化け猫シリーズスピンオフ

エーラ、パコヘータ 1. 魔法使いをすることになりました【1:2推奨_90分】


【画面右上の「ぁあ(ビューワー設定)」から、組み方向を縦組みにすると読みやすいかと思います】


利用規約はこちらです。ご了承の上でのご利用をお願いいたします。

https://kakuyomu.jp/works/16817139555946031744/episodes/16817139555946036386


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【概要】


「あたしがおっきくなる日って、くるんでしょうか」

 魔女になりたいと薬を飲み、人の心を魔法でもてあそび、「婆猿騒動ばばざるそうどう」を起こして街に大損害を出してしまった少女エーラ。

 騒動の中でエーラ自身も猿に取り込まれ窮地に陥るが、他の被害者同様に助け出されてしまう。罪悪感と反省から自首を試みるも、警邏けいら部には相手にしてもらえず、母親と途方に暮れていたところ、ひとりの魔法使いに声をかけられた。

 突然の自立、母親との別れ、そして、魔法協会の女子寮での生活。

「化け猫ほうむる」のその後、大都市シュダパヒの片隅で少女が再び前を見る物語、第一章。


22000字 (第1章完結) 目安 90分

30-40分程度の所に、休憩ポイントとして幕間を入れております。中断 / 再開ポイントとしてご利用ください。


 女性2名、男性1名が推奨です。

 その場合は以下のように兼ねるのが、セリフ量や掛け合いのバランスが良いかと思います。


・エーラ

・エーラ以外の女性

・全てのおじさんとケト

(ボンシャテューはセリフも少なく、性別不問の喋るヒバリですので、どなたが兼ねても大丈夫です)


 もちろん、たとえば一人読みとして読んでいただいても問題ございません。



【登場人物】


○ エーラ (女性。13歳)

 本編語り部。敬語が基本形。背が低くやせっぽち。量の多いもっさりした青灰色の髪。あつぼったい瞼。藍色の瞳。フルネームはエーラ・パコヘータ。パコヘータのアクセントは「トムソーヤ」と同じ。食べ物に弱い。

 原作もエーラの一人称であるため、セリフ量が多い。


● 母 (女性。31歳)

 エーラの母親。心を病み、物事を正しく認識できていない。カーラという存在しない娘が見えている。


◆ チェム (女性 40-50代)

 魔法協会代表の女性。若い頃は「しっぽ髪」というあだ名があった。「猫の魔法」を使う。婆猿騒動の時には現場に出ており、暴走する婆猿を止めている。成人した息子二人がいる。


★ ルルビッケ (女性。15歳)

 エーラのルームメイト。身長183センチ。手足も胴も細長く、もしゃもしゃの頭に使い魔のヒバリが隠れている。ルルビッケのアクセントは「食べきって」と同じ。いつも干し果物などの食べ物を持っており、エーラを食べ物でよく釣る。おおらかな性格をしている。



※ エンリッキ (男性 30代半ば)

 エーラにいろいろとイケナイことを吹き込んだおじさん。読み書きも教えた。魔法が使える。


※ おじさん (男性 40-50代ぐらい)

 魔法使いのおじさん。チェムの夫。家から閉め出されたエーラに声をかけ、魔力の扱いを教えた。チェムと共に、婆猿騒動の調査を預かっている。


※ 絵描き (男性 54歳)

 魔女を呼び出そうと目論んだエーラが、お酒の魔法を使って利用した絵描きのおじさん。54歳。ウェラン・エスタシオという名前。娘のプルイも婆猿騒動の被害に遭った。


※ ケト (男性言葉だが性別不問。年齢不詳)

 チェムの使い魔。黒く大きな王族猫おうぞくねこ。チェムの使い魔。気質は義理堅いが皮肉屋で、あるじの友人や自分が認めた人物以外には対応がそっけない。笑い声は「ぐふふ」。


※ 新聞

 新聞。婆猿騒動の被害をナレーションする役目。


※ 髭の警邏

 自首しに来たエーラの話をろくに聞かず、門前払いにする。


※ 禿の警邏

 台詞は一回だけ。婆猿騒動の際、エーラを抱えて安全なところまで走ってくれた時の様子が回想される。


▽ ボンシャテュー (性別不問。年齢不詳)

 ルルビッケの使い魔。ヒバリ。名前はボンカレーと同じアクセント。「忘れるるる」「腐るるるる」と、ラ行を反復して喋る。ルルビッケを「るるルル様」と呼ぶ。



その他

0: はト書き

都市の名前「シュダパヒ」のアクセントは「マイアミ」と同じ



(以下本編)

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○ エーラ

 大きな樫の木が見えたら、それは悪い夢なんです。いやだ、と思った時にはもう、おばあさんが出てきています。

 木の根本、小屋のひさしの上にたたずんで、ぼたっと落ちて立ち上がります。

 樫の木の陰からも、公園の花壇の向こうからも、あたしが見回すところ全部におばあさんがいて、手足は細長くて、あごは前に突きでてて、目も口もシワシワに埋まっちゃったみたいなおばあさんが、おばあさんのくせに、駆け足が速いんです。黒い服の裾をバタバタさせてパシパシ走ってきます。


 あたしのところに来るのはわかっていて、逃げたいのに、いつもあたしは転ぶんです。

 雨上がりで公園の草が滑ったから。

 逃げようとした先に知らない誰かがいて、ぶつかりそうになったから。

 「プルイ!」って画家のおじさんが叫ぶんですが、あたしプルイじゃないです。

 ああ、誰もあたしのことは呼んでくれないんだ。って思いました。そう思ったってことを、夢を見るたびに思いだすんです。


 たくさんのおばあさんの手が、手が、手が伸びて来ました。腕、脚、髪、服の全部を、ぐいっと掴まれて。あたしは。いやです。お母さん。いやです!

「やぁだあぁ……! あ?」


0:転換 寮の部屋 夏 夜


○ エーラ

 自分の声で目が覚めるのは、なんだか間抜けな気持ちですね。

 心臓はばっくんばっくん跳ねていて、あたしはできるだけ大きく息を吸います。

 真っ暗な夜でなにも見えませんから、ベッドのシーツを握ったり離したりして、がさがさしたシーツの感触でたしかめるんです。

 あたしがいるのは魔法協会の女子寮で、ベッドの上で、婆猿ばばざるの中じゃあないってことを。


★ ルルビッケ

「うー、ちょっとぉ……またうるさい……」


○ エーラ

「ごめんなさい……」


★ ルルビッケ

「もー……(寝る)」


 いまのはルルビッケです。

 ルルビッケは寮のルームメイトで、あたしより二つ年上の十五歳。

 いやーな夢の余韻は、ルルビッケの文句が持っていってくれました。ルルビッケ、ちょくちょくお姉さんぶるのがめんどくさいんですが、こういう時たすかります。


 あたしはエーラ・パコヘータ。

 いろいろあって、魔法使いをすることになりました。

 でないとお母さんが死にます。


0:転換 母の療養所 夏 昼間


○ エーラ


 お母さんは療養中です。療養所へは一時間ぐらい汽車に乗っていきます。

 空気はいい匂いがしますし、空も明るいです。ブルエッテの花は青紫でかわいいですし、鳥の声が沢山聞こえてのどかです。

 あたし、鳥の事はよくわからないんですけど、ヒバリの鳴き声だけはわかるんですよ。ルルビッケの使い魔がヒバリなので。

 道のむこうにあたしみたいな痩せっぽちのミカンの木が見えて来たら、療養所はもうすぐです。

 療養所からは時々叫び声が聞こえてきますけど、あたしが生まれたマートル地区の裏路地よりはずっとマシです。

 重たそうな門を開けてもらって、草がすごいお庭を抜けて、面会室にやってきました。

 白く塗られた壁、白く塗られた格子窓こうしまど。その向こうにお母さんが座りました。こっちにきて三か月になるんですが、一緒に暮らしていた時よりは顔色が良くなったと思います。

 食べ物はちゃんと出されているようです。元気になったぶん、たくさんしゃべるようになっていました。

 初めての面会は、どう話しかけていいかよくわかりませんでした。今はその必要はないかなと思っています。お母さんはいつだって「ねぇ聞いてちょうだい」って話を始めます。


● 母

「ねぇ聞いてちょうだい。ここの人たちったらひどいのよ。家でカーラが待っているのに外に出してくれないのよ、何度も何度もお願いしているのに。

 今頃カーラはお腹を空かせて待っているはずだわ。私がお客を取らないとパンのひとつも買えないのに。あたたかいスープの一つでもこさえてやりたいのに。

 ねぇあなたからもお願いしてくれないかしら。ちょっとでいい、一晩外に出られればいいのよ。

 なに?

