第4話 陽子の再起
「次は50m走だからなー! タイム近い者同士2人ずつ走るから、中学時代のタイム参考にして並んでいきなー! じゃあまず10秒台から、何人いるー?」
驚く二人を置いて、種目は50m走に進む。
ロリ先生の声掛けでタイムが遅い順に先頭から並んでいき、陽子と伊緒は離れてしまう。
「じゃあ次、7秒台は……って、お前ら2人だけか。じゃあ最後の組な。楽しみにしてるぞー」
きっと瑠那のことは既に知っているのだろう。
ロリ先生がニヤリと笑い、組分けが終わる。
陽子の中学時代の持ちタイムは7秒9だ。
当然、隣で走るのは瑠那になる。
(私はこの子を避けて、陸上も避けて、高校で新しい生活やっていこうと思ってたのに……おかしい! どうしてこんなことに?)
感情の整理が追い付かない陽子に、心配そうな顔で振り向いた伊緒が「がんばって」と口パクで言う。
伊緒も陽子の事情をなんとなく察しているのだろう。
相当なプレッシャーを感じているだろうと考えての優しいエールだった。
「私は湖上瑠那。よろしく。他の種目も見ていたが、お前はなかなかいい身体能力をしているようだ」
日陰に入り、ゴーグルを額の上に上げた瑠那が、やや背の高い陽子を見上げながら言う。
磁器人形の二つ名通り、まるで誰かが精巧に作ったかのような整った顔、しかしそこに笑顔はない……いや、表情が乏しいのだろうか。
曇りのないよく通る声も、淡々としていてぶっきらぼうな口調だ。
人気者として愛想を振りまくことが常だった陽子とは、真逆とも言える。
「ありがとう。でも流石に湖上さんには敵わないかな……50mさ、全然、多分勝負にならないから。期待しないで。ごめんね」
こんなの、勝負にならない。そう最初から諦めていれば傷付かない。
この日初めて、陽子は走る前に敗北を宣言した。
本来の陽子であれば「やってみなきゃ分からない!」と威勢よく言い放っただろう。
だがしかし、瑠那という存在はそれほどに陽子にとって遠く、決して敵わない存在と心の奥底にまで植え付けられていた。
「ていうか、ただの体育の授業だし。みんな本気になってるから大会みたいな雰囲気あるけど、全然、本気の勝負じゃないよね。湖上さんもこんな勝負みたいになって、困るよね! ほんと!」
弱気な自分は自分らしくない。
そう感じて精一杯明るく振る舞うも、陽子のそれは勝負の放棄と自己防衛の言葉だった。
「私は別に。たださっきまで本気で記録を狙っているように見えたが……本気で走らないのか?」
不思議そうに、瑠那は陽子に尋ねる。
何故、陽子が勝負に乗り気でないのか、心底分からないという風に。
「いや私は本気で走るよ! 一応。一応本気だけど……全然、遅いから。一人で走ってるみたいになると思うよ」
自分のことを『遅い』と評したのは初めてだった。
それほどまでに、同じ土俵に立ちたくなかった。
同じ土俵で、また負けたくなかった。
「それは謙遜か? まぁ分かったが……一人で走るのは寂しいな」
一人で走るのは寂しい。そう言ったときだけ、瑠那の表情が本当に寂しげに見えた。
大会に出てすぐ優勝、一気に全国区まで駆け上がって、二つ名がつくほど騒がれた。
それなのに、どうしてそんなに寂しそうな表情をする?
これからも陸上界のルーキーとして、多くの人に囲まれて華やかな道を歩くんじゃないのか。
今から走る50m走で圧倒的な記録を出して、輝かしい伝説の第一章とするんじゃないのか。
陽子には、これまでの自身の経験と知識を総動員しても、瑠那の心はまるで分からなかった。
ただ、この寂しげな表情の理由が分かるまで……もう少しだけ、彼女を見ていたい。
そう、少しだけ興味を持った。
「次、最後の湖上と日向! 期待してるぞー!」
話してるうちに出番が来た。
ここまでの最高タイムは7秒8。
運動部の顧問達が熱視線を送っており、早くも争奪戦が勃発しそうだ。
「陽子ふぁいと!」
息を切らせながら8秒5のタイムで走った伊緒が声援を送ってくれる。
地面に手をつき、スタートの位置につく。
スターティングブロックなしのクラウチングスタート、運動靴と土という滑りやすい組み合わせは要注意だ。
スターティングブロックありのスパイク、タータンという条件で走るときに比べ、蹴る向きを後ろではなく下向きにしなければ……あとつま先で蹴らずに足全体で摩擦力を高めて……。
陽子は、無意識に速く走るための方法を考えていた。
そのことに気付き、なんともバツの悪い気分になる。
(自分は、勝負から降りたんじゃなかったのか?)
ふと隣に目をやると、真剣な眼差しで走路を見据える瑠那がいた。
一人で走るのは寂しい。そう言った彼女の表情を思い出し、陽子は覚悟を決める。
「湖上さん」
陽子が声をかけると、瑠那は無言で顔を陽子に向ける。
「本気で走るから。本気で追いかけるからさ。勝負しよう」
追いかけるだなんて、先に行かせる前提で情けない。と言ってから気付くが、それでも勇気を出した自分を陽子は褒めた。
瑠那は少し驚いたように目を見開くと「ついてきてね」と小さく呟き、前を向きなおした。
その横顔は、心なしか嬉しそうにも見えた。
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