第427話 心が染まります

 今は、目の前に〈クルス〉が、いるんだ。イチャイチャに、全方位で集中させて頂こう。


 僕は〈クルス〉の腕をとって、強引に引き寄せた。

 〈クルス〉は、倒れるように僕の胸に飛び込んで、手を僕の腰に回している。


 「きゃっ、〈タロ〉様。乱暴ですね」


 「嫌だったかい」


 「んん、質問には答えません」


 「何だよ」


 〈クルス〉は、僕の胸に顔を埋めて、僕の顔を手でなぞってくる。

 〈クルス〉の手は、ひんやりとして、くすぐったい感じだ。少しゾクゾクもする。


 「馬車に入れられた時は、〈タロ〉様のことばかり考えていました」


 「どんなことなんだ」


 「色んなことです。過去のことも、未来のこともです。過去のことは輝いているのに、未来は漆黒の闇のようでした。こうして、〈タロ〉様の胸に抱かれていると、綺麗な七色が見えるようです」


 「へぇー、じゃ今の色は何色なの」


 「そうですね。情熱の赤か、幸せの黄色でしょうか。色んな色に、心が染まりますけど、どの色も鮮やかだと言うことです」


 僕は〈クルス〉にキスをした。情熱的に、口をジュルジュルと吸ってやった。


 「んんっ、〈タロ〉様。そんなに唇を吸わないで、音が恥ずかしいです」


 僕は〈クルス〉にキスをした。幸せになるように、何度も啄(つい)ばんでやった。


 「うふふ、楽しい気持ちが続きますね」


 「今は、どんな色に染まっているの」


 「それは、〈タロ〉様の色に決まっています」


 「はぁ、僕に色はないと思うよ」


 「そうなのですか。でも私自身は、染められたと思っています。それも、かなりの濃(こ)いです。目を瞑(つむ)っても、〈タロ〉様が瞼(まぶた)から、離れてくれないのです」


〈クルス〉は、「たまには、こういうのも良いですね」と微笑みながら、部屋を出ていった。

 えっ、またするんだ。


 何が良かったんだろう。お尻の真ん中が、良かったに違いない。



 〈サトミ〉が、部屋に入ってきた。

 僕の顔を見るなり、下を向いてしまって、じっと動かない。


 「〈サトミ〉、いつまでも、そこでじっとしているの」


 〈サトミ〉の目からは、涙が零れ落ちている。


 「うぅ、だって、〈タロ〉様は、〈サトミ〉のことを、すごく怒っているんだもの」


 「そうだ。僕は〈サトミ〉に怒っている。なぜだか分かるか」


 「〈サトミ〉が、女の子を助けようとして、刺されそうになったことでしょう」


 「そうだ。〈サトミ〉は、僕の目の前で、自殺をしようとしたんだよ」


 「うぐぐっ、そうじゃないもん。〈サトミ〉は、自殺しようとしたんじゃない。女の子を助けようとしただけだよ」


 「だけどな。〈天智猫〉の加護がなかったら、確実に胸を刺されていたんだぞ」


 「うぅ、〈タロ〉様、もう怒らないでよ。〈サトミ〉は、二度と危ないことをしないと誓うから」


 「でもな、〈サトミ〉。聞くけどな。女の子を助けようとした時、何も考えていなかったんじゃないのか」


 「何もじゃないよ。危ない、助けなきゃと思っていたよ」


 「僕が言いたいのは、〈サトミ〉が反射的に、助けに行ってしまったことだ。自分の安全なんか、全く考えもしなかっただろう」


 「うぐぐっ、だって、危ないって思ったら、身体が勝手に動いていたんだもの」


 「だから、怒っているんだ。いや、恐れているんだ。〈サトミ〉は、僕の目の前で死んだかも知れないんだよ。そんなの、とても耐えられない」


 気づいたら、僕の目からも、涙が溢れていた。

 あのまま、〈サトミ〉が刺されていたと想像したら、とてもじゃないが平静ではいられない。


 「〈タロ〉様、泣かないで。〈サトミ〉は生きて、〈タロ〉様の前にいるよ」


 「僕はあの時、〈サトミ〉を失うと思ったんだ。そんな思いは、二度と味わいたくないんだ」


 「うぅ、〈タロ〉様、ごめんなさい。〈サトミ〉は、二度としないから。魂に刻み込むから、どうか許してください。〈タロ〉様に許して貰えなかったら、〈サトミ〉は生きていけないよ」


 〈サトミ〉は、猛烈な勢いで、僕にしがみ付いてきた。

 僕の身体に、自分の身体をぶつけるように、抱き着いて来たんだ。


 僕は、〈サトミ〉をしっかり受け止めて、強く抱きしめた。

 〈サトミ〉の身体は、熱くって柔らかくって、生きていてくれたんだと、愛しく思う。


 〈サトミ〉が抱き着いて来たのは、僕が怒っているのではなく、怖かったんだと分かったためだろう。

 〈サトミ〉の「許して」は、怖い思いをさせたことへ、変ったのだろう。


 〈サトミ〉は、僕の恐怖を取り除きたくて、抱き着いて来たんだと思う。

 「私の身体は、血が通っていて、こんなに熱いの」と発見して欲しかったのかも知れない。

 互いの体温を感じるために、部屋へ来たことを、知って欲しかったんだと思う。


 僕は、心の底から恐怖を感じていたんだろう。

 〈サトミ〉がいなくなったら、恐(おそ)らく僕の心も、壊れてしまうからだと思う。

 〈サトミ〉は、僕の心中に、みっちりと根を生やしている。

 それが抜ければ、もうただでは済まない。

 僕の心の一部も、一緒に引き抜かれてしまうのだから。


 どれほどの痛みに襲われるのか。


 僕と〈サトミ〉は、しばらく抱き合ったまま、涙を流していた。

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