第382話 黒い泥の海
朝早く、粗末な宿舎の二段ベッドの上段から、僕は降りてきた。
上段は、くじ引きの結果だ。何をするにも、梯子(はしご)が邪魔くさい。
パサパサとした朝食を、水で喉へ流して、広場に整列をする。
水は、《アンモル山》からの伏流水らしい。
凍るほど冷たいけど、唸(うな)るほど美味しい水だ。水だけは、合格点だと思う。
「これから、徒歩で生息地へ向かう」
先生も、本当は嫌なんだろう。はき捨てるように指示を出している。
僕達はハッキリ嫌だ。無言でぞろぞろと歩みを進めた。
皆の顔は、絶望の色が濃い。まるで、鉱山に売られた犯罪奴隷のようだ。
冤罪(えんざい)だと、絶叫したい。
三十分ほど歩くと、泥臭い匂いが漂ってくる。少し生臭ささもある。
小高い丘を下ると、展望が一気に開けた。
《大泥ウサギ》の生息地は、本当に泥だった。いや違う、泥の海だ。
視界一面に、黒い泥の海が広がっている。どこまでも続く黒い泥が、僕の心を黒く沈めていく。
「はぁー」
一斉に皆から、生気のない溜息が漏れた。知らないうちに、僕の口からも零れている。
皆の気持ちが一つになったな。なっても仕方がないけど。
「生徒諸君、良く聞いてくれ。この泥の中では、必ず組単位で行動するように。泥に嵌(は)まったら、一人や二人では、抜け出せないぞ」
「はい。分かりました」
返事をする皆の声は暗い。泥の色と同じくらいだ。
「これから、君達は《深泥イモ》を採取するんだ。泥に気をつけるんだぞ」
「先生、質問です。《大泥ウサギ》を討伐しに来たのに、どうして《深泥イモ》を採取するんですか」
〈フラン〉が、また物おじしないで、質問をしている。一物が大きいせいだろう。
「《深泥イモ》は、君達のエサだ。それに、《大泥ウサギ》のエサでもある。エサを取られた《大泥ウサギ》が怒って、向こうからやって来るっていう寸法だ」
はぁー、魔獣とエサの取り合いをするのか。僕達も地に落ちたものだな。
いや、もう直ぐ泥に落ちるのか。
「先生、《深泥イモ》は美味しいのですか」
〈ソラ〉は、食べ物のことには積極的だな。
「栄養はすごくある」
これは、マズイってことで決まりだな。
僕達は裸足になって、長い槍を持たされた。靴を履いていたら、必ず泥に取られるらしい。
もし足の裏が傷ついたら、破傷風菌が入ってヤバイ気がする。
危機的な状況じゃないのか。少し感情的になって、先生に質問した。
「先生、この泥に入って、病気にはならないのですか」
「この泥は強い酸性のため、殺菌効果が高いんだ。《黒鷲》の長い歴史で、感染症になった生徒はいない。でも、感染症以外はいるぞ」
おいおい、感染症以外は、結構いるような口振りだよ。心配になるぞ。
長い槍は、《大泥ウサギ》を突くためでもあるが、横にして泥に沈むのを防ぐためでもあるらしい。
たとえ、泥が目や口に入っても、決して離すなと言われた。命の槍と言われているようだ。
泥に入ると、ニュルリとした感覚が伝わってくる。心底気持ちが悪い。
そして、あまりにも泥臭い。
足が太もも近くまで、沈んでしまう。一歩踏み出すのにも、相当な力が必要だ。
一m進んだだけで、荒い息になってしまう。
とてもじゃないが、《大泥ウサギ》を討伐出来るわけがない。
もう、泥でドロドロだ。跳ねた泥で、頭も顔も汚れている。
なるほど、これを落とすのに大量の石鹸がいるのか。
もっと、真面目に作っておけば良かったな。そんな後悔が、頭の全てを支配していく。
もうちょっと、メンタルにきているのかも知れないな。
「ギャー、助けてくれ」
〈ラト〉が、手をバタバタ振って、喚(わめ)いている。
泥に胸まで、はまっているようだ。ところどころに、深みがあるのだろう。
気を付けなくちゃいけないな。
「誰か、助けてくれ。このままじゃ、沈んじゃうよ」
仕方がない。そんなに離れていないから、見殺しにも出来ないな。
「〈ラト〉、慌てるな。バタバタしたら、僕に泥が飛んでくるんだ」
「そんなこと言うなよ。早く引き上げてくれよ」
僕はのろのろと近づいて、助けにきた〈ロラ〉と一緒に、〈ラト〉を引き抜こうとした。
でも重たい。少ししか引き抜けない。もう、嫌になった。
「〈ラト〉、命の槍はどうした。あれを横にして、お前も力を入れろよ」
「まさか、泥の中ですか。危険ですよ」
〈ロラ〉が、心配そうに自分の周りを見渡している。
僕も慌てて、周囲を観察した。槍の穂先を踏みつけたら、洒落(しゃれ)にならない。
「あれ、あれ、槍はどこへいったの」
「僕が知っているわけがないだろう」
「ここにあるよ」
「ぎぇー、殺す気か」
〈フラン〉が槍を投げて、僕と〈ラト〉の間に突き刺さった。
あと、三十cmずれていたら、僕の身体を貫いていたぞ。
昨日、風呂場で〈フラン〉を仲間外れにした仕返しなのか。
前から薄々感じていたけど、コイツの本性は怖いと思う。
〈ラト〉は、声も出せずに震えている。確実にチビッているだろう。
ますます、引き抜くのが嫌になるな。近づきたくないよ。
それでも、何とか頑張って、泥から引き抜いた。すごい重労働だと思う。
僕も〈ロラ〉も〈ラト〉も、肩で「ハア」「ハア」息をしている。
もう一歩も、動く気がしない。
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