消えゆく思い。

「遺書? 遺書を書いてほしいって……」

「ああ、俺も生前はお前らと同様、れっきとした一人間だったんだがな。だが、失望感に苛まれていたばかりに死後に何一つ残せなかった。遺書の一つは残せば良かったと今更のように後悔している。今となってはこんな丸い手だ。文字なんて書けん」


 彼はボクたちの承諾などお構いなしに、どこからかペンと白紙を咥えて走ってきた。そして今度はそれをボクたちに押し付ける。

 仕方なく受け取ると、彼は今度、橋崎さんの頭の上に飛び乗った。


「うむ、お前よりこっちの方が字が綺麗そうだ」


 さらっと失礼なことを言われた。

 橋崎さんはボクに苦笑いを浮かべる。


「具体的に、書くことはもう決まっているんですか?」

「あれから十数年。家族や当時付き合ってた彼女はとうに俺のことなど忘れているだろうがな。書く内容といえば大方決まっている」


 彼は前々から決めておいたであろう遺書の内容をつらつらと喋り始めた。

 それに合わせるように、ボンネットの上でカノジョの右手が滑らかに動く。

 その内容は彼の今までの人生について振り返るようなものだった。


『自分を育ててくれた両親のこと。

 ときに仲違いもした兄弟のこと。大学生活を共にした彼女のこと。自身が精神的に不安定な状況に陥ってもいつも側に寄り添ってくれた全員のこと。

 皆が助け舟を出してくれたというのに、結局はそれすらも振り切って全て一人で抱え込み、この場所に至ってしまったという経緯なども。

 自殺をした、ということは意地でも書くつもりはないらしい。

 もう皆の元には帰ってこれないだけだ、と』


 もう十数年前のことだ。

 紙の上を滑っていただけの筆先はいつしか止まった。

 彼の口から言葉が出てくることはなかった。


 ボクは彼の書いた遺書を静かに覗き込む。

 そこには確かに点々と涙の跡があった。

 彼のものではない。確かにカノジョのもので間違いなかった。

 ぽとり、また、ぽとりと手紙に涙の跡が広がっていく。


「……橋崎さん?」

「ごめん。去年死んだお父さんの遺書を見たときを思い出しちゃって。遺書を書くのってこんな気持ちだったんだ。なんだか悲しいね」


 カノジョは涙ぐんだ目を両手で拭った。それからというもの、カノジョは自身のポケットからハンカチを取り出し、ボクに手渡してくれた。


「川上くんも涙が出てるよ。これを使って」


 涙? 橋崎さんは何を言って……

 自分を疑い、頬を触ると今に涙が伝っているところだった。


 目尻が熱い。いつの間に泣いてたんだろう。

 どうしてなのか、 自分でもよくわからない。

 ただ、なんだろう。この、胸をギュッと締め付けられるような感じ……。


「ごめんなさい、猫さん。これじゃ、一から書き直しですよね」

「いや構わん。話は逸れるが、果たしてお前らは目視できるようになったか聞きたい。お前らの背後に今も尚、潜み続けている奴――」

「え?」


 彼は橋崎さんの頭から古びた車の上に飛び移った。

 ボクたちは彼に言われるがままに振り向く。 


 すると、 そこには――いたのだ。


 さっきまで誰もいなかったはずの場所に、異臭を放つ人型の生き物が不気味な笑みを浮かべて突っ立っていた。


 至る所が腐って黒ずみ、表面が液体と化した身体。

 エラーを起こした機械のように身体をガタガタと震えさせ、その度に膿んだ傷口から蛆を何匹も落としていた。生々しく、片目だけ残った白い眼球をギョロギョロと忙しなく動かしている。


 この世のモノとは思えないほど醜悪な姿。

 化け物の周りだけ、明らかに空気が違っていた。


 そしてあのがした。僕が死ぬことを考える度に嗅ぎ取っていたあの臭い。

 独りでに死臭と結論付けて、片付けてしまっていたあの臭い。


「な、何あれ……」


 橋崎さんは口元を両手で覆い、怯えた声を上げると、後ずさりをした。

 化け物を見ないように咄嗟に視線を逸らす。無理もない。

 誰もがあんなもの見てしまったらこうなるはずだ。

 

 言葉が出なかった。

 これだけ遠くはなれていても吐き気がする。

 一体いつからあの化け物は僕達の背後に潜んでいたんだろうか。

 