 どうしてそんな顔をするの? なにか間違ったことを言ってるかしら? なによその顔?

 あなたの顔はなんだか見ていて苛々するわね。エーラに似ているわ。その重たい髪も腫れぼったいまぶたもあの子にそっくり。

 ああ、エーラったら私の客に色目を使ったりするのよ、どうしてあんなふしだらな子になってしまったのでしょう。

 言葉遣いだって何度も直してやったのに、気を抜くとすぐに乱れて、そのくせ、ちょっと読み書きを覚えたからって私を見下すのよ。

 ねぇあなた、あなたからもエーラに言っておいてちょうだいな。少しぐらいはカーラを見習って、母の所に見舞いに来なさいと。


0:豹変


 ――カーラ

 ああ、カーラ、今日も来てくれたのねぇ。お仕事やお勉強はどうなの? 同室のかたとはうまくやっている? みんな親切にしてくれているのかしら? 身体は大切にするのよ。

 ねぇカーラ、エンリッキはどうしているの? 元気にしているのかしら。あなたのお父さんなんだから、大事にするのよ。

 カーラが魔法使いとして独り立ちしたら、お金もできて、お母さんもこんな所から出してもらえるのかしらねぇ。


0:豹変


 ほら、あなた、しっかり伝えておくのよ。いいわね?

 早く話してちょうだい。仕事はちゃんとできているの? なにをぐずぐずしているの? 耳が聞こえないの? 

 もっとハキハキしゃべらないと商売にだって差し障るの、モタモタするんじゃないのよエーラ。もっと目をぱっちりと開けないと馬鹿に見えてしまうじゃない。あなたはいつもそう! どうして言うとおりにできないの!」


○ エーラ

 お母さんが格子こうしにつかみかかりました。元気ですね。前はこんなことできませんでした。

 お母さんの後ろから男の人が近づいてきて、お母さんを捕まえて座らせようとしました。


● 母

「ああ、やめて! 大丈夫、大丈夫だから! やめて、乱暴はしないでちょうだい!」


○ エーラ

「やめてくださぁい」

 って、あたしからもお願いしました。

「ちょっと椅子から立ち上がって、ちょっと大きな声が出ただけじゃないですかぁ。そんな乱暴なことしたら、よけいに怖がるじゃないですかぁ。優しくしてあげてくださぁい」

 男の人は不愉快そうにあたしを見て、歯の隙間からおおげさにため息をつきます。大変なお仕事ですね。あたしみたいな子供から文句を言われたら、やっぱり腹がたつんでしょうか。

 まぶたが厚ぼったくても目は見えるんですから、ため息が終わるまでじっと見ているだけです。

 魔法でお母さんの心は治せません。治せてほしかったんですけど、だめでした。けれど空気のきれいなところでゆっくり過ごせば、だんだんによくなるっていわれました。

 心が治ったら、お母さんはわかってくれるんでしょうか。

 カーラなんて子はどこにもいないんですよ。

 エンリッキはお父さんじゃないんですよ。

 エンリッキは、あたしにイケナイ魔法を教えたおじさんなんですよ。


0:転換 回想。エンリッキおじさんとの思い出。


※ エンリッキ

「へぇ、エーラちゃんは魔力を取り込めるんだねぇ」


○ エーラ

 ってエンリッキおじさんは優しく笑いました。

 まだお母さんは元気で、あたしは十歳で、おじさんと知り合った次の年ぐらいでした。

 あたしはおじさんの膝の上で、大きな手が、あたしの髪をくすぐるように撫でていました。


※ エンリッキ

「どうして、そんなことができるんだい?」


○ エーラ

 あたしは、魔法を初めて見た時の話をしました。エンリッキおじさんと知り合う前、お母さんとお客さんをすごく怒らせてしまって、家からしめ出されたときのお話です。


 夜でした。


 あたしは誰もいないところを探して、たくさん歩きました。それで、街はずれの真っ暗な森にたどりついて、木の根元に座り込みました。そのあたしに声をかけた魔法使いのおじさんがいたんです。

 魔法使いさんは真っ黒な髪で、肌も茶色くて、暗闇からするっと出て来たのかと思いました。


 こんな真っ暗な中に、小さな子が出歩くもんじゃないぞって言われたんですけど、家ではきっとお母さんがまだ仕事をしていて、いま帰ったらもっと怒られるからいやだって答えました。そうしたら「待つのに付き合う」って変なことを言われました。


 よその国の話と、魔法の話とどっちがいいかと聞かれたので、どっちでもよかったんですけど、魔法にしました。

 光る魔法や、熱くなる魔法や、あと、あたしを魔法で空高くに持ち上げてくれました。の、すごーく高いのです。すごく怖かったですけど、真っ暗な中に光が八角形はっかっけいを描いていて、それがシュダパヒの街の光だといわれました。

 それってつまり、光がないところは街の外だってことで、街より暗闇のほうがずっとずっと大きいって思うと、今でもどきどきします。


 おじさんが魔法を使うたびに碧い光の粒が流れて見えました。きれいだと言ったら、魔力がえるのかと少し驚かれました。

 魔法使いは魔力を呼吸して魔法を使う。それが見えるなら、あたしにも魔法の才能があるんだって。

 そのおじさんにはそれからずっと会えませんでした。

 でも、魔法の呼吸を教えてもらって、まいにち練習したら上手になるっていわれて、ひとりの時にいつも練習してたんです。




※ エンリッキ

「すごいじゃないか。えらいねぇ」


○ エーラ

 エンリッキおじさんが笑ってくれたから、あたしは、ぱぁって顔が熱くなりました。

 エンリッキおじさんもお母さんのお客さんなんですが、早い時間によくやって来ました。

 あれは、あたしに会いにきていたんだと思います。二階でお母さんが準備している間に、あたしの事をかわいがってくれました。って言うと、みんなの顔色が変わります。

 大雨で排水溝が詰まった日の、泥なのかうんちなのか定かでないドロドロを見るときの顔か、そのドロドロにまみれて弱々しく鳴く子猫を見つけた時の顔のどちらかでした。

 どっちも嫌いです。


 あたしは、エンリッキおじさん、優しくて面白くて、好きでした。


※ エンリッキ

「実はね、おじさんも魔法がつかえるんだよ」


○ エーラ

 最初に見せてもらったのは、インクが勝手に動いて絵になる魔法でした。

 おじさんは万年筆を出して、小さな手帳にインクを数滴たらしました。

 それから息と魔力を吸って「おいでませ、ドードル」って言いました。インクの粒がくしゃっと動いて、小鳥みたいな形を描きました。

 びっくりです。なによりも、紙の中に妖精が見えたことがびっくりでした。もしゃもしゃの髪をした、小さな小さな男の子がインク粒を蹴って、それが小鳥になったんです。

 そう言うと、おじさんは本当に嬉しそうな顔をしました。


※ エンリッキ

「うん、エーラちゃんにも視えてるねぇ。それがね、ドードルと呼ばれているモノだ。落書きのモノだよ」


○ エーラ

 それから、おじさんはあたしに魔法のお話もしてくれるようになりました。

 読むのも書くのも、頼めばなんでも教えてくれましたし、なんでもしてくれました。

 でもいちどだけ、大人になったら魔法のお仕事がしたいといったら、すごく悲しそうな顔をされました。


※ エンリッキ

「エーラちゃんが大人になるのは、さみしいな」


○ エーラ

 それで、あたしは思わず約束したんです。

「それなら、大人になるのはガマンしてあげる」って。

 おじさんは言いました。


※ エンリッキ

「そうだエーラちゃん。子供といえばね。四十年ぐらい前までは、この街のすぐそばにも魔女がいたんだよ。それに、百年だか二百年だかの昔には、人間の女の子が魔女になることもあったんだ。

