第3話おかしなうちゅうせん

 NASAという組織をご存じだろうか。

 そう、地球で発足し、はじめて宇宙へと飛び出していった組織だ。そんなこと知ってるわい、という人ばかりだろう。人類が宇宙を飛び出し、はじめて月の荒涼とした大地を踏みしめた日は、まさしく、大きな一歩だ。宇宙航空としても、人類史としても。

 今では、その施設を地球の大地から、軌道衛星上――正確を期すならばICCのあった軌道上――に建造された人工衛星に移動している。人工衛星といっても、旧来のものとは一線を画しており、天体望遠鏡から、宇宙船のドッグ、警備隊まで備わっているというから驚きだ。その白くて丸い形から、マシュマロとあだ名されていたりもするが、今は関係ない。

 そんなNASAが宇宙船を製造していたことは周知のとおり。宇宙船といっても、あくまで原始的なものでその始まりは、ロケットにまでさかのぼる。その後、軌道エレベーターの完成に伴い、NASA主導の宇宙港が造られ始めた。そして、宇宙船も出来上がったのである。この時の宇宙船というのは、ロケットなんかよりはずっと進んだものであったが、銀河のそこここにいる宇宙生物からすれば、ロケットと同様のもの。子どものおもちゃだ。その時の人類といえば、核分裂を利用したエンジンで火星まで旅をしていたのだから……。

 まあ、そのような宇宙船の歴史などはこの際どうでもよい。核反応炉やら相転移エンジンやら、太陽帆やらいろいろなエンジンが試行錯誤の結果として現れた。結局は、ワープした方がいいという結論に至ったのだが、大切なのは宇宙船のエンジンが造られたように宇宙船も造られたのである。

 そして、その一つには、食糧問題を解決しようとした宇宙船もあった。

 今回はペーパープランで終わったという食用可能宇宙船『キャンディハウス』を作ろうとしていた。


 ドキュメンタリー風の説明が終わると、場面が転換する。

 映し出されたのは、キッチンである。見覚えのある人もいるかもしれない。見覚えのない人は覚えてほしい。

 ここは丹羽みらいのキッチンだ。銀河一いや宇宙一クレイジーな料理人であるみらいのキッチンは、綺麗に整頓されている。白を基調とした部屋にはシミ一つなく、爆発したことさえあるのに、どこも煤けていない。

 カメラに向かい合うようにして立っていたみらいがよし、と呟く。誰もいないのに、撮影を開始するというだけで妙に緊張する。

 すでにカメラは回っている。後は任意のタイミングで、最初の挨拶をするだけである。

「こけこっこー! 丹羽みらいのCookドゥドゥルドゥへようこそ!」

 コケコッコーとは鶏の鳴き声のこと。にわ、という名字にかけているだ。もう一つかけているものはあったが、これ以上は恥ずかしいから説明させないでほしい……。

「一か月ぶりの投稿ですけど、待ちくたびれていませんか」

 視聴者が待ちくたびれていることをみらいは知っている。動画のコメント欄には、次回作を望む声ばかりあった。あとはスパムとかだ。アカウントの登録者数も、天文学的数字か仏教由来の数字かという数に膨れ上がっており、10のn乗という形で表示されることを、みらいははじめて知ったのだった。

 それはともかく、先ほどドキュメンタリーが挿入――撮影段階では当然のことながらそんなものはないのだが――された通り、今回はキャンディハウスをつくるという話をみらいが繰り返す。同じことの繰り返しなのでカット。

「そういうわけなので、キャンディハウスをつくろうと思っているんですけど、皆さんはキャンディハウスをご存じでしょうか」

 キャンディハウス。銀河連邦語で、お菓子の家、といったところか。その名が示す通り、キャンディハウスはお菓子でできている。お菓子でできているので食べられるというわけだ。宇宙船カテゴリにおいて、可食宇宙船というカテゴライズをなされているところからも、それがわかる。ちなみに可食宇宙船はキャンディハウス以外には存在しない。

 そんなキャンディハウスは一体どのような宇宙船であったのか。

 みらいは、スマートグラスを視線で操作し、台の上にホログラムを投影させる。

「これが、青写真から再現したキャンディハウスになります」

 そのホログラムは、ありふれた宇宙船であった。ヘンゼルとグレーテル――キャンディハウスの計画名である――が立案されたときというのは、宇宙は大航海時代に差し掛かろうとしており、多くの民間会社・国営企業がこぞって宇宙船を製造し始めた時代でもある。そこにビジネスチャンスがあると知り、宇宙工学を知らない企業も多く参入した自由な時代であった。そのために、この大航宙時代ともいうべき時代には、辺鄙な形の宇宙船が多く存在している。もちろん、キャンディハウスはその極北に位置している。

 話がそれたが、キャンディハウスは大航宙時代においては珍しく、堅実な形をしていた。フランスパンか葉巻を想像させる細長いシルエットには、いくつかの窓があった。円柱状をしているのは、天も底もない宇宙においては対応しやすいからだ。その分、デザイン性を捨てることとなる。いうなれば、退屈だった。窓は、円柱前面と後面にあった。設計図によれば、シャッターを下ろすこともできたそう。当然のことながら、シャッターも食べられるし、もっといえば窓も食べられるという徹底ぶり。

「大きさは」スマートグラスが音を立てる。「百メートルほどでしょうか。個人用の宇宙船のようですね」

 現行の宇宙船は、基本的にその五倍ある。各パーツがユニバーサルデザインとなっており、それを組み合わせることができるように、大きさなどが規定されているのだ。一人用二人用であっても250mはあるから、かなり小さいと言える。テスト用の宇宙船だったから、小さく設計されているのかもしれない。小さくすることで、費用は随分抑えられる。

「でも、小さくて助かりました。あんまり大きいと、オーブンが足りませんから」

 宇宙船の大部分に使われているクルスタイトは、焼き菓子である。大気圏突入や恒星からの熱にも耐えられるよう、焼き菓子が選ばれたのだそうだ。外側には硬いクルスタイトを、その内側に一度だけ――クルスタイトは二度焼くのだ――焼いたクルスタイトを配置する。さらにその内側には同じものを配置するが、隙間は空洞ではなくヌガーが充填されている。簡易的なダメージコントロールの役割を果たすらしい。これは想像だが、クルスタイトを打ち破るような隕石がぶつかり穴が開いたとする。その穴をふさぐようにヌガーが出て行くというわけである。ヌガーは真空に晒され瞬時に固まって、穴をふさぐというわけだ。

