橋の上で。
誰もボクのことなんか覚えていてくれやしない。
居場所なんてない。誰も助けてくれない。
思えば思うだけ、胸が張り裂けそうになるほど辛くなるのに、そう思わずにはいられない程にやるせなかった。
今まで見て見ぬふりをされてきた。
ぞんざいに扱われてきた。
今、この交差点。
人で賑わう交差点のど真ん中で。
死んだらどうなるんだろう。
誰かの記憶に残ることができるのだろうか。
根強く、誰かの記憶の中で生き続けることができるんだろうか。
それなら、本望だ。そんなことを考えながらボクは、ただぼんやりと自分を中心に行き交う人の波を眺めていた――
……………。
自室の天井が目に映る。 夢か。
目が覚めた時、最初に思ったことはそれだった。
まだ、頭の中は夢心地だ。
辺りを見渡すとそこはいつも通りの自分の部屋で、カーテンの間から差し込む光は朝だということを知らせていた。ベットから起き上がる。
日曜の朝。
いつもより少し遅い目覚め。
ふと、机の上の定期券入れを思い出した。
今日は橋崎さんに忘れ物を届けに行くんだった。
程よく時間を見計らって届けに行こう。
朝食に歯磨き、着替え。
外に出るための身支度を整え、階段を降りていった。
休日だというのに、玄関に母さんの靴がない。
仕事に行っているみたいだ。
毎日毎日働いて、母さんに休みというものはあるのかな。
間もなくして家を出た。
部活帰りの中学生をちらほら見掛けながら、彼女の住むマンションへ向かう。
行く方向が同じの、中学生達のちょっと離れた後ろについていると、とても楽しそうな声が聞こえてきた。
数分足らずで橋崎さんのマンションに着いた。
3階。彼女が住んでいる部屋の前に立ち、インターホンを押した。
相変わらず静かだ。返事はない。
また、時間をあけて来るしかないのだろうか。
ボクが踵を返し、来た道を戻ろうとしたその時だった。
ドアの向こうから音がした気がした。耳を澄ませると、かすかに物音のような声のようなものも聞こえるような気もする。
もしかして、なんて思ってると、突然小さく扉が開いた。
「……川上くん?」
彼女は小さく開けた扉の隙間から顔を覗かせていた。
扉の前に立っていたのがボクだと確認すると、彼女は扉を少し大きく開けてくれた。
「今日はどうしたの?」
両手を後ろで組んだ彼女は首を傾げ、黒髪を揺らす。
「橋崎さん、昨日公園のベンチに定期券入れ忘れていったでしょ? はい、これ」
「あっ! ごめんね、ありがとう!」
彼女は申し訳なさそうに笑みを浮かべ、定期入れを受け取った。
その際に一瞬だけ見えた、透き通るように白い彼女の腕は――
傷だらけだった。
刃物か何かで切り込まれたように、無数の赤い線が刻まれていた。
その痛々しい光景を見て、思わず息を飲む。
彼女はボクのそんな様子に気づいていないのか、受け取った定期入れを嬉しそうな顔で眺めていた。
「橋崎さん、その手……」
思わず声を漏らしてしまった。
彼女もようやくボクの視線の先に目を落とす。彼女は驚いたような表情で自分の手を慌てて隠すと、ぎこちない笑顔を浮かべた。
「あ、うん! 全然平気だよ! ちょっと切っちゃっただけ」
いくら誤魔化されようと、意味はない。
見てしまったからにはもう遅い。ただ押し黙るしか為す術がなく、ボクと彼女との間にとても気まずい時間が流れる。
「……き、今日はありがとね」
長い沈黙の後、彼女は唐突に口を開いた。
ボクの出方を伺っていたようだが、一向に反応がない事に俯き、それからというもの、彼女は静かに扉を閉めた。
それ以来、ボクと彼女の間に関わりはなかった。
あれから彼女がどうなったのか、少しは気になっていたものの、積極的な行動を起こす気にはなれなかった。
一週間ほど時間が流れた、ある日の夜。
塾の振り返り授業があってそれが11時近くまで長引いていたせいで、ボクは普段歩き慣れない夜の町を歩くことになった。
稀に遠くからカラスの鳴き声がするぐらいの、閑静な住宅街には誰もいない。
電柱に取り付けられた電灯が照らすのみの暗い空間。
ちょうど、川のせせらぎが聞こえてくる橋の前に差し掛かったところで――、遠くから人の影が見えた。
………………。
橋崎さん?
彼女は橋の欄干の上に立ち尽くしていた。
そこから川を見下ろしながら。
橋の上には、丁寧に揃えられた革靴が並べられていた。
欄干は先程の通り雨で濡れているはず。
そんな不安定な足場の上ですることといえば、言わずもがなだ。
この下を流れる川はところどころに岩肌が露出している。
当たりどころが悪ければ即死だろう。それに、川の流れも急だからすぐ下流に流されてしまうはずだ。
「橋崎さん、こんばんは」
息を吸う。
落ち着いて声をかけてみた。
「……川上くん」
危険な足場の上で、彼女はこちらに振り向く。
「あはは、また会えたね。こんな時間帯にこんな場所で会えるなんて、ひょっとして運命的な何かなのかな」
彼女は弱音をまぶしたような笑みをこぼす。
一粒の涙が彼女の頬を伝って落ちた。
背後の、夜空に浮かぶ月はおぼろ雲で霞んでいる。
「そうかもね。塾が長引いちゃったのもそのせいなのかも」
「……塾か。どう、最近の勉強は捗ってる?」
「うん、まあまあかな。橋崎さんの方は?」
なんとなく、橋崎さんは自分の話題に繋げようとしている気がした。
「色々とあってね。私はあんま上手くいってないんだ。どうしてなんだろ……、いつからこうなっちゃったんだろ。一体っ、何が原因なんだろうね」
彼女にはもう余裕がないのだろうか。
とりとめもなく溢れる大粒の涙を両手で受け止めていたが、挙句の果てには、ボクに背を向けてしまった。それから彼女の肩が上下する。
「もうね、何もかもが上手くいかない気がするんだ。なんで、なんのために私は生きてるんだろうって。全部が嫌になっちゃった」
むせぶ彼女に掛ける言葉が見当たらない。
だけど、気持ちが分からなくもなかった。
「いっそ死んじゃった方が楽だよね。もう私の居場所なんてどこにもない」
「…………」
ラインで耳にした橋崎さんの境遇。手首に刻まれた傷痕。
そして今、彼女自身の立つ欄干の上。
その意味を改めて理解した上での、彼女の心の底からの言葉はとても重たかった。
それに感化されるように、ボクは俯いた。
「…………それなら、さ」
一瞬、言葉を口に含む。
「橋崎さん、ボクも一緒していいかな」
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