たまゆら着物

増田朋美

たまゆら着物

その日も雨が降って、ところにより強く降るとかで、正しく梅雨そのものだなと思われる日であった。毎日が憂鬱になりやすい日であるが、その日も、なにか一騒動おきてしまうのが、日常というものである。結局解決するには、至らないことのほうが多いのであるが、何もできないで終わってしまう人がとても多い。

その日も相変わらず水穂さんは咳き込んで中身を出すということを続けていた。ただ今までと違うのは、仕事帰りに、マネさんが製鉄所によってきてくれることであった。二時間だけであるが、カールさんの店で働き始めた彼女は、着物と言うものを、一生懸命勉強するようになっていた。最近は、通勤するのも着物でするようになっている。着物はインターネットで数百円で買えてしまう時代なので、集めるのには、何も苦痛ではない。帯結びも難しいが、それも作り帯にすることで、なんとか回避できる。市販されている作り帯だけでなく、自分自身で帯を切って、作り帯を作るのも楽しい作業であった。ちなみに、作り帯の作り方は、杉ちゃんから習った。

そんなわけで、水穂さんが咳き込んでいるときに、着物姿のマネさんが来てくれて、世話をしてくれると言うのだから、なんだか明治時代の文豪を世話しているみたいだと、杉ちゃんがからかっていると、

「こんにちは。」

と、玄関先で声がした。

「あれ、誰だろう?」

と、杉ちゃんが言うと、

「あの、いらっしゃいませんか?」

若い男性の声だった。

「ちょっと待ってて!」

杉ちゃんが、車椅子を動かして、玄関先へ行くと、なんと、村瀬優と、村瀬繭子さんがそこにいた。

「繭子さんじゃないか。一体どうしたんだ?」

「ああ、ごめんなさい。突然押しかけて。繭子が、どうしても水穂さんに会いたいというものですから。」

杉ちゃんがびっくりしてそういうと、優雅申し訳無さそうに言った。

「千葉から、わざわざ来てくれたのか?」

「ええ、介護タクシーで安い業者があったので、それでこさせてもらいました。ごめんなさい、ご迷惑でしたよね?」

「そんなことは無いけどさ。でもまさか来てくれるとは、思っていなかったので、びっくりしたよ。残念なことにね、水穂さん、あんまり容態が思わしくないので、お会いするのはちょっと、ゴメンだな。」

杉ちゃんがそう言うと、繭子さんはとても悲しそうな顔をした。

「お前さんたち、ホテルでもとってるのか?」

杉ちゃんがまた聞いた。

「ええ、駅前のビジネスホテルにでも泊まろうかと、思っていますが?」

優がそう答えると、

「どうしたんですか?なにかありました?」

と、着物姿のマネさんが、玄関先にやってきた。繭子さんと優を見て、二人が何をしに来たのか、すぐわかってしまったらしい。

「水穂さんに会いに来てくれたんでしょう?遠くから来てくださったのね。それなら少しなら、顔を見ていってくれてもいいわ。」

「でも、眠ってしまうだろ?」

マネさんの発言に、杉ちゃんがすぐ言うと、

「大丈夫よ。まだ薬飲んでないから。眠る少し前に、少し話ができるんじゃないかしら。遠くから来てくださったんだったら、顔を見ていったほうが、いいのでは?」

と、マネさんは言った。

「じゃあ、入ってもらうか。」

杉ちゃんがそう言うと、

「すみません。お願いします。」

優は、繭子さんの車椅子を押した。製鉄所の建物は、段差が無いので、すぐに入ることができた。逆を言えば簡単に入れるということである。

「この建物は、すぐに入れるようになっているんですね。繭子みたいな人でも、簡単に入れますね。」

優がそう感想を漏らすと、

「ええ、重い障害を持っている方でも、来ていただけるようになっているんです。」

マネさんは、そう説明した。そして、二人を、四畳半に案内した。

「水穂さん、繭子さんという方が、お見えになりました。遠方から、こさせてもらったそうです。ちょっと起きて差し上げて、お話をしてあげてください。」

マネさんが水穂さんの肩を揺すって起こすと、水穂さんは、布団の上に起きた。

「水穂さんすみません。お体がお悪いのに、わざわざ起きてくださって。」

優はそう申し訳無さそうに言うが、繭子さんはとてもうれしそうな顔をした。もし、繭子さんが歩ける人で、言葉も話せる人であったら、一目散にかけていって、水穂さんに抱きつくだろう。そんな表情であった。

