根の上には夜が残る。光の川に浮かぶ闇の浮島を、夜の眷属けんぞくが跳びまわる。跳びまわるのだが


◇ユエ

 おばば、なんなの? 遊んでるの? 本気なら空に逃げればいいのに。だいたいなんであんな元気なの?


◆リールー

 先ほどの劇場がみえるぞ。結局戻ってきたようだ。


◇ユエ

 ほんとなんなの!?


◆リールー(語り)

 安楽椅子が屋根から屋根へ、大通りを飛び越える。


◇ユエ(語り)

 わたしも続いて跳んだ。


◆リールー(語り)

 強烈な閃光。


◇ユエ

 ぎゃっ!


◆リールー(語り)

 私の記憶は途切れる。


◇ユエ(語り)

 わたしは跳び損ねて、建物の壁に激突した。

 屋根の縁にかろうじてぶら下がり、チカチカする左目で窓越しに見たのは、猫頭のわたしに驚き、ピストルを手にした若い軍人さんの顔で。

 わたしは撃たれた。


●ウェラン(語り)

 私の席に、娘が落ちて来た。


<転換> 


◇ユエ(語り)

 リールー、リールー、リールー。返事をして、リールー。

 体中が痛い。視界がおかしい。右目が視えない、返事もない。

 皮膚が裂けた痛みがあちこちにある。けれど目は、右目は痛んでいない。なのに応えてくれない。

 左のわき腹に、魂を齧られるような痛みがある。じわじわと濡れた感覚が広がって、出血しているとわかった。放っておけば命に関わる。下腹(したばら)の居候が目を覚ましてしまう。

 居候が好んで食べそうな妖魔、妖怪、妖精の類が周りにいればいい。いなければ、確実に犠牲者がでる。

 離れないと。

 約束したのだから。

 なるべく人は殺さないと。

 例えそれが居候によるものでも、抱えたのはわたしなのだから。

 立ち上がって、とにかく、遠くへ。立ち上がらないと。血止めをしなきゃ。荷物を開けて、あとは、あと、なんだっけ。なんだっけ、リールー。

 お願いだから応えてよ。怖いよ。ツンツン震えるだけでいいから。



<転換> 診療所。泥酔したウェランが戸を叩く。


●ウェラン

 セレーラン! 起きろセレーラン! 娘が、僕の娘が死んでしまう!


☆セレーラン

 プルイちゃんが!? プルイちゃ……あれ? いや、ウェラン、その人誰ですか? プルイちゃん?


●ウェラン

 プルイ? 違うぞ! プルイはここにはいない。この娘は……なんだ? でも家族のはずだ!


☆セレーラン

 「はずだ」って……。


●ウェラン

 頼むよセレーラン。助けてやってくれ、死んでしまう、姉さんが……姉さんが……。


☆セレーラン

 ウェランあなた五十越えてんですよ? どうみたって、この子があなたの姉さんなわけないでしょう。だからアプシンなんか飲むのやめろと言ってるんです。


●ウェラン

 やめる、やめるやめるよぉ。だから助けてやってくれよ。金は出す。どうせ、余ってるんだ。僕の娘が死にそうなのにセレーラン! 助けてくれないのか。


☆セレーラン

 あー、はいはい。やれるだけやりますよ。ほら馬車の人困ってますから。

 すみませんね御者ぎょしゃさん、彼は私のイトコで。で、私はこう見えて医者です。ご迷惑ついでに、この娘さんを中に運ぶの手伝ってもらえると。


●ウェラン

 すまない……すまない……。


☆セレーラン

 ウェランにはいろいろ後押ししてもらったんで、別にいいんですけどね。でも酒はやめてください、本当に、お願いですから。


●ウェラン

 すまない……。


☆セレーラン

 そう思うならそのスキットルをしまう!


<転換> 


◇ユエ(語り)

 寒い。

 頭が痺れる。

 誰かが叫んでる。

 誰かが体に触れてる。

 触るな。触っていいのは


■クォン

 ユエさん。

 起きてください。

 起きてください。

 ユエさん。

 仕方のない人ですよ、荷台に乗るとすぐ寝るんですから。ほら、城下が見えてきましたよ、ユエさん。


◇ユエ

 ――クォン? クォンも、生きてる……?


■クォン

 なんですか「も」って? 私が生きてちゃおかしいですか? ほら、モンチャン「も」いますよ。私たちの耳長馬の。まさか忘れてないですよね?

 結婚してからいつのまにか二年も経ってしまって、よし思い切って晴れ着を作ろう。贅沢しよう。って早起きしたんじゃないですか。寝ぼけてます?

 私、思うんですけどね、ユエさんの薄い肌色には深みのある鮮やかな色がきっと似合うと思うんですよ。

 お、肉饅頭にくまんじゅうのいい匂いです。採寸したら一緒に食べませんか?


◇ユエ

 だけど、だって、クォン。わたしはこの時の事を覚えていないはずなのに。魔女に喰われて、なくしてしまったのに。

 あなたに話してもらった事なのに。

 リールーに教えてもらった過去なのに。


■クォン

 うん? やっぱり寝ぼけてるでしょう?

 そうそう、聞くところによると万寿果まんじゅっかの熟したのを裏ごしして、練乳を混ぜた飲み物が大評判らしいんですよ。

 あ、目の色変わりましたね。


◇ユエ

 それは――別にいいでしょ? 好きなんだもの万寿果。


■クォン

 あはは、好きな果物言うのになんで照れてるんですか。それじゃあ、仕立て屋に行く前に寄りましょう。

 晴れ着を作るなら気分も盛り上げなくっちゃですし、ついでに天守堂にもお参りしておきますかね。


◇ユエ

 ――化け猫にも御利益、あるかな。


■クォン

 またまたぁ。未熟な我々をお守りくださいますよ。

(唄)

♪車ひくぅぅ、馬の背中に、花添えてぃ

 荷台の上にゃ嫁え乗せてぃ

 朝も早よぅからはるばる参れり

 五層のお屋根の高いことぉ♪


 はいユエさん。


◇ユエ

 えー、やだよ。恥ずかしい。


■クォン

 まじない師の仕事で唄ったりするじゃないですか。


◇ユエ

 あれは、だって、術の一環というか……なんでもない時に人前で唄うのは恥ずかしいんだってば。


■クォン

 あらあら、そうですか? 気持ちいいのに。


(苦しげに息をつく)


 あれ、おかしいですね。ユエさん、少し待ってください。さすが、天守堂への道は険しいようです。こんなに険しいものでしたっけ?


◇ユエ

 クォン、おかしいよ。モンチャンがいない。

 山だ。わたしたち山にいるよ。ここは、この道は、あなたが――


■クォン

 なんだか坂がきつくて。年ですかね。胸の調子も、どうにも。


◇ユエ

 だめ……! だめ!


■クォン

 (咳が出る)


◇ユエ

 止まって。わたしの脚、止まって。クォンを置いていってしまう。あんなに、あんなに遠くに。


■クォン

 ――無念です。

 ――もっと、長生きするつもりでしたのに。もっと、長く、一緒に。


◇ユエ

 止まって。止まれ。止まれよ!


■クォン

 ――あなたと過ごした三十年、私は幸せでした。あなたは三十年、私を幸せにしてくれました。産まれてから死ぬまでのあいだに、ユエさんと過ごす三十年があってよかった。

 ――あなたにはこの先も、きっと幸せがあるんですよ。そうに決まっています。だから怖がらないでください。

 ――右目殿、どうか、どうか後を頼みます。

 ――愛していますよ、ユエさん。


◇ユエ

 いやだ、クォン、あきらめたら、いやだ。


■クォン

 ……――あれ? へへ。私まだ生きてます? だめだと思っても、二、三日ぐらいは、死なないものですね。


◇ユエ

 そうだよ。そうだよ。クォンも死なないんだよ。元気になって、百年ぐらい生きようよ。ねぇ、百年ぐらい、生きようよ。まだ半分ぐらいだったじゃない。また唄を聞かせてよ。

 ねぇ、今度は一緒に唄うから……ねぇ、クォン。


■クォン …………


◇ユエ

 わたしもね、生きている間に、この三十年があって良かった。

 愛してるよ。

 ――だけどね、時々、触ってほしいんだ。


◇ユエ(語り)

 夢だ。

 夢を見て泣いた。

 というのは目を開ける前にわかった。

 まず感じたのはじんじんと主張する左の脇腹。

 そして体全体のしびれと重さ。

 目を開けると、暗がりに古い天井が見えて、右の視界がびくっ! とゆれた。


◆リールー

 おお、ユエ!


◇ユエ

 リぃ!! ぃ痛ぁ……い!


◆リールー

 大丈夫か!?


◇ユエ

 (悶絶)いぃいぃぃぃ……よかったああ……あた、いたい……

 あ、あんまり、大きな声出さないで。骨が震えて鼻の奥がズキズキする。


◆リールー

 (聞こえないぐらい小声で)強烈な光を喰らった覚えはあるのだが、その後が全くわからん。何があったのだ?


◇ユエ

 もうちょっと大きな声でも、大丈夫。ごめんね。


◆リールー

 強烈な光を喰らった覚えはあるのだが、その後が全くわからん。何があったのだ?


◇ユエ

 目がくらんで、壁にぶつかって、撃たれて落ちた。


◆リールー

 撃た……それでは、下腹したばらの居候が出た……のか?


◇ユエ

 居候が出てたら今頃わたしは無傷なはずだよ。だからきっと、誰かが手当てしてくれたんだ。

 それよりもリールー、大丈夫? リールーだけ気を失うなんて初めて。だよね?


◆リールー

 初めてのことだ。暗闇で瞳が開いていたからかな、まるで光で殴られたようだった。なんだったのだあの光は。


◇ユエ

 わかんない。おばばの魔法にしては手ぬるい気がするけど。


◆リールー

 同感だ。今はとくに不調も感じぬ。


◇ユエ

 でも右目に細かいゴミみたいのが浮いて見えるんだ。これ。洗えば治るのかな……


◆リールー

 物を見るのに支障はあるまい。


◇ユエ

 そういう問題じゃ!

 (悶絶)


◆リールー

 そなたの傷こそどうなのだ?


◇ユエ

 ……ひどいのは、おへその左あたり。中にちっちゃいハサミでも入ってるみたいな……動かすとすごい痛い。他は、打ち身とか切り傷の痛みがあちこちにある。あと鼻。奥がズキズキして地味にしんどい。

 全部ひっくるめて、いざとなったら気合で乗り切るよ。


◆リールー

 無茶を言うな。大怪我をするといつも熱を出すだろうに。

◇ユエ

 だから、いざとなったら。シュダパヒに着いて一晩でこのざまかぁ。油断したかなぁ……。リールー、わたしが眠っている間に何かあった?


◆リールー

 二度ほど誰かが様子を見に来た気配はあったが、それだけだ。


◇ユエ

 そっか。……よいしょ。


◆リールー(語り)

 ユエが首を持ち上げて、私にも部屋の中が見える。

 小さな石造りの部屋、ユエが寝かされているベッドと、枕側に窓が一つ、足元側には扉。


◇ユエ

 お、わたしの荷物だ。すごい親切な人に助けられたっぽいね。

 手の指、よし。足の指、よし。骨は平気みたい。手鏡だして顔も見たいけど……しんどいな。やめとこ。

 猫をまとってたからさ、落下にも強かったんだ。運が良かったよ。わたしたちにとっても、周りにいた人にとっても。


◆リールー

 「発酵」が起きかねん状態だったか。


◇ユエ

 うん。


◇ユエ(語り)

 わたしは、死なない。かつて月明かりの魔女から受け取った魂のかけらが、わたしの子宮に寄生しているからだ。

 宿主であるわたしの命が脅かされれば魔女の魂は目を覚まし、わたしを完ぺきな状態まで治し、埋め合わせのように捕食を行う。

 喰われるのはわたしの魂ひとかけら――つまり記憶や思い出と、周囲に在る妖魔、妖怪、妖精といったモノの怪たち。


◆リールー(語り)

 周囲にそういったモノの怪がいなければ、魔女は他の生き物を、たいていは人間をモノの怪に変えて代わりとする。

 その過程を、子宮の魔女は「発酵」と呼んでいた。


◇ユエ

 命に関わる傷だと思ったけど、助かっちゃった。西に来てから驚くことばっかり。

 ……こっちなら、クォンの病気も治せたのかな。


◆リールー

 ユエ。


◇ユエ

 わたしじゃダメだった。


◆リールー

 そなたは、精いっぱいやっていたよ。われわれだけでは、どうにもできぬ病だった。


◇ユエ

 うん……ダメだね、わたし弱ってる。もうちょっと寝る。


◇ユエ(語り)

 目を閉じると、体のあちこちの傷が痛んだ。熱を持っているのもわかった。それでも、わたしだけが、死なない。

 眠れる気はしなかったけれど、夜更けにはウトウトしていたらしい。


<転換> 夢


▼月明かりの魔女

 誰ぞ

 お主は

 あの小娘は

 何処か

 呼べ

 呼び示せ我が前に

 霊銀エーテルの底で告げた名で

 我が魂はつがわねばならない

 私の魂と溶け合う者の名前を


▽子宮の魔女

 呼べ。よべ。よんでってば

 でないとおなかがすくの

 ひとつになりたいの

 おねがいかあさま

 ほんの少しだけ

 わけてほしい

 ちょうだい

 少しだけ

 ほしい

 魂が


◇ユエ

 嫌


☆セレーラン

 まあそう言わないでくださいよ


<転換> 診療所


◇ユエ

 !? 寝言に返事をしないでもらえる?


☆セレーラン

 ??


◇ユエ

 あれ? 通じてない?


