7/3 『ハーモニー』伊藤計劃
7月3日。曇りときどき雨。連日の暑さより気温は少しマシになった。けれど、低気圧のせいなのか、ひどく頭が痛い。
フィクションは人間に影響を与える、という自明の事実が、私を襲っている。
伊藤計劃さんの記した『ハーモニー』では、世を憎んで自殺を選んだ少女の話が、そして同時に死に底なった少女が大人になった姿が描かれている。色んな人間が色んな方法で自ら死を選ぶ。その姿を文字を通じて脳内に再生しながら、私の意識はどうしてもそちらに引っ張られてしまう。
UNIVERSE25という実験をご存じだろうか。「食糧や水を十分に補給し病気を予防して、天敵のいない環境に住まわせたら、ラットはどのような社会を作り上げるか」という実験である。結果として、平和のもたらされたラットの世界には格差が生じ、貧困層のラットには引きこもり・育児放棄・子殺しといった事象が発生した。次第にラットの社会構造は崩れていき、出生率が低下し、子ネズミの死亡数が増え、結果的にラットは絶滅した。何度も繰り返し行われたこの実験は、全てが同じ経過をたどっている。
どこかで聞いたことがある話だ。
この「よりよい社会」の究極形を示したのが、『ハーモニー』の世界観である。病気や怪我はおろか、風邪や頭痛といった軽微なものまで、体内に挿入された端末が事前に予防してくれる社会。タバコやお酒やカフェインといった害になる物質は社会的な「悪」とされ、人間の生命全てが社会リソースとして、公共的に丁重に取り扱われる社会。優しさや思いやりや利他愛に満ち溢れ、誰もが支え合うことが当然となった社会。『ハーモニー』はそういった、ある種のユートピアを描き出している。しかしこのユートピアはディストピアと表裏一体である。人々の健康が否応なく維持される社会で、自ら死を選ぶ人間が、反作用的に増えている。
このユートピアは全ての肉体的苦痛を取り除いた。遊具は子供の事故を防止するよう自動で動く。死ぬ寸前まで痛みを知覚することのなかった人すら描かれている(この社会では、むしろそれが多数派なのかもしれない)。
そしてユートピアは、肉体的苦痛を越えた、精神的苦痛の排除にも挑む。その一部は作中ですでに実施されている。精神的苦痛を与えるモノはAIによって自動判別され排除される。トラウマにつながりかねない事案に直面した人間や、自ら死を試み失敗した人間には、豊富なセラピストによる治療が待っている。
ユートピアの行きつく先は、人間の苦悩そのものの排除である。諸悪の根源は意識。そしてユートピアは、苦痛のいっさい生じないまっさらな世界にたどり着く。
このユートピアは反現実であると同時に、現実の鏡でもある。主人公トァンの、そしてミァハの抱える閉塞感は、現実社会で我々が感じうる閉塞感とも重なる。
読んでいる最中の希死念慮は昨日と同じくらいか、もしかしたらそれ以上だったか。昨日はせいぜい「自殺 方法」で検索する程度だったけれど、今日は刃を手に当てた。非力な私では傷一つつけられず、いまだ私の手首はつるつるの皮膚に守られている。煙草を持ちながら、これを手の甲に圧しつけたらどうなるか、しばらく考え込んで固まっていたりもした。せいぜい灰を落とすくらいしかできなかったけれど。
昨日よりたぶん悪化している。健康的な精神状態とは言いがたいのだろう。
そして私の希死念慮はきっと、しかるべきところに頼れば、しかるべく治療される。そうして矯正され、私の希死念慮が消え去れば、私は精神的に「健康」になり、めでたしめでたし。
これがユートピアの延長線上でなくてなんなのだろう、と思う。
私がこの気持ちを捨てたいのかすら、今はわからない。楽になりたいとは思う。苦しくて仕方がないとも思う。けど私が望んでいるものは、それが「治療」され「健康」になることなのか。
「生きているだけで偉い」という言葉が、今や人口に膾炙している。それだけ、生きることそのものへの苦痛を、たくさんの人が自覚しているのだと思う。だけど私を苛むのは、死にたいという気持ちより、「今日も死に損なった」という自責感だ。死ぬことひとつできなかった。こんな状況でもお腹が空いてご飯を食べた。そんな自分の、生き汚さへの嫌悪。
頭が痛い。
こんな文を書いて、私は何がしたいんだろう。誰かに心配してもらいたいのだろうか。優しい言葉をかけてもらいたいのだろうか。
そうだとしたら、これほど浅ましいこともない。
どうしたらいいのかまるでわからない。
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