「よく来てくださいましたね。千葉からわざわざ来てくださったなんて。」

「ええ。新幹線には乗れないので、安い介護タクシー業者を頼んで東名高速道路を走っていただきました。3時間近くかかったかな。」

「そうですか。わざわざすみません。こちらまで来てくださりありがとうございました。」

水穂さんは、頭を下げたが、同時に、咳き込んでしまった。マネさんは、すぐ背中を擦った。繭子さんの表情が、すぐに悲しそうになった。

「すみませんねえ。水穂さん、こういう状態です。ここのところ、ずっと寝ているんですよ。まあ、この時期だからねえ。湿気も多いし、ジメジメしていて、やりにくいんだろうな。」

杉ちゃんがそう言うと、繭子さんは、ああとだけ言った。

「そんなに大変なんですね。それは知りませんでした。どうぞお辛いのでしたら、横になってください。僕達が、かえって迷惑をかけてしまいましたよね。」

「いえ、大丈夫です。季節的にそうなるだけで、何もありませんから。」

水穂さんは、そういうが、また咳き込んでしまうのであった。

「いいえ、僕も、水穂さんがお体がお悪いのは知りませんでした。すぐお休みになったほうがいいですよ。僕達はすぐに帰りますから、休んでください。今日は、本当にすみませんでした。繭子、帰ろう。」

優がそう言うと、繭子さんは、首を強く横に振った。

「繭子、いい加減にしなさい。水穂さんは、体調が悪いんだ。それでは僕達も遠慮しなくちゃ。帰りの車をまたすわけにも行かない。すぐ帰ろう。」

「もしよろしければ。」

優に、マネさんは言った。

「ここでお昼を食べてから帰られたらいかがですか?杉ちゃんのカレーがまだ、残っていたはずです。どうぞここで食べていってください。」

「ああ、そうだねえ。昨日の残り物のカレーをお客さんに食べてもらうわけには行かない。キーマならすぐ作れるから、ちょっとまっててくれ。」

杉ちゃんは、急いでそういって台所に言った。マネさんが、水穂さんに横になってくれというと、水穂さんは倒れるように横になった。やはり疲れていたのだろう。数分後には、静かに眠っている音が聞こえてくる。

「あたしたちも、台所に行きますか。カレーを食べてから帰ってください。」

マネさんに言われて、優と繭子さんは、それぞれ食堂に言った。段差も何も無いから、すぐ行くことにできた。

「こちらなんです。」

マネさんはそう言うと、食堂はカレーのにおいが充満していた。これには、さすがの優も我慢できなかったようだ。繭子さんがそれでまたにこやかになった。

「さあ食べてくれ。カレーはうまいよ。どんな料理よりカレーはうまい。なんでもカレーにはかなわない。」

杉ちゃんがみんなの前にカレーの皿を置いた。優が繭子さんの首周りに紙エプロンをつける。そしてスプーンでカレーを取り、いちいち繭子さんの口に運ぶという動作を繰り返した。もちろんこうしなければ、繭子さんは、食事ができないので、ずっとこうするしか無いのであるが、なにかそれは、優にものすごい負担を強いている様に見えた。

「なんだか、お兄さんばかりが、大変みたいですね。」

と、思わずマネさんが言ってしまうくらいだ。

「ええ。でも仕方ありません。僕以外に、誰がやると言うのですか?」

優がそう言うと、

「そうかしら。私は人を使ってもいいと思うけどな。そのために、働いて、喜んでくれる人だっているんじゃないかしら?」

と、マネさんは言った。

「そういうことで、人を使うってのは、悪いことじゃないわよ。それで、クライエントさんが明るく生活できたら、なおさらいいことだしね。」

「そうでしょうか。」

と優がいった。

「やっぱり、他人ではできないこともあると思いますよ。身内がちゃんと手伝ってやらなければだめだと思います。兄弟だからこそできることもあるし。」

「うーん、そうかも知れないけどね。外部の人にお願いしたほうが、ずっと能率がいいってことだってあるわよ。それに、お兄さんは、お兄さんの人生があるんじゃないの?それを、全部犠牲にして、繭子さんの世話をするのは、どうかなって思うけど。」

「そんな事ありません!」

マネさんの言葉に優がいった。

「僕は妹のために、自分人生を捧げてもいいと思っているんです。それに、ここまで重症の障害を持った妹は、一人では何もできないですから、誰かできる人が、なんとかしなければ行けないんです。他人に、預けてしまったら、必ず、ボロが出ます。それでは、行けないんです。だから、身内がちゃんとやらないと。」