 ちなみに、船体はクルスタイトの板を複数組み合わせてできており、板と板は、ビスケットで文字通りビス止めされている。

「クルスタイトの外壁にはCDと呼ばれる糖の一種を塗って、耐熱加工も施されていますから、耐熱性に関しては申し分ないのではないでしょうか」

 CDはある意味耐熱塗料の先駆けといえるかもしれない。二千度を超えると真っ黒に焦げて剥がれていくところなんかそっくりであった。

 それはさておき、クルスタイトの板を五百枚ほど焼かないといけない。クルスタイトは椅子などありとあらゆるものに使用されていたし、ほかにもビスやリベットのためのクッキーも焼かないといけない。大量のヌガーをつくるのはいささか骨が折れそうである。

 正直なところ、みらいは冷汗をかいていた。青写真を手に入れた時は、面白そうだと思ったものだったが、ここまで大規模なことに――もっといえば面倒なことになるとは考えていなかったのだ。行き当たりばったりなみらいの性格があだになったと言えた。

 とはいえ、面白そうだとは今だって思っている。――空飛ぶおかしのうちゅうせんなんて、とってもワクワクするじゃん。

 みらいにとっては幸いなことに、クルスタイトをはじめとしたお菓子は、現在でも手に入れることが可能だ。強いてあげるならばエンジンは二度と手に入らなかったが、それよりもずっと小型でずっと燃費のよいエンジンがある。

 あとは、場所だけ。どこでお菓子を作るべきなのか。

「百メートルの宇宙船をどこで作るのか気になってる方もいると思います」

 キャンディハウスの船体は、ビス止めされた複数枚のクルスタイトによって構築されている。一枚のクルスタイトはおおよそ一辺が5mの正方形。宇宙船からすれば小さかったが、お菓子として見れば、遥かに巨大だ。そんなクルスタイトを焼くためには、家庭用オーブンではあまりに小さすぎる。工場で使用されるものでギリギリといったところだろう。それ以上となるとオーブンからつくるほかないが、そこまでの技術もお金もない。

 では一体どうするというのか。

 みらいの指が、天を突く。その先には、真っ白な天井があったが、彼女が指し示しているのはそこではない。銀河標準時〇八二三、みらいの住んでいる家の真上に、二重星が浮かんでいるのだ。

「自然のオーブンを利用します」


 みらいが住んでいる惑星は、銀河の端の方に存在していた。惑星の周りを恒星がくるくる回っている。この惑星における太陽は、地球圏におけるそれよりもずっと短い距離をくるくると回っているために、一日の間に日の出が二回ある。日の出から日の入りまでは、季節によっても変わってくるが六時間ほどだ。太陽と惑星との距離が近いために、惑星の温度は結構高い。少なくとも人間が住むには最悪だ。瞬時に焦げるということはなくとも、数分とせずにゆであがってしまうことだろう。そういうわけなので、惑星に住んでいる人間はみらいをおいて皆無。みらいにしても宇宙船を停泊させて、その中で寝泊まりしている。先ほどまでいたキッチンも宇宙船内に用意されたものであった。

 久しぶりに宇宙船の外へと出たみらいは、宇宙服を着ている。そうでなければ、天上の赤色矮星二つから放たれる光に焼かれてしまう。

 太陽は二つある。二重星と呼ばれるやつで、熟れたトマトが仲睦まじく回転している。互いの重力で引っ張り合ったり離れたり、引力のバランスがいいからこその光景だ。

 赤茶けた大地を、ホップステップジャンプ。重力は地球よりも二割ほど小さいくらい。宇宙船の内部には1Gになるよう、重力がかけられているため、外へ出ると体が軽い。気分がいいから飛び跳ねているわけではなかった。

 惑星に大気はあまりない。デスゾーンと同等とも言われ、宇宙服なしではたちまち高山病を患ってしまう。そうでなくても、恒星からの紫外線は強く、生活習慣病の一つである宇宙病になるリスクも跳ね上がってしまう。そのための宇宙服であった。

 なだらかな道を少し行くと、ハウスが見えてくる。透明なハウスは、地球でいうところのハウス栽培で用いられるそれと酷似していた。違うのは、透明であっても宇宙線を九割カットしてくれることだろう。

 中へ入ると、みらいはほっと息をついた。宇宙船を出るのはいつだって緊張してしまう。そこに広がっているのは人間が住むには適していないという事実を眼前に突きつけられるというのもあるし、ここには一人しかいないという孤独を再確認することになってしまうからだ。好き好んでこんな銀河の辺境に住んでいるわけだったが、それでもふとした瞬間に寂しくなってしまう。

 それを振り切るように、カメラの方へと歩いていく。無言でカメラのスイッチを入れて、正面に立つ。

 ぴょんと軽く跳躍。

「はいっ。別の場所へとやってきましたよっと。ここで、生地を作っていきたいと思います」

 ハウスの中は空気が注入されていないだけで、温度は一定に保たれるようになっている。壁に吊り下げられた温度計に目を向けると、二十℃だった。暑すぎもせず寒すぎもしない。

 ぐるりとハウスを見渡す。先ほどまでいたキッチンと比べると、非常に殺風景だ。あるのは、大型の機械と大型の冷蔵庫。それから、大きめの台。冷蔵庫にはクルスタイトをつくるために必要な、小麦粉、砂糖、水、ダチョウの卵、黄金色の蜂蜜酒、黒仔ヤギのミルクからできたバターの五つだけ。少ない材料からつくることが可能なのも、キャンディハウスのいいところといえる。といっても、その量は一人で食べるなら一年は持つのではないかと思うほど。小食のみらいならもっとだ。

