第591話 人をゴキブリみたいに言うな
僕が会釈(えしゃく)をすると、誰か分かってくれたようで、少し笑って会釈を返してくれる。
どうして笑われたんだ。
理由がかなり気になるぞ。
〈ヨヨ先生〉が、お気に入りの集団を連れて入って来たので、先生に向かってお辞儀をしておいた。
先生は指揮棒を上げて答えてくれたけど、その一瞬だけで、後はお気に入りの集団に囲まれてにこやかに話されている。
先生の今日の衣装は、幾何学模様(きかがくもよう)の柄で、時相が少しずれている感じがした。
直線がおっぱいで歪(ゆが)まされて、三角形が豊かなお尻で台形になっているせいだ。
僕はここで失敗をしたことに思い当たった。
途中で入るよりは、最初からいる方が目立たないと思ったけど、逆であることがようやく分かった。
広い空間の中で、ボッチは非常に目立つということだ。
《青燕》卒舎生が来る前に、急いで〈ヨヨ先生〉のおっぱい若(も)しくはお尻に隠れよう。
もう少しで楽団の影に入れそうな時に、《青燕》卒舎生が入場してきやがった。
あぁ、もう少しだったのに、神は我を見放したのか。
勉強ばかりしているくせに視力が良いヤツがいるようで、〈健武術場〉を早歩きしている僕を見つけてしまいやがった。
「あははっ、あそこに組長がシャカシャカと歩いているぞ」
「ふはぁはは、ホントだ。焦って楽団の後ろに隠れようとしているんだ」
あぁー、なんてことを言うんだ。
人をゴキブリみたいに言うなよ。
「〈南国茶店〉でご馳走になりました。ありがとうございます」
いぃー、こんなとこで言うなよ。
駆け落ち夫の友人以外は、奢(おご)っていないんだぞ。
「うぅ、区別と言う名の差別じゃないのか」
「えぇー、良いな。俺も奢って欲しかったな」
ほら。
文句を言うヤツが出てきただろう。
僕を散々笑っていた《青燕》卒舎生が、ピタっと動きを止めて固唾(かたず)を呑んで、ある一点を睨んでいる。
笑われたけど、この瞬間に入ってくるよりはマシだったな。
全く空気を読めない男だと、一生言われかねない。
ある一点とは、《赤鳩》卒舎生が入場してくる入口である。
扉が開かれた瞬間に、《青燕》卒舎生の歓声が〈健武術場〉に怒号(どごう)のように響き渡った。
コイツら、ちょっと大丈夫なのか。
渇(かわ)きか獣欲かが、身体からブワァと漏れ出しているぞ。
《赤鳩》卒舎生は歓声の中、顔を上気させながらも胸を張って歩いている。
卒舎した誇りと将来への希望と、舞踏会での異性の触れ合いで、胸が一杯に膨らんでいるんだろう。
《白鶴》よりドレスは大人しいデザインだけど、自信に満ちた女性が着れば、百万本の花が咲いたような輝きを放っている。
何よりも、厳しい競争を勝ち抜いた眼が煌(きら)めいているぞ。
たぶん、将来が嘱望(しょくぼう)されている《青燕》卒舎生を、この機会に落とそうとは思っていないよな。
気合が入ったお化粧と香水の匂いで、ちょっぴり疑ってしまったよ。
ごめんなさい。
それにしても、これほど多くの着飾った女性の集団は、もう圧巻(あっかん)だとしか言いようがない。
とんでもない圧で、腰が引けてしまうよ。
人の数が多過ぎて、〈クルス〉を中々見つけられない。
色とりどりの髪飾りの中で、辛(かろ)うじて紅色(べにいろ)を見つけることが出来た。
《青燕》と《赤鳩》の学舎長のスピーチが終わり、楽団がBGMを奏で始める。
僕はざわめく会場を横切り、一直線に〈クルス〉を目指して早歩きで向かう。
シャカシャカとしたゴキブリではないぞ。
ぴょこぴょことしたバッタだ。
黒ではなく、青い服を着ているからな。
「組長が〈黒髪の優等生〉に突進したぞ。皆続いて突撃しろ」
「はい。班長、了解しました。突撃を敢行(かんこう)します」
「砕けたら、骨を拾ってくれよ」
「皆、恥をかいても問題ない。もう学舎には来なくていいんだぞ」
かぁー、コイツらもあの実録本を読んでいやがるのか。
ちょっと恥ずかしいぞ。
それにしても、踊りを誘うだけなのに、肩に力が入り過ぎだな。
これは、〈新入生歓迎舞踏会〉の時と違い、《赤鳩》卒舎生が皆大人になって綺麗になってしまったからだろう。
ドレスを着こなし、お化粧も上手くなって蝶が羽化したような感じに見えるのだろう。
それに三年間で、好きな人が出来たのかも知れない。
〈クルス〉は言わなかったけど、《青燕》と《赤鳩》の合同の授業があって、そこで見染めた可能性もあると思う。
「〈タロ〉様、ここです」
〈クルス〉が手を振って居場所を教えてくれた。
「ふぅ、やっと〈クルス〉の所へたどり着けたよ」
「いきなりお疲れ様です。ただ〈タロ〉様は、とても不思議な方ですね。どうして《青燕》の人に、あんなに慕(した)われているのですか」
「うっ、慕われているとは言えないよ。あれは、からかわられているんだ」
「そうですか。皆さん〈タロ〉様を見て嬉しそうでしたよ」
「まあ、アイツらのことは無視しよう。踊りが始まるまで時間がかかりそうだから、何か飲もうよ」
「はい。そうしましょう。不思議のことですが、〈新入生歓迎舞踏会〉の時より、皆さんの動きが硬いようですね」
今回の舞踏会も飲み物は、少し冷たいお水だった。
摘まむものも何もない。
貴族と平民の差、人数の差が大きくて、予算がかけられないんだろうな。
僕達は喉を潤(うるお)した後、会場の様子を見ている。
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