「そうだけど。」

マネさんは、優に言った。

「でも、ねえ。ご自身がやりたいことだってあるでしょう。それは、何もやらないの?」

「僕は繭子を守っています。繭子は、自分では何もできない。それなら、兄である僕が、なんとかしてやらなければならないでしょう。」

「そうねえ。その考えは、少々古いと思うわ。今は、誰かに任せて、自分は、一生懸命自分のやりたいことをするっていう、考えで全然いいのよ。」

マネさんがそう言うと、

「妹を、守るのに、古いも新しいもありませんよ!時々、僕のことを、働かない男と言う人はいますけど、でも、繭子は、一人では何もできないんですよ!だから、誰かがつきっきりで、世話をしてあげなくちゃ。」

優は、マネさんに喧嘩を売るような感じの言い方で答えた。

「にいに。」

繭子さんが、声にならない声でそういった。優は、

「すみません。」

と、頭をかじった。

「まあ、どっちもどっちだ。ふたりとも半分正解で半分不正解。できるだけのことは、一人でさせてやりたいが、でもできないことがあると言うことも、また事実だよね。ただねえ。にいにが全てでは困るんだよな。それは、紛れもなく不正解だ。誰か、お手伝いさんを雇ったほうがいいよ。」

と、杉ちゃんがすぐに言う。

「考え直したほうがいいぜ。そういうところはね。」

優は、そうですねと一言だけ言った。

「一体、どうしたんですか。なにか、大きな怪我をしたとか、そういうことですか?何か犯罪に巻き込まれたとか?それとも、なにか、大きな病気をされたとか?いずれにしても、そのあたりの理由がはっきりしてくれば、もしかしたら、障害年金とか、そういうものにたどり着けるかもしれないわよ。そうすれば、お兄さんだって負担が減るわ。」

マネさんができるだけ明るくそう言うが、優も、繭子さんも黙っていた。ふたりとも、答えを話したくないようであった。

「確か、東大に落ちて、自分の体を焼いたんだったよな?」

杉ちゃんがあっさり答えを言うと、

「そうだったのね。それは大変だった。でも、これから、新しい人生を始めるために、そういう障害を持ったということも考えられるわよね。ほら、パラリンピックの選手とか、みんなそう言うじゃないの。障害を負って、そこから、脱出するために、障害者スポーツを始めたってよく聞くわよね。」

マネさんは一生懸命繭子さんに言った。

「いえ、それは無理です。日常動作だって何もできない繭子に、スポーツなんかできるはずがない。それは、無理です。無理なことを、言わないでください。」

優がそう言ってマネさんを止めるが、

「でも、何も動かない人が、俳句作ったとか、そういうことをしていることもあるじゃないか。だから、繭子さんだって、なにか、しなければ行けないことはあると思うんだ。そりゃ、誰かに、手伝ってもらわなければならないのは、わかるんだけどねえ。でも、家族がすべてっていうのは、間違いだと思うよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「いえ、僕達は、誰かが全てとか、そういうことは、関係ないのです。繭子も僕も生きていかなきゃならないし、そのためには人が必要だってこともまた事実なんですよ。家族であろうがなかろうが、繭子は、誰かの手助けなしでは生きていかれないんですよ!」

「ここまで固まっちゃうとなあ、、、。」

杉ちゃんが、腕組みをしてそう言うが、

「でも、好きなものを見つけて、好きなものをやっていくというのは、誰でも与えられている権利だと思うから、それをやることは忘れないでいてね。」

とマネさんは言った。

「繭子さんも、お兄さんも、平等に持っていることなのよ。」

「まあ、こんなことは話さなくても良いや。それでは、カレーを食べようや。いただきまあす!」

と、杉ちゃんがまたカレーにかぶりついた。繭子さんは、またお兄さんの優に食べさせてもらって、一生懸命食べている。マネさんは、カレーを食べている繭子さんに、なにか自分をかえてやることを、させてあげたいと思った。

「ねえ、杉ちゃん。」

マネさんは、杉ちゃんに言った。

「なんとかして彼女に着物を着せてあげられないかな。杉ちゃんだって歩けないのに、着物着てるでしょ。それなら、彼女に着せてやることはできないかしら?」

「はあ。確かに、布団に着物を敷いて、寝転がって着れば、着物は着られるよ。でも、繭子さんの場合、手も足も動かないんだぜ。それでは、誰かに介助が無いと無理じゃないの?」

杉ちゃんがカレーを食べながらそう答えると、

「はあじゃないわよ。なんとかして、彼女に着物を着せてあげたいの。彼女が、自分だって変わることができるんだって思ってくれれば、また状況も変わってくると思うのよ。だから、なんとか、着物を着せてあげられるようにしてくれないかな?」