 大型の機械は、ディジェと形が似ていた。それもそのはず、ディジェを大きくしたもので、ディジェを開発した会社へと協力を仰いだところ、同型機を大きくさせたもの――ネオ・ディジェ――を借りることができた。もともとネオ・ディジェの方が先にできて、その後小型化したのだそう。快諾したのは、みらいの人気を考えてのことだろう。実際、ディジェの売り上げに一役も二役も買っていた。

 ネオ・ディジェのミキサーへ、開封した小麦粉を逆さにする。チマチマ計っていては埒が明かない。小麦粉を五袋開けると、ボウルには五キロの小麦粉が投入したことになる。そこへ、ダチョウの卵を二つ、蜂蜜酒を一リットル、まがまがしいほど濃厚なバターを入れると準備は完了だ。後はネオ・ディジェに混ぜてもらうだけである。

「これで一分ほどかき混ぜます」

 ネオ・ディジェには小型版にはない、タイマーが付いており、それを一分に合わせる。ちなみに最小単位はマイクロ秒であった。開発者も、それほどの時間で十分だと知っていたに違いなかった。

 そんなネオ・ディジェで攪拌すること一分。生地が完成する。

 その生地は非常に固い。パンケーキのそれよりもずっと固く。人力では混ぜるだけでも一苦労かもしれない。縮退炉から生じる圧倒的パワーと、強靭なアームにこそなせる業であった。

 しかしながら、どうしてそこまで固い生地を作ったのか疑問視している方もいるかもしれない。その理由に関しては、固いものを造っているから、としか言いようがない。極限まで固くして、隕石やレールガンの一撃を無力化しなければ、宇宙船である理由がなくなってしまう。お菓子でできているというのはおまけで、あくまで外装として利用できないと意味がないのだ。

 こねるのも難しいほどに練った生地を、台の上まで運ぶ。

「これを薄く延ばしていきます」

 ここが一番の難点だ。――練りに練られた黄金色の生地を見下ろしながら、みらいは思った。これだけ固い生地を延ばすのは、重労働に違いない。槍のように長い麺棒で生地を延ばすと、その予想は正しかったことがわかる。そもそも固くなくても生地を延ばすのは面倒だ。くっつかないように小麦粉をまぶさないといけないし、五メートルオーバーの台では麺棒を動かすのも難しい。生地が固いから、広げるのも難しい。

 料理人とはいえ、これほど大きな料理はしたことがないから、すぐに息が上がる。宇宙服内は温度が一定になるようになっているから不快感はなく、ただただ疲れるだけである。宇宙服なしでこんな重労働をしたら、酸欠で気を失って、一時間もせずに真っ赤になっていたかもしれない。

 汗をにじませながら、ふうふうと息をつく。悪態の一つでも口にしたくなったが、止めた。宇宙服の中にはマイクがあって、みらいの言葉を常に拾っている。その音は、映像とともに録音されている。

「んっ。うんしょ」

 吐息とかすかな作業音ばかりがあたりには響く。

 生地が出来上がったのは、三時間後のこと。

「や、やっと終わりました」

 その頃には、みらいは息も絶え絶えといった様子。途中休憩を挟んだものの、それでもかなり疲弊していた。これでも、厚みを二センチに統一するのは諦めたのだが、それでも三時間である。これを四百九十九枚もつくらないといけないのだから、気の遠くなるような話であった。

 天を見上げると、非常に暗い。三時間かかったものだから、一回目の夜が来たのである。二回目の夜明けまではあと三時間。それまでは、生地を焼くことはできない。

「ちょうどいいから休憩にしましょう」

 カメラの映像が止まる。遠くで、やってられるかーっ、という声が聞こえた。


 再び、カメラが撮影を始める。

 みらいの姿が映り込む。宇宙服のヘルメットは透明――といっても、紫外線をはじめとした有害な光は散らされているから健康には問題ない――で、見える表情は、録画を停止する寸前までよりは元気であった。

「もうちょっとしたら日の出ですから、十分に温まるまで、これからの工程について話しますね」

 これからの工程といっても、あとは焼くだけである。であれば、どうやって焼くのか、という話になる。五×五メートルの生地を焼くのは既存の機械では難しいということは、前に言った通りだ。それならば、既存の機械は使わないというだけだ。もっといえば、機械を使用しない。

 火で直接炙るのか――そんな煽りが浮かんでくるようだったが、そこまで原始的ではないにせよ、大体はそんな感じだ。

 輻射熱で焼く、という点においては同じだ。しかし、この惑星においては火を起こさなくとも輻射熱は得られる。

 天に瞬いている、憎い二重星を利用してやるのだ。一年を通して、人間が火傷してしまうほどの熱量を光とともに降り注いでくるあの星によって、惑星の最高気温は百度を優に越え、夏季には三百℃にも達する。現在は夏季の前なので、二百℃程度だが、ビスケット全般を焼くのにはちょうどいい。もちろん、ビスケットの親戚といえるクルスタイトを焼くにもぴったりだ。

 ハウスの近くに杭を打ち、その杭とハウスのてっぺんとをロープで繋ぐ。そのロープに、クルスタイトを吊るすことで焼く準備は完成だ。吊るす前からじゅうじゅうという音はしていたが、太陽に向けることでそのいい音は一層大きくなった。

 カメラを手にしたみらいは、ぎこちない動きでクルスタイトが焼けている様子を撮影する。その光景は、遠い昔に行っていたというシーツの天日干しに似ていて、何となくノスタルジックな雰囲気があった。遠くには真っ赤な恒星。どこまでも広がる草木の生えない大地は、別世界にいるよう。といっても、みらいにとっては日常風景なのだが、そんな彼女であっても心動かされるものはあった。

「このまま、二時間は様子を見てみましょう」

 二時間、ずっとそこにいたわけではない。何十分かおきに、クルスタイトの様子を見なければならなかったからだ。というのも、電子制御されたオーブンとは違い、恒星の光はただただ大地に降り注いでいるだけだ。クルスタイトがこんがりと焼け、黒煙を噴き出そうとしていても地平線の向こうへと顔を隠したりはしないのである。オーブンなら焼き加減を察知してくれるのに。