 魔女はこの世のことわり、雨が降ったり、風が吹いたりっていう、この世界のいろんな仕組みと心を通わせることができるモノで、大人になる前の女の子は、その魂のかけらをもらって魔女になれるんだよ」


○ エーラ

 お母さんがカーラの話をするようになったのも、この頃からでした。

 おじさんは相変わらず優しくて


※ エンリッキ

「これはね、一日一粒なめたら美人さんになれるんだ。おじさんとの秘密だよ?」


○ エーラ

 って、飴玉あめだまをくれたりしました。

 あたしはそのうち十二歳になって、お母さんはどんどんおかしくなっていきました。

 ある日おじさんは、街で流行ってる歌の話を聞かせてくれました。

 おばあちゃんを乗せた安楽あんらく椅子いすが、ある日とつぜん走り出す歌でした。


※ エンリッキ

「この安楽椅子のおばあちゃんねぇ、本当にいるんだよ。というより、この歌が流行ったから生まれたらしいんだ。新しいモノがこんなに早くでてくるなんて、昔は考えられなかったんだよ?」


○ エーラ

 じゃあ魔女はどうなのかなって、あたしは思いました。ドードルを呼び出すみたいに魔女を呼び出して、魂を分けてもらって、百年前の女の子みたいにあたしが魔女になれたなら。

 そしたらお母さんもカーラの話なんかしなくなるって思ったんです。

 だって魔女がこの世のことわりと心を通わせるの、それってつまり、なんでもできるってことじゃないですか。

 計画を考えて、おじさんに話しました。

 おじさんは言いました。


※ エンリッキ

「じゃあ、エーラちゃんにイケナイ魔法を教えてあげよう」


○ エーラ

 チェムさんにこのお話をしたら、真っ青になって震えていました。

 エンリッキおじさんが教えてくれた「イケナイ魔法」は本当にいけない魔法だったからだと思います。

 ひとつは、大人にならないお薬でした。大人は魔女になれないけど、この魔法の薬を一日一粒飲めば子供のままでいられると言われました。

 もうひとつはお酒の魔法で、人の心をぼんやりさせて、こっちの言うことを聞かせる魔法でした。

 新しい魔女を作り出すために、魔女の姿を描いた絵が必要だったからです。

 お酒の魔法をつかって、有名な画家のおじさんに絵を描かせました。

 そうやって準備をして、魔女の絵を魔女の住処すみかにおさめて、でもあたしが呼び出したのは魔女ではなく、魔女の形をしただけの何かでした。

 シワシワでぬるっとした大量のおばあさんでした。

 おばあさんの群れはシュダパヒのいたるところに出て来て、街を走りました。そのせいで窓が割れたり、柵が倒されたり、馬車に突っ込んで事故になったりしたそうです。

 弁償しなければいけない金額は、お母さんが七千人のお客さんの相手をするのと、だいたい同じだったそうです。どうしてそんなことが分かったかというと、ある日の新聞に書いてありました。


0:転換 新聞記事


※ 新聞

 老婆の姿を模したモノの群れ、天をくハリエニシダの塔、そして無数の老婆で組み合がった巨大な猿。

 今月初めに現れたこれらのモノは陸軍第三小隊および陸軍消防隊、警邏部けいらぶ、魔法協会らの尽力によって鎮圧された。

 幸いにして人命への被害は無かったものの、生じた被害額は七万ルアールにのぼる。

 老婆からなる猿「婆猿ばばざる」の発生現場が、かつて魔女の暮らした小屋のすぐそばであった事、ハリエニシダは魔女が好んで利用した植物である事、また塔が立つ直前に宙を歩く幼女が目撃されていた事などから、本件は魔女の再来に紐づく災害ではと推測されていた。


 しかし一人の少女が魔法協会を訪れ、一連の出来事は自らの仕業であると訴え出た模様。真偽については協会で調査中であり、調査終了までの少女の身柄は協会で預かると。

 本紙の取材によれば、婆猿の発生の折り、老婆の群れは一人の少女を目指して走ったとの事で、その少女と、名乗り出た少女とに関連はあるのか、また婆猿騒動は果たして一人の少女の手によるものであったのか、はたまた多数あまた虚偽きょぎの申告のひとつであるのか、調査結果の発表が待たれる〟


0:転換 エーラ独白


○ エーラ

 あたしがやりました。


 黙っていたらバレなかったかも、って、今でもたまに思います。

 でも、黙っていようと考えたら、とても怖くて、惨めな気持ちになりました。

 それはきっと、あたしが助け出されたからだと思います。

 あの日、あたしの魔法は失敗して、魔女の代わりに無数のおばあさんが現れました。


 よく夢に見ます。


 おばあさんに捕まって、そのまま婆猿ばばざるの中に閉じ込められてずっと、あたしは怖いことや嫌なこと、悲しいこと、取り返しのつかないことを考え続けました。

 怖い夢を自分では止められないみたいに、考えるのを止められませんでした。


 こんなことをするんじゃなかった。魔女の力なんて手に入るわけなかった。お酒の魔法で人を操ってしまった。大人にならないお薬なんて飲んでしまった。お母さんを助けたかった。

 これから、これからどうなるのだろう? このまま死ぬのだろうか。ずっと今のまま、怖い気持ちばかりが続くのだろうか。

 あたしを閉じ込めたこのおばあさんの塊は、この後どうするんだろう。

 あたしは、ずっと、このまま独りで。誰にも気づいてもらえなくて。

 いやだ。怖い。全部、ぜんぶなかったことにしたい。マートルの家に帰りたい。いやだ、誰か、だれかたすけて。


 って、思ってました。


 だから、猫頭ねこあたまのお姉さんが塊の中に飛び込んできた時、あたしはばかみたいに泣きました。あたしと会ったことなんかないのに「バカだね、ほんとうに」って抱きしめてくれました。


 そのあとすぐ軍隊が鉄砲を撃って、お姉さんはあたしをかばって……そのあとお姉さんがどうなったかわかりません。

 気が付いたらあたしは外に放り出されていて、トゲトゲの生えた木が夕方の空高くに伸びていました。

 助け出されて初めて、あたし以外にもいろんな人が猿の中に閉じ込められていたことを知りました。

 たくさんの人が巻き込まれていて、たくさんの人があたしたちを助けようと働いていたことを知りました。


 黙っていればバレなかったと思います。


 でも、助けてくれた人たちは眩しくて、黙っているのは怖くて、惨めで、なのにいちばん話を聞いて欲しかったエンリッキおじさんはずっと姿を見せなくて、話せる人はお母さんしかいませんでした。


 お母さんにはあたしの話、わからないだろうなと思っていました。

 お母さんは言いました。


● 母

「エーラの話はよくわからないわ。ともかくひどい粗相そそうをして、あちこちにご迷惑をおかけしたのね? 本当にエーラはどうしようもない子だわ――ほら、どこなの? どこに行けばいいの? お母さんも一緒に謝りにいくから早く支度なさい!」