◆リールー

 言葉だ。東の言葉が出ているぞ。


◇ユエ

 あ、そうか。ええと、こっちだと……


☆セレーラン

 はい、わかりますか? まずはお互いの名前からいきましょう。私。私は、セレーラン。セ、レー、ラン。この診療所の医者です。お嬢ちゃんのお名前を教えてください。

 

 私のいうことはわかりますか? お名前を、どうぞ。


◇ユエ

 ユエ。


☆セレーラン

 なるほど、ヨァちゃんですね。


◇ユエ

 ユエ。


☆セレーラン

 うんうん、わかりますよ。


◇ユエ(語り)

 「わかってないです」と伝えたいのに、四十年ぶりの西の言葉はうまく出てこない。聞くのはできるのに。

 結婚してからはリールーとも東の言葉で話してて、こんなところで裏目に出た。


☆セレーラン

 まさか喋れるほど元気とは素晴らしい。はい、じゃ傷を見ますね。


◇ユエ(語り)

 ひとまず怪我人らしくして様子を見る。助手の女性とセレーランの二人がかりでシーツが取り去られ痛っ。


☆セレーラン

 はいはい。おとなしくしないともっと痛いよー。ほらほら大丈夫だじっとするんだ。ちょっと持ち上げるね。まだまだ大丈夫だよがまんがまん。


◇ユエ(語り)

 なんか楽しそうですね!? って言いたい……!

 包帯がほどかれ、薬を塗られ、ようやくわたしは一息つけた。


☆セレーラン

 ほらほらぁ、ここが一番ひどかったところです。


◇ユエ(語り)

 へその脇に黒い縫い目が走っている。


◆リールー(語り)

 他にも、胸や腕のあちこちに黒く小さな縫い目がポツポツと盛り上がっている。


◇ユエ(語り)

 縫うの上手いな、とわたしは針の目を数えた。


☆セレーラン

 じゃ、包帯巻きなおそうか。


◇ユエ

 う、い……!


◇ユエ(語り)

 裸に包帯を巻かれて、わたしは見知らぬ人間にされるがま痛い痛い痛い。


☆セレーラン

 君は撃たれてたのね。撃たれた。わかる?


◇ユエ

 てっぽう?


☆セレーラン

 そう。鉄砲。私のイトコがイゥエちゃんを運んで来たんだけどねぇ、鉄砲の音がしてイゥエちゃんが上から落ちて来たんだってさ。


◇ユエ

 ユ、エ。


☆セレーラン

 うんうん。イトコはカフェのテラス席にいたそうなんだけど、あそこって布の張り出し屋根があるから、それを突き破ったってことだろうね。

 あそこはアルミニウムのテーブルを使っているんだけど、それも君が落ちてきてペシャンコになったって。

 結果論だけど、張り出し屋根とアルミのテーブルが君を守ったよ。でも、グラスやお皿の破片が腕や胸に刺さっちゃったのはね、仕方ないよね。

 いっこいっこいてはっていてはって、大変だったんだよ?


◇ユエ(語り)

 お金の話かな。


☆セレーラン

 お腹のこの辺りには腸が詰まってるんだけど、腸ってわかる?


◇ユエ(語り)

 違った。


☆セレーラン

 鉄砲の弾が君の腸にちょっと穴をあけてたので、弾を捜して取り出しつつ、その穴も縫い合わせて塞いだりしたのね。


◇ユエ

 なんで、いきてる……?


☆セレーラン

 それは、まあ、人類の医術の進歩やら、君のがんばりやらだよ。


◇ユエ

 あー、あー


◇ユエ(語り)

 そっちじゃない。わたしのお腹を切り開いた人が生きてて驚いたんだ。


☆セレーラン

 縫うのに使った糸はこれね。動物の腸でできてるの。腸で腸を縫ったわけだ。しろがね蜘蛛ぐもの糸の方が予後よごがいいんだけど、魔法協会さんの方でも品薄らしくて手に入らないんだよねぇ。

 ま、なんにせよ糸はそのうち身体に吸収されちゃうから、心配ないよ。

 君を撃った人はこう、しっかり狙えてなかったのかな。それとも君の腹筋が強いのかな? とにかくずいぶん浅い所で弾が止まってたんだよね。

 国中探してもイェちゃんより運のいい人いないよ。


◇ユエ

 ユー、エー。


◆リールー

 わざとじゃあるまいな。


☆セレーラン

 ところで、ずいぶん変わった瞳だね。生まれつき?


◇ユエ

 ん。


☆セレーラン

 あとでゆっくり見せてもらっていい?


◇ユエ

 や。


☆セレーラン

 あらそう。じゃ、ちょっと私の話を聞いてね。


◇ユエ(語り)

 さっきからずっと聞きっぱなしだけど? って言いたい。


☆セレーラン

 イぅエエちゃん、君はお酒に助けられたんだよ。


◇ユエ

 ユ……え?


☆セレーラン

 うんうん。従兄いとこはここ数年で酒の量が増えてねぇ。飲み過ぎは良くないって私も注意するんだけど、ともかく従兄いとこは泥酔して、君を自分の娘かなにかと思い込んでここに連れてきたんだ。

 まぁ一晩寝て酔いが覚めたらカン違いに気づいてたよ。「僕の目にはガラス玉でも入ってるのか」って。だからアプシンなんか飲むなってんですが、まぁそういうわけでねユエちゃん。


◇ユエ

 それ。


◆リールー

 言えたな。


☆セレーラン

 カン違いとはいえ、従兄いとこが君を助けたのは確かなので、街で見かけたらお礼を言ってあげてくれますか?


◇ユエ

 だれ? イトコ、だれ?


☆セレーラン

 けっこう有名な版画家ですから、すぐ見つかりますよ。キャブレの貼紙看板はりがみかんばんとか、最近は本や新聞の挿し絵なんかもやってるんでね。

 まー、私の所にもそのうち来るでしょうからその時でもいいんですけど。


◇ユエ

 なまえ。


☆セレーラン

 うんうん。ウェラン・エスタシオって言います。


◆リールー

 なんだと!?


◇ユエ

 っ……た!(悶絶)


◇ユエ(語り)

 リールーが大きな声を出した理由はわかる。そういえばあの時も「なんだと!?」って言われた。


 クォンが行ってしまってからしばらくの間、わたしはどうしていいかわからずに東の国々を放浪し、モノの怪退治の仕事を探しては自分の腹を、そして下腹の居候の飢えを満たしていた。


◆リールー(語り)

 そんな最中さなか、ユエがふいに呟いたのだ。


◇ユエ

 シュダパヒに行こうと思うんだ。


◆リールー

 なんだと!?


◇ユエ

 わ、リールーの大きな声久しぶり。


◆リールー

 話をそらさんでくれ。なぜ急に里帰りなど。


◇ユエ

 里帰りというか、わたしにとっては言葉のわかる外国なんだけどね。(塩を投げる)そーれ!


◆リールー(語り)

 と、ユエは真正面で微笑むモノの怪「沼乙女ぬまおとめ」に塩を投げつけた。


<転換>


◇ユエ

 (沼乙女を食べている)味がついた。


◆リールー(語り)

 猫の口を大きく開け、しおれた沼乙女をかじる。どちらが人喰いのモノの怪か、傍目はためにはわかるまい。


◆リールー

 なあユエ。本当に行くのか?


◇ユエ

 ダメかな。


◆リールー

 なぜ今なのだ。元のそなたを知る者もまだ居るだろう。私が右目になってから三十、いや四十年になるが、父君も母君も息災であるやもしれぬ。

 ユエ、元の名で呼ばれてしまえば、下腹の居候は今度こそそなたを食い尽くしてしまうぞ。


◇ユエ

 (むしゃむしゃ)それは、うん、そうなんだけど、気をつければ大丈夫じゃないかな。住んでた家さえ見つけられれば――


◆リールー

 家に行くのか!?


◇ユエ

 魔女の魂に手を出したあの隠し部屋に、翡翠ひすいのランプがあるかもしれない。わたしの父親も魔法使いなんでしょ? それなら仮にランプを見つけたとしても、捨てないと思うんだよね。


◆リールー

 しかし、しかしだ。あれが割れたのを私は見ている。あれは確かに魔女の魂の入れ物だったが、あの日そなたの手から落ちて、私の目の前で真っ二つに割れたのだよ。


◆リールー(語り)

 私は、あの時の悲鳴を思い出す。


<転換><回想>


△あの子(往時のユエ)

 ぎゃあああっ! あっ! あっぎゃあぁあ!

 やだ! いやだ! わたしが、わたしが食べられちゃう! 助けて。お母さん、お父さん助けて! ごめんなさい。もうこんなことしないから。ごめんなさい。ごめんなさい!

 やだよ、怖いよぅ。助けて、助けてリールー……


◆リールー(語り)

 魂を喰われる痛みに絶叫し、石床をかきむしって泣きわめく娘の右目を、私は覚えている。

 それをえぐった手ごたえも、今はない前脚に残っている

 それまで私であった白猫の体を、私は見た

 私という異物が入り込んで混乱した魔女の声が、もう存在しない耳に響く。


▼月明かりの魔女

 誰ぞ

 お主は

 あの小娘は

 何処か

 呼べ

 呼び示せ我が前に……



<転換><回想終わり>



◇ユエ

 割れたランプでも、お腹の居候を追い出す手がかりになるかもしれないよ。

 あとはほら、月明かりの魔女の住処を探るのもいいね。

 元の名前を呼ばれたらまずいのはわかってるけど、まさか四十年前の女の子が今でも同じ姿をしているなんて、普通の人は思わないって。


◆リールー

 そなたの父君は魔法使いだぞ? 年を取らぬ人間を見ても『あり得ない』とは言わんだろう。むしろどうしたらあり得るのかを調べる立場ではないのか? ユエ、先ほどから妙に楽観的と言うか強引と言うか、なぜそうもシュダパヒに行きたがる?


◇ユエ

 それは……罪悪感、かなぁ。

 わたしにも家族ができて……別れてさ。

 やっぱりこのままじゃ良くないって思うんだよ。シュダパヒに住んでる人たち、わたし、というかあの子の家族には、何かしら伝えなきゃいけないんだ。


◆リールー

 ならば始めからそう言えば良いだろうに。


◇ユエ

 だって……反対されると思ったんだもの。


◆リールー

 子供かね。だいたい、私にそなたを止める手段はないのだぞ。


◇ユエ

 だからって好き勝手にするのは違うと思う。

 まだシュダパヒで、ジュールさんもニュイさんも生きててくれるかな……口に出すとひどいな。


◆リールー(語り)

 ユエはいつからか「父さん」とも「母さん」とも言わなくなった。

 私だけがあの娘を覚えている。ジュール殿とニュイ殿の娘。シュダパヒで暮らした少女の、十四歳の冬至から十五歳の冬までを知っている。

 あの娘と同じ声で出た「シュダパヒ」という名が、ひどく懐かしく思えた。


◆リールー

 ユエ、最大の懸念はそなたが元の名で呼ばれてしまう事だ。私もあそこに居ったのは一年と少しで多くはわからぬ。が、肉親である三人に最も気を付けねばならないのには違いあるまい。


◇ユエ

 三人?


◆リールー

 父君と母君。そして弟君のウェラン殿だ。そなたは四人家族の長女なのだよ。


//////////////////


 (幕間1 休憩など)


///////////////////

 <第2幕>


●ウェラン(語り)

 ウェラン・エスタシオが酒を飲まない日は、娘に会う日だ。


〇プルイ

 お父さま、こちらはもうご覧になって? 「シュダパヒの光と怪奇の影」ですって。


●ウェラン

 ふむ、怪奇「白頭しろあたま」? お前ももうじき二十歳になるのにプルイ、まだこんな物ばかり追いかけているのか?


〇プルイ

 こんなもの? お言葉ですがおとーさま、私も手に職を持つ大人なのよ。何を追いかけたって自由なんです。


〇プルイ

 ね、父さまは素質がおありだから、ときどきこんなのが視えるのでしょ?


●ウェラン

 視えるといっても……この新聞写真のようなボンヤリしたものが視えるだけだよ。これなら写真よりも銅版画を使った方がよほど雰囲気が出せる。


〇プルイ

 でも、写真はその場その時間に撮られたものだわ。記事のここのところを見て? 写真には影が二つ映っているのに、撮影した人は「白頭」しか視えなかったって。

 魔法が使えない人でも、写真機を使えばそういう妖精や妖魔の類を見られるのかも!


●ウェラン

 妖精や妖魔なんぞ、特別に良いものでもなかったがなぁ。


〇プルイ

 それは、お父さまにとって魔法が普通のことだったからでしょ? お爺さまが魔法使いで、父さまにも素養があって、私にもあったらよかったのに。


●ウェラン

 父さんは魔法の素養なんかいらなかったんだけどな。ままならないものだよ。


〇プルイ

 人生って感じかしら?


●ウェラン

 プルイも人生を語りたいお年頃か。


〇プルイ

 娘はいつの間にか淑女になるのよ。そうだお父さま。魔女の住処がもうじき公開されるのでしょう? 初日に合わせてシュダパヒに遊びに行こうと思うの。


●ウェラン

 そうか。うちに泊まるかい?


〇プルイ

 学生時代のお友達が七区に住んでいるから。女性です!


●ウェラン

 まだ何も言っていないじゃないか。


〇プルイ

 言いそうなんですもの。魔女の住処のまわり、今は記念公園なのでしょ? 元の森のままじゃダメだったのかしら。


●ウェラン

 整備しなけりゃ人も立ち寄れないよ。母さんは元気かな?