 そういうわけだったので、みらいはハウスとクルスタイトを行ったり来たり。その様子は地面に置かれたカメラがずっと撮影していたのだった。動画になった時は早送りされていたが、一時間ほどが経過してから、みらいはクルスタイトをひっくり返している。こうしないと、片面だけがずっと焼かれてしまう。金属のドラムを用意して、それを回転させるような仕組みを作った方がいいかもしれない――そう思いながら、出来上がるのをただ待った。

 二時間後、小麦色に焼けたクルスタイトを両手に抱える。わずかに膨らんだ巨大な焼き菓子は、焼く前と比べると軽くなったような気がした。気のせいではない。水分が抜けたぶん、軽くなったのだ。

 ハウスの中に入る。台の上に置くと、白とのコントラストでクルスタイトの焦げ茶色がよく映えた。匂いセンサーが匂いを検知する。こんがりと焼けたいい香りがあたりには漂っているのかもしれない。ヘルメットをかなぐり捨てたいという欲求に駆られたが、気絶するのが目に見えているのでやめた。

 クルスタイトをノックすれば、コンコンと音が響いた。中までしっかりと火が通っている。針を刺してみようとしたが、うんともすんともしない。

「焼けたみたいです。おいしそうですね」

 疲れていたみらいであったが、いや疲れているからこそ、糖分が欲しかった。かじってみたいが、ヘルメットは外せないし、そもそも宇宙船の外装を担う大切な一枚であったから、グラインダーで切り出すのは躊躇われるところである。

 そうだ、小さいクルスタイトを作ってみればいいではないか。

「味を確認するために小さいものを作ってみましょう」

 ワクワクとしながらみらいは言ったが、最初から準備をしておけという話ではあった。実際そういう声は、編集された動画を視聴したいくつかの宇宙生物から――主に有機的無駄を排した機械生命体――挙がっていた。またしても、計画性のなさが露見したところではあったものの、そこがみらいのいいところでもある。行き当たりばったりだから、先が読めない。

 ボウルにこびりついていた生地を一センチほどにまとめる。外の岩の上に置く。プスプスジュージューという焼ける音。数分もすると、いい感じに焼けた。裏返さなくても、いい感じ。

「出来上がったクルスタイトは、ハウスの中で保管しておきましょう。酸素がなければカビも生えませんし、湿気にほとんどありませんから」


 宇宙船内のキッチンへと戻ったみらいは宇宙服を脱いでいる。彼女の鼻に、香りがやってくる。お腹の音が鳴った。三時間ほどの作業は、みらいを空腹にさせていた。

 口の中によだれが溜まる。同時に、激しい羞恥心も湧き上がってきた。

「早く食べてみたいですね……!」

 焼きあがったばかりのクルスタイトを上下に返す。五ミリほどの厚さのクルスタイトは、クラッカーのように見えなくもない。もしくはメゾナイトなどの合板に似ている。

 これを食べる方法をみらいは知っている。クルスタイトのレシピと一緒に乗っていたからだが、それでも、硬い硬いと記述されていたクルスタイトがどこまで硬いのか検証してみたくなった。

 試すのは簡単だ。いただきます、とみらいは手を合わせて、それから、かじる。

 歯とクルスタイトとが接触する。勢いよく顎を動かしたつもりであったが、クルスタイトはびくともしない。しかし、噛んだ時の感触は硬めのビスケットとそれほど変わらないように感じられた。ほんのりと温かく、香ばしい匂いが口蓋から鼻を抜けていく。

 そのおいしそうな板を、歯を支点にしたてこの原理でへし折ろうとする。――できない。ビスケットやクラッカーであれば、それだけで真っ二つになるものだが、クルスタイトは変化しない。折れるどころか、曲がりもしていない。梃子でも動かないという意思さえそこには感じられるようであった。

 それでも力をかけていると、歯と腕が痛くなった。それに、空腹はますます強くなってきている。そもそも隕石や質量兵器に耐えられるようにできているのだから、人間がどうこうできるわけがなかった。切断加工するためにグラインダーを使うほどなのだから、金属と同等の硬さがあるといっていい。

「か、硬いですね。これなら、宇宙船の外装にはぴったりです」

 かみ砕こうとするのを諦め、クルスタイトを皿の上に乗せる。

 しかしながら、これほどまでの硬さを誇るものをどうやって食べればいいんだ。そのような疑問はもっともなものであったが、先ほども言った通り、その回答は、クルスタイトのレシピに記載がある。しかし、それはクルスタイトという宇宙船の外装としての致命的な欠陥へと繋がっているのだが……。

 みらいは、牛乳を冷蔵庫から取り出して持ってくる。一リットルの瓶に並々注がれた黒仔ヤギの乳は、とろりとしていて濃厚。コップ一杯を飲むだけで、滋養強壮効果を得られると人気である。欠点らしい欠点は、口にすると、蹄を持った白い不定形のモンスターを夢に見てしまうそうだが、黄金色の蜂蜜酒とともに摂取することで、夢を見なくなるという不思議な性質がある。今回のクルスタイトで、蜂蜜酒が含まれているのはそういう意味もあった。今日では、両者ともGADA(ガーダ。銀河アンチドーピング機構とも)によって、競技前に服用するとドーピング検査に引っかかることとなるので、アスリートは注意が必要だ。さらに余談だが、小瓶に入った黄金の蜂蜜酒も、件の牛乳と似たような効果を持っている。滋養強壮によく、黄色い布を被った人間らしき存在を夢に見る。

 と、話がそれてしまったが、その牛乳に浸すことではじめて、食用に適するようになる。

 クルスタイトの入った皿に、牛乳を注ぐ。ぷかぷかと白い液体の波に揺られていたクルスタイトの表面が、その明度を失っていく。茶色が焦げ茶色へ変わって言っているのは、水分を含んでいるからだ。少しすると、白い液体が減ったように見える。逆にクルスタイトの面積は増えているように見えた。

「クルスタイトはこうやって食べるんです。水分があれば何でもいいので、ヨーグルトやスープに入れる、なんてこともできます」

 水分があるものならなんだっていい。牛乳でなくともコーヒーに浸すとか、カレーのライス代わりにすることも考えられる。レシピに記載されていた例は、牛乳に浸したり、もしくは煮込んでもいいともあった。そうすることで、おかゆやポリッジのような料理になる。味付け次第だが、デザートのようにも料理のようにもできる。