○ エーラ

 悪い子はいつもエーラです。でも、お母さんは悪いエーラと手をつないでくれました。一緒に来ると言ってくれました。

 並んで歩いて、マートルの裏路地から表通りへ出て、警邏けいらさんの屯所とんじょにきたんです。



0:転換 警邏の屯所 春 昼間



● 母「このたびは、うちの娘が大変なご迷惑をおかけしたそうで、お詫びにお伺いいたました」


※ 髭の警邏

「(他の誰も返事をしないので)……おれか? (咳払い)どういう事かね?」


○ エーラ

「(緊張している)あのぅ……ば、ばばざるの」


※ 髭の警邏

「(くいぎみに)なんだ君が話すのか。それで?」


○ エーラ

「その、ば、婆猿のことなんですけど、あれは、あっ、あた、あたし、が」


※ 髭の警邏

「なんだね? まさか君がやったとでもいうのか?」


○ エーラ

「そ、う、です、そうです……」


※ 髭の警邏

「あのなぁ、子供のたわごとにかまっている暇はないんだ。あの日から君みたいのがたくさん来てて、こっちは大変なんだよ。なにか証拠でも持ってるのか? 君がやったっていうさぁ」


○ エーラ

「持って、ません」


※ 髭の警邏

「ああそう。無駄な手間をとらせるんじゃあないよ」


○ エーラ

 だそうです。お母さんのことを、子供に振り回される、しつけのできないダメな親だって言いました。

 マートル裏の貧乏な奴らが面倒ごとを持ってきた、って、あたしたちをちょっと馬鹿にした感じがありました。

 あんたたちだって、どうせマートル裏に来るくせに。

 マートル裏。あたしたちの住むところ。お母さんみたいな女の人に会いに、いろんな男の人が来るところ。

 ほんとはもっときれいな人がいる立派なお店がいいけど、高いから行けないんですよね?

 マートル裏の方が、安上がりでいいんですよね? 今はお薬もあるから良かったですよね? 全部、あんたたちみたいのが言ってたことですよ。

 口に出しそうになりましたが、こらえました。

 屯所の奥にちらっと見えたハゲ頭の人が、あの日あたしを助けてくれた警邏の人だったからです。


※ 禿はげの警邏(あの日の回想)

「なんてこった、まだあの中にいたのか!? けがはないか? 歩けるか? なんてこった、軍隊の奴ら撃ちやがった。どこもなんともないか? とにかくここを離れるんだ」


○ エーラ

 って、あたしを抱え上げて、走って、離れたところに降ろしてくれました。その人がいたから悪口は言いませんでした。

 ただもう、警邏さんに話を聞いてもらうのは無理そうでした。あたしはお母さんの手を引いて、マートル裏に帰ろうと思いました。

 がんばって出てきたけれど、すっかりしょげてしまいました。正しい事なんて、できないものですね。

 この惨めな気持ちも、我慢していれば慣れちゃうんだろうなぁなんてことを考えながら、シュダパヒのきれいな通りの隅っこを歩いていました。

 そのうち、お母さんは疲れたと言って道の端っこに座り込んでしまいました。

 あたしはいたたまれなくて、お母さんの隣に立って、通りの人と目を合わせないようにうつむいていました。

 春です。春だったんですよ。

 石畳の小石がきらきらしていて、うつむいてるのに眩しくてうっとおしくて、あたしは泣くのがいやだったから顔を上げました。

 そうしたら、見覚えのある人と目が合いました。どこの誰だったか、もやもやとあたしの頭で形になっていきます。



※(魔法使いの)おじさん

「君は……たしか、造成中ぞうせいちゅうの記念公園にいた子じゃないか? こんなところでどうした?」


○ エーラ

 その人は、あたしが初めて魔法を知った夜、シュダパヒの空へあたしを「たかいたかい」してくれた、魔法使いのおじさんでした。

 お母さんが座り込んだところは、魔法協会の前だったんです。



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幕間1 休憩ポイント


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0:転換 魔法協会の小部屋。春。午後。


○ エーラ

 協会の中の、椅子と机のある小さな部屋に通されて、あたしは魔法使いのおじさんに話しました。

 どうやって魔女を呼ぼうとしたのか、それがうまくいかなくてどうなったのか、できるだけ詳しく。

 婆猿騒動ばばざるそうどうを「自分がやった」って言っていた人、なんでそんなことをするのか全然わかりませんが、かなりの数がいるんだそうです。


※ おじさん

「でも君の話には当事者──実際に騒動に関わった人にしかわからない点が含まれている。だから君の話を信じるよ。なんでそんなことができてしまったのか、信じられない気持ちだけどね。

 (ため息)

 婆猿騒動はいろんなところに影響が出たもんで、協会の代表が直接扱うことになっているんだ。ただ、あいにく代表は市長に呼び出されててね。さしあたって私からの提案なんだけど、君は画家の人に魔女の絵を描かせたと言ったろ? まずはその人に謝りに行くのはどうかな」


○ エーラ

 思い付いてさえいませんでした。この騒動は大ごとだから、警邏けいらさんに話して、なにか罰を受けなければならないんだと思っていました。

 けれど絵描きのおじさんは、あたしが直接魔法にかけて巻き込んだ人です。

 謝るならまずその人っていうのは、本当にその通りで、あたしはまた間違えるところで、恥ずかしくて消えたくなりました。


※ おじさん

「その画家とは顔見知りでね。騒動に関しての聞き取りで明後日に会うんだよ。だから、君たちも明後日の朝に私を訪ねてくれれば、連れて行ってあげられる。来るかい?」


○ エーラ

 「い、行きます。行きたいです。でもあのぅ、あたしを捕まえたりは、しないんですか? その、明後日が来る前に逃げちゃう、って、思わないんですか?」


※ おじさん

「人間を捕まえるのは魔法協会の仕事ではないしね。もし逃げたらその時は警邏さんたちに協力をあおがなくちゃいけないから、逃げないで欲しいなぁ」


● 母

「いいことエーラ。魔法使いさんに睨まれるなんて、とても恐ろしい事なのよ」


※ おじさん

「いやいやいやお母さん。大昔ならいざ知らず、我々も一般の方々に向けて乱暴な魔法を使ったりはしませんよ。怖がらないでください」


○ エーラ

「あのぅ、とても失礼な事をきいてしまうんですけど、代表さんって、いちばん偉いんですよね? そんな偉い人がやるような大変なことも、その、あなたは決められるんですか?」


※ おじさん

「まぁ、そこは、多少ね。僕は代表のおムコさんだから。さて、協会の見解はともかく、僕個人の意見を言うとね、君が悪いとは思えないんだ。怖かっただろうに、よく訴え出てくれたよ。

 お母さまも、娘さんをしっかり育てておいでです。明後日、待っていますよ」


0:転換。画家の家に向かう。


○ エーラ

 その明後日。

 朝一番に魔法協会に行くので、お母さんはお客さんを取りませんでした。だから食事は夜までガマンしなくちゃいけません。

 ひもじい気分のままあたしたちは連れ立って、絵描きさんのお屋敷に行きました。

 魔法をかけたこと、心を操ったことを謝りました。

 とても怒られました。

 絵描きさんの娘さんも、猿の中に閉じ込められたのだそうです。その事をいちばん怒っていました。

 娘さんを危険にさらした、そしてその危険な状況を生み出すのに自分も利用されたと、とても怒っていました。

 怒鳴るとかそういうのはありませんでしたが、あたしのしたことがどんなふうに迷惑で、不愉快で、危険なことだったのかを震える声で言われました。

 おじさんのお屋敷に入るとき、窓に女の人が見えましたから、きっとその人が娘さんだったんだと思います。

 あたしより少し年上、十五歳か十六歳ぐらいに見えました。

 あの人も、塊の中で怖い事ばかり考えたんでしょうか。

 娘さんの話が出たあたりから、お母さんは泣いて謝っていました。

 あたしのせいです。あたしのせいでお母さんは泣いていて、だから守らなくちゃいけないような気持ちになって、でもどうしたらいいのかわからないから口に出してしまいました。