「ようやく術が解けたようだな。今し方、お前らの眼前にいるのはナレノハテ。自殺者の霊が多く集まって生まれた存在だ。常に孤独感を覚え苦しみ、薄幸な人間達、お前らのような人間に自身と同じ運命を歩ませようとする、所謂悪霊の類いだな」


 彼は冷静に解説を続ける。

 まるで目の前の化け物を恐れていない様子だった。


「俺は生前、コイツの術に掛かって自殺という道を選んだ。少なからず、俺が死ぬずっと前からこの世に存在し続けているのだろう。自殺した者には天国も地獄もない。永遠にこの世を彷徨い続ける、まさに典型的な例だな。ま、俺はコイツの一部にならないで済んだのが幸いだったが。お陰でこんな姿になっちまった」


 彼は車体から飛び降り、逆毛を立てて威嚇するように化け物の前へにじり寄る。


「いいか、お前ら。お前らがコイツを目視できるようになったのは、お前らの心の底に僅かに生きたいという思いが生じて術が解けたからだ」

「生きたいという、思い……」

「お前らが生きようと死のうが、知っちゃこっちゃない。アイツの一部になりたくないという思いがあるのならば、生きたいという思いがあるのならば、俺の車の中に早く乗り込め。逃げるのに協力してやらんこともない」


 風が吹いて森の中がざわめく。

 なぜだか、森全体が僕達の背中を押してくれたような気がした。

 僕は彼女の瞳を真っ向から見つめる。


 不思議と、今は死にたいという気持ちがない。 

 全てはこの化け物のせいだったのか。年がら年中、頭の中から一向に離れなかった希死念慮は全部、コイツのせいだったんだ。

 今思うと、ここで死のうとしてた自分が怖くて考えられなかった。

 

「橋崎さん、乗ろう。一緒に死のうだなんてあのときは言っちゃったけど、今はそんなことを言った自分が怖くてたまらないんだ」


 つまりは――、


「一緒に、生きよう」

「……うん」


 橋崎さんは一切の躊躇を見せず、力強く頷いた。

 僕達は一斉に古びた車に乗り込んだ。


「うむ、乗り込んだか」


 彼は僕達が車に乗り込んだことを確認すると、こちらに戻ってきた。

 割れた窓から車内に飛び込み、運転席の真上にちょこんと座る。

 直後その動きに合わせて、車内が大きく揺れた。彼が乗ったことで、エンジンが掛かったようだ。開きっぱなしだった扉もバタンと閉じた。


『ケテケテケテ、ヒトリハイヤダヨオオオオオオオ!! ヒトリボッチニシナイデエエ!!!!』


 声の聞こえてきた方を見ると、もう既にあの化け物が車の進行方向に立ち塞がっていた。大きく裂けた口から鋭い牙が覗いている。

 車は急発進して、化け物を撥ねていった。


『マッテエエ!! ボクモクルマニノセテヨオォォ!!』


 化け物は血反吐を吐き出しながらもすかさず立ち上がる。

 その身体からは想像もできないようなとても素早い動き。

 サイドミラー越しに怪物は僕達の車を追ってきているのが見えた。

 構わず車は森の中をぐんぐんと加速していく。


「あの……猫さん。どうやってこの車を動かしてるんですか? 見たところ、猫さんはアクセルやハンドルに手を触れていないように見えるのですが。それに車はもう錆びついてて動くような状態じゃなかったはずじゃ……」


 僕の隣に座っていた橋崎さんが彼に問いかける。

 彼女の中では、猫さんという呼び名がすっかり馴染んでいるようだ。


「俺の魂。魂をエネルギーとして削ることで辛うじてこの車は動いている」

「魂の力!? それじゃ、猫さんの身がもたないんじゃ……」

「いや、いい。気にするな」


 僕達の心配なんてそっちのけで彼は言う。


「――ずっとあの森で一人、こうして最期に愛車を思いっきり走らせることを夢見ていた。ソレが叶って清々しいぐらい、むしろ本望だ」


 彼の小さな身体は段々と薄くなってきていた。

 まさに命の灯火が消えかかっていることを表しているのだろう。


「それに、俺の思いはお前らが受け継いでくれた。この免許証と共に遺書を、俺の家族の元に届けてやってくれ」

 