〇プルイ

 ええ。とっても。最近はお庭でミモザやロンコリジューヌを育てているわ。


●ウェラン

 ミモザか……。もうじき満開になるな。


〇プルイ

 ええ、とっても楽しみにしているの。


●ウェラン(語り)

 とび色の瞳を細め、母親譲りの黒髪を揺らして娘が笑っていた。こうしていると、なぜあの「落ち娘」と我が娘を間違えたのかわからない。

 駅で娘と別れ、汽車に乗り込む。

 子というのは本当に、親の知らぬ間に大きくなるものなのだな、などと感傷に浸りながら、私の手はズボンの尻ポケットからスキットルを引き抜いて開栓する。一等客室に芳醇ほうじゅんな香りが漂う。

 気づけば家のベッドにいた。



<転換> また別の日



●ウェラン(語り)

 娘に会わない日は、酒を飲む日だ。

 昼前の珈琲に果皮酒クラソンをたっぷり垂らし、午後の薬酒アプシンに夢を見つつ、夜のカフェでは北方の火酒ウチトカで胸を熱くし、キャブレ・グリューに赴いて異国の白酒バイジウに目を眩ませる。

 目が眩むのは酒のせいだけではない。最新の雷弧灯アークライトの照明は、歌手の衣装や曲に合わせて自在に色を変え、光を絞り、開き、瞬くなどした。

 技術は素晴らしいが、酔いの回った身には光が鋭い。

 ステッキを頼りにトツトツと短い脚を順番に繰り出す。幼児と同じやり方で階段を昇り、上階のテラスを目指す。心臓よ。この身体で躍動するのはお前だけか

 すれ違う客で、私に驚いて足を止めた者には、愛想良く挨拶で先制した。

 機械仕掛けの昇降機などいらぬ。人より脚が短かかろうが、階段ごとき、昇れぬわけがない。


 ぅわっという歓声が吹き抜けを昇ってきた。

 柵越しに見下ろせば「狂乱の胡蝶蘭」ことジャヌ・アブリューが踊っていた。

 ジャヌがスカートをひるがえして蹴り、跳び、回り、踏むたびにさざ波が、ざわりざわりと周りの人間たち、他の踊り子たちに広がっていく。

 その波を受けた者がまた新たな波を生む。

 このさざ波を父は「魔力のほとばしり」と言っていた。揺らぐもの、波打つものから魔力は生まれるのだと。

 事実、照明席の魔法使いたちがさざ波を集めて光を繰っている。アークライトにつながる幾本ものアラモント線に指を行き交わせ、若い腕に汗を光らせている。

 父の言う通りだ。そうなのだ。事実そうだ。


 だが違う。


 このさざ波は躍動だ。躍動を見ているのだ。なぜこの躍動を、ただ躍動として見ないのだ。

 私は上着のポケットからノートとずみを出し、がしがしと線を引く。なぜ階段を昇っていたのか忘れた。

 此方こなた彼方かなたの境界が曖昧に感じるのは酒のなせる技か、それとも。

 私は呼吸に熱を感じる。空気とはまた異なる流れが、肺を抜け、血の巡りに乗って骨を熱くする。


 これが魔力の呼吸だと父は言った。魔法の素質の表れだと。

 そして跡を継がせようとした。魔法を教え込もうとした。だが、私は絵が描きたかったのだ。

 見えているのが魔力の流れでも、空気の流れでも、どちらでもよかったのだ。この流動を描きたかったのだ。

 魔法なら、姉がいただろう。はっきりと視て、つながって、妖精たちから魔法を引き出せた姉が。立派な使い魔と契約を結んだ姉が。


 なぜ、期待をかけてやらなかったのだ。

 なぜ、理解してやれなかったのだ。

 私も、年子の姉とはケンカばかりしていた。何かにつけてやたらと助けようとしてきて、それも腹が立った。

 両親の前で魔法の才能をひけらかすような事をされて、つかみ合いになったりもした。

 姉が庭でお茶会をしているのを知らずに通りがかり、その友人たちから憐みの目で見られたのが我慢できずに暴言を吐いて、夜には大ゲンカになった。

 仲は良くなかった。

 母の肖像画を描いた日、姉からも欲しいと頼まれて断った。

 翌日に姉は失踪した。

 両親は探しに出ていき、日の暮れた食卓で、母の飾ったミモザだけが夕食を待っていた。


 なぜ今さら、姉のことなど思い出すのか。


 最後の線を引き、描きあがった簡素な絵を前に酒精交じりの息を吐き出す。

 馴染みの警察署長が来ていて、一言二言かわして。

 気が付くと、自室で一枚の油絵を見ていた。

 そうだ、このところしばらく、この絵に掛かりきりだったはずだ。記念公園の魔女を題材にした一枚。

 この後は印刷所に行って、同じ物をリトグラフに起こさなければならない。

 しかしさいに仕上げただと?

 数を刷るための版画だ。版に直接描き込めるのがリトグラフだ。わざわざあぶらを起こした理由が全くわからない。

 なんだ、これは。本当に私が描いたのか? 夢でも見ているのか?


◎エーラ

 おはようございまぁす。できましたねぇ。


●ウェラン(語り)

 私が何かを言うよりも早く、厚ぼったいまぶたの少女がスキットルの栓を開いた。



<転換> セレーランの診療所



◆リールー(語り)

 手鏡に映るユエがため息をついた。


◇ユエ

 ウェランくんとお姉さんは、ケンカばかりしてたんだねぇ。


◆リールー

 その姉がそなたなのだがな。


◇ユエ

 あんなおとなげない子は知りません。なんであの子は、ウェランくんがお父さんに褒められてる所に割り込むとかするの?


◆リールー

 自分も褒められたかったのではないか?


◇ユエ

 おと、なげ、ない!


◆リールー(語り)

 「あの子」と同じ顔を私は鏡で見ている。眉根を寄せて鼻息を吹いている。あの娘も気に入らないことがあると鼻息を吹いていた。


◇ユエ

 鼻、なんか潰れた感じしない?


◆リールー

 変わらぬように思うが。


◇ユエ

 そうかなぁ。


◆リールー

 腕や腹の縫い跡は気にせんのに、なぜ鼻は気にする?


◇ユエ

 傷が増えるのは、魔女が出ませんでしたって印でもあるからね。それでも顔は気になるの。


◆リールー

 そなたの顔もアラモントでできていたら良かったのにな。


◇ユエ

 この鏡みたいに? いいね。ぴっかぴか。


◆リールー(語り)

 手鏡は、ユエがまだこの街に住んでいた頃、月が巡ってきた日に母君から贈られたものだ

 アラモント合金から削り出した「とこしえ鏡」は、この四十年でも傷ひとつ付いていない。ユエが何度も髪をとかし、鏡を見る。


◇ユエ

 今日は、跳ねる日だ。


◆リールー(語り)

 ほどほどで諦めて首の後ろで束ねる。


◇ユエ

 四十年前のあの子の髪型だとか、お化粧だとかってわかる?


◆リールー

 覚えは、こう、あるのだが……どう言ったものか。


◇ユエ

 そっか。まあ、まじない師の化粧なら誰とも被らないだろうし、いいか。


◆リールー(語り)

 ユエが白粉おしろいをはたき、目を強調するように墨を引いて、唇に紅を乗せる。


◆リールー(語り)

 数日前の事だ。医師が古い新聞を持ってきた。



<転換> 数日前の診療所



☆セレーラン

 ユエちゃん、これ君のことじゃない?


◆リールー(語り)

 ユエの目として、私は読み上げた。


◆リールー

 「シュダパヒの光と怪奇の影」


 「屋根の上を駆け回ったお騒がせな影は奇妙な麦わら帽子をかぶり、頭も顔も真っ白な毛に覆われていたとは目撃した紳士淑女の談。

 彼女は突然に数十歩もの距離を跳びあがり、街中の屋根を走り回ったらしい。

 この写真の片方がその〝白頭しろあたま〟であるが、ならばもう片方は何者か? 写真が捉えた影からは、椅子に座った人物であるようにも読み取れる。

 撮影した青年によれば白頭は一人だったとの事。ならばそれは不可視のモノの類であろうと魔法協会代表のチェム・カタ女史は語る。


 不可視のモノが写り込むことは十分有り得るとの事だが、件のモノが何かを判別するのは難しく、いま少し情報が必要であると。

 白頭はキャブレ近くで壁にぶつかって落下したらしいが、階下のカフェの従業員によれば落ちてきたのは大怪我をした人間の娘であり、馬車でいずこかへ運ばれていったということで謎は深まるばかりだ。

 また、この時に銃声を聞いた者もあるが、それについて当局からの発表はなかった。

 陸軍の若手将校によるものとの噂もあるが、情報は秘匿されている。続報を待たれたし」


◇ユエ

 せんせい。これは、たくさんの人が読みますか?


☆セレーラン

 まあ、そうだね。


◇ユエ

 これ、わたしです。


☆セレーラン

 あーやっぱり。古い新聞を裏庭で燃やしてたんだけどね、その時にちょっと目についたんだよ。場所も日付も、そうなんじゃないかと思ったんだよね。

 ユエちゃん本当にここに書いてあるような事やったの?


◇ユエ

 はい。そういう魔法を持っています。高く跳ぶとか、速く走るとか、そういう魔法をいろいろ使います。


☆セレーラン

 あれ、魔法使いさんだった? なんだぁそれじゃあ怪奇でもなんでもないなぁ。「妖魔、妖精と呼ばれる存在も、お腹の中は人間と同じでした」ってことなら学会に持ってけたんだけど。


◇ユエ

 おなじだったんですか?


☆セレーラン

 うん。まぁ見えた限りはね。


◇ユエ

 じゃあ、このへんの、赤ちゃんできるところも?


☆セレーラン

 それは「子宮」っていう器官だけど、そこは見てないよ。なになに気になる事でもある? 月の物が重いとか?


◇ユエ

 月のそれは、もう何年も来ていないので、大丈夫です。


☆セレーラン

 あら、ほんとに……君の年齢でそれは大丈夫じゃないなぁ。とはいえそっちのお薬代までは貰ってないから、よく食べてよく寝て、ぐらいしか言えないね。


◇ユエ

 こっちのケガのお金、いいんですか?


☆セレーラン

 だいじょうぶイトコお金持ち。払うっつったモンは払ってもらいます。それじゃあ、今日の診察をしよっか。


◇ユエ

 せんせい、もうすぐなおります。そろそろ出発したいです。


☆セレーラン

 なに言ってんの。一週間やそこらで治るはずないんだから、おとなしくしていなさい。



<転換> 診察



☆セレーラン

 なおってる……


◇ユエ(語り)

 驚く先生に、わたしはこんな感じで説明した。


◇ユエ

 たくさんの人に、すごいとか、こわいとか思われると、オバケのわたしは強くなります。



◆リールー(語り)

 先の新聞によって、ここシュダパヒでも、ユエが「そういうモノ」として成立した。怪奇として扱われたことが化け猫としてのユエに力を与えたのだ。


◇ユエ(語り)

 先生は小さな黒目をぐるんと回して、言った。


☆セレーラン

 あー、まずは目の前の現実を信じますよ。オバケかどうかはともかくとしてね。ところで、すごいお化粧だけどそれもオバケと関係あるの?


◇ユエ

 はい。これが正式なお化粧です。強くなれます。


☆セレーラン

 そうね。とても強そうだ。ところでその、君が信奉しんぽうされる事と怪我の治りが早くなる事、この二つの関連が他の人にも適用できたらさ、そりゃもう画期的だと思わない?

 やっぱりユエちゃんここで検査に協力してくれないかなぁ。魔法協会さんのツテでそっち系の医術者さんにも来てもらってさ。


◇ユエ

 ごめんなさい。やること、あるから。


☆セレーラン

 あらそう? じゃ気が向いたら来てよ。悪いようにはしないから。


◇ユエ

 はい。覚えておいて、来ます。


☆セレーラン

 いやだなぁ、忘れる予定でもあるの? じゃあ、私は往診があるからここで。もう大怪我しないようにね。


◇ユエ

 はい。紹介の、手紙の、えっと……紹介状! ありがとうございました。今日はあめ降るから、気を付けてください。


☆セレーラン

 オバケだとそういう事もわかるのかい?


◇ユエ

 あめ降る日は髪ハネる。ネコっ毛だから。


☆セレーラン

 っはは! じゃあ、さっきも言った通りイトコの家はうちのすぐ裏だから。白頭しろあたまの件でタブロイド紙の記者がうろついてるんで、出るなら裏からこっそりね。


◇ユエ

 はい。こっそりするの得意です。いろいろありがとうございました。オバケで困ったら教えてください。オバケやっつけます。


☆セレーラン

 あんまりオバケにはあいたくないんだけどねぇ。その時はよろしくだ。


◇ユエ(語り)

 わたしは笑って手を振り、セレーラン先生が裏口の戸を閉じた。



<転換> 裏庭



◇ユエ

 (閉じた裏口を見て)あ……。


◆リールー

 この扉、このたたずまいに、見覚えがあるよ。すこししゃがんでくれんか。目線を低くしたい。


◇ユエ

 ん、わかった。これぐらい?


◆リールー

 うむ。……扉や壁は塗り直されたようだが、土台の敷石はそのままだ。ここはな、ユエ。父君の診療所だよ。


◇ユエ

 ……


◆リールー

 ユエ?


◇ユエ

 リールー。「あの子」はここには入れてもらえなかったでしょ? そういう気分が、残ってる。理不尽に寂しい、仲間外れみたいな気分のかけらが残ってるよ。


◆リールー

 ……そうだ。父君はそなたを仕事場に入れなかった。


◇ユエ

 ジュールさん、ひどいなぁ。中に入るのぐらい、許してあげればよかったのに。


◆リールー(語り)

 ユエが立ち上がって、扉に背を向けた。


◇ユエ(語り)

 わたしは事あるごとに思い出をなくすけれど、その時の気持ちや感情はかけらとなって残っている。場所や、音や、手触りから、気分のかけらは胸に入り込んでくる。


◆リールー(語り)

 煉瓦の塀に囲まれた裏庭に、鉄の門扉もんぴがふたつあった。

 一つは左手側、外へ出るためのものしっかりしたもの。


◇ユエ(語り)

 もう一つは正面、隣の邸宅につながる簡単なもの。

 セレーラン先生から事前に教わっていても、門扉越しに見える邸宅にわたしは立ち尽くした。

 まったく見覚えのない古い館のたたずまいが、胸を締め付けてくる。

 気分のかけらが、正体のわからない思い出が、かたまりで押し寄せる。リールーでもない魔女でもない、知らない誰かがこの身体で泣いている。感情がどれなのかわからない。


◆リールー

 しかし、こんな近くにおって全く気付けなかったとはな。


◇ユエ

 し、仕方ないよ、へ、部屋から、ほとんど、出なくて……。


◆リールー(語り)

 私は黙る。やがて静かに霧雨が降り始め、平笠を伝った水滴が私の視界を落ちる。


◇ユエ(語り)

 いま降りけぶる春の霧雨にさえ、気分のかけらが散らばっている。

 思い出は全くないのに、気分だけが濃く折り重なっている場所。


◇ユエ

 こんな、こんなになるんだ……。


◆リールー(語り)

 戻ってきたのだ。

 四十年前に長女を失った家。エスタシオの家に。



<転換> 屋根の上



◆リールー

 落ち着いたか?