とマネさんは、執拗に言った。

「そうだねえ。それなら、着物を、上半身と下半身で切って、二部式に作り直したほうがいいかもしれないな。車椅子のやつで、たまにそういう二部式着物を作っている人がいるよ。ただ、繭子さんの場合、何も体が動かないので、帯を結ぶということは、難しいかもしれない。」

杉ちゃんが和裁屋らしくそう言うと、

「だったら、帯なしでも、着物が着られる方法は無いかな?」

マネさんは、急いで言った。

「方法は無いわけじゃない。でも、それは着物としての格は大幅に落ちるから、あまりやらないほうがいいと思う。」

杉ちゃんがそう言った。確かに、着物と言うものは、形を崩して着用すると、えらく批判の的になってしまうことはあった。だから着物を好きな人同士でも、きちんと着るか着ないかで軋轢が生じてしまう。例えば多少小さくても、着用してもいい人と、そうではなくキチンと着たい人では大幅に意見が異なっている。

「じゃあ、やり方があるなら教えてよ。あたし、そのとおりにしてみる。繭子さんに着物を着せてあげたいのよ。」

と、マネさんがそう言うと、

「そうだねえ。たまゆら式二部式着物という帯なしの着物であれば、なんとかなると思うが、それは、着物代官から、こっぴどく叱られるかもしれないぜ。」

と、杉ちゃんが言った。マネさんは、急いでスマートフォンを出して、たまゆら式二部式着物と検索してみた。すると、どうやら、簡単に作れてしまうものらしい。それなら私が作ってやる!とマネさんは思った。

「あの、お二人は、いつまでこちらに滞在するつもりですか?」

と、マネさんは優に聞く。

「ええ、今日は、富士市内のビジネスホテルに泊まって、明日帰るつもりですが?」

優がそう答えると、繭子さんは、とても嫌そうな顔をした。

「わかりました。明日、もう一度ここに来てください。それでは、素敵なものを用意して待っています。」

マネさんは、決断するように言った。もう作る着物はすぐにわかっている。着物は、マネさんが特にかわいいと思っている、あのピンクの小紋着物をあげよう。

「わかりました。」

優がそう言ってくれて、本当に良かったと思った。とりあえず、その日は、お昼のカレーを食べて、お開きになったが、マネさんは、急いで自宅へ帰り、家族が何を言っているのかも聞かないで、不眠不休で二部式着物を、インターネットの動画サイトを見ながら、一生懸命作った。もともと裁縫が得意な方ではないので、針が指に刺さったりもしたけれど、マネさんは一生懸命作り続けた。このかわいい大きなバラの花を入れた着物。誰にも譲らないと思っていたのに、まさか人に譲ってしまうことになるとは。

翌日。

製鉄所に、繭子さんと、優がやってきた。昨日はすみませんでしたと二人は言った。杉ちゃんが、いいんだよと言って応答していると、

「ごめんなさい!遅くなってごめん!」

と言って、マネさんが玄関先へ飛び込んできた。見れば、その顔はくまだらけ。ひどいものであった。両手には、正絹の見事な着物を持っている。

「さあ繭子さん、これを着てみましょうね。」

マネさんは、何が起きるのかと困惑している顔であったが、マネさんは、繭子さんの下半身に巻きスカートのような腰巻きを巻き付け、上半身に上着をはおらせた。こういうとき、抵抗できないのは、いいことかもしれなかった。そして上着を閉じて、上半身の腰のところで、付け紐を結ぶ。これで、たまゆら式二部式着物を繭子さんに着付けてやることができた。

「ほら、かわいいわ。これで繭子さんも変わることができたじゃない。鏡見て、ちょっと確認してきてちょうだいよ。」

と、マネさんは自信を持っていう。近くに鏡がなかったので、杉ちゃんがマネさんのスマートフォンで写真を取り、それを繭子さんに見せるという形をとった。繭子さんは、ピンクの着物を着た自分の姿を見て、大変びっくりしてしまったようだ。

「ほら、繭子さんもこれで変われるのよ。だから、毎日は、変化していかなくちゃ。」

マネさんは、いいことをしたと思った。

繭子さんはとてもうれしそうな顔をした。そして、製鉄所の中に入りたいという素振りを見せた。多分、中にいる水穂さんに見てもらいたいという気持ちなのだろうが、

「水穂さんなら寝ているよ。」

と、杉ちゃんが言った。

「でも、すごく可愛いぜ。マネさんも、すごいことを思いつくもんだな。」





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たまゆら着物 増田朋美 @masubuchi4996

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