第5話 50m走

「位置について!」


 スタート係がそう声を出すと、騒がしかったグラウンドは一瞬で静寂に飲まれる。

 レースのための神聖な空間を作る、陸上界の魔法の言葉だ。

 どれだけ心の中がざわついていても、この一言で全てがクリアになり、純粋なスピードだけの世界になる。

 過去も、挫折も、捨てられないもやもやも。

 今だけは全てが消え去り、ただ速さだけを求める。


「用意!」


 ゆっくりと腰を上げ、号砲の音を待つ。


「パァン!」


 静寂を切り裂く号砲とともに、地面を蹴る。

 分かっていたはずなのに、つい力いっぱい蹴ってしまった足が少し滑るが気に留めない。

 真横から猛烈なスピードで飛び出した瑠那は、既に陽子の1mほど前にいる。

 加速しようと必死に地面を踏みしめるが、弾くように地面を蹴り進む瑠那に追い付かない。

 加速に乗り、中間疾走の姿勢へ体を起こし始める。

 遠い……。陽子は、瑠那との距離を改めて理解した。

 それでも、ゴールまで全力で腕を振り、歯を食いしばり、砂埃を立てて足を回転させる。

 もっと、もっと速くだ……! 1秒にも満たぬ間に、何度も全身の神経へ指示を送る。

 あの日とは違う。

 敗北を受け入れられず、ただあがきもがくように走ったあの日とは。

 今日の陽子はチャレンジャーだ。

 王者を追いかける、そして最後まで諦めない。

 冷静に自分を見つめた上で、なお勝負を捨てない強い心を持ったチャレンジャーだ。


 ピッ。というストップウォッチの音で、現実の時間に引き戻される。


「もう……ゴールしたのか」

 

 1秒が何倍にも引き延ばされる感覚。

 神経の1本1本へ指示を伝達させようと必死になる感覚。

 いつぶりだろうか。口先だけじゃない、本当の全力を出したのは。


「日向、7秒2!」


 ロリ先生がタイムを読み上げると、取り囲むように見ていたギャラリーから拍手が起こる。

 陽子が大差で敗れたことは、誰の目にも明らかだった。

 それでも、最後まで全力を尽くした姿と、堂々たるタイムに称賛を送りたいという気持ちが拍手となって表れたのだ。


「私が7秒2? え? 7秒2?」

「陽子が7秒2! 凄い、凄い、凄い!」

 

 陽子は状況が読み込めないまま自分のタイムを繰り返すが、伊緒の持ってきたストップウォッチの画面を見て、ようやく現実だと理解した。

 これまで走ったことのない、未知のスピードで駆け抜けた結果のタイムだった。


「でも、じゃあ湖上さんは……? 一体……」


 敗者のタイムを理解したが故に、全員、ぞくりともう一つの事実に怖くなる。

 あれだけの大差で負けて、7秒2。では、勝者のタイムは……?


「湖上……6秒6!」


 ロリ先生が高々とストップウォッチを掲げる。

 そこには、誰も見たことのないタイムが表示されていた。


「女子で6秒台、それも6秒6!?」

 

 ざわめきを超えて悲鳴にも似た声が上がる中、当事者である瑠那は気にせずゆっくりと陽子に歩み寄る。


「湖上さん。やっぱり、とんでもなく速かったね。敵わないや」


 陽子が声をかけると、瑠那はゆっくりと首を振る。


「ずっと、後ろから足音が聞こえていた。スパイクも履いてないし、土のコースだったのに、無理やり踏みしめて蹴りつけるような乱暴な音。最後まで全力で追って来てるって、音で分かった。緊張感のある、いいレースだったと思う」


 瑠那はそう言うと、日陰へ戻って行った。


「それと、私のことは瑠那でいい。また走ろう、待っている」

 

 去り際にそう言い残して。

 陽子も「あ、じゃあ私も陽子で」と急いで言ったが、まだ少し頭がふわふわとしていた。


「陽子、また走ろう、待ってるって! これってつまり、一緒に陸上部に入ろうってことじゃない!?」

「いや流石にそれは拡大解釈し過ぎじゃないの……」


 興奮する伊緒をなだめていると、ロリ先生が急かしに現れる。


「ほらいつまでも余韻に浸ってないで、次の種目やるから移動! あと日向、お前は陸上部の体験入部に来ること。入部の強制はしないが、体験入部くらいはしに来い!」


 急いで立ち上がって移動を始める陽子と伊緒。

 短期間での予想外の展開に、陽子はパンク寸前だった。


「ねぇ陽子、さっきのってスカウトだよね? やったじゃん! 一緒に体験入部行こうよ!」

「いやー……うーん、行くしかないかぁ」


 陸上はもう……と言いかけて、やめた。

 恐れて、必死に視界に入れないようにしていたはずの相手は、自分のことを真っ直ぐに見つめてきたのだ。

 その世界に入れないと境界線を引いた自分を、彼女は同じ世界にいると言ったのだ。

 そして孤高だと思った彼女の、一人で走るのは寂しいという呟きを、陽子は聞いてしまった。

 その精巧な人形のような顔が、寂しげに曇るのを見てしまった。


 だから、もう逃げる訳にはいかない。

 待っていると言われたなら、追いかけるのが礼儀だ。

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