 彼の声色はとても満足そうなものだった。

 その間も車は凄まじい勢いで加速を続けている。


「お前らが今まで感じてきた消極的な心緒は全てアイツが見せてきた幻覚だ。本来、人間の生まれ持つ屈強に立ち向かうための力もアイツは全てなきものにしてしまう。不幸中の幸い、今回は命拾いをしたとでもと思っとけ」


 彼に掛ける言葉が見当たらない。

 僕達は押し黙って足元を見つめていた。


 不意にガタンと車内が揺れた。

 窓の外を見るに、どうやら道路に出たらしい。


「いいか。この先には神社がある。着いたら、お前らはその境内へ急いで向かえ」


 これが彼の最期の言葉だった。

 それから彼は無心に車を動かしているようだった。車の後ろからは執念深く、化け物が迫ってきていた。僕は不安になりながらも前を見据える。


 遥かに遠く見えていた赤色のものが段々と大きくなってきていた。

 鳥居だ。鳥居が見えるや否や、彼は踏ん張って車を増々加速させていった。

 100メートルほど手前で彼はようやくブレーキを踏んだらしく、車体は大きく揺らいだ。キキキーっと激しいブレーキ音が掛かる。

 ガタンと車が急停車したかと思えば、ドアが開いた。


 車体から飛び降りるとすぐ目の前は石段だ。

 この階段を登っていった先に赤い鳥居がそびえている。 


 運転席でうつ伏せになっていた彼は、もうビクともしない。

 僕達は彼に礼を告げて、石段を急ぎ足で駆け上がっていった。


 ゼエゼエ……。


 一段踏み出す度に息が上がる。

 普段、運動をしていない影響がここに出たか。

 これでも僕はまた良かったものの、彼女は僕よりも早く限界を迎えいるようだった。そのせいか、彼女は段差に足を引っ掛け、転んでしまった。

 石段の下からは化け物がすぐ目の前まで迫ってきている。


 橋崎さんはその光景を見て、どこか諦めのついたような表情を浮かべた。

 化け物は彼女と数センチまでのところまで距離を詰めていた。

 自分を見捨てて行け、とでも言うのだろうか。

 彼女の瞳から一雫の涙が零れ落ちる。


『マッテエエェェェ!!』


 奇声を上げながら化け物が迫ってきている。

 もう手遅れのようだった。



 できたら――



 できることなら――、



 こんなことはしたくなかったけど――!!!!!

 








 ――僕は石段を駆け上がってくる化け物の顔を思っきり蹴り上げた。


『ピギィィギャアアア!!!!!』


 グシャッ、ピチャっ。

 不穏な音を上げて化け物は階段を転げ落ちていった。


「橋崎さん、早く行こう!!」


 僕は橋崎さんに手を差し伸べる。

 彼女は涙を拭い、僕の手を強く握りしめた。僕と彼女は手を繋ぎ、ひたすらに階段を駆け上がった。階段を登りきった先――、僕達は境内に辿り着く。

 化け物の異質な雰囲気とは打って変わって、ここは清浄な空気が流れているような気がする。なのに、化け物はまだ諦めていない様子だった。


 僕達の後に続き、神社の境内に立ち入ろうとするが……、


 それを断じて許さんとする者がいた。

 鈴の音がシャンッと鳴る。その音と共に狛犬の石像が動き出した。狛犬は一秒たりともの隙を許さず、化け物に飛びかかった。


 狛犬の鋭く尖った石の牙――、それに触れた途端、化け物の身体は木端微塵に吹き飛んだ。砕け散った肉片、それらは淡い光に包まれ、やがて空気中に溶けていく。



 ……………。



 まるで何事もなかったよう。静寂が浸る。

 僕達は心を打たれたように呆然としていた。



 何の変哲もない、夏の風景が広がる。


 青々とした木の上で、セミが鳴く。


 夏の暑さを冷やすかの如く、手水舎から水の音がする。


 脇に植えられた木々の間から、涼しげな風が吹きつけてくる。


 ついさっきまで息が上がっていたことなんて、すっかり忘れていた。


 僕の隣で彼女は、燦々と照りつけてくる夏の日差しを眩しそうに片手で遮りながら、雲ひとつ無い青空を見上げていた。

 僕の視線が自身に向けられていたことに気づいた橋崎さんは、笑う。

 もう、愛想笑いなんかじゃなかった。



 これは、死にたがりだった僕と彼女の物語――、



 完。

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