 数分もすると、カチコチだったクルスタイトはふやけてきっている。フォークで突くと、あれだけ裂けなかった板が、容易く分かれた。

 乳白色の液体から、クルスタイトをすくい上げて、口へと運ぶ。

 まず感じるのは、クリーミーなミルクの味。少し遅れて、小麦粉の香りがふわっと口の中へ広がる。控えめな味だったが、濃厚なミルクには決して負けていない。ほのかな甘みは、脳までとろけさせるようだ。それに何より、液体に浸して数分だというのに、クルスタイトを咀嚼することができたということに、みらいは驚いた。

「すごくおいしいです。スプーンが止まらない」

 薄く延ばされていたとはいえ、練りに練られた生地は、小さくてもぎっしり詰まっている。それに加えて栄養価の高い黒仔ヤギの乳を飲んだおかげか、小鉢ほどしか食べていないにもかかわらず、満腹になった。

 最後の一滴まで味わったみらいは手を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。地球でいうところのジャパニーズ式の挨拶だ。

「さて、お菓子としての本領も発揮されたところで、これをあと四百九十九枚焼かないといけないんですけど、その工程はカットします」

 先を読むことを知らないみらいと言えども、一日二日で全部が出来上がるとは思えなかった。その予想は、果たして正しかった。

 というのも、五百枚が焼きあがるのに要した時間は、銀河標準時換算で、半年だったからである。

 

 

 みらいは料理人もしくは研究者で、運動に秀でているわけではない。昨今、研究者も運動をしましょうということになってはいるものの、みらいはその『人生1.5S(センチュリー)キャンペーン』というのが大嫌いであった。運動するなら死んだ方がマシだと思っているような人間で、そういうわけだったので運動不足である。

 しかし、クルスタイトを焼くという行為は、少なくない力を必要とした。特に延ばすという工程では、全身の筋力を酷使することとなる。その上、厚手の宇宙船を着こんでの作業であったから、生身の時よりも体力を使う。疲れないわけがない。

 最初、一日に一枚しか作れなかったみらいであったが、一か月もすると一日二枚焼けるようになり、終わりの方は四枚焼いていた。

 それでも、半年は長すぎる――みらいはそう思っていたものの、動画を視聴した生物のほとんどはそうは思わなかったらしい。

 なぜならば、出来上がった『おかしのうちゅうせん』は、ある種の芸術品のようであったからだ。

 デザインは、あまりにも堅実で退屈だ。そこに芸術性を見出すことは困難なはずだが、美しいと感じざるを得ないのは、それがお菓子という宇宙船としては異質な物体で構成されていると知って、見ているからかもしれない。もしくは、キャンディハウスが建造されていく様子がタイムラプス撮影されていたからか。

 まず、棒状に焼き上げたクルスタイトで、宇宙船のフレームを作っていく。ここが一番大事なところで、少しのズレも許されない。たとえわずかなズレであっても、出来上がった時には大きなズレになってしまうからだ。そういった組み立て作業に関してはみらいも苦手なところであったから、知人に頼んで宇宙船のメカニックを何人か紹介してもらって、彼らとともに造船に取り掛かった。そのメカニックたちは、おかしというクルスタイトに興味津々のようで、その興味というのは、知的好奇心とこんなものが超合金と同等の硬さを有しているのか、という疑問が発端だった。

 その疑問は、護身用のレールガンで撃ってもらうことで解決した。つまり、傷一つつかなかったから、それなりの強度があることは納得してもらえた。沸騰した鉄をぶっかけた機械生命体も、表面が焦げただけのそれに驚いていた。そんな彼らの姿は、ちょっとおかしくて、みらいは笑うのであった。

 そんなこんなあって、組み立てを開始する。設計図は、先ほど言ったフレームを組み立て、それから、外装などをビス止めしていく。二重装甲の内側から、外側へ。それが終わってから、内装へと取り掛かる。そこからはとんとん拍子で進んでいって、できたのが、銀河標準時における十二月三十一日。つまりは大晦日なのであった。

 誰もいない格納庫に一人、みらいはいた。彼女の後ろには、キャンディハウスがスポットライトに照らされている。

 すべてのパーツ――正確には、ビスが四十二本余ったがこれから起こることには関係ない――が組み合わされ、その船体を空中に浮かばせている。

 みらいが、こじんまりとした格納庫の床を蹴る。その反発力によって、小柄な体が宙を進み始める。

 ここはみらいが住んでいる惑星の衛星軌道上だ。人がほとんどいない星系であったが、惑星を監視研究する仕事があり、そのために――あとはこんな寂れた星系へ旅行へ来たり、もしくは住んでいる人間のためだったり――機械制御の人工衛星が存在していた。メカニックたちはここで寝泊まりしている。一種の宿だが、銀河連邦が経営しているので、その辺の宿に泊まるくらいなら、こっちの方が安い。もっとも、この星系においてはここにしか宿泊施設などないのだが。

 無重力空間で組み立てを行ったのは、その方が組み立てが楽だからである。クルスタイトはお菓子であったから軽かったものの、それでも、五百枚合わさるとかなりの重さになる。唯一お菓子ではない、エンジン回りや駆動系は金属でできているのでかなりの重量だ。その上、お菓子だってクルスタイトだけではない。金具のビスケットに、トリモチ代わりのヌガー……。その他もろもろを加えると、同じ大きさの宇宙船と比べて二割がた軽い重量ということになった。お菓子を使用しているのだから、もっと軽くてもよさそうであったが、堅牢さと引き換えに重くなったのかもしれない。

 キャンディハウスは、格納庫をぷかぷかと浮かんでいるわけではない。壁にぶつかって傷がつきでもしたら大事である。そのため、アンカーによって固定されている。船体から伸びているカーボン製のチェーンは、カメラを持って空間を横切っていくみらいからもいくつか見えた。