「あたしは、どうしたら、いいですか?」


※ 絵描き

「そんなこと僕が知るもんか」


○ エーラ

 ぴしゃりです。椅子ごとすぽんと穴に落ちて、ずっとずーっと落っこちるような気持ちでした。つかえを外されたみたいに涙があふれてきました。

 何か言わなくちゃと思って、考えなくちゃと思ってできたのは、ひぐひぐしながら鼻声で謝ることだけでした。


「ごめんなさい。ごめんなさい。許してください。お母さんは悪くないんです。おじさんも、娘さんも、危ない目に遭わせてごめんなさい。良くないことをさせてごめんなさい」


※ 絵描き

「(ため息)せいぜい、今後はまともになってくれ。僕は、それでいい。だいたい、今は姪の肖像を描きたいんだ。泣きながら謝ってる子供相手に訴えを起こすつもりもない。謝罪は受け入れた。もう、いい」


○ エーラ

 それで話はおしまいでした。

 魔法使いのおじさんと画家のおじさんとで別の話をするからと、あたしたちは他の部屋で待たされました。

 あたしは許してもらえた、って、そういうことでいいんでしょうか。息を吐くたびにあたしは空気が抜けていくようでした。

 二人で並んで座って、冷たい水を出してもらえて、飲んだら少し落ち着きました。何かお花の匂いがするお水でした。


○ エーラ

「いい匂い、します」


● 母

「そうね。ニワトコかしら」


○ エーラ

 久しぶりにお話をした気がします。あたしはお母さんのスカートのはじを握りました。小さい頃に戻ったような気がしました。

「お母さん。ごめんね」


● 母

「いいのよ、誰にだって過ちはあるもの」


○ エーラ

 お母さんはこちらを見て、あたしを見ませんでした。ひとりぶん遠いところを見ていました。


● 母

「えらかったわね、カーラ」


0:転換。マートル地区の自宅。夕方。


○ エーラ

 あたしたちは夕暮れ前に帰りました。

 野菜くずと、割れた麦と、ちょっとの塩を入れて沸かしたスープ、それから少しのパンを一緒に食べました。

 朝からなにも食べていなかったので、あっと言う間になくなってしまいました。

 日が暮れて、お母さんは明かりを灯して二階を準備するために上がって行きます。

 あたしは隅っこの物置に隠れます。戸を閉め、鍋なんかの並ぶ棚板の下で膝を抱え、息をひそめました。

 お客さんが来るまでは歌ぐらい歌ってもいいですし、何かお話を作ったりして遊んでもいいんですが、つかれて眠くてうとうとしていました。

 そうしたら、なにかの毛が触れたんです。

 目を開けると金色の目玉が暗闇に。

 ごん!

 いったぁ……い……! 立とうとしたのが間違いでした! なにしてるんですかあたし!


※ ケト 「怖がるでない。取って食ったりはせぬぞ」


○ エーラ

「(まだ痛い)だ、だれです、か?」


※ ケト 「我が名はケト。王族猫おうぞくねこである。我がにして魔法協会代表であるところのチェム・カタの使いで参った。エーラ・パコヘータ、いまいちど協会本部までご足労願おう」


0:転換 王族猫の通り道から、チェムの執務室へ。


○ エーラ

 猫はどこにでも現れ、いつの間にかいなくなるんだそうです。

 黒猫さんに両腕をまわして、言われた通りに息を止めました。次の瞬間にはぜんぶの音が消えて、瞬く星の中に浮いていました。

 暗い星、明るい星、白い星、橙の星。目をこらすと、それぞれの星にはいろんな風景が映っています。たくさんの覗き窓のようでした。

 思わず声をあげてしまい、息が吸えなくて死ぬかと思いました。

 黒猫さんにしがみついてもがいてたら、急に空気が喉にどばっと流れ込んできて、げっほ! ごほっ! とむせます。


◆ チェム「ちょっとケト。通り道の事ちゃんと教えてあげなかったの? かわいそうに」


○ エーラ

 あたしは柔らかいカーペットの上でぺしゃんとうつ伏せになっていて、あたしの腕から黒猫さんの体がするっと抜けました。


※ ケト 「息を止めるように伝えておいたがな」


○ エーラ

 上半身を持ち上げると、どっしりツヤツヤの机の向こうから女の人が身を乗り出していました。


◆ チェム「大丈夫? いきなり連れて来てしまって悪かったわね。そこの椅子に掛けてちょうだい」


○ エーラ

 その人の歳はよくわかりませんが、あたしのお母さんが三十一歳だから、それよりはぜったい上だと思います。

 麦わら色の長い髪に白髪が混じって、雪が降った冬の草むらみたいでした。

 部屋を照らすいくつものランプの火は、なにかの動物に見えました。変だなぁと見てたら、チェムさんに聞かれました。


◆ チェム

「何に見える?」


○ エーラ

「あ、はい。えっと、トカゲ……」


◆ チェム

「ええ。よく視えているようね。それが火トカゲ。魔力燈まりょくとうやアーク灯の光は白っぽくて落ち着かなくてね」


○ エーラ

 あたしはそろそろと椅子に座りました。知らない部屋も、人も、あたしなんかが座っていいのかわからないぐらいにきれいな革張りの椅子も、緊張しました。


◆ チェム

「初めまして。シュダパヒ魔法協会代表のチェム・カタです。あなたはエーラ・パコヘータさんでよろしい?」


○ エーラ

「はい、エーラです……」って答えるあたしの視界の隅で、猫が動いています。

 黒猫さんは机の向こうから伸びあがり、いろいろ置いてあるものを前足でちょいちょいとずらしてから、するんと机に登ります。

 そして、しっぽを優雅に巻いて座りました。

 でっかい猫が机の上で座ってるので、あたしは完全に見下ろされています。


◆ チェム

「彼はケト。私の使い魔をしてくれているわ」


○ エーラ

「ケト、さん」


※ ケト 

「うむ」


◆ チェム

(猫に夢中のエーラへ)「いいかしら?」


○ エーラ

「あっ。はい。ごめんなさい」


◆ チェム

「お母さまはご一緒ではないのね」


○ エーラ

「はい。お母さんはお仕事だから、あたしだけで来ました。ケトさんにきいたら、あたしだけでも大丈夫だ、って言われたんですけど、いいですか?」


◆ チェム

「理想を言えばお二人がよかったのだけれど、問題ないわ。今からお伝えする話は、あなたにとっても私たち協会にとっても、繊細な話になるから、よく聞いてくださいね」


○ エーラ

「せん、さい?」


◆ チェム

「とても大切で、すこし間違えば人を傷つけてしまうような、そういう話よ」


○ エーラ

「わかりました」


◆ チェム

「まず、あなたのお母さまなのだけど、クレモントという所に療養所があるので、そちらに入所して頂こうと考えています。エーラさんは協会の寮に入ってください」


○ エーラ

「あのぅ。それ……なんですか? お母さんを療養所にって、どうしてそんな話になるんですか? クレモントって、どこですか? シュダパヒのどこかですか? あたしとお母さんは……離れ離れになる、って、ことですか?」


◆ チェム

「会えなくなるわけじゃないわ」


○ エーラ

「いまは毎日一緒です」


◆ チェム

「その毎日は、もう続かなくなる。それは、訴え出た時からわかっていたのではない?」


○ エーラ 「……」


◆ チェム

「いい? エーラさん。婆猿騒動ばばざるそうどうはね、だれのせいでもない災害だって私たちは考えていたのよ。たとえば、死んだはずの魔女に関係した何かかもしれないってね。けれど、あなたが訴え出て、しかもあなたの話は嘘やデタラメではなさそうだった」


○ エーラ

「だって、あたしの、せいです」


◆ チェム

「最後まで聞きなさい。このシュダパヒで老婆の群れが出なかった地区はないのよ。その老婆が組み合わさって大猿になり、さらに人を中に閉じ込めて保持した。

 魔法の範囲も、内容の複雑さも、要求されるだろう魔力の量もね、普通の魔法使い一人ができるようなものではない。まして、独学の女の子ひとりでは無理だわ。それこそ、あなたが魔女でもなければ」