◇ユエ

 うん。まだ胸がざわざわしてるけど、大丈夫。行こう。


◆リールー(語り)

 邸宅の屋根の上。ユエが魔法を要求してくる。


◇ユエ

 せーの。

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶ。

 よし。


◇ユエ(語り)

 水気を払い、気分を変え、わたしたちは天窓から屋根裏へと忍び込んだ。


◇ユエ

 こんな所よく知ってたね。


◆リールー

 当時はまさに猫であったからな。猫たるもの、家は隅々まで治めなければならん。よって王族猫たる往年の私が定めたのだよ。私を前にしておのずと開く通り道としてな。


◇ユエ

 (キス音2回)すき。


◆リールー

 ふふん。


◇ユエ

 うれしそ。ここは物置?


◆リールー

 そうだ。通り道には人が来ない方がよいからな。


◇ユエ

 なるほど。「あの子」も来なかったのかな。ここには気分のかけらもないみたい……立派なおうちに住んでたんだ。


◆リールー(語り)

 ユエが手近な衣装箱をなんとなしに開ける。


◇ユエ

 わ、赤ちゃんの服。へぇ、すっごいフリフリしてる。こんなの着てたんだ。こっちは……ちっちゃいドレス。


◆リールー

 赤いな。


◇ユエ

 この頃から好きだったのかもね、赤。


◆リールー(語り)

 ユエが小さなドレスを丁寧にたたんで戻す。


◇ユエ(語り)

 特別に気持ちを揺さぶられる感覚はなかった。この服のことはきっと、魔女を宿す前から覚えていなかったのだろう。

 衣装箱の蓋を閉めればポンと鳴り、古びた香り袋の匂いが鼻をくすぐる。見知らぬ気持ちがわたしの胸を通りすぎる。

 この音と匂いがあの子にとって何だったのか、もう誰も知らない。何かだった、ということだけが心をかすめて、それも音や匂いが消えれば去った。


◆リールー(語り)

 ユエが行李こうり平笠ひらかさを外し、手鏡を出した。


◇ユエ

 おいでませ、ラルゴ。


◇ユエ(語り)

 わたしは鏡のモノに呼び掛け、魔法を発動する。鏡面が真っ暗になった。鏡は置いておき、塩袋しおぶくろ蟲袋むしぶくろを懐にしまう。最後に鷹の目の呪符を近くの壁に貼った。

 呪符の目が見る場所は、他者に「もう見た」と錯覚させる。そうやって物や人を隠してくれる。はずなのだけど、西に来てからまじないは効きが悪い。


◇ユエ

 大丈夫かな。貼っちゃったけど。


◆リールー

 弱気だな。どうしたのかね?


◇ユエ

 む。効くよ。効く効く。まじない師歴四十年、化け猫ユエさんのおふだですよ。


◆リールー(語り)

 ユエが手鏡を取って懐に収めた。


◇ユエ

 じゃ、あの地下室まで案内をお願いね。


◆リールー(語り)

 承知した。ここから地下までの道のりだが――



<転換>(回想)



◇ユエ(語り)

 この屋根裏に来る前に、わたしは正面玄関を訪ねている。

 古く分厚い扉と、押し寄せる気分のかけらにめまいがした。どうにか戸を叩くと、出てきたのは家政婦の一人だった。

 紹介状を見せると、ウェランは留守だと教えてくれた。絵を持って、モデルの娘も連れて行ったので、画廊がろうか印刷所だろうと。

 場所を教えてくれたけれど、わたしたちには土地勘がない。

 ウェランがいても家の中を自由には歩き回れないと気づいて、いちど忍び込むことにしたのだ。


(回想終わり)


◆リールー(語り)

 屋根裏から二階に降りた。


◇ユエ

 (くんくん)


◆リールー

 どうした?


◇ユエ

 もどかしくて、イライラする臭いがする……これ、油絵の臭い? この気持ちも気分のかけらかな……。ごめん。気にしなくてよさそう。行くね。……リールー、右目の主導権ください。


◆リールー

 すまぬ。


◇ユエ

 ごめんね。あとでね。


◇ユエ(語り)

 リールーが気を取られた場所なら、そこには気分のかけらが色濃く積み重なっているはずだ。だから目を逸らした。忍び込んでいる今、立ちすくむわけにはいかない。

 一階へと降りて、耳をそばだてる。食器の鳴る音がわずかに聞こえる。突然に鳴り出した壁掛け時計に驚かされつつ、食堂の奥、地下室への入口を目指す。


◆リールー

 食堂を突っ切るのなら今がよいな。


◇ユエ

 なんで?


◆リールー

 鐘が十二回鳴ったろう。昼食だ。手伝いの者たちは別室で食事をとるはずだ。


◇ユエ

 だいすきリールー。


◇ユエ(語り)

 わたしは目を伏せ、静かに、素早く、リールーの誘導に従って食堂へと入り、階段への扉を開いた。

 四十年間かわらず、か。


◆リールー(語り)

 食堂の壁には夫妻の肖像画や、小さな風景画や、湿版写真しつばんしゃしんが飾られていたはずだ。我々はそれらを見ていない。見ないようにして行き過ぎた。

 我々は既に事実を知った。


◇ユエ(語り)

 この家の玄関を叩いた時、つまりウェランの不在を知った時に、わたしは尋ねている。


◆リールー(語り)

 家政婦は一段低い声で「ご存じなかったですか」と前置きした。

 ジュール・エスタシオと、その妻、ニュイ・アカーシャ=エスタシオは、三年前に事故で死んでいた。


◇ユエ(語り)

 マートル丘の墓地に埋葬されたそうだが、それがどこなのか、わたしは知らない。


///////////////////


(幕間2)


///////////////////

<第3幕>


◇ユエ(語り)

 一歩進む度に、胃袋が冷たい手に撫でられるようだった。

 あの時はロウソク。今はガスの照明。わたしは壁の前で膝をつく。


◆リールー

 覚えておったか。


◇ユエ

 うん。街の思い出も家の思い出も全部なくしたのに、魔女の事だけは喰われなかった。魂を受け取ったことも、この隠し通路の開け方も、この先で起こったことも。


◆リールー(語り)

 ユエの右手が壁をなぞり、床に接する所で壁に手がめり込む。


◇ユエ(語り)

 幻で隠された穴。指先に金属の突起が触れる。


◇ユエ

 こんなところ、あの子はどうやって見つけたんだろう?


◆リールー

 鼠が入り込むのを見たのだそうだよ。不審に思って壁を蹴ったと。


◇ユエ

 おてんばさんだ。


◆リールー

 そしたらば、壁から鼠が飛び出てきて泣くほど驚いたと。


◇ユエ

 でもそこに手を突っ込む子だったと。


◇ユエ(語り)

 小指、人差し指、中指、小指の順番で魔力を流す。


◆リールー(語り)

 壁にジグザグと光が走る。


◇ユエ

 この順番を見つけたのが一番びっくりだよ。


◆リールー

 くなき探究心で見つけた、と言っておった。


◇ユエ

 うわぁ、くない。ここを見つけなければ、あの子も今頃は普通のおばさんになってたかもしれないのにね。


◆リールー(語り)

 ぱきりと音を立てて壁が分かれる。ユエが指を差し込んで壁を開く。重く、しかし滑らかに、壁は引き戸のように開いた。


◇ユエ

 ――ここを見つけるような子なら、別のどこかを見つけたか。


◆リールー(語り)

 暗い通路へユエは進み、壁が背後で閉じる。

 猫の目ですら何も見えない、真の闇。

 古い時代の魔法使いは、備えとして隠し部屋を用意していた。ここもその名残だったのだろう。


◇ユエ

 おいでませ、ラルゴ。


◆リールー(語り)

 鏡のモノがユエに応えて、屋根裏で吸い込んだ光を小出しにする。


◇ユエ(語り)

 あの時は、紐を通した手鏡を首からぶら下げて明かりにしていた。ぼんやりした光を頼りに進めば、すぐ左手に現れる錆び付いた鉄扉。


◆リールー

 大丈夫か?


◇ユエ

 ……なにが?


◆リールー

 私の所まで届いておるぞ、そなたの鼓動が。


◇ユエ

 大丈夫……思ったより怖いけど、この気持ちはわたしのものだ。わたしが引き受ける。


◆リールー(語り)

 そして、ユエは扉を開けた。


◇ユエ

 (痛みの追体験)ッ!!!! ぐ……!! く……、ぎ……!


◆リールー

 ユエ、


◇ユエ

 (一息いれて)平気。そこの落ちてる布、翡翠のランプを包んでた隠してた布だね。


◆リールー

 ああ……


◇ユエ(語り)

 あの日、包みを開き、眩しさに目を細めた。

 ある晴れた日に湖に潜って、空を見たときの模様。

 壁に映った緑の模様はそれに似ていた。

 魔女の魂が灯火のように揺らめき、光が翡翠の六角柱で踊っていた。

 美しかった。

 ここで自らの名を告げ、魔女の魂に魔法の繋がりを求め、あの子は最期を迎えた。


 「助けて。お母さん、お父さん、助けて。ごめんなさい、もうこんなことしないから。ごめんなさい。ごめんなさい」


 あの時、両親を求めて泣き叫んだくせに。



◆リールー

 ユエ?


◇ユエ

 へいき。


◇ユエ(語り)

 そうだ、平気なのだ。

 ジュールとニュイの死を聞いた時、わたしの口から出たのは「そうでしたか」だった。お悔やみの言葉を探し、言葉が思い出せなくて言えずに終わった。

 二人がこの身体の両親だというのはわかっている。けれど、彼らに対して抱く感情は、他人の域を越えていかない。

 屋根裏で見つけた赤ん坊の服も、小さなドレスも、彼らの注いだ愛情の形だと思う。でもそれは「あの子」に注がれた愛情で、わたしの感覚は、この家につながっていかない。

 いま在るのは、魔女と猫を抱えた別の子だ。このわたしだ。


 大バカな、わたしだ。


 わたしが彼らをなくしても、彼らは覚えているだろう。

 そんなことが、わからなかったはずがないのに。その事を、もっと考えなくちゃいけなかったのに。考えて、できることを探すべきだったのに。


 クォンにだって相談したらよかったんだ。残してきた人の気持ちの事とか、しばらく離れることになるけどいいのかなとか、もっといろいろ、どうしたらいいのかなって、話せばよかったんだ。


 クォンはもういない。

 ジュールもニュイも亡くなってしまった。

 伝えなければならなかった。わたしに実感がなくても、あなたたちの娘は生きていると。

 事情があって会えないけれど、家族を持ち、幸せな時間だってちゃんとあるのだと。

 手紙でも、書き置きでも、言付けでも、やってみればできただろうに。この街にだって、来ようとすれば来られたのに。


◇ユエ

 わたしにしか

 できなかったのに。



◆リールー(語り)

 ユエの手が顔をおおい、私は何も見えなくなる。

 十秒の間、ユエはそうした。


◇ユエ

 ……やること、やっちゃおう。


◆リールー

 承知した。

 ランプの包みがここに落ちているなら、破片もこのあたりだろうな……あれか?


◇ユエ

 ほんとに? あ、でもほんとっぽいね。なんか、ただのガラス片みたいな。こんなんだったかなぁ……?


◆リールー

 ふむ。魔法的にも、何の変哲もなさそうな。


◇ユエ

 中に魂が入ってなければただのガラクタってことかな。ともかく持ってくか……さっきの布で包めば、ちょうどいいや。


 こんなところ、かな。


◆リールー(語り)

 ユエが周りを見回すので、私もがらんどうの地下室を見回すことになる。


◇ユエ

 リールー。


◆リールー

 どうした?


◇ユエ

 あの時、助けてくれてありがとうね。


◆リールー

 ……なに。昔の話だ。


◇ユエ

 リールーがいなかったら、わたしに「昔」なんてひとつもなかったよ。わたしなんて、どこにもいなかったよ。これからもよろ(ぱきり)わ、なんか踏んだ。


◆リールー

 なんだ……? 骨?


◇ユエ

 大きさ的に、えっと、これは、猫ぐらいの。


◆リールー

 私のだな。


◇ユエ

 んんんん! ごめん……!


◆リールー

 いや、いや、よい。今の私は、ほら、ここにおるのだし。


◇ユエ

 そうだけど……あああ、リールーの骨を折っちゃった気分。


◆リールー

 言葉の上ではその通りなのだが、この私は痛くもかゆくもない。非常に斬新な体験で戸惑ってはおるが……ユエ、なぜ服を脱ぐのだ?


◇ユエ

 そりゃ、なにかで包まないと。


◆リールー

 持って行くと?


◇ユエ

 だって大事だよ。


◆リールー(語り)

 脱いだ三枚のうち二枚目、麻の袖付きを広げて拾った骨を包むと、ユエは残りの服をまた身に着けた。


◇ユエ

 さすが王族猫、骨も太くて立派だね


◆リールー

 私はここだと言うのに


◇ユエ

 なに? ヤキモチ焼いたの?


◆リールー

 自分の骨にか? 馬鹿を言え。……他にやり残しはあるかな?