「完成したのは外側だけではなくて、内側もできてますよ」

 天井にたどり着いたみらいはくるりとターンし、天井を蹴る。彼女の体は、キャンディハウスへと向かっていった。通常は電磁石のついたアンカーワイヤーを使用するのだが、キャンディハウスは金属ではないからくっつきようがない。吸盤を使用することはできるが、真空状態では無用の長物となっている。だから、腰には頑丈な命綱がある。これを、船外のいたるところに用意されたフックにひっかけて、体が離れていくのを防ぐのだ。お菓子のフックに自らを託すのは非常に不安であったが、設計図的には大丈夫らしい。

 船体にぶつかりそうになったところで、エアーを噴き出す。呼吸で生み出された二酸化炭素はボンベへとため込まれ、手から噴き出すことで、慣性制御を行う。

 船体へ着地したみらいは、取っ手を掴んで、側面へと移動する。船体側面には、スライドドアがあった。もちろん手動である。それを横に開けると、もう一つ扉があって、それは金属製である。減圧装置はどうやってもお菓子製にできなかったようである。それでも、減圧装置には甘ったるい香りが漂っている。装置と船体とをつなぎ留めているのが、粘着性の高いヌガーだからだろう。金属製の扉の先には入り口と同じような手動ドアがあって、それを開けるとようやく船内へと足を踏み入れることができるのだ。普通ならエアロックだけでいいのに二重構造になっているのは、設計者も不安なのかもしれない。それが伝わってくるから、みらいまで不安になってきてしまうのだった。

 とにかく、船体は茶色くていい匂いがすること以外は、世間一般の宇宙船と変わらない。見た目の質感がマットというかツルツルでテカテカしていて、居心地は意外とよさそう。湿気に弱いという弱点も、シャワーがなかったりキッチンがなかったりするだけであったから、宇宙船としての最低限の役割は十分果たせそうであった。

 キャンディハウスには、操舵室のほかにも宇宙船にとって必要なものが一通り用意されている。といっても、一人用の船であったからそれほど大きくはない。しかし、一通りそろっているというのはいかに小さくても安心できるというものだ。エンジン室、倉庫、リビング、寝室などなど……一つずつ撮影していく。それらの部屋にあるものは、クルスタイトで代用できるものであれば、そうされている。キャビネットや机、椅子もクルスタイトを積み重ねたものを切り出して作られていた。ベッドは骨組みだけはクルスタイトで、それ以外はマットレスと毛布だ。

 一通り、部屋を見て回ったみらいは操舵室へと戻ってきた。

「それでは早速動かしてみましょう」

 言ったみらいは、カメラを操作する。手持ちのカメラを止めて、定点カメラに切り替えた。操舵室の全体が映り込むように配置されていて、みらいが何をしているのかがよく見えるようになっていた。

 エンジンを始動させる。船体がかすかに揺れ始めるが、気にならない程度だ。今回使用した核融合炉は比較的安価なエンジンである。小型化もされていたが、ワープ機能が搭載されていないのがほとんどであるのが原因である。ちなみに、設計図に記載されていたのは核分裂炉という原始的な核反応炉だ。どちらも燃料が少ないことが利点といえる。ある時代においてはロケットが輸送に利用されたが、輸送するもの(人や物)よりも燃料の方が圧倒的に多かった。

「ワープ機能はカットされてますから、小型のボートみたいな感じでしょうか」

 てきぱきと計器を確認し、操作する。みらいの所作によどみはない。一人に一台の宇宙船を持っている時代である。宇宙船の所持は、ステイタスでも何でもない。当たり前のことだ。そんなわけだから、辺境の惑星に引きこもっているみらいといっても――むしろ、田舎だからこそ――宇宙船の操縦くらいはできた。操縦系は設計図からは変えて、現代の共通規格のものを使用している。コンソールから計器にいたるまで、みらいが使用している宇宙船とすべてが一緒。

 機器に異常はなさそうであった。船内には酸素が充填していて、循環システムも正常に作動している。宇宙服を身に着けていたのは、宇宙船に負荷をかけるからで、どこかに穴ができるのではないかと心のどこかで恐れていたからだ。

「発進許可を」

 人工衛星を統括しているAIに、音声チャンネルを通して呼びかける。すると、格納庫のすぐ外側で、金属がこすれあう音が、かすかに聞こえてくる。格納庫自体が動き始めた。人工衛星に六つ存在する格納庫は1から6のブロックに分かれている。それぞれは独立して動き、停船するときと離船するときに宇宙空間へとせりあがるというわけである。そうすれば、宇宙船はデブリや、宇宙海賊、宇宙怪獣から守られる。

 軽い衝撃が、アンカー越しに宇宙船にも届く。操舵室正面は透明になっており、二百四十度ほどの視界が確保されている。ただのガラスと思うことなかれ。宇宙線はほとんどカットされることは言うまでもなく、モニターを兼ねているおり、視界に対してデータが連動するようになっている。スマートグラスを大きく広くしたような感じだ。

 そこからは、今まさに、壁が下がっていくところがよく見えた。

 壁の向こうにあるのは、闇だ。どこまでもどこまでもエントロピーが続く限り広がっていくとされる宇宙が広がっていた。ここは銀河の辺境で、漆黒の闇が広がっているといっても差支えはない。この辺りは星々が密集していないので、上下左右を見ても、キラメキが少ないのだ。だから、銀河の中心へ行ったことのあるみらいからすると、閑散としている。見たままでもそうだし、実際、この星系には惑星恒星小惑星が極端に少ない。あってもまばらなので、エンストしたり燃料切れを起こしたりなどすると、レスキューを呼ぶ羽目になる。一か月、宇宙船に閉じ込められたくない閉所恐怖症の人間は、来ない方が賢明だ。

 たった今、正面に後方カメラからの映像が表示される。そこには、みらいの家がある赤茶けた惑星と、惑星の向こうを通ろうとしている二重星がくっきりと映っている。宇宙へと上がってきたことによって、地上から見るよりも大きく見える。家のある辺りは二回目の朝を迎えているようで、今まさに、顔をのぞかせた恒星の光によって影が消えて行く最中であった。

