一生分の一振りを君に
🌻さくらんぼ
一生分の一振りを君に
「あ~、もうこんな時間!! ゴマ、行ってくるからね!」
『
ドタバタと焦る璃花に、ゴマはニャ~っと答えた。ソファーでいつものように、のんびりとあくびをしながら。
玄関のドアが閉まり、ガチャリと鍵がかかる。
部屋のカーテンが揺れている。外からはかすかに、太陽の日差しと、セミの鳴きかわす声、それに緑の香りが感じられた。
『もう、良い頃合いだな』
ゴマは重い体を持ち上げて、うーんと伸びをした。
こうして璃花が窓を閉め忘れるのは、珍しいことだった。今日は本当に時間がなかったのだろう。昨日の夜、遅くまで映画を見て、夜更かししていたのが響いたに違いない。大好きな俳優とやらが出ている、ラブコメとかいうものらしい。璃花はとても楽しそうだった。
ゴマはソファーから窓枠へ、移動した。
部屋を見渡す。
きれいに整頓されている部屋。奥の白い戸棚に、自分のためのご飯が常にストックされていることをゴマは知っていた。璃花のご飯はもっと大きい白い冷蔵庫の中なのが羨ましいこともあったけれど、璃花のほうが自分より偉いから仕方がない。自分は璃花のおかげで、毎日穏やかに、この小さな家で暮らせたのだから。
ゴマは部屋に背を向けて、窓枠を飛び降りた。そしてすぐ下の草地に体が埋もれる。
一匹と一人。幸せな暮らしだった。ゴマは満足だった。璃花には仕事も、好きなことも、家の中をキチンと管理する力もある。それにこの先には、大切な人との生活だって待っている。なんの心配もいらない。璃花はちゃんと生きていける。
誰よりも信頼している。それはこの先もずっと変わらない。
だからゴマはもう、草の合間を縫いながら、ふり向くことはしなかった。
それでも耳の中では、璃花の声がこだましている。
「あなたは黒ゴマの胡麻豆腐みたいな毛色をしているわね……うん、名前はゴマで決まりね!」「ゴマ、お風呂だって大事なのよ。大丈夫、私がいるからね」「きちんとトイレを覚えたのね! 偉いわ、ゴマ!」「おやすみ、ゴマ」
「ゴマ早起きね」「今日はゴマの大好きなご飯を買ってきたのよ!あっ、匂いでわかるのね」「またクッションをボロボロにして……」
「ゴマ、どうしたの……?」「嫌がったって、病院は絶対行くわよ」
「ゴマはお年寄りになったものね。こんなに小さな子猫だったのが、つい最近のことみたいなのにな」「あーあ、ずっと生きていられる世界だったらいいのに」「ゴマ、まだまだ私と一緒にいてね」
「ゴマ、聞いて!! 私、今年の秋に結婚することになったのよ!」「結婚式の後は、ゴマの私たちと一緒に三人で暮らしましょうね、約束よ」
――約束、か。
けれど、ゴマは足を止めない。人間の世界には、死んだ人がその後も見守ってくれているという考え方があるという。この道を進んでも、約束を破ることにはならないだろう。
ゴマの目の前を、スズメが横切った。昔なら、どうにかしてでも捕まえたい気持ちがムクムクと膨れ上がって、居ても立っても居られず、息をひそめ、グッと足に力を込めて――ガシッとスズメを捕らえただろう。しかし、そんな衝動に駆られることはなかった。それほどまでにゴマは、年を取っていた。
ゴマはひたすらに歩き続ける。見知らぬ人、家々、看板、電柱、木々、花々――夕焼けの空。
誰もいない、暗く狭い寂れた路地裏を見つけたとき、ゴマはようやく足を止めた。
――ここなら、邪魔されない。
冷たい地面に体を横たえる。オレンジの空が紺色に変わっていくのをぼんやりと眺めながら、
『いい生き方をしたものだ』
ニャアと小さくつぶやいた。
まぶたを下す寸前、ゴマはしっぽを一振りした。
もう会うことのない、大好きな璃花へ。
(おしまい)
一生分の一振りを君に 🌻さくらんぼ @kotokoto0815
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