◇ユエ

 ないよ。もう戻ろう。わたしの平笠が待ってる。


◆リールー

 あの笠も長い付き合いだな。


◇ユエ

 そうだね。わたしとリールー。それに平笠と鏡と行李こうりと帳簿。そう考えたら、賑やかな感じするね。あと、骨リールーも仲間入り。


◆リールー

 骨リールー。


◇ユエ

 ふふふふ。


◆リールー(語り)

 骨とランプ、二つの包みを胸にユエが息と魔力を吸う。今はもうない私の背中にユエの意識が触れて、魔法の要求を受ける。


◆リールー

 猫は


◇ユエ

 いつの間にかいなくなる。



<転換> 王族猫の通り道



◇ユエ(語り)

 猫がいつの間にかいなくなり、そしてどこにでも現れるのは、猫だけの通り道があるからだ。


◆リールー(語り)

 王族猫ともなれば「誰にも見られていない場所」どうしを繋ぎ、自由に行き来する魔法を持つ。


◇ユエ(語り)

 水底のような暗い空間に、ガラス片のような「場所のかけら」が瞬いている。遠くにも近くにも散らばるかけらの瞬きで、空間は星空にも似ていた。

 王族猫の通り道をわたしたちは漂っている。


◆リールー(語り)

 どのかけらがどこなのかはわからない。かけらに映る風景で見当をつけるしかない。確実に言えることは、いまこの瞬間に見られていない場所である事だ。


◇ユエ(語り)

 空気がないので、息を止めていられる間にかけらを一つ、選ばなくちゃいけない。

 今回も、平笠は簡単に見つかった。けれど、わたしの右目は別のかけらに釘付けになっていた。

 ミモザやラジューヌの花をあしらった壁紙と、年代物の手編みレースが掛かった小テーブルが見えている。


◆リールー

 あるじよ……。


◇ユエ(語り)

  わたしの胸に入り込んできた気分は、夕暮れの水田に似ていた。誰もが帰ってしまったあとの、青い穂がさわさわと揺れる水田の、何者でなくてもいい、そんな気分に。

 記憶がなくても察しはつく。あれは「あの子」の部屋だ。

 わたしたちは、そのかけらを選んでいた。「あの子」の部屋へ道が開く。かけらが広がって見えてくる、閉じられたカーテンや天蓋てんがいのある寝台や魔女が。

 見ていた。

 窪んだ瞳で。


◆リールー(語り)

 枯れ木のような両腕が長くまっすぐ伸びてユエの首をつかんだ。


◇ユエ(語り)

 なすすべもなかった。手に持った二つの包みも離してあらがったけど、いとも簡単にわたしは引っぱりだされた。


◆リールー(語り)

 空中に放り出されて我々は、巨大な木を見下ろしていた。根元に小屋を抱え込んだ樫の大樹たいじゅには覚えがあった。


◇ユエ(語り)

 魔女のすみか。月明かりの魔女。わたしが贈った茜色のひざ掛け。


◇ユエ

 (首が自由になって、せきこむ)


▼月明かりの魔女

 もっと早う顔を見せに来んかエ? 我があやよ。


◇ユエ

 おばば、なんで……。


▼月明かりの魔女

 なんで、とは何かエ? わいがここにおることか? それともわいがヌシを殺さぬことか?

 首のひとつも折ろうと思うたが、あやも子であることに違いはないからの。まァよいわ。


◇ユエ

 おばば、あなたの子は……


▼月明かりの魔女

 ヌシにはわいの魂を分け与えたというのに、新たな魔女になるどころかヒトでも魔女でもないあやになってしもうたな、くちおしや。そこな猫の小僧が邪魔をしおったか。


◆リールー(語り)

 魔女の指がふいに伸び、私は貫かれた。


◇ユエ

 あああああー---っ! あああぁっ、うあああああー--っ!!


◆リールー

 ……はっ! ちがう! ユエ、幻覚だ。私はおる、ここにおるぞ!


◇ユエ

 いやだ……リールー、いやだ……


◆リールー

 月明かりの、貴様!


▼月明かりの魔女

 黙っておれ王族猫ふぜいが。


◇ユエ

 リっ、リールーを……とったら、許さない……。


▼月明かりの魔女

 ほエ、よう言うわエ、我があや


◇ユエ

 わたしは、あんたの子じゃない……!


▼月明かりの魔女

 ならば誰の子のつもりか? わいの一部をその身に宿しておきながら、まだ人間のつもりでおるのかエ?

 わいの魂とつがってひとつとなるはずであったのに嘆かわしい。

 噛み跡だらけで元のなりさえわからぬ魂と、喰って寝るだけの幼子のようなわいの魂と、ヨソから来た猫の魂とを抱えてしまったヌシを、わいの他に誰が我が子と呼ぶのかエ?

 我が最後の魂であったのだぞ、愚か者めが。


◇ユエ

 おばば、わたしは、その……


▼月明かりの魔女

 既に初潮を迎えておった、そうだろう? 今のヌシを在りようを見れば見当がつくわエ。結局、あン時ヌシはいくつだった?


◇ユエ

 じゅ、じゅうご。


▼月明かりの魔女

 はー。まさか見破れんかったとは。目も鼻もトンと効いとらんかったちゅうことだ。トシだったんだなァ、アぁまったく。


◇ユエ

 ごめん。


▼月明かりの魔女

 愚か者めが。


◇ユエ

 ごめんてば。


◇ユエ(語り)

 いま、はるか足もとに見下ろす大樹の小屋に、あの頃のわたしは通い続けた。お茶やお菓子を手に提げて。最初はひとりで。最後の頃はリールーも連れて。

 なんのために魔女の力を求めたのかは、もう思い出せない。

 小屋から誰かが出てきた。小さな人影の、とつとつとした独特な歩き方から、気分のかけらがどっと押し寄せてきた。

 もどかしい。ねたましい。いとおしい。

 セレーラン先生から聞いた背格好とも合う。あの人がウェラン・エスタシオ。「あの子」の弟か。


▼月明かりの魔女

 はァ。それはそうとヌシに贈るモノがあるのだ。なんぞ企んどる小娘がおったんでちょうど良くてな。ほれ、見えるか? あれだ。


◇ユエ

 おばばが、もうひとり?


◆リールー

 いや、あそこにも一人おるぞ


◇ユエ

 ほんとだ。あ、あっちもか。おばば、何をわたしにくれようとしてる?


▼月明かりの魔女

 だから、あれらだよ。

 わいの複製だ。



<転換> 記念公園



◎エーラ(語り)

 雨上がりの記念公園では、楽譜売りさんを真ん中にいろんな人が歌っていました。街のいろんな所で聞こえる歌なので、あたしも歌えます。

 おばあちゃんがある日、椅子をお馬さんみたいにして走り出す歌です。

 みんながおばあちゃんを追いかけるけど、誰も追いつくことができなくて。そして追いかけて行った人たちは誰一人帰ってこなかった。って終わります。こわーい。

 曲は「魔女に捧ぐ八編」から「安楽椅子の疾走」。楽譜も売れてるみたいで、いいんじゃないでしょうか。


 明日から魔女のすみかも公開になります。あの樫の木すごーい。中におじさんが描いた絵が飾られるんです。いいんじゃないでしょうか。

 モデルはあたしです。13歳のあたしをモデルにして、その上におばあさんを描いて、魔女の超常ちょうじょーさ? みたいのを出すっておじさんが言っていました。


 よくわかりませんが、出来上がった絵はあたしなんかが見ても「すごいな」って素直に思ったぐらいなので、お酒ばっかり飲んでても、やっぱりおじさんはすごいんでしょう。

 あたしの魔女作りもいよいよ大詰めです。

 いいんじゃないでしょうか。



◎エーラ(語り)

 絵のおじさんは、あたしの隣でひょこひょこ歩いてます。おじさんなのにあたしと背丈がおんなじなの。


●ウェラン

 あめが、やんで、よかったな。


◎エーラ

 ほんとですねぇ。黄色いお花がたくさんで、きれいですねぇ。ミモザがふわふわしてて、春ですねぇ。


●ウェラン

 きらいだ。はるも、ミモザも、きいろも。


◎エーラ

 えー、春、いいじゃないですかぁ。うきうきしちゃうじゃないですかぁ。じゃ、あたしはここで待ってますね。はい、絵です。持って行ってください。


●ウェラン

 ああ。


◎エーラ(語り)

 樫の木に向かっておじさんが歩いていきます。大きな木に抱っこされた小屋なんて、絵本のおうちみたい。

 あたしが産まれる前まで、この辺りは深ーい暗ーい森だったそうなんですが、あたしは公園の方が明るくていいんじゃないかと思います。

 せっかく魔女になるなら、明るいところで人気者の魔女になりたいじゃないですか。

 お母さんも、おじさんの絵のモデルをしていました。

 おじさんが没頭し始めると、きれいな蒼い光が見えるんだと言っていました。だれも信じませんでしたけど、あたしにも同じものが視えました。

 あたし、魔法使いのおじさんが知り合いにいるんですけど、あの蒼い光は魔力なんだそうです。それが視えるなら、あたしにも魔法の才能があるんですって。

 才能があるなら使わなくっちゃですよね。

 絵のおじさんがうちに来なくなった頃から、お母さんの心は病気になったんで治したいんですけど、魔法でも心を治したりはできないって言われちゃいました。


 そこで魔女ですよ。

 魔女はこの世のコトワリと心を通わせるらしいんですけど、それってもうなんでもできるって事じゃないですか。

 魔女のなりを広め、魔女のたちを広め、それをみんなが信じるようになれば、再び現れるって。

 お化けも妖魔も妖精も、突き詰めればそうやって発生するんだって。

 安楽椅子のおばあちゃんも、絵のおじさんが新聞に絵を載せてからうまれたらしいんで、魔女だって、同じことができるんじゃないでしょうか。


 だからあたしは、絵のおじさんのスキットルに魔法を仕込んだんです。お酒の妖精を使って、人に言うことを聞かせちゃうイケナイ魔法ですって。

 街で偶然会ったとき、おじさんは酔っ払ってスキだらけでした。仕込むのは簡単でした。

 魔女が現れたら、魂のかけらをもらって、今度はあたしが魔女になります。オトナになっちゃいけないらしいんで、お母さんのお客さんのおじさんからお薬をもらいました。

 月の巡りを止める薬です。オトナになるのを止めてくれます。

 あとは歌と印刷と怖い話が魔女の事を広めてくれました。おじさんの絵が、魔女のすみかに届きました。あたしをモデルにして描かれた、魔力のこもった絵です。あたしと魔女との繋がりもばっちり。思い通りです。



◎エーラ

 おいでませ、おいでませ、月明りの魔女。おいでませ、月明かりの魔女。



<転換> 老婆の発生



●ウェラン(語り)

 街に老婆が生まれた。

 黒いローブの老婆はぬるりとした雰囲気をまとい、例えば公衆便所で用を足す者の眼前に現れた。

 仕事の休息にコーヒー豆を挽く者の背後に立っていた。鼻歌を歌う洗濯女が取り込んだ、洗濯物のカゴから立ち上がった。

 街角で歌に興じる人々の間に、ちらほらと混ざっていた。

 街に発生したそれら全ての老婆はゆっくり首を巡らせ、一点を見つめ、駆け出した。

 背も曲がり、腕もだらりと垂れ下がり、顎も前方にせりだした老婆が、裸足でパシパシと石畳を打ち大股で駆けていく。

 北からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。

 南からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。

 東からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。

 裸足が石畳を打っては鳴る。馬は驚き、自転車は転び、猫は隠れ、犬は吠えた。

 老婆は皆まっすぐ、街の西へと駆けていく。

 壁があればよじ登り、水路があれば突っ切り、少しでも隙間があれば体をねじ込み、折れそうな老人の体を運んで行った。

 二階からどさっ、ぱしっ、ぱしっ。

 厨房からがしゃ、ぱしっ、ぱしっ。

 便所からずりっ、ぱしっ、ぱしっ。

 御者は怒鳴り、警官は警笛を吹き、協会所属の魔法使いは山彦笛やまびこぶえを鳴らす。

 街の混乱は、記念公園に向けて収束していった。



◎エーラ

 来たぁー!


 ほんとうに来た! おじさん、はやくこっち戻って来てください! あはは、やった、やったぁ! 魔女さん来ましたよ!

 あれ? あれれ? あれぇ? 多くないです? なんであんないっぱいいるんですか?

 や、やだやだ。来ないでください……


●ウェラン(語り)

 気が付くと、老婆に突き飛ばされて這いつくばっていた。

 悪酔いでもしたのか? 胸が焼ける。なにやら騒がしい。わけもわからず顔を上げると、群れをなす老婆と白いスカートの少女が目に留まった。

 エーラだ。魔女を描くときに居座っていて、モデルに使った少女だ。押し寄せる老婆に立ちすくんでいる。異常な気配がする。


●ウェラン

 にぐっ、にっ、逃げなさい!


◎エーラ

 あ、わっ! ひゃああ!


●ウェラン(語り)

 逃げる少女を、老婆の群れが追う。エーラの走る先に、スミレ色の服を着た別の娘がいた。なぜだプルイ、なぜお前がここに!


◎エーラ

 わわっ! 


●ウェラン

 プルイ!


◎エーラ(語り)

 あたしは、目の前の人にぶつかって、転びました。だめです。おばあさんが山ほど群がってきます。


●ウェラン

 プルイぃ!


◎エーラ(語り)

 ああ、だれもあたしのことは呼んでくれないんだ。そうですよね。お父さんはつまらないケンカで死んで、お母さんは心がおかしくなってしまったんですもんね。

 おばあさんの手が、手が、手が伸びてきました。腕、脚、髪、服の全部を、ぐいっと掴まれて。あたしは。いやです。お母さん。いやです!


◎エーラ

 やぁだああああああ!! だれっ、誰かぁ! お母さん! おかあさぁぁぁぁ……!



<転換> 記念公園上空。



◇ユエ(語り)

 知らない子の悲鳴がここまで届いて、わたしは「あの子」の悲鳴を思い出した。

 少女の場所にぞくぞくと老婆が集まり、重なって盛り上がっていく。


▼月明かりの魔女

 ヌシ、安楽椅子を追いかけたろう? わいが死んでからああいう偽物が出るようになってな。


◆リールー

 死んだだと?


▼月明かりの魔女

 猫がうるさいね。月明かりの魔女は老いて死んだよ。わいは、ヒトの手で記され、語られ、記念され、街に取り込まれてこの世に残ったのだ。


◆リールー

 つまり幽霊ふぜいか。よくもほざいたな。


▼月明かりの魔女

 エ?


◇ユエ

 おばば、わたしを下ろして。あの男の人に会わなきゃいけない。


▼月明かりの魔女

 最後まで聞かんかエ。ヌシへの贈り物の話だぞ。


◇ユエ

 お願い。ほんとに、いま行かないと。


▼月明かりの魔女

 あれらはわいの粗悪な複製だ。あの小娘、なりたちちまたに広めてわいを生み出すつもりでおったようだよ。

 なかなかいい所まで行っとったと思うが、すでにわいがここに在るからな、うまくはいかん。


◇ユエ(語り)

 話が長い……!