 恒星から放たれる光は、暗黒物質によって満たされた世界を照らしていく。超高温の光は、照らされたものの温度を急上昇させる。船体に配置されたセンサーは、光にさらされた左舷船体の表面温度が百℃を超えようとしている一方、日陰である右舷は-百五十℃である。これだけの温度差があると、金属であっても疲労が蓄積して割れたり曲がったりする。クルスタイトもどうなるかは分からない。

 宇宙くんだりまでやってきたのは、それを検証するためだ。検証のために、様々な記録をとっている。サーモスタットもその一つで、宇宙船の変化を捉えるためにいたるところにカメラが配置されている。それらのデータは人工衛星から、みらいのPCまで送られる。それらを利用して、銀河中が待望している動画を制作するのだ。

「アンカー回収」

 スイッチを指さし確認してから、ぽちっと押し込む。床の取っ手にかけられていたアンカーが外れ、巻き取られた。そうすると、無重力空間にキャンディハウスが浮かぶ。

「発進……!」

 否が応でも声に力が入る。半年もの月日をかけて、作り上げた宇宙船である。それが今まさに動こうとしているのだから。

 レバーに手をかけ、前へと押し込む。カンっ、と気持ちの良い音がした。

 エンジンから、スラスターへとエネルギーが伝わり、収束し最適化されて放出された。その反作用によって、今、宇宙に浮かんでいた、キャンディハウスが動き始める。

 最初こそは試運転も兼ねて、ゆっくりと。徐々にスロットルを奥へと倒していく。エンジンの出力は上がり、宇宙船の速度も上がる。

 みらいは椅子に座っていたが、背もたれへと押さえつける力を感じた。個人用の宇宙船よりも何割か軽いからか、速度が上がるのも早い。

 キャンディハウスの速度計は0.03C――光速の0.03パーセント――を記録している。宇宙船としてはちょっと早いくらいだ。銀河最速の宇宙船で、0.1Cで、一般的な宇宙船は0.25Cしか出せないからである。これなら、ワープを使った方がずっと速い。

「船体に異常はないですね。経年劣化についてはわかりませんけど、エンジンの出力には耐えられそうです」

 みらいは舵を切る。宇宙船をバンクさせ、進路を恒星へと向ける。

 その道すがら、船体を左右に振ってみたものの、軋むことはなく酸素が抜けることもない。お菓子でできた宇宙船は、存外丈夫なようである。

「簡単なマニューバならば耐えられますね。スイングバイも可能かもしれないです」

 スイングバイとは惑星などの重力を利用して、進行方向を変える方法のことである。重力の影響を受けるほど、惑星近海を通過することになるので、船体がもろいとヒビが入ることも。最悪の場合、負荷に耐えられず船体が折れ曲がるかもしれない。大昔の宇宙戦においては、敗走する際にブラックホールでスイングバイしたという記録もあったが、その際は、くの字に折れてしまった戦艦も多かった。それ以来、宇宙船においても剛性が重要なポイントとなったそうな。

 そんな豆知識はいいとしても、みらいはどのような理由があって、二重星へと向かっているのか。スイングバイをするというならば、より重力の強い惑星を利用した方がいい。

「これから行うのは、みんなが気になっているに違いない、どこまでの高温に耐えられるのかって実験です」

 熱。それは、宇宙船にとっては切っても切れないものである。宇宙には無数の恒星があって、その近くを通る必要性がどうしても生まれる。ワープするから関係ないだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。高温の場所に生息する宇宙生物は結構な数いる。熱エネルギーは動力源等に利用できるし、熱を食べて生きている存在だっているのだから、それらのためにも高温には耐えられないといけない。先ほどスイングバイの例えを挙げたが、スイングバイを行うのは惑星だけではない。それどころか、宇宙にある星はたいていが恒星であった。そのすれすれを通るのであれば、恒星が発する熱をまともに食らうことになる。その熱量は、三千℃を優に超えていく。もっと高温の星だってあるのである。正面の双子星は赤いから、あまり温度は高くはなかったが、だからこそ、テストにはちょうど良い。

 理論上は耐えられるようになっている。しかし、FFSの研究者として料理人として、みらいは理論ほどあてにならないものはないと思い知らされていた。机上ではできるというものが、実際にやってみるとまったくできないということは日常茶飯事だった。

 耐えられなかったら――という考えが、頭をよぎる。宇宙船は有機物であるから、炎上することだろう。酸素はあるから、燃えはする。宇宙船という閉鎖空間で火災は致命的だから、対策はしっかりしているものの危険なことには変わりない。一応、人工衛星にはエマージェンシーを伝えることもできるが、死ぬ可能性がないわけではない。

 それでも、みらいは見たいのだ。この宇宙船が、きちんとした宇宙船なのか、そうではないのかを見極めたいのだ。

 恐怖を飲み込み、手に力をこめる。スロットルをふかして、闇に揺蕩う二重星へと接近する。

 ある程度近づいたところで、警報が鳴り始める。宇宙船が高温に晒されていると警報を発しているのだ。同時に恒星へと突っ込もうとしていることにも警告をしている。行先は本当に正しいのか。行先はあっているのだから、警報は無視する。そのうち煩わしくなって、手動でカットした。こんなことなら警報なんて搭載しなければよかったと後悔。警報器に払ったお金で、木星牛のハチノスが五つは買えたっていうのに。

 それはそうと、船内がオレンジ色に染め上げられているような気がしてきた。左舷を見れば、思ったよりも恒星に近づいていた。距離にして、百キロもないのではないか。宙に浮かぶ二つの火球を見ていると、目が痛くなってくる。ヘルメットの透過ガラスにスモークが入る。目の痛みはじきに止んだ。

「温度は二千度になろうとしていますね」

 モニターには温度だけではなく、宇宙船にかかる重力波まで表示されている。重力波センサーは、どれほどの重力がかかっているのか知るのに便利だし、宇宙怪獣の出現を察知することだってできる優れものだ。視覚的に表示された重力を見ていると、何やら焦げ臭いにおいが、みらいの鼻を突く。