○ エーラ

 チェムさんの瞳に火トカゲの火が映っていました。あたしはゆるゆる首を振りました

「あたし、魔女に、なりたかったです」


◆ チェム

「お母さまのご病気を治したくて、魔女の力なら治せると思ったと。うちの職員にそう話したそうね」


○ エーラ

「だって、魔法で治せないっていうから……!」


◆ チェム

「そうね。ごめんなさい。私たちの力不足だわ」


○ エーラ

「……それで、魔女の話を聞いて、魔女をよびだすとかできるかも、って思って、でも、でてきたのは、思ってたのと全然ちがうものだったんです」


◆ チェム

「エーラさん。それらが出てきた時、あなたはどっと疲れたり、頭がくらくらしたりはしなかったかしら?」


○ エーラ

「……いいえ。あの時はぜんぜん、なんともありませんでした」


◆ チェム

「普通はね、魔法を使うと、そういうのがあるのよ。魔法は魔力と、体力と、塩気の三つを引き換えに発動するものなの。あなたがなんともなかったのなら、あれはではなかった可能性がある」


○ エーラ

「あたしのせいじゃ、ないってことですか?」


◆ チェム

のせいじゃない、ということね。今のところは」


○ エーラ

「???」


◆ チェム

「例えば、そうね。街で火事が起こったとしましょう。火元のパン屋には、かまどの灰を確認せずに捨てた子が居て、まだ灰の中には小さな火種が残っていた。――悪いのは?」


○ エーラ

「灰を捨てた子、しか、いないじゃないですか」


◆ チェム

「そうね。でも、その子は親方から頼まれただけだった。『火は消えてるから、そこの灰を捨ててこい』」


○ エーラ

「う、それは……あたしだったら、ちゃんと見てから捨てます」


◆ チェム

「いい心がけよ。さらにね『たまたま通りがかった新聞売りの主人は売れ残りを抱えていました。重いので持ち帰るのが面倒になり、灰捨て場にまとめて捨てました』。どう?」


○ エーラ

「そんなばかな人いるんですか?」


◆ チェム

「いるわ。わりと」


○ エーラ

「チェムさんが言いたい事って、つまり、あたしは灰を捨てたけど、他に新聞を捨てた人がいるかも、って、ことですか?」


◆ チェム(エーラに頷く)

「今朝までは、誰もいなかった。今は『灰を捨てた子』だけがいる。私たちも仕事だからわかったことを隠したりはしないわ。でもそうすれば街のいろんな人が、いろんな理由で、あなたの家に、あなた自身やあなたのお母さんの所に押し掛けるでしょう。

 直接被害を受けた人はともかく、なんの関係もない人たちまでがあなたたちに責任を求める。『わるいやつをこらしめろ』とね」


○ エーラ

 「関係ないのに?」


◆ チェム

「関係あるかどうかなんて関係ないのよ。それに警邏部けいらぶだってあなたの身柄を――あなたを捕まえようと考えるわ。それが仕事ですからね、それで、騒動の責任はあなただけのものになる」


○ エーラ

 あたしは、悪い事をしたから、捕まって牢屋に入れられるのが『正しい事なんだ』、って、思っていました。

 あたしはばかで悪い子なのに、正しい人たちに助けられてしまったから、最後は少しぐらい正しい事をしなくちゃって思っていました。


◆ チェム「ただ、これを良しとしない人もいる。私の夫とか」


○ エーラ

「チェムさんは、違うんですか?」


※ ケト

「(笑い)ぐふふふふ」


◆ チェム

「ケト。なにがおかしいの?」


※ ケト 

「何も」


◆ チェム

「(ため息)昔から子供にはいいカッコするのよあの人。――ともかく、魔法使いは黙ってても生えてこないから、伝統的に人手不足でね。

 だから素養を持つ子を見つけたら、こちら側に引き込みたい。今後の調査のためもあなたは手元に欲しい。だから市長に掛け合うわ。警邏部にも」


○ エーラ

 チェムさんは机の引き出しをから一枚の紙を取り出しました。


◆ チェム

「お母さまは治療のため街を離れる。お母さまの入院を理由に、私があなたの後見になる。あなたを魔法使いの見習いとして協会が雇い、女子寮に入れて協会の管理下に置く」


○ エーラ

「ええっと、『こうけん』と、『かんりか』が、わかりません」


◆ チェム

「入院するお母さまのかわりに、私があなたの面倒を見る。あなたは協会の目と権力が届く所に住み、訓練を受けながら働く。

 お給料は出るわ。お母さまの入院費はお給料から支払ってもらいます。支払いができなくなったら療養所にいられなくなるから、しっかり節制して無駄遣いはしないように」


○ エーラ

 お腹の辺りがきゅっとしました。

 お金を払えなくなったら、生きていけないんだろうな、って思いました。

 でも、このまま何もしなかったら、生きていけるのかな、って思いました。

 チェムさんが紙をあたしの前に差し出します。


◆ チェム

「これが協会との雇用契約書。『けいやくしょ』っていうのは、約束を書いた紙ね。どういう条件で働くのか、お給料はどうやって決めるか、そういったことが書いてあるわ。そこに名前を書いたら『約束を守ります』って事で、あなたはうちの職員になる。

 お母さまの療養りょうよう費の支払いについても、ここに書いてあるわ」


○ エーラ

「あのぅ、もしかして、お母さんは私が逃げないための、人質ってことですか?」


◆ チェム

「察しがいいのね。人聞きがとても悪いけど、そうよ」


○ エーラ

「ペン貸してください」


 名前ぐらい書けます。

 あたしはエーラ・パコヘータ。

 いろいろあって、魔法使いをすることになりました。

 でないとお母さんが死にます。

 たぶんあたしも。


 あたしは、それまで生きていた中で、一番ドキドキしていました。

 これって、あたしの生きるとか死ぬとかが、あたしのものになるってことですよね?



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幕間2 休憩ポイント


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0:転換。女子寮の部屋。夏。



○ エーラ

 三回目のお母さんとの面会を終えて、あたしは女子寮に帰ってきました。

 もう夏です。三階建ての協会の寮は、窓を開けるとお庭です。夜なんでほぼ真っ暗ですけど、常夜灯じょうやとうの火がちらちら揺れていたりして、いいんじゃないでしょうか。

 あたしは二階の真ん中の部屋に、ルルビッケと二人で住んでいます。

 マートル裏での生活が嘘みたいです。


★ ルルビッケ

「えー! ほんとに!? ほんとにー!?」


○ エーラ

 ルルビッケがびっくりしています。なぜか年をきいてきたんで、答えたんですよ。十三歳だって。


★ ルルビッケ

「十歳とかじゃなくて!?」


○ エーラ

「あたし、最初に会った日にも言ってますよ?」


★ ルルビッケ

「あれー?」


▽ ボンシャテュー

「あれれれれれー?」


○ エーラ

「ルルビッケはともかく、ボンシャテューまで忘れちゃったんですねぇ」

 ボンシャテューはヒバリです。ルルビッケの使い魔。


▽ ボンシャテュー

「るるルル様の忘れた事はシャテューも忘れるる」


○ エーラ

 ルル様の頭の上でパタパタ主張しているんですが、ご主人さまの頭の上にいるの、いいんでしょうか。

 ルルビッケの髪は灰色がかった茶色で、クセが強くてモシャモシャに膨らんでいます。ヒバリが中でうずくまると、パッと見てもわかりません。

 あたしは学科のノートを閉じました。朝は訓練、昼間は仕事、夜は学科。

 土曜は特別訓練とお勉強がお昼まで。最近ようやく慣れてきたところです。


★ ルルビッケ

「学科でさー、雇用契約は十二歳まではできないって聞いたのー。じゃあエーラちゃん十歳だからダメじゃんって思ってさ。悪いやつに騙されてるんだったらどうしよーってさー」