▼月明かりの魔女

 まァちょうどヌシが街に来とったんで、小娘の仕込みを使わせてもらったよ。わいの複製どもは人の情念を複写するぞ。うまそうだろ? 我があやよ。

 魔女もな、子は腹いっぱいにしてやりたいと思うのだ。


 たーんと喰うがよいわエ。



<転換> 記念公園



●ウェラン

 プルイ……プルイを、娘を返してくれ……


●ウェラン(語り)

 大量の老婆が、プルイをその群れの中に閉じ込めたまま、組みあがっていく。老婆どうしが手足を絡め、巨大な猿の形になっていく。頭の無い猿に。

 なにか、硬くて、武器になりそうなものはないのか。私はズボンの尻ポケットに入っていた物を投げつけた。

 スキットルが猿型さるがたの右腕に当たり、そのまま芝生に落ちた。

 猿の腕が伸びてきた。腕を構成する老婆たちの腕もそれぞれ伸びてきた。

 視界のうで、腕、腕。

 しわ、皺、皺。


●ウェラン

 か、ふ、は……


●ウェラン(語り)

 五十歳を超えても、恐怖には涙が出ると知った。

 引きずり込まれ、目の前が暗くなる。



<転換> 記念公園上空



◇ユエ(語り)

 わたしは落下を始めた。


◆リールー(語り)

 雨上がりの公園へ我々は落ちていく。


◇ユエ(語り)

 なつかしさが胸をよぎる。


◆リールー(語り)

 あの時は、真上から太陽が照らす蒸し暑い日だった。


◇ユエ

 リールー!


◆リールー

 よしきた!


◇ユエ

 にゃあああああああっ!!


◇ユエ(語り)

 三十年前の記憶を胸に、猫をまとう。まだ間に合え。伝えたいことがあるんだ。あなたまで死なないでくれ。


◇ユエ

 ウェラァァァン!


<転換> ウェランの情念


●ウェラン(語り)

 名前を呼ばれたように思う。

「ウェラン、留守を頼んだぞ」「ウェラン、きっと大丈夫よ」

「ウェラン、今回も姉さんではなかったよ」「ウェラン、気を強く持ちましょうね」

 十四歳の頃から、記憶にある両親の姿は「出かける姿」と「落胆して帰ってきた姿」ばかりだ。

 姉の消息についての噂を確認するため家を出て、しばらくすると戻ってくる。

 いつか帰ってくるかもしれないからと姉の部屋はそのままに残された。

 いつか帰ってきた時のためにと母は自ら掃除をしていた。

 いつ何をしていても姉の影がちらついていた。

 父の使い魔だったしろがね蜘蛛ぐもでさえ無口になった。

 次第に「魔法使いになれ」と言われなくなり、私は絵に没頭した。


 成人し、絵が生業となり、家を出て、結婚して、娘が産まれ、離婚して、もう元には戻らないとわかり、生家に戻ってきた頃にも、両親は姉の消息らしき情報を聞きつけては確認に赴いていた。

 医術関係の魔法で財をなした一家だ、金銭に余裕はあるのだから、せめて人を派遣すればいいだろうと説いた。

 だが、どうしても自分たちで行きたいのだと、聞き入れてはもらえなかった。

 もう姉の事はあきらめてくれと頼み込んだ。

 二人とも高齢なのだから、頼むからもうやめてくれと。

 わかった。これで最後にしようと出かけて行った両親は、古い橋の崩落で死んだ。


 古い舘に私と、姉の部屋が残った。



<転換> 落下中のユエ



◇ユエ

 猫は、よく、伸びる!


◆リールー(語り)

 左腕をみゅん! と長く長く長く伸ばし、ユエは猿型の右肩をつかむ。引き寄せて落下点を定める。


◇ユエ(語り)

 いくつもの手につかみ返された。わたしの頭の中に、火花のような閃きが走った。



<転換> ウェランの情念



●ウェラン(語り)

 姉の部屋にテレピン油をぶちまけて、全部燃やしてしまいたかった。

 食堂に飾られた古い写真で、姉は小鼻に皺をよせ、得意げに笑っている。

 なんだというのだ。そのまま、憎たらしいままでいてくれればよかったのに。

 両親の遺品を整理していて、母の部屋から姉の日記を見つけてしまった。

 そんなもの、読まずにしまい込んでしまえばよかったのだ。最後のページなど開かなければよかったのだ。

 母が誰から隠したかったのか、おもんばかって尊重すべきだったのだ。

 姉さん。

 僕の脚は伸びなかった。脚が「まとも」であったら良かったと、数えきれないほど思った。でも僕は僕の人生を生きたんだよ。

 僕には僕の力があって、あんたは「冒険」なんかしなくて良かったんだ。

 突然いなくなってしまうぐらいなら、僕の脚なんかひとつも気にしなくて良かったんだ。そんなもの、ぜんぜん必要なかったんだよ、姉さん。

 あんたが家族を、エスタシオを連れて行ってしまった。

 ああ、くそう、なんでこんな時に思い出すのがあんたの事なんだ。



<転換> 落下中のユエ



◇ユエ

 !!


◆リールー

 どうした!?


◇ユエ

 何でもない!


◇ユエ(語り)

 伸ばした腕を戻す。情念だ。猿め、おいしそうでしょうと言わんばかりに、中の人間の情念を見せてきた。


◆リールー(語り)

 着地までおよそ四拍。


◇ユエ

 リールー!


◆リールー

 受け取れ!


◆リールー(語り)

 ユエが全身をひねって右腕を振り上げた。


◇ユエ

 猫の! 爪は!!


◆リールー(語り)

 対象は巨大だ。


◇ユエ

 するどぉぉぉおおっっ!!


◆リールー(語り)

 魔法は気合いだ。


◇ユエ

 っっいぇあ!!!


◆リールー(語り)

 猫の魔法「引き裂く指」


◇ユエ(語り)

 化け猫の爪が、猿の右腕を切断した。


●ウェラン(語り)

 視界が開ける。雨上がりの空が見える。胸にのしかかっていた重さが消える

 どさどさどさと、重い音。あちこちからの悲鳴や叫び声。


◇ユエ

 ウェランくん……さん。離れてて。あとで話ある。


●ウェラン

 なっ。ね、猫の頭!? 婆さんが、バラバラなのにまだ動いて(嘔吐)


◇ユエ

 切り裂いてもまだ塊になろうとするんだね。そういうたぐいの奴か。


●ウェラン(語り)

 こんなことをしている場合ではないのだ。妖魔だろうと妖怪だろうと、何でもいいから


●ウェラン

 たっ、たす、けてくれ。助けてくれ……、む、むすっ

 娘が

 娘がぁ! 中にいるんだ! あれの、あれの中に! お願いだ助けてくれ……娘を、娘をおおお、助けてくれよぉぉ!! 頼む、たのむよぉ!


●ウェラン(語り)

 猫頭に顔の両脇を押さえられた。左右で異なる瞳と目が合った。


◇ユエ

 まかせて。

 だから泣かない。


///////////////////


(幕間3)


///////////////////


<第4幕>


◆リールー

 見事な姉っぷりであった。


◇ユエ

 別に、こっちの言葉でうまいこと言えなかっただけだよ。


◇ユエ(語り)

 わたしは塩袋の塩を一粒口に含む。塩気が神経に染み渡る。

 依頼は承った。対価は既にもらっている。誰が猿に取り込まれたのかも、上空から見た。


◇ユエ

 やろう、リールー。


◆リールー(語り)

 ユエが猿との間合いを一気に詰めた

 魔女の複製が複合した頭の無い猿。ユエの右目たる私の正面に猿の膝。視線が上がる。猿の胸から覗くスミレ色の布。ユエの跳躍。猿も跳躍。


◇ユエ

 えっ? 

 逃げるの?


●ウェラン(語り)

 猿が駆けていく。逃げ惑う野次馬と、新たにやってくる老婆とが入り乱れる。猫頭が猿を追う。


◇ユエ(語り)

 猿の腰より下が上半身を持ち上げ、野次馬へと勢いよく投げた。


◆リールー(語り)

 残った下半身は個々の老婆にバラけて、それぞれがまた走り出す。


◇ユエ

 おとなしく喰われろ。


◆リールー(語り)

 追い抜きざま、ユエが蟲袋から数個のさなぎを投げた。


◇ユエ

 ほむらの羽ひらけ! おいでませ炎蝶えんちょう


◆リールー(語り)

 山火事にはばたく蝶、すなわち炎蝶の羽が老婆たちを焼く。


●ウェラン(語り)

 投げられた猿の上半身から、無数の老婆の手足が野次馬へ伸びた。悲鳴を上げる人々が引き込まれ、追加の老婆が埋めていく。

 猫頭は手近の老婆をひっつかんで、頭をかじっていた。悪夢だ。アプシンの見せる幻覚ならどれほど良いだろう。


◇ユエ

 火ぃ通して頭かじるぐらいじゃ止まらないね。完食しろってことか。


◆リールー

 数えきれんほどおるが。


◇ユエ

 (むしゃむしゃ)まったく。んッ……!


◆リールー(語り)

 ユエが声を漏らした。居候の恍惚感こうこつかんに共感したのだ


◇ユエ(語り)

 猿は人を取り込み、追加の老婆とあわさり、ひとまわり大きくなった。


 おばばの複製で量的に増え、人間を取り込んでは情念を複写して、質的に濃くなる食べ物のようだ。

 けど、それは居候の好みだ。「わたし、情念に満ちたモノの怪がとっても好きなの!」

 まったく。腹一杯にしてやりたいだの、たんと喰うがよいだのと……


◇ユエ

 愛が重い


●ウェラン(語り)

 猫頭が猿を追いかけ回し、猿は市街地へ近づきつつあった。私はおぼつかない脚を動かして必死に追う。あんな中にいてプルイは、娘は大丈夫なのか。


◇ユエ

 無駄にすばしっこい! おばばの塊のくせして!


◆リールー

 この動き、喰われる事よりも、大きく濃くなる事を優先しているのやもしれん。


◇ユエ

 愛が! 重い!


◆リールー

 奴め、街へ向かうぞ。


◇ユエ

 欲張りだなぁ。娘だけでも置いてけ!


◇ユエ(語り)

 街の人口は、どう考えたってあの猿に収まらないだろう。そして猿はそんなことに構いやしないだろう。そうしたら、どこかが破綻しそうな気がする。なりたちが見えているこの段階でケリをつけたい。


◆リールー(語り)

 ユエが全力で追う。私に魔力が供給され、魔法がユエに返っていく。シュダパヒ市街がはっきり見える。

 公園の出口に女がひとり、逃げ出す人々をかばうように立っていた。


◇ユエ(語り)

 わたしは猫のヒゲで魔力の流れを感じた。こんなところまで魔力の取り込みが及んでいる。強い魔法を構えている。その足元には大きな大きな黒猫。


◆リールー

 街の魔法使いか!?


◇ユエ

 (魔法使いへ)だめ! そいつの中、ヒトが!!


◆リールー(語り)

 女と目が合った。蜂蜜のような色だった。


◇ユエ(語り)

 魔法の気配を感じて、わたしは跳んだ。


□しっぽ髪

 王族猫は!


★ケト

 どっしり構える!


◆リールー

 なんだと!?


◇ユエ(語り)

 地響きと土埃つちぼこり。


◆リールー(語り)

 王族猫の魔法が、猿の巨体を抑えつけた。


◇ユエ(語り)

 魔法使いの髪が突風になびく。猿はわたしの足元。


◆リールー(語り)

 猿の背中が、ユエを迎え入れるように開く。人々の服の色が目立つ。ユエが大きく息を吸って、猿の中へ飛び込んだ。


◇ユエ(語り)

 スミレ色の服をたぐり、娘の体に腕を回す。

 ヒトが多くて、切断するのは危ない。食べきるには時間がかかりすぎる。でも、この猿のたちはひとつはっきりしている。

 ニセおばばが組み合わさったこいつは、バラけるのだ。砂粒みたいに。雨粒みたいに。


 バラけるものなら振り払ってしまえ!


◇ユエ

 せーの!

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶ


 せーの!!

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶっ


◆リールー

 (続いて)ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶっ


◇ユエ

 せーの!!!

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶん


◆リールー

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶん


◇ユエ

 ぶるぶるぶるぶるぶるぶるぶる、ぶん、ぶん、ぶん!


<転換> 大猿が分解


◇ユエ

 ……っよし!


●ウェラン(語り)

 雲の間からのぞく夕暮れを背景に、老婆が飛び散った。


◆リールー(語り)

 ひとりだけ解放されなかった。


◇ユエ(語り)

 藍色の瞳をした、厚ぼったいまぶたの少女が、老婆にまとわりつかれたまま飛んでいく。


◆リールー(語り)

 飛び散った老婆が再び集まっていく。


◇ユエ(語り)

 あの子が猿の中心か。


●ウェラン(語り)

 おぼつかない脚を動かして、私は追いかける。公園出口には協会の魔法使いたちが到着しつつあった。警官隊や消防隊の姿もあった。


□しっぽ髪

 その白頭は違う! 魔法よ!「猫まとい」! 黒いお婆さんの形をしたのが対象です! おばあさんを押さえて!


●ウェラン(語り)

 ああ! あそこにいる。猫頭がやってくれた! 人々が警官隊や消防隊に保護されていく。プルイも。プルイ。よかった、今行くぞ。


◇ユエ(語り)

 まだ、終わってない。


◇ユエ

 リールー、依頼の内容ってさ。


◆リールー

 「あれの中にいる娘を助けてくれ」


◇ユエ

 うん。含まれてるね。あの女の子もだ。


◆リールー(語り)

 少女を中心とした塊は、小ぶりな猿となって再び立ち上がった。


◇ユエ(語り)

 魔法も長時間におよんで、そろそろ塩を補給したい。


□しっぽ髪

 たりてる?


◇ユエ

 わ、バラ色の塩。かわいい。


□しっぽ髪

 でしょう?


◇ユエ

 ありがとう。


◆リールー(語り)

 ユエが跳んだ。老婆の群れを飛び越えた。


◇ユエ

 猫の爪は、鋭い!


●ウェラン(語り)

 猫頭が猿を切断し、魔法使いたちがクモ、草、トカゲ、穴、さまざまな魔法を繰り出して老婆を抑える。

 記念公園と市街地の境目でせめぎ合いとなった。魔法協会、警官隊、消防隊といった都市機能が集結し、猿の化け物とぶつかる。

 その間にも駆け寄る老婆が在る。素人の私にも、これではキリがないように思えた。が、


□しっぽ髪

 あれを持ち上げて! 「たかいたかい」してやって!


