第676話 嫁達には毎日笑って過ごして欲しい
飲み屋の中へ入ると、〈ナサ〉っていう初老のおっさんが、頭から血を流して床に倒れていた。
直ぐ近くに木製の丈夫な椅子が、ひっくり返って血がついているのも見える。
揉み合った拍子に倒れて、この椅子で後頭部を強打してしまった感じだ。
ブーメランの形に頭が禿げているのが、哀れ過ぎて淋しい男だと思わされるな。
その横には初老の女性がへたり込んで、死んだ男の頭を淡々とさすっている。
服に血がついても、全くお構いなしにだ。
あっ、この初老の女性は〈サーレサ〉さんじゃないか。
元は変なおばさんだったけど、子供達の世話をしているうちに、激変してまともになった人だ。
「ふぅ、ご領主様までに、元夫が、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「おっ、亡くなった人は、〈サーレサ〉さんの元旦那さんなのか」
「えぇ、息子を死なせてしまって、私が囚(とら)われたことで、上手くいかなくなったのです。この人がこんなダメな人間になったのは、私のせいなんですよ。喧嘩した相手の人を、どうか罪に問わないでください。悪いのは私なんです」
思い出してきたぞ。
殺された初老のおっさんは、黄色いおばちゃんの店で、他の客に「子供を失くして、参っている女房を叩き出した、恥知らずだ」って言われていた人だ。
「うーん、〈サーレサ〉さんだけが、悪いはずがないよ。夫婦って、一方的なものじゃないと思うな」
僕も結婚してから、分かってきたことがあるんだ。
「いいえ、私の執着(しゅうちゃく)が異常だったのです。「また子供を作ろう」と言われたことが許せなくて、私は「人でなし」と喚(わめ)いたのですよ。今なら夫なりに私を立ち直らせそうと思い、かけてくれた言葉だと分かりますが、息子を亡くして一年も経っているのに、私はそれが心底許せなかったのです。この男はあの子を、世の中から記憶さえも、抹殺(まっさつ)しようとしていると怨(うら)みました」
「息子さんを、本当に愛していたんだね」
うっ、何か話が重過ぎて、在(あ)り来(き)たりのことしか言えないな。
「ははぁ、私は息子を本当に愛していたのでしょうか。私が本当に愛情深い人間だったら、この人に寄り添われて、寄り添っていたでしょう。だからせめて、もう間に合っていないのですが、今はこの人に寄り添いたいのです」
〈サーレサ〉さんは弱弱しく微笑みながら、愛おしそうにブーメラン禿げの部分をさすっている。
初老のおっさんも、殺されたくせに、穏やかに眠っているようだ。
初老のおっさんが言ったとおり、新たに子供が生まれれば、〈サーレサ〉さんは立ち直れることが出来たと思う。
子供達の世話をしているうちに、激変してまともになった人だからな。
だけどその前に、新たな子供を作る気を、起こさせる必要があったんだ。
死んだしまった子供の記憶を、何かに変質させて置き換える必要があったんだ。
〈サーレサ〉さんも立ち直るのに時間がかかり過ぎだけど、殺された初老のおっさんは焦り過ぎたんだな。
でも僕も、つい言ってしまいそうな言葉だよ。
そう思うと、この人が可哀そうに見えてくる。
二人切りの家の中で、一年以上死んだ子供のことしか考えていない妻が、途轍(とてつ)もない重荷になったのだろう。
妻の気持ちに引きずられて、自分自身が段々暗くなっていくのが、とても怖かったのかも知れないな。
だがその苛立(いらだ)ちを、周りへぶつけたのは、このおっさん自身の過ちだ。
それは〈サーレサ〉さんの責任じゃないと思う。
でもそれを言ったところで、何になるんだ。
死ぬ時ぐらいは、〈サーレサ〉さんにさすられる程度には、このおっさんも良い夫だった時があったんだろう。
今となっては、〈サーレサ〉さんだけが、覚えていれば良いことだと思う。
一晩中〈サーレサ〉さんは、ブーメラン禿げをさすり続けて、三日月禿げになるかなって思う頃に、もう得心してくれました」と呟きスッと立ち上がったらしい。
それから、〈サーレサ〉さんしか参列者がいない、お葬式を静かに済ませたようだ。
唯一の遺族である〈サーレサ〉さんの強い希望と、今までのおっさんの悪い評判と、喧嘩の目撃者の証言で、僕は加害者へ重い罪を与えなかった。
殺人罪じゃなくて、過失致死罪って感じにしたんだ。
刑罰は向こう五年間、毎日欠かさず《ラング》の町の、ゴミ拾いをしろって言うものだ。
加害者は、大きな背負いカゴと長い火箸(ひばし)を用意して、日が昇る頃にはもう町を歩いているらしい。
〈ネス隊長〉は、〈ガハハハッ〉と笑って、うんうんと頷いてくれたよ。
〈サーレサ〉さんは、また子供達の世話を再開して、子供達と一緒になって〈おほほっ〉と上品に笑っているらしい。
〈サーレサ〉さんは、本当に子供が好きなんだな。
人生笑って生きなくちゃいけないよな。
〈サーレサ〉さんも、そう思っているんだ。
僕がいなくなった後でも、嫁達には毎日笑って過ごして欲しいと思う。
えっ、お前がいなくなった後の方が、良く笑うだろうってか。
それは、あんまり酷いんじゃないか。
本人には嘘でも、違うと言ってくれよ。
頼(たの)んますわ。
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