第405話 母親の覚悟
船長が見かねて、〈マサィレ〉の肩を抱きに行った。
「おめぇは、なんにも悪くねぇ。俺も一緒に泣いてやらぁ」
〈マサィレ〉は、船長の胸に顔を埋めて、大声で泣いている。
船長も、負けないぐらいの大きな声で、おいおいと泣き出した。
おっさんどうしが、抱き合って泣きじゃくっているのは、どう見ても見苦しい。
ただ、〈リク〉の目からも涙が流れているし、僕の視界も歪(ゆが)んできた。
〈マサィレ〉の運命は、後八年、戦争奴隷から解放されなかった方が、良かったほど過酷だ。
少なくとも、後八年は絶望せずにいられたと思う。
船長は、〈マサィレ〉を抱きしめたまま、ゆっくりと歩き出した。
「糞食らえ」って、大きな声で怒鳴りながら、二人でよろけながら歩いている。
僕は船長に近づいて、金貨を一枚握らせた。僕に出来ることは、これぐらいしかない。
圧倒的に人生経験が、足りていないのを強く感じる。僕は何のために、ここにいるのだろう。
「おぉー、若領主から、軍資金をたんまり貰ったぜ。俺の行きつけの店に行こうなぁ。ちぃっと二十年前までぇは、ピチピチの女将(おかみ)がやってる店なんだぁ。いつも貸し切りみたいに空いてっから、まったりできるぜ」
〈マサィレ〉は、船長に支えて貰いながら、まだ大声で泣いている。
その声も、段々遠くになって行く。
でも奥さんは、小さくなっていく〈マサィレ〉を、ただじっと見ている。
何かに憑(と)りつかれたように全く動かない。
奥さんが自分で言ってたように、鬼なんだろうか。
〈マサィレ〉が見えなくなった時、奥さんが崩れた。
膝をつき、頭を地面に落として、身体を振るわせ泣いている。
嗚咽(おえつ)に混じって「許して、あなた。〈マト〉が病気になったの」と呻(うめ)くように声を出している。
〈マサィレ〉の元へ帰らないなら、言っちゃいけない言葉なんだろう。
〈マサィレ〉に、希望と未練を持たせてしまう。
傷つけ合う、泥沼の未来が、待っているのだろう。
〈マサィレ〉の元へ帰ったら、苦しい時に助けて貰った、今の夫を裏切ることになる。
お腹の子供のこともあるし、今の夫といることが、一番ましだという判断は理解出来る。
ただ、〈マサィレ〉には、何も非がない。
奥さんと子供を、一度に失くすような悪いことを何もしていない。
奥さんは子供のために、〈マサィレ〉を結果的に切り捨てたんだ。
奥さんは、〈マサィレ〉に対してだけ、鬼になったんだ。
合わせて、自分の気持ちに対しても、鬼になったのかも知れない。
〈リク〉が、崩れ落ちている奥さんに、近づいて行く。
「さあ、立ち上がってください。お腹の子にさわりますよ」
〈リク〉が手を引いて、奥さんを立ち上がらせた。
「ありがとうございます。みっともないところを、お見せしてすみません」
奥さんは、涙を手で拭って、膝と頭についた泥を払っている。
精神的に参(まい)ったのだろう。顔色がかなり悪いようだ。
「みっともないなんて、全くありません。母親の覚悟を見ただけです」
〈リク〉は、〈カリナ〉と〈リーツア〉さんが、頭に浮かんでいるのだろう。
僕も奥さんに近づいて、声をかけた。
「僕は、〈マサィレ〉を《ラング領》に連れて行きます。後のことは、心配しないでください。それと、これは〈マサィレ〉の真心です。どうか受け取ってやってください」
僕は、〈マサィレ〉の買った贈り物。奥さんへの櫛(くし)と、子供のへのお人形を手渡した。
少し泥がついているけど、〈マサィレ〉の真心は決して汚れてはいない。
「伯爵様、とてもじゃありませんが、受け取れません。あの人にあんな酷いことをした私が、受け取れるはずが無いじゃないですか」
「そう思う気持ちは分かります。でも、〈マサィレ〉の気持ちを受け取って欲しいのです。これが最後だからです。それに、奥さん。あなたにも受け取れる権利があると思いますよ」
「私にそんな権利はありません。先ほどの鬼のような、言葉を聞いていらしたでしょう」
「僕は思いました。奥さんの持っている〈マサィレ〉への愛が、少しでもあるなら、受け取る権利はありますよ」
僕は何を言っているんだ。バカみたいな言葉を吐いているぞ。
でも、これが〈マサィレ〉が言えなかった気持ちだと思うんだ。
「うぅ、伯爵様。あんまりです。こんなに残酷な状況なのに、愛なんて言わないでください」
「余計なことを言って、すみません。でも、〈マサィレ〉は《ラング領》で幸せになるんです。田舎ですけど、発展している最中で、魚も美味しいのですよ。だから、奥さんが自分を責める必要はない。離れていても、互いに幸せな人生を生きていけるはずです。それが子供にとって、一番良いことですよね。〈マサィレ〉もそれを思って、去って行ったのだと思います」
「そうですね。あの人は、〈マト〉をとても可愛がっていました。だから、あの人も、〈マト〉のことを一番に考えて、引きさがってくれたのです。私は立派に育てあげて見せます。それが、あの人への唯一の償(つぐない)いだと思っています」
奥さんは、櫛と人形を胸に抱いて、少し微笑んだ。
この奥さんは強いな。
子供のことになると、すごく前向きになるし、力が漲(みなぎ)ってくるみたいだ。
〈マサィレ〉も、今の夫も、悪く言えば二の次なんだろう。
子供が圧倒的に大切なんだろうな。
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