●ウェラン(語り)

 指示を受けた協会の魔法使いが魔法を繰り出した。猿の体が宙に持ち上がる。老婆の群れは猿に届かない。

 こちらからも猿に手が届かないようだが、あとは時間をかけて対処するのだろうか。

 しかし、猫頭は猿に向かって跳んだ。



<転換> 大猿内部



◇ユエ

 (むしゃむしゃむしゃ)


◇ユエ(語り)

 老婆の隙間に頭をねじ込み、かき分け、食い散らかしながらわたしは掘り進む。中心になっている子を引きはがしたら、残りはどうにでもすればいい。

 猿が情念を見せてくる。中にいるのはもう、さっきの女の子だけだ。


●ウェラン(語り)

 軍隊から、最新鋭の「車」に乗って六名の小隊が到着した。


◇ユエ(語り)

 母親をなんとか助けたかった事。お酒に魔法を仕込んでウェランにつけ込んだ事。薬で月の巡りを止めてしまった事。魔女をよみがえらせようとした事。

 それら全部を、後悔していた。

 今の恐怖から逃れたい一心で、無かったことにしたいと望んでいた。

 愚かで幼い後悔を、わたしは笑えない。


●ウェラン(語り)

 小隊は即座に銃を構え、宙に浮かんでもがく猿に狙いをつけた。


●ウェラン

 う、撃つな! 撃つんじゃない!


◇ユエ(語り)

 ついに少女の身体をつかんだ。痩せた腕が反応して、もがき、力いっぱい掴み返してくる。


◎エーラ

 た、助けて……助けて……


◇ユエ

 そのために来た。

 魔女になんて、手ぇ出しちゃだめだよ。


◎エーラ

 ご……ごめんなさい。ごめんなさいぃ。ごめんなさいぃぃ……ごえええええ、ひえええええ……


◇ユエ

 バカだね。ほんとうに。


◇ユエ(語り)

 女の子を引き寄せ胸に抱える。ニセおばばは、またブルブルと振り払ってしまおう。


●ウェラン(語り)

 軍隊が、発砲した。


◇ユエ

 (被弾)うっ!? ぐ、がっ!


◆リールー

 ユエ!?


●ウェラン(語り)

 6ちょうの銃が何度も火を噴く。


◇ユエ(語り)

 女の子をかばう。あんなにしぶとかった老婆の結合が緩んでいく。


◎エーラ

 (悲鳴)


◇ユエ

 (被弾)んやぁぁっ!


◇ユエ(語り)

 銃? 銃か……? 猿め、金属が弱点、か……。

 頭から血の気が引いていく。息がごぼごぼとして苦しい。手足が感じられない。

 でも、この子は、死なせたくない。


◆リールー

 ユエ、猫まといを解け! 解いて、王族猫の通り道へ逃げろ!


◇ユエ

 (被弾)あぐっ!


◇ユエ(語り)

 この子は「あの子」だ。

 「あの子」は死んだ。

 この子を死なせてしまっては、だめだ。


◇ユエ

 (吐血)ぐふっ、ごふっ。


◇ユエ(語り)

 怪我をしないようにって、祝福の言葉ももらったのに。

 セレーランせんせい、けが、しました。


◆リールー

 ユエ、ユエ。大丈夫だ、私がついておるぞ。


◇ユエ(語り)

 ごめん、リールー。辛い思いさせて、ごめん。


 魔法が内側から解かれる。子宮から爆発のように熱がひろがる。



<転換> 魔女顕現


▽子宮の魔女

 わぁぁぁぁあっ! あははっ、あはは! あはははは!


 ああ!

 母さま!

 大好きよ!

 いいのかしら。

 こんなにたくさんの。

 おいしそうなモノたち。

 情念のこもったいい匂い!

 うれしい! うれしい! わたしのために準備してくれたのでしょう?

 それに、ここはなんだかよい気分になるのね。

 きねんこうえんというの?

 そこのかた、きねんってなぁに?

 ふぅん。

 魔女がいたところなの?

 あ、そちらのかた、そのままで。

 邪魔をなさらないでね?

 わたし、とっても気分がいいの。

 だから人間の方々はおとなしくなさっていて。

 でないと、うっかり潰してしまうわ。

 ね?



●ウェラン(語り)

 針金雀枝はりえにしだが一斉に生え、伸びた。

 とげが老婆たちを余すところなく絡めとり、みるみるうちに伸びあがる。

 棘は人間を拒絶するように弾きとばし、無数の茎はねじれ、よじれて一本となり、ついには天を突く棘の塔が公園に立った。

 小鳥のような黄色い花が塔に咲き乱れる。

 誰もが呆然としていたが、できることから再開された。つまり塔以外の事後処理が始まった。


 私はようやくプルイと合流した。魔女の小屋の公開初日のために、シュダパヒに前日入りしたのだそうだ。引き続き友人宅に泊まると言い張ったが、私の家へ連れ帰った。


◎エーラ(語り)

 あたしは怪物の中から落っこちました。でも、怪物を作っていた柔らかい黒い塊の上に落ちたから、怪我はなかったです。

 あたしは、何をしてしまったんでしょうか。

 あの白猫の顔をしたお姉さんは、どうなったんでしょうか。お姉さんも悲鳴をあげていました。無事なんでしょうか。どこに行ってしまったんでしょうか。


◇ユエ(語り)

 わたしは魔女の右目にいた。


◆リールー(語り)

 ユエと共に、私も見ていた。


◇ユエ(語り)

 塔の最上部からは、シュダパヒの隅々までが見えた。


◆リールー(語り)

 私の知る中でも指折りの絶景であった。いびつに曲がる枝にささり、棘にからめ取られてぶら下がる無数の老婆やその残骸さえなければ。


▽子宮の魔女

 あなたたちって素敵よ。わたしがいままで食べた中でも、とびっきりおいしいわ。いろいろな情念が重なりあっていて、抱きしめたところからとろーりとろり溶け出してくるのよ?

 口づけしたら一枚一枚にほのかな歯ごたえがあって、くせになりそう。ふふ。


◆リールー(語り)

 魔女が老婆を抱きしめてと、口づけてと捕食していく。


▽子宮の魔女

 お花さんたち、歌って? 小鳥のようにさえずって。

 黄色、一面の黄色。黄色い一輪を片手に恋人の踊りをしましょう。あなたとわたし、春の黄金こがねいろの中で。

 ああ、わたしだけでは踊れない。あなたがほしい。あなたが来て。まだ見ぬあなたが。


◆リールー(語り)

 塔の上で幼い魔女は歌い、食べ、遊んだ。

 日が暮れ、月が高く昇る頃、来客があった。


▽子宮の魔女

 あら、初めましてのおばあちゃま! せっかく来てくれたのだけど、わたし幽霊は食べないのよ。なんだかモソモソしておいしくないの。


▼月明かりの魔女

 よく知っておるわエ。あやよ。


▽子宮の魔女

 あやしご? おばあちゃまって、おかしな言葉をつかうのね。あのね、いま、とっても美味しいモノの怪を頂いているの。おばあちゃまにそっくりなモノの怪よ。トクベツにおひとついかが?


▼月明かりの魔女

 嬉しい申し出だが、残念なことにわいはモノを喰わんのだ。


▽子宮の魔女

 あら、そう。つまらないのね。じゃあおばあちゃま、ダンスは踊れる? 幽霊ならお年は関係ないのでしょ?

 わたし、いまとっても踊りたい気分なのに、お相手がいないの。ね、いいでしょ!


▼月明かりの魔女

 いいともあや。一緒に踊ろうじゃないか。


◆リールー(語り)

 月明かりの魔女がまっすぐに立ち、子宮の魔女の手を取り、腰に手を回した。

 ハリエニシダの花が歌い、枝鳴りが拍子を打ち、月下で老女と少女が踊る。


▽子宮の魔女

 たくちくたく、るんたたとん。るんたたたん、たくちくた。たくちくとん、たくちくた。ふふ、とってもお上手。恋をしそう。

 でも、だめよ、わたしを食べようだなんて。リードをとるのはわたしなの。


◆リールー(語り)

 逆転した。子宮の魔女が月明かりの手を取り、腰を支える。


▽子宮の魔女

 ねえ、幽霊さん。あなたはダンスがとっても上手だから、トクベツよ?


▼月明かりの魔女

 引導を渡してくれるのかエ?


▽子宮の魔女

 ふふふ。このまま優しく抱きしめて、

 あなたの事も

 食べてあげるわ。


<転換> 夜明け前


▽子宮の魔女

 (眠い)黄色い一輪を片手に恋人の踊りをしましょう。恋人の踊りを……。しあわせよ。しあわせだわ。わたしは、しあわせなの……


◆リールー(語り)

 月が沈む頃、魔女はようやく眠りにつき、ユエは体を取り戻した。


◇ユエ

 腕もお腹も、きれいになっちゃったなぁ……。


◇ユエ(語り)

 わたしたちは王族猫の通り道を通って平笠の所へ帰った。

 通り道に翡翠のランプとリールーの骨の包みが漂っていた。なくなっていなくて、嬉しい。


◆リールー(語り)

 ハリエニシダの塔は夜明けには枯れ、灰のように崩れたと聞いた。


◇ユエ(語り)

 そして数日がたち、わたしたちはマートル丘の墓地にいる。

 (墓碑銘ぼひめいを読む)


 〝突然に旅立ってしまった愛する父母よ

 次の世ではその生が穏やかであることを切に願う

 どうかパヒスースの手がその道行きをお護りくださらん事を

 ジュール・エスタシオとニュイ・アカーシャ=エスタシオ、ここよりまた旅立つ〟


◆リールー(語り)

 まぶたが閉じられて、私は何も見えなくなった。


◆リールー

 もう、次の世に産まれ変わっているのだろうな。


◇ユエ

 うん。穏やかで過ごしやすい所だといいね。


◇ユエ(語り)

 わたしたちはウェランの家に客として滞在している。訪問したときの挨拶はこうだった。


<転換> エスタシオ家の応接間


◇ユエ

 わたしはユエと言います。ユエです。遠い東の国から来ました。助けてくれたお礼を言いたくて、セレーランさんに紹介の手紙を書いてもらいました。


●ウェラン

 あ、ああ、そうか。取りあえず、私は椅子に掛けてもいいのかな?


◇ユエ

 はい。いきなりごめんなさい。


●ウェラン

 それは、まぁ、気にしないで君も座ってくれ。いまお茶を──


◇ユエ

 わたしは、あなたの姪っ子です。


●ウェラン

 慌てないで、ともかくお茶を待ちなさい。


◇ユエ(語り)

 失礼は承知で、元の名前が出る前に今の名前をかぶせてしまう。

 元の名が出ないように。たとえ口に出されてしまっても、それがわたしに向かないようにする術。ようはゴマカシだ。


◆リールー(語り)

 茶を待つ間は、気まずい沈黙であったと思う。


◇ユエ

 (お茶が)熱ち。


●ウェラン

 いきなり疑ってすまないが、僕の血縁をかたる者がしばしば現れるのだ。なぜだかわかるかな?


◇ユエ

 お金持ちだってセレーラン先生が言ってました。


●ウェラン

 ほう?


◇ユエ

 それで、お姉さんがいなくなったから、その息子や娘だって嘘つく人がいる?


●ウェラン

 そうだ。ところで君は誰から姉の事を聞いたのかな?


◇ユエ

 だれ……


◆リールー

 本人からに決まっておろう。


◇ユエ

 母さんから聞きました。弟がいるって。


●ウェラン

 なるほど。ユエ君といったか。君が僕の姪だというなら、何か証拠を持ってはいないかな。


◇ユエ

 証拠……あります。初めて月が巡ってきた日に、これを母さんの母さんからもらったと言っていました。とこしえ鏡です。


●ウェラン

 ! ほ、他には、他には何か言っていなかったかね?


◇ユエ

 ほかに……。


◆リールー(語り)

 ウェランが震える手を鏡に伸ばした。


◇ユエ(語り)

 ふいに気分のかけらが来た。


◇ユエ

 さわらないで。


●ウェラン

 すまない。


◇ユエ

 あ、ちがいます。えっと、あの、お母さんは、その鏡を触らないでほしかったって。


●ウェラン

 おお……。

 そうだ……そんな事があったよ。

 あの頃、僕も、とこしえ鏡なんて見たことがなくてね。置いてあったのを手に取って、いろいろ映して見ていたんだ。

 そしたら、姉さんは鏡がなくなったと思ったらしくてね。……まったく、置きっぱなしにしてたくせに、すごい剣幕で怒鳴られた。

 ユエ君。姉さんは、君のお母さんは無事なのか? 今どうしているんだ?


◇ユエ(語り)

 そう来ると予想はしていた。いっそ嘘を重ねてしまおうかとも思った。


◇ユエ

 母さんは……


◇ユエ(語り)

 けれど、ウェランの姉が帰ってくることは、ないのだ。


◇ユエ

 死にました。


◆リールー(語り)

 そこからは、作り話だった。


◇ユエ(語り)

 魔女の呪いを受け、王族猫の通り道にあわてて逃げ込み、遠い東へ出てしまった事。


◆リールー(語り)

 呪いのせいで帰れず、そのまま東で娘を産み育てた事。


◇ユエ(語り)

 この右目には母の使い魔の目が入っている事。


◆リールー(語り)

 父親はおらず、母は「まじない師」と呼ばれるあちらの術師として生計を立ててきた事。


◇ユエ(語り)

 そして、とある山の村で病に倒れ、亡くなった事。


●ウェラン

 そうか……(40年分のため息)

 ……遠い所からよく来て、よく知らせてくれた。


◆リールー(語り)

 こん、こん、こん、と時計の針が鳴っていた。


●ウェラン

 ユエ君。もしよかったら、しばらくうちに滞在してくれないか。君の肖像画を、ぜひ描かせてほしい。

 君にも何か、街でやりたいことがあれば力になるが、何かないかね?