○ エーラ

「勝手に十歳にしないでくださいよ。どういうことですか」


★ ルルビッケ

「だって十三歳にしてはちっちゃくない? やせっぽちだし」


○ エーラ

「ルルビッケに比べたら、誰だって、ちっさいですねぇ?」


★ ルルビッケ

「あー、怒った? 干しリンゴあげる」


○ エーラ

「……いいです」


★ ルルビッケ

「おいしいよ」


○ エーラ

「いいです」


★ ルルビッケ

「いっぱいあるよ」


○ エーラ

「やっぱり食べます」


★ ルルビッケ

「んふふふー。はい、どうぞ」


○ エーラ

 ルルビッケが紙袋をごそごそして、ぺらっと薄い干しリンゴを二枚出しました。

「かたち……丸ごと干してるんじゃないんですね」


★ ルルビッケ

「ねー。わざわざ輪切りにしてるの。なんでだろうねー。シャテュー知ってる?」


▽ ボンシャテュー

「るる、輪切りりりりにしないと、干しても乾かない。乾く前に腐るるるる」


★ ルルビッケ

「あそっかー。すごいねシャテュー。ほら食べな?」


▽ ボンシャテュー

「るるるるる!」


○ エーラ

 ルルビッケが一枚を半分にちぎって頭に持っていきました。ボンシャテューが出て来てついばみます。

 なんでヒバリが干しリンゴに詳しいのかさっぱりですが、あたしも一枚もらいました。

「ありがとうございます」


★ ルルビッケ

「いいのいいのー」


○ エーラ

 ルルビッケがそばかすだらけの顔をくしゃくしゃにして笑うのを、あたしはまっすぐ見れません。すこし顔を背けて、もらったばかりの干しリンゴを口に入れます。

 ……? あんまり味がしない? あ、いえ、してきましたね、してきました。

 わ、なんですかこれ。口の中でだんだんリンゴに戻っていきますよ。少しずつ甘い果汁が染み出てきます。噛むと、さくり、リンゴです。


★ ルルビッケ

「おいしい? たくさん食べておっきくなりなー」


○ エーラ

 ルルビッケがお姉さんぶります。たいてい、いつも、ほぼ必ず、ルルビッケはあたしが何か食べてるとおっきくなれって言います。

 言われるたびに、あたしはぼんやり悲しくなります。あたし、大人にならない薬、飲んじゃってるんですよ。

 薬がいつまで効くのか、本当に大人にならない薬なのか、知ってる人には会えてません。

 あたしがおっきくなる日って、くるんでしょうか。

「あのぅ、ルルビッケ?」


★ ルルビッケ

「なにー?」


○ エーラ

「おっきくなりたいんで、もう一枚くださぁい」



0:転換。春。



 大人にならない薬のこと。

 これは、チェムさんが真っ青になって震えた日の事です。

 まだ春の真ん中らへんで、ちょっと肌寒い夜でした。

 

 契約書に名前を書いた日と同じ、チェムさんの仕事部屋。この時はお茶を出してもらえて、ケトさんは本棚の一番上で伏せていました。


 あたしに魔法を教えたのは誰なのかと聞かれましたから、エンリッキおじさんの事を話しました。話が進むにつれ、チェムさんの顔から表情も血の気も引いていきました。

 話し終わって、あたしはチェムさんが震える手でお茶を飲むのを見ていました。あたしもお茶を飲みましたが、ぬるくなってて苦くてあんまり、って思いました。

 チェムさんはカップを置いて言いました。目が光っていました。

 偉い人を野良猫に例えるのは失礼かもなんですが、カラスを狙うマートル裏の猫とよく似た目の光でした。


◆ チェム

、エンリッキ、と言ったわね。姓はわかる? 見た目は?」


○ エーラ

「わ……かり、ません。いつも、エンリッキおじさんって呼んでました。見た目は、そんなに。普通の感じです。背も、普通の大人って感じで、茶色い頭で、緑色の瞳がとてもきれいで、あとは……笑うと、ほっぺたがペコってへこみます」


◆ チェム

「そう。えくぼがあるのね。どちら側?」


○ エーラ

「えっと……」

 笑った顔を思い浮かべたら、顔が熱くなってきて、指があわあわしました。

「こっちです」


◆ チェム

左頬ひだりほお。ありがとう。使い魔が何だったかは見たかしら?」


○ エーラ

「いいえ。おじさんはいつも、おじさんだけで来てました。動物だとかと一緒のところは見ませんでした」


◆ チェム

「わかりました。あとで調べさせるわ」


○ エーラ

「あの、おじさんを、どうするんですか?」


◆ チェム

「どう……? 会って、じっくり話がしたいところね。ねぇエーラさん。『大人にならない薬』と、その男は言ったそうだけど――他に詳しい事は聞いている?」


○ エーラ

「あの、一日一粒飲めば大人にならない、って。それだけです」


◆ チェム

「そう」

 (少し考える)。

「ケト、少し外してちょうだい」


※ ケト

「うむ」


○ エーラ

 でっかい毛玉がとほどけて、ケトさんが本棚から飛び降ります。そしてそのまま部屋を出ていきました。伸びあがってドアを器用に開け、同じようにしてちゃんと閉めました。


◆ チェム

「エーラさん。『月の物』って何の事か、知っているかしら?」


○ エーラ

「聞いたこと、あります。でも来たことありません」


◆ チェム

「わかりました。――巡って来たら、寮母さんか班長さんに相談するといいわ」


○ エーラ

「はい」


◆ チェム

「ただ、あなたの場合は、周りの人と比べて遅くなるか――もしかしたら、来ないかもしれない。その男の薬のせいでね」


○ エーラ

「はい。――あの、おじさんのお薬って、やっぱりそういうことなんでしょうか」


◆ チェム

「断定はできないけれど、そうでしょうね。魔女になれるのは初潮が、つまり月の物がまだ巡ってきていない女の子だけというのが定説だから。薬が本物ならその男の『大人にならない』というのは、そういう意味だったのでしょう」


○ エーラ

「あの。あんまり、エンリッキおじさんを、そんなふうに言ってほしくないです」


◆ チェム

「エーラさん」


○ エーラ

「あたしが、読んだり書いたりできるの、おじさんが教えてくれたからです。契約書に名前を書けたのだって、そうです。

 おじさんが来てる時だけは、あたしは物置に隠れなくてよかった。

 いつも遊んでくれて、あたしの話だって馬鹿にしないでちゃんと聞いてくれたのに。お母さんのお客さんだけど、お母さんの誕生日もあたしの誕生日も覚えててなのに。

 チェムさんは、おじさんのこと、なにも知らないくせに! 

