第571話 おっぱいは遥か彼方へ
それから、許嫁達は〈ベート〉に採寸をされてドレスを発注していた。
〈アコ〉と〈クルス〉は、〈卒舎記念舞踏会〉用で、〈サトミ〉のは何用か分からない。
それぞれ二着ずつだ。
僕にどの色が良いか、どんなデザインが良いかと聞かれたが、六着もあると何が何だか分からなくなってしまう。
適当に答えているのが分かったのだろう。
許嫁達はしつこく聞いてくる。
本当に疲れたよ。
いい加減僕を諦めてくれ。
でもそれで終わりじゃなかった。
辻馬車を使って今度は、靴屋と鞄店巡りだ。
何軒も回って捜して、僕の頭はクラクラになっている。
でも、許嫁達は許してはくれない。
しつこいくらいに、僕の意見を求めてくるんだ。
この執念(しゅうねん)と体力と集中力は、〈海方面旅団兵〉にも見習わせたいほどだよ。
やっと買い終わってホッとしていたら、量がすごいことになっていた。
靴も鞄も二つずつだ。
合計すると十二個にもなる。
辻馬車の中は紙袋で溢れ、僕の財布は枯れてしまった。
一日中連れ回されたから、気力もほぼ枯渇(こかつ)している。
でも良いんだ。僕は小金持ちだから、このくらいどうってことはない。
ただ、金銭感覚はド庶民だから、お金がドンドン消えていくのは恐怖でしかないんだ。
身体的にも、心臓の動悸(どうき)が乱れてとても疲れてしまった。
夕食を食べる時の僕は、グロッキー状態であまり食べられなかったと思う。
〈南国果物店〉に着いて辻馬車から、〈サトミ〉を降ろそうとしたら、荷物を部屋まで運んで欲しいと言われた。
はぁー、疲れているんだけどな。
「〈タロ〉様、運んでくれてありがとう。これは今日のお礼の前払いだよ」
〈サトミ〉は僕の首に手を回し、長いキスをしてくれた。
後払いのお礼はなんだろう。
とても気になるな。
「おぉ、嬉しいお礼だよ」
「へへっ、〈タロ〉様、少し元気になって良かったよ。〈アコ〉ちゃんと〈クルス〉ちゃんが待っているから、早く行ってあげてね」
辻馬車で学舎町まで帰ってきたら、辺りはもう暗くなっている。
学舎町の門を潜(くぐ)ると、〈アコ〉と〈クルス〉が僕の両側から、ほっぺにキスをしてくれた。
今さら、ほっぺにキスなのか。
「ふふふ、〈タロ〉様。今日のお買い物のお礼ですわ。残りは結婚してからのお楽しみですよ」
「うふふ、たまには頬もいいでしょう。お礼はこれだけではないので、少し待っていてくださいね」
「へぇー、それは楽しみだよ」
〈アコ〉と〈クルス〉は、ニコニコと笑いながら僕の腕に絡んできた。
もちろん、おっぱいは当たりまくっている。
三人でこうして学舎町を歩くのも、後何回出来るのかな。
すれ違う他の学舎生が、僕達を呆れたように見ているが、〈アコ〉と〈クルス〉は気にならないようだ。
僕に笑いながら話かけてくる。
僕も全くへっちゃらだ。
こんな美人二人に、おっぱいを押し付けられているんだぞ。
どうだ、羨(うらや)ましくて泣きたいんじゃいないのか。
前で拳(こぶし)を固く握って立ち止まっている、ちん丸こいあんちゃんの顔が、憎悪でおはぎみたいに黒ずんでいるぞ。
僕を半殺しにしたいんだろうな。
後ろを巡礼者のごとく歩いている、病人みたいな学舎生は、悔しさのあまり身体が斜めに傾(かし)いでいるぞ。
僕の股間に電気按摩(でんきあんま)を、お見舞いしたいと思っているに違いない。
はははっ。
とても愉快(ゆかい)だ。
モテる男は辛いよと、両手に花状態でフアフア歩いていたら。
進行方向に何か茶色塊(ちゃいろいかたまり)を発見した。
おぉ、あれは、ちょっとした危険物じゃないのかな。
僕は避けようと思ったが、両腕を極(きめ)られているため身体の自由が効かないんだ。
おっぱいから、腕を引き抜くことが気持ち良過ぎて出来ない。
このままでは、近い将来にとても良くない未来が僕を待っている。
そう思った時は、既に遅かったようだ。
〈アコ〉と〈クルス〉を凍りつかせる、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の運命が僕を捕えていた。
茶色塊を踏みつけた瞬間に、右足は「ジュル、ジュー」と大きく滑り、僕を又裂状態(またさきじょうたい)にしようとする。
だが、そこを左足だけで何とか踏ん張り、体重移動を駆使して又裂状態を危険域までは広げなくて済んだ。
要は、僕の股間節(こかんせつ)は「ピキ、ピキ」と引き千切れる断裂の危機を脱したということだ。
これは、日頃の鍛錬の賜物(たまもの)と誇って良いだろう。
だけど右足の靴底から、潰されたスライムのような「ニュルン」と柔らかくて「ホカ、ホカ」な感触が伝わってくるぞ。
これはあれだ。
暗黒の薄夜に顕在(けんざい)した邪狼神が、享楽(きょうらく)で浸食し弄(もてあそ)んだ供物(くもつ)そのものの、成れの果てだと計り知れる。
悪食をも辞(じ)さない犬畜生が、胃酸で固形物を溶解して、腸(はらわた)で滋養(じよう)を奪いとった魔の物であると存ぜよ。
禍々(まがまが)しい感触と、おどろおどろしい匂いを兼ね備えて、僕を債務不履行者のように責め立ててくるぞ。
これは、ささやかな僕の人生が転落していく序章だと言うのか。
「きゃー、〈タロ〉様。今、犬の糞(ふん)を踏みましたわ」
「うわぁ、犬の糞に〈タロ〉様の靴底の後が、ハッキリとついています」
〈アコ〉と〈クルス〉は、まるで僕が犬のクソそのもののように、慌てて離れていった。
そして、三m以内には決して近寄ってはきてくれない。
あぁ、おっぱいは遥か彼方へいってしまって、もう帰えらない。
ちん丸こいあんちゃんと、病人みたいな学舎生の、透(す)き通った笑い声が学舎町に木霊(こだま)しているぞ。
心の底から、純粋に今笑っているんだろう。
僕は二人が抱えるストレスを、ものの見事に解消したのかも知れない。
靴に引っ付いたクソは、ベッタリとしつこく離れてはくれない。
〈アコ〉と〈クルス〉は、その代りに離れていって、戻ってくる気を見せてはくれない。
僕は今アンタッチャブルな存在である。
犬の糞を小石で拭(ぬぐ)っている僕は、運の悪さを嘆(なげ)くしかない。
学舎町の住人は、声を潜めてこう言うだろう。
「英雄は地に落ちたクソを踏んだ」
または
「英雄は地に落ちた」
あるいは
「《ラング伯爵》はクソだ」
ひぃー、嫌だよ。
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