◇ユエ

 ……母さんのこと、知りたいです。


◇ユエ(語り)

 「あの子」のことを。


///////////////////


25.(幕間4)


///////////////////

<第5幕>


(ユエとリールー、あの子の日記を黙読している)


△あの子

 〝どうしよう、すごいどきどきしてる。わたし、おばばに会っちゃった。そんな、いろいろ話に訊くような怖い感じじゃなかったのが一番びっくりした。

 変な言葉遣いなのは、おばあちゃんだから? それともなにか理由があるのかしら。

 お話をしてたら、あっと言う間に時間がたっちゃった。別の国、別の時代のお話ももっと聞きたい。

 そうそう、おばばでも冬は足元が冷えるんだって。急に人間っぽいこと言うから驚いちゃったけど、ほんとにそうなら、ひざ掛けを作ってみようかな。

 編み物やったことないや。教わらなくちゃ。

 本当の名前は教えちゃいけないって聞いてたのに、あやうく口を滑らせるところだった。とっさに偽名を名乗ったのは我ながらよくやったわ。

 わたしはアズレア、世界の理はわたしのものよ! なんてね。ふふふ、秘密の名前。

 またこっそり会いに行ってみよう〟


(ぱらり。別のページへ)


 〝ウェランとケンカした。わたしの方が素養があって、ちゃんと訓練だってしてる。なのにあの子ばっかりずるいよ、先生までつけてもらってさ。

 父さんはきっと、わたしに興味がないんだ。もし誰が見てもわかるような、圧倒的な「お手柄!」みたいなことをやったら、父さんもウェランも思い知るのかしら。

 ふんだ。

 母さんはわたしの魔法を一生懸命に褒めてくれようとしてくれるけど、でもやっぱりあんまりわかってはいなくて。

 わたしが何をしても「すごいね」って「自慢の娘よ」って言うんだと思う。それは、なんだか、ちがうなって思ってしまう。やだな、こんな気持ち。いやになる〟


(ぱらり)


〝母さんから手鏡をもらった。おなかいたい。いーい-い-。月のものって、こんなに痛いの?〟

〝(これだけじゃあんまりだと思いました。なので追記します!)母さんの家の、おばあちゃんのおばあちゃんの代から引き継がれたとこしえ鏡ですって。

 本当に傷ひとつないなんて。しっかり首にかけてなくさないようにしなくちゃ〟


(ぱらり)


 ”ウェランはどうしてわたしの持ち物勝手に触るの!? もう、せっかくの日記があいつとケンカしたことばっかりになる!”


(ぱらり)


〝やった! 王族猫だ! やったぁ!

 嬉しくてはしゃいでたら怒られちゃった。猫に。寒いから早くしろって。使い魔なのに。やっぱり猫も王族だと偉そうなのかな。でも、やったぁ!

 名前どうしようかな。ケト? リールー? リールーの方がかわいいかな。生意気そうな猫だから、かわいいほうの名前にしてやる

 わたしをなんて呼ばせよう。主人? あるじ?「我が君」とかどうかな。「我が君よ、ご命令を」ってかしずかれるの。悪くないんじゃないかしら

 かしづかれる? かしずかれる? どっちだっけ? まいっか〟


(ぱらり)


〝あるじになった。呼び方ぐらい選ばせてはくれぬか、だって。名づけが安直すぎって文句も言われた。わたし、リールーとうまくやっていけるかなぁ〟


(ぱらり)


〝脚の成長をうながすためだと言って、父さんが、折った。ウェランの脚を。骨を折った時にだけ呼び出せる精霊が在るって。

 ウェランは顔が真っ青で、わたしは、驚いて、父さんを責めて、母さんにぶたれた。母さんに。父さんの気持ちも考えろって。

 母さん、だって、でも、ウェランの顔、あんなに真っ青で。

 まだ震えが止まらない。どうすればいい。どうすればよかったの〟


(ぱらり)


〝灯火。ともしび。この緑色の火がきっと希望の火になるわ〟

〝明日の事を考えると、眠れなくなりそう。わたしの人生で(人生だって!)一番の冒険よね

 でもこれは遊びじゃなくて、ほんとうに人生を変えちゃうような一大事になると思う。

 わたしだけじゃなくて、父さんや母さんや、ウェランの人生も変えてしまうと思う。脚が治ったら、ウェランは喜ぶかな。

 父さんもわたしを認めてくれるかな。

 母さんは、わたしが変わっても、好きだって言ってくれるかな。

 きっと大丈夫。わたしはまだ子どもに含まれるはずだから、きっと大丈夫〟


(日記はここで終わる)


◇ユエ

 日記、閉じていい?


◆リールー

 充分だ、ありがとう。

 あちこち連れまわしてしまったが、少し疲れておるのではないか?


◇ユエ

 疲れたというか……気分のかけらで胸がいっぱいになっちゃって、心がなんだか重たいや。


 いま読んだ日記、庭のリンゴの木、食堂の肖像画に写真。写真なんて特にね。わたしと同じ顔の子がわたしに憶えが無いことしてる、ってすごい違和感。

 そう考えると、なんでウェランさんにまだ感づかれてないんだろう?


◆リールー

 右目が私だからではないか? それに体が年をとらぬとはいえ、仕草や雰囲気は変わるであろうし。


◇ユエ

 それかな。ともかく、気は抜かないように……(ベッドに倒れ込む)する。


◆リールー

 ベッドに倒れ込みながらでは、説得力に欠けるな。


◇ユエ

 そういうとこじゃない? 日記に生意気だって書かれたの。


◆リールー

 昔も今も、私は変わっておらんよ。


(間)


◇ユエ

 あのね。

 わたしはやっぱり「あの子」にはなれないよ。今のわたしはリールーと一緒になってから始まっていて、居候を何とかしようとしているのがわたしなんだ。

 いろんな事をなくしてしまったけど、それだけが変わらない。でも、その前の事にはね、つながっていかないんだ。わたしは、もう、別の人なんだ。

 ほんのちょっとでも、リールーをあの子に会わせられたらと思ったんだけど、わたしは……


◆リールー

 よい。わかるよ。そんな気がしておったよ。――あの冬の日にまるまると着ぶくれして、真っ赤な顔で、鼻をすすりながらはしゃいだ魔法使いの小娘は……。

 もう、私の思い出の中にしか、いないのだな。


◇ユエ

 あの子を覚えているのは、リールーと、ウェランと、あとはこの世に何人いるんだろうね。

 あの子はこのベッドから、何回天井を見たんだろう。

 寝る前とか、目を覚ました朝とか、眠れなかった夜とか、あの子がこの天井を見るたびに感じた気持ちが、今、わたしに降ってきてるんだ。

 誰かの思い出の中にしかいない子が、かつて感じた気分のかけら。


 わたしがいま感じてるのは、あの子の亡骸なんだろうね。



<転換> マートル丘の墓地



◆リールー(語り)

 ユエが目を開いた。墓の上に降り注ぐ木漏れ日の模様が見えた。


◇ユエ

 遅くなって、ごめんなさい。娘さんをお返しします。


◇ユエ(語り)

 わたしは、季節の花で作った花束をたむけた。ミモザにラジューヌ、ロンコリジューヌと、様々な黄色が溢れんばかりになった。


◆リールー(語り)

 ウェランの描いたユエの肖像にも、こういった黄色がふんだんに使われていた。


◇ユエ(語り)

 きれいな色だと言ったら、こう教えられた。


●ウェラン

 昔からある調色ちょうしょくで、アマリラという名前の色だ。

 ラジューヌだとか、ミモザだとか、ロンコリジューヌだとか、春の野原にはこんな色の花が多く咲くからね。人気があって定番なんだよ。


◆リールー(語り)

 墓の前。ユエが膝をつき、手頃な小石を拾った。

 小石を使って、ユエが土に墓碑銘ぼひめいを書く。


◇ユエ

 きみの名前、わたしも好きだよ。いい名前だと思う。

 きみは、きっと、間違ってた。けど、あとはわたしがやっておくからさ。もう心配しないでいい。


◇ユエ(語り)

 わたしは立ち上がり、束ねた髪を左手で掴んだ。


◆リールー

 猫の爪は、鋭い。


◇ユエ(語り)

 切りとった髪の束に赤いさなぎを合わせて、わたしは弔いの言葉を口にする。


◇ユエ

〝すべて生けるものは、死せる時また旅立つものなり

 煙は天に、灰は地上に、骨は土に

 かの夜からこの世ひとつと産まれいでにければ、またかの夜の中に還らん

 願わくばまたいずれかの世の夜をぎ、あしたに出逢わんことを〟


 おいでませ、炎蝶えんちょう


◆リールー(語り)

 炎の羽に髪が燃え尽きて、灰になり、いくらかは風に乗り、いくらかは土に刻まれた墓碑銘に降った。


◇ユエ

 安心して行っておいで、アマリラ。


◆リールー(語り)

 「あの子」を葬ってユエは、親子の墓を後にする。

 離れて待っていたセレーランに声をかけ、案内に礼を述べつつ、彼女の話に相づちをうちつつ、墓地から離れていく。

 エスタシオ夫妻の墓碑と、墓に添えられた春の花と、そのすぐそばに書かれた墓碑銘が残った。


◇ユエ(語り)

 〝アマリラ・エスタシオ、放浪を終えてここに帰り、ここよりまた旅立つ〟


◆リールー(語り)

 さらばだ、あるじよ。



<転換> 郊外の野原



◇ユエ(語り)

 野原でうとうとしながら汽車を待っていたら、鼻に蜜蜂が止まった。それだけならいいんだけど、鼻の中に潜ろうとしたので鼻息で追っ払う。

 先日、マートル丘の墓地へ案内してもらいながらセレーランに打ち明け話をした。


☆セレーラン

 じゃ、ユエちゃんは私のハトコ? ハトコは違うか。イトコの子って何だっけ? いいやイトコの子で。言ってくれればよかったのに。


☆セレーラン

 婆猿ばばざるを相手に大活躍の怪異『白頭しろあたま』は魔法使いだった。って新聞に載ってたよ。でもたくさんあった縫い跡はどっかいっちゃったね。ユエちゃん人間? オバケ? どっち?


◇ユエ

 どっちでも、すきな方でいいです。


☆セレーラン

 じゃオバケの方にしとくよ。


◇ユエ

 怖かったりしないんですか?


☆セレーラン

 こっちは君のお腹を切ってんだよ? そうそう、今度ウェランを旅行に連れてくんだ。禁酒旅行。


◇ユエ

 いいと思います。長生きするのが、いいと思います。


◆リールー(語り)

 列車が目の前を過ぎる。窓から子供に手を振られたりもする。ユエは手を振り返しつつ、最後尾が過ぎたのと同時に駆け出す。


◇ユエ(語り)

 シュダパヒを去る前に、安楽椅子には勝っておいた。


◆リールー(語り)

 安楽椅子に向かって「月明かりの偽物め」と言ったのだが、それがユエには通じなかった。


◇ユエ(語り)

 どうやらわたしがなくしたのは「月明かりの魔女」

 下腹の居候がどこから来たのか、すっぽりと抜け落ちていた。右目で見たリールーの爪が、一番古い記憶だった。


◆リールー(語り)

 むしろこれで、ユエは本当に『ユエ』となったのかも知れぬ。


◇ユエ(語り)

 光の街を走り抜け、キャブレのテラスから飛び込み、ダンサーたちの蹴り足をくぐり抜け、馬車も車も写真機もかわして、シュダパヒ大社殿へ続く大通りの直線で安楽椅子を追い抜いた。

 安楽椅子を置き去りにして、力いっぱいに跳んだ。大社殿の屋根から屋根へと跳び、一番高い所から跳んだ。夜に浮かぶ光の八角形はきれいだった。


◆リールー(語り)

 ユエは汽車へ向かって跳ぶ。屋根の上に音もなく飛び乗る。


◇ユエ(語り)

 髪が肩口の辺りでさわさわする。

 流れていく風景に、リールーがため息のように震えた。やっぱり、身体を見繕みつくろってやりたい。好きな時に見たいものを見に行ける身体をあげたい。


◆リールー(語り)

 緩やかに曲がる線路に沿って、列車も曲がる。菜の花畑を汽車が突っ切る。


◇ユエ(語り)

 ラジューヌやロンコリジューヌがそこかしこに咲いている。

 春は、黄色だ。


 絵を描きながら、ウェランは言っていた。


●ウェラン

 僕は夏、つまり「ウェラノ」の産まれだから、それでウェランなんだよ。

 姉さんが春を由来にした名前だったから、うまいこと続いたもんだね。

 最初、父さんはミモザと名づけようと思ったんだそうだ。でも母さんが、春の花がひとつじゃ寂しいって言って、それで姉さんはアマリラになった。

 僕の名前もそれぐらいひねってくれて良かったんだけどなぁ。


◇ユエ(語り)

 次の日、あの少女が謝罪に来た。エーラという名前だったらしい。

 複製の老婆が引き起こした騒ぎについては、彼女が計画し、実行段階で失敗した魔法であったと調べがついたようだ。

 公園でウェランのスキットルが見つかり、その内側に魔法陣が仕込まれていたのもわかった。ウェランは立場と能力を利用された被害者であった、という見方に落ち着きつつあると。


 エーラにどんな仕打ちが待っているのか、わたしにはわからない。

 怪我人は出たものの、いずれも軽傷ということだ。取り返しがつかない、とまでは言えないんだから、取り返しがつく程度の仕打ちであればいいと思う。

 我ながら、無責任な感想だ。


◆リールー(語り)

 地平線に雲が見える。雲の下は雨のようで、そこだけ灰色にけぶっていた。

 麦を伸ばす春の雨。


◇ユエ(語り)

 ウェランの娘さんの名前は、この雨が由来なんだそうだ。

 プルイさんに渡すのがいいと「とこしえ鏡」をウェランに返したら、


●ウェラン

 君がお母さんから受け継いだものだから、君が持っていてくれ


◇ユエ(語り)

 と、再び渡された。


 大切にしようと思う。

 ウェランという人間と、エスタシオの家族と、今のわたしとのつながりだから。

 長生きしてください、ウェラン・エスタシオ。

 長生きしてくれて、もしいつか再会できたら、それはとても素敵な事だ。


◆リールー(語り)

 汽車は春の野原を行く。


◇ユエ(語り)

 春の陽気にむずむずとしてわたしは。はっ、へ、ほっ


◇ユエ

 ほあっ……

 じぶち!




<化け猫ほうむる 完>



最後までお付き合い頂き

皆さま本当にありがとうございました。


帆多 丁

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