 どこかが焼けている。カメラの映像を一つ一つ呼び出してみる。匂いの原因はすぐに分かった。

 船体には耐熱塗料を塗っていたのだが、それが黒く焦げ、発火していた。いつからなのか映像を巻き戻すと、十分ほど前から、光にさらされていた左舷側から煙が生まれては霧散していく。炎自体は、次第に右舷へ広がっていた。現在では、すっかり火に包まれてしまっている。耐熱塗料は、フェニックスと呼ばれることもある。船体を覆うように火が上がるからだ。そして、塗装が剥げることで、炎は船体を離れていく――というわけであった。

 キャンディハウスの船体に塗られたものも、そういった意図で塗装されていたのだが、宇宙船の設計者もみらいも考慮していなかったことがあった。

 高熱に晒され続けるという状況を考えていなかった。――恒星に接近していくことは考えていなかったのである。

 先ほどの話は何だったんだよ、というツッコミはあろうかと思われる。しかし、宇宙船が高温環境に耐えられるようになったのは、銀河連合の長い歴史においては、つい最近のことである。キャンディハウスという宇宙船は、人類が地球圏開拓史の黎明期に設計されたものであったから、恒星に近づくなんて考えてもいなかったのだ。人間は熱に弱く、数千℃を放出している恒星は太陽一つしかなかったから、近づく船なんていらなかった。

 二つの恒星から発せられる熱光線に晒されたキャンディハウスの表面温度はドンドン上昇していく。

 三千度を超えた当たりで、宇宙服が警報を上げた。

 ヘルメット内部に表示されたのは、周囲が高温になりつつあることを知らせるもの。五百度を超えると、宇宙服の冷却装置でも追いつかなくなってくるので、設定されていたものだ。通常であれば、排熱が追い付いていないことを考える。例えば、宇宙服のラジエーターに、彗星が落としていった氷が貼りつき、排熱ができなくなったとかだ。宇宙を走る、ランナーならばそれはあり得るかもしれない。しかし、今は宇宙船の中にいるし、そもそも氷は恒星の熱によってたちまち融けて蒸発してしまうから、それはあり得なかった。

 だとすれば、宇宙船自体の冷却装置が追い付かなくなっているのだ。それで、サーモスタットの表示を見てみると、船体が赤黒く染まっていた。サーモスタットは赤くて黒いほど温度が高い。黒に近い赤というのは、千℃を超えている。カメラからの映像に切り替えると、切り替わらない。カメラが熱暴走を起こしてしまっていたのだ。

 どこからか、焦げ臭いにおいがやってきた。はじめこそ気のせいかとも思ったみらいであったが、黒煙に気が付くと、気のせいとは言えなくなった。

 クルスタイトが燃えている。

「限界みたいです。今から帰りましょう」

 熱持った舵を右方向へと向ける。船体が右へと曲がろうとして――。

 バキッという嫌な音がした。

 まずい。

 みらいは、とっさに舵へとしがみついた。

 風が吹いた。

 あまりにも強い突風は、そのすべてが船体中央に開いた穴へと向かって吹く。真空状態の宇宙へと、空気が流れて行っているのだ。コロニーの中でも似たような現象は起こる。隕石がぶつかることはあるし、老朽化もあるからだ。その場合は、トリモチ――粘着性補修材のことを慣例的にそう呼ぶのだ――が自動的に穴を埋めるような仕組みとなっている。キャンディハウスも、ヌガーによって穴がふさがるはずであった。

 しかし、そうはならなかった。穴が塞がることはついぞなく、酸素は出て行ってしまった。後でわかったことではあるが、クルスタイトは熱には強いものの、ヌガーはクルスタイトほど熱には強くなかったということがわかった。焦げたりしたわけではなかったが、熱によってその粘性が失われてしまったのだ。液体に穴をふさぐ力はなく、空気とともに流れて行った。

 空気が出て行ったことで、吹いていた風が収まる。穴の様子を見に行こうかと思ったが、そのような暇はなさそうだと、みらいは気が付いた。

 熱暴走しかかっているモニターには、重力圏が色付けされている。

 今、キャンディハウスは、恒星と惑星の間を航行していた。重力は、恒星の方が強く、宇宙船は恒星の近くを航行していたから、恒星のもつ重力の影響を強く受けているといえた。これは、恒星に引っ張られているということと同義である。

 つまり、このままだと宇宙船は恒星へと落下する。

 スロットルをいっぱいにする。しかし、速度計は反応しない。故障したのか宇宙船が動いていないのか。周囲の天体に目を凝らす。ちょっとずつ動いている。遠くへ遠くへ。恒星の方を見れば、近づいているような気がしないでもない。

 気がはやる。このまま焼け死んでしまうのではないか。

 そう思うと、恐怖がみらいの小さな体を埋め尽くす。抑えられなくなった感情が、口から言葉となって放たれる。衝動的なもので、みらいには制御できなかったが、幼児退行していたような記憶はどこか遠くにあった。思い出そうとみらいはしてみたが、羞恥心がこみあげてきたので、触れないことにした。

 錯乱状態に陥っていたと思われる十分間の映像は、動画にはまとめられていない。しかし、不自然な動画の編集と、編集後のみらいの腫れぼったい瞼を見れば、何かしらがあったことは、容易に想像できたから、視聴者の間では様々な憶測を呼んだ。そうした未公開動画は無数にあったと考えられ、その一つが丹羽みらいの死後百年が経過してからやっと見つかったというのは、喜ばしいやら悲しいやら。

 そんな未来のことはさておき、その後、みらいは異常を検知した人工衛星のレスキューロボットによって、救助されることとなった。

 レスキューロボットの残した報告書によると、キャンディハウスは胴体に大きな裂け目をつくっていたといわれている。恐らくは――とみらいは裂け目が生まれた原因を推測する――面舵一杯にした際、液体化したヌガーが右側に偏ったため一か所に力がかかり、クルスタイトがその力に耐えられなくなってしまったのではないか。通常なら、ヌガーくらいでは動じないだろうが、クルスタイトは高温に晒されていたために、もろくなっていたのではないか。

 それ以上のことは何もわからない。レスキューロボットはみらいのことは助けたものの、キャンディハウスのことは助けなかったからであった。

 宇宙のどこかを旅しているのか、それとも二重星のおやつとなってしまったのか。誰も知らない。

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