 そんなすごい悪い人みたいな言い方、しなくていいじゃないですか!」


◆ チェム

「エーラさん。大人にならない薬が本当に効くのならなおさら、そんなものを子供に渡してはならないのよ。あなたぐらいの年齢で男の子も女の子も、大人に向かってどんどん体がかわっていくのよ。それは、その成長は、子供のもので、奪ってはならないものだわ」


○ エーラ

「たのんだの、あたしです! あたしがたのんだから、だからくれたんですよ! 魔女になるために! オトナになるのをガマンするって約束しました!」


◆ チェム

「だめです。それは、だめなのよエーラさん」


○ エーラ

「チェムさんに何が分かるんですか!?」


◆ チェム

「エンリッキが危険な魔法の使い方をしていることがわかります。エーラさん、私たちは怒鳴り合いをするために会っているんですか?」


○ エーラ

「……」

 違うんですけど、違うって言うのいやでした。チェムさんの目をにらむばかりでした。


◆ チェム

「エーラさん、聞きなさい。薬だけではありません。お酒の魔法もそうです。魔法で人の心を操るのは禁忌です。私たちが社会の中で生きていくために、私たち自身で厳しく規制しています。これ、教えてもらえましたか? エンリッキという人間は、大人は、そういう魔法をあなたに教えました。そして、あなたはそれをウェラン・エスタシオという一人の人間に使用してしまった。なんていうかわいらしいものではありません。エンリッキは、あなたをそそのかして、悪い事をさせた大人なのよ。決して『いい人』なんかではないわ」


○ エーラ

 ウェラン・エスタシオ。画家のおじさん。あたしは画家のおじさんにこう謝ったのでした。


 ――おじさんも、娘さんも、危ない目に遭わせてごめんなさい。良くないことをさせてごめんなさい――

 

 なんで。なんで。なんで。

 怒るのとも、悲しいのとも違う気持ちでした。

 なんで。なんで。なんで。なんで。

 悔しかったです。何に悔しいのかわかりません。でも悔しかったです。

 おじさんはいいひとです。いいひとです。いいひとなんです。いいひとのはずなんです。


「あたしがやったんです。あたしがやったんですよ。あたしが、やったんですよぅ」


 ぼろぼろ涙がでてきて、チェムさんの前で泣くのも悔しかったです。なんで、あたしは、泣くばっかりで。

 チェムさんはコート掛けにかけてあった上着をとって、あたしにかぶせました。

 上着のつくった小さな暗闇の中で、あたしはずっと下を向いて、げんこつの上に涙が落っこちていくのを見てました。


 

 しばらくのあいだ、あたしは泣いて、泣くと鼻水もたくさん出ます。


 それで思わず、手鼻をかんじゃったんです。かんでから、ここが家じゃなかったのを思い出しました。

 手洗い場もないですし、手拭きもありません。チェムさんの上着で拭く……のは、たぶんまずいです。困りました。上着の暗闇から顔を出したら、チェムさんが掌をあたしに向けていました。

 待て、ってことです。そのまま、ハンカチを手にチェムさんが机を回り込んできます。それで、膝をついて、鼻水まみれのあたしの掌をハンカチでくるむように拭いてくれました。

 ハンカチは思ったより大きくてしっかりしていて、布ごしに感じるチェムさんの手は固くて骨っぽくて、思ったより細かったです。


◆ チェム

「今日はここまでにしましょう」


0:転換。帰りの夜道。


○ エーラ

 帰り道。

 あたしはハンカチを手にして歩きます。洗って返しますと言ったら「じゃあお願いするわ」と渡されました。

 ケトさんが一緒です。夜道なんかへっちゃらなんですが、そうしろと言われました。魔法ではなく、歩いて帰ります。


※ ケト

「協会の寮にはとおり道がつうじぬ。あそこは見られているからな」


○ エーラ

「見る? 誰がですか?」


※ ケト

「人間ではない。が、まぁ込み入った話だ。一人前になったら話してやらんでもない」


○ エーラ

「……そうですか」


 ガス灯がっと並ぶ大通り。シュダパヒ大社殿たいしゃでんにまっすぐ伸びるこの通りには、まだたくさんの人が行きかってました。

 すれ違う人はみんなびっくりしています。ケトさんがでっかいから。ケトさんの背中、あたしの腰ぐらいまであるんですよ。


 男の人も、女の人も、お金をもってそうな人も、もってなさそうな人も、いろんな人が通りにいます。この中にも、婆猿ばばざるに閉じ込められた人はいるんでしょうか。

 あたしはおしゃべりをする気分ではなかったですし、ケトさんも特に何も言いませんでしたので、足元を見て、ずっと自分の足音と周りの人の話し声を聞いていました。

 若い男の人たちとすれ違った時に「婆猿ってのは」って聞こえて、思わず振り返りました。でももう話は聞こえません。

 ぼふ、って、柔らかい何かにぶつかりました。


※ ケト

「前を向きたまえ」


○ エーラ

「ご、ごめんなさい」


 あたしは、ケトさんのふくれた毛にぶつかったようです。その向こうに迷惑そうな顔をした男の人と女の人が見えて、あたしは顔を伏せました。

 あたしが人にぶつかりそうになったのを、ケトさんは先回りして止めてくれたのでした。


「ありがとうございます……」


※ ケト

「前を。向きたまえ」


○ エーラ

 黒くて暖かい毛がしゅるしゅる縮んでいきます。碧い光の粒が流れます。これも魔法なんでしょうか。

 前を向いたら、いろんな光がきらきらしていて、わけもなく幸せそうな人たちがたくさんいました。あの人たちはお婆さんの群れが出た時、どんな顔をしたんでしょうか。

 ざわり、としました。

 むしろ、むしろ全部壊れてしまっていたら。みんなあたしと猿の中に(取り込まれて、いやな事や辛い事を思い続けて、ずっとずっと)


※ ケト 

(さえぎる)「エーラ・パコヘータ」


○ エーラ

「えっ? はい」


※ ケト

「歩道に上がれ」


○ エーラ

「ほど? え?」


※ ケト

「早くせぬと、巻き込まれるぞ」


○ エーラ

 ケトさんに言われて、歩道に上がります。いつの間にか馬車道ばしゃみちに降りてたんだ、と思うのと同時に、なにかとした気配が後ろから近づいて来てるのに気が付きました。

 振り返ります。

 気配は、人のざわめき。驚く声。馬の鳴き声。馬車のきしみ。ぐんぐん近づく音の先頭、影が二つです。

 お婆さんを乗せた安楽椅子が地面すれすれをすごい速さで飛んできて、それと並んで走る、真っ白な猫の頭をした――お姉さん!!


 あたしを婆猿ばばざるの中から助けてくれたお姉さん。

 軍隊の鉄砲からあたしをかばってくれたお姉さん。


 お姉さんが。

 すぐ目の前を。

 駆け抜けていきました。

 ざっ! という強い足音がしました。

 空気はと渦巻いて。

 あたしの髪が巻き上がりました。

 スカートが風にはためきました。


 向こうでお姉さんがお婆さんを追い抜きました。

 けぇぇぇえっ! っとすごい声が聞こえて、安楽椅子のお婆さんが煙みたいにかすれて消えました。

 びっくりしましたが、安楽椅子は、あたしとケトさんにしか見えていないようです。

 お姉さんはおばあさんに構わずに走って、走って、そのまま大社殿たいしゃでんに向かって高く跳びました。白く光を跳ね返すお姉さんの頭は、遠くてもよく見えました。

 大社殿の屋根から屋根へと飛んで、一番高い塔を飛び越えて、見えなくなりました。


 あっと言う間の出来事でした。

 

「無事、だった……」


※ ケト

「知り合いであったのか? あの白頭しろあたまと」


○ エーラ

「知り合いじゃ、ないと思います。でもあの人は、あたしを猿の中から助けてくれました」


※ ケト

「私もあやつの事は騒動で見た。まだ街におったのか」


○ エーラ

「ケトさん。あれも魔法なんですか?」


※ ケト

しかり。頭だけとはまた、ずいぶん半端な猫纏ねこまといではあるがな」


○ エーラ

「魔法なんですね」


※ ケト

「我ら王族猫おうぞくねこの力である」


○ エーラ

「じゃあ、チェムさんもあれ、できるんですか?」


※ ケト

「無論だ」


○ エーラ

「あたしも、勉強して、訓練したら、あんなふうになれるんでしょうか」


※ ケト

「知らぬわ。あれは人並みを外れておるぞ。妖精や妖魔のほうがよほど近い。若かりし頃のと私でようやく並べるかどうか、という所だ」


○ エーラ

「じゃあ、なれるかもしれないじゃないですか」


※ ケト

「(いろいろ言いたい事はあるが)まぁ好きにするがよかろう」


○ エーラ

「好きに……そっか」


 好きにできるんだ。

 好きにしていいんだ。

 好きにしようと思います。

 いいと思います。


 いいんじゃないでしょうか。



<エーラ、パコヘータ 第1章 了>

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