第368話 ウロウロー
「んん、〈タロ〉様。唇は熱いのですが、身体が冷えてきましたわ。〈タロ〉様が、風邪を引いたら大変なので、部屋に戻りましょう。私はもう逃げたりしませんわ」
ん、〈アコ〉は今まで、何から逃げていたんだろう。
僕は動物園の白熊のように、ウロウロー、ウロウロー、と〈南国果物店〉の前を歩き回っている。
借りた馬車を待っているんだ。
「ご領主様、すみませんが。便秘の犬みたいに、思い詰めた顔で店の前を歩き回わらないでください。お客さんが逃げてしまいます」
〈リーツア〉さんが、眉間に皺(しわ)を寄せて僕に苦言を呈してくる。
それにしても、思い詰めた便秘の犬ってなんだよ。そんな犬を、僕は見たことないぞ。
僕は、熊って思ってたんだけど、犬なんだ。従順だと思われているんだな。
僕は自分で思っている以上に、怖さがないんだろう。
「分かったよ。奥で待っているよ」
「そうしてください。まだ、表で待つには、時間が早過ぎます。ずっとそうされたら、商売あがったりですよ」
こう言った後に、〈リーツア〉さんが、「〈リク〉より酷いわ。呆れると言うより、情けないって感じ」と小さい声で呟いていた。
自分でもそう思うけど、心配なんだよ。しょうがないじゃないか。
「地震だと思ったら、〈タロ〉様の貧乏揺すりなんだ。すごく豪快に揺すっているね。吃驚したよ」
「〈サトミ〉は、冗談も言えるんだ。落ち着いているな」
「あははっ、普通だよ。〈タロ〉様が気にし過ぎなんだよ」
〈サトミ〉は、僕を見て楽しそうに笑っている。
自分の人生の分岐点なのに、良く笑っていられるな。
それと、「硬くなった」事件で、部屋を飛び出したのに、もう今は笑っている。
引きずらないんだ。〈サトミ〉は、僕と違って、肝が太くて強いんだろう。
やっと来た馬車に、僕と〈サトミ〉は乗り込んだ。
今日は僕の精神状態を心配されて、馬は止めておけと皆に言われたんだ。
〈サトミ〉さえ、今日は馬車で行こうと言っていた。
どんだけ、僕は挙動不審だったのだろう。ウロウロー。ウロウロー。
「〈タロ〉様、そんなに緊張しないでよ。〈サトミ〉が、ついているから大丈夫だよ」
「そうだね。〈サトミ〉、ありがとう。はっ、逆だよ。〈サトミ〉が緊張して、僕がついているからって、言うんじゃないのか」
「でも、緊張しているのは、〈タロ〉様の方だよ」
「でもな。僕の立場は」
「へへっ、気にしないでよ。ほら、〈サトミ〉が手を握ってあげるから」
〈サトミ〉に手を握って貰って、少し安心出来た気がする。でも、これで良いのだろうか。
馬車は、《王国緑農学苑》の門の近くで止まった。
門は、この学苑の歴史を感じさせるように、びっしりと蔦(つた)に覆われている。
名前に「緑」がついているだけあって、緑の門柱が堂々と建っている。
今は人気薄だけど、農業は王国の基幹産業だ。この学苑には、長い歴史が刻まれているのだろう。
ただ、合格発表を見に来ている人は、多くない。
馬車で来る必要があるから、見に来る人も最小限なんだろう。
合格発表を待つ〈サトミ〉は、いたって平常心だと思う。
門や学苑の施設を、興味深そうに眺(なが)めている。
もう、入舎した後のことを考えているのだろうか。
それは早過ぎる気もするけど、堂々とはしているな。
僕は、合格発表されるのを、ジリジリと、とろ火で炙(あぶ)られるような気持ちで待っていた。
心臓に連続で負荷がかかって、健康に良くない感じだ。ハッキリと苦しい。
発表は、まだなのか。
相当長く待って、やっと合格発表の紙が張り出された。
でも、あれだけ待っていたのに、僕の足は動こうとはしない。
固く地面に張りついて、少しも離れないんだ。
コンクリートで、足首のより下を固められた感じだ。
このまま、海に投げ込まれたら、海底に沈んで溺れ死んでしまう状態だと思う。
鼻と口から、大量の水が入ってきて、僕の肺を埋めていく。息が苦しい。
おまけに、耳からも水が入って、僕の脳をチャプチャプにしてしまった。
身体全体から、脂汗が噴き出して、僕はその場で天を仰いだ。
「へへっ、〈タロ〉様。〈サトミ〉の番号があったよ。合格してたよ」
おっ、やったぞ。バンザイ。息が楽に出来るぞ。
僕は脇の下に手を差し入れて、〈サトミ〉を持ち上げた。
そして、クルクルと〈サトミ〉の脇を抱えたまま回し始める。
「きゃ、〈タロ〉様。止めてよ。恥ずかしいことしないで」
「〈サトミ〉、僕は嬉しいんだよ」
「でも。んんう、〈サトミ〉の脇に、手を入れちゃダメ。いゃん。くすぐったくて、変になっちゃうよ」
〈サトミ〉は、「きゃー」「きゃー」と騒いでいたけど、僕は構わず〈サトミ〉をぶん回した。
僕は長く苦しい責め苦から、解放されたんだ。〈サトミ〉と一緒に、歓喜の舞を踊りたいんだ。
「んん、〈タロ〉様、お願い。はぁん。〈サトミ〉の脇をもう触らないでよ」
〈サトミ〉を見ると、目尻に涙が溜まっている。
周りの人達も、僕らを変な目で見ている感じだ。歓喜の舞はこれ位にしておこう。
〈サトミ〉の学舎生活に、悪い影響を与えるのは本意ではない。
「〈サトミ〉、分かったよ。〈サトミ〉も嬉しくて、泣いているんだな」
地面に降ろした〈サトミ〉は、自分で自分を抱いて震えているようだ。
〈サトミ〉に、何があったのだろう。嬉しくて感動しているに違いない。
「もう、〈タロ〉様のバカ。〈サトミ〉が泣いているのは、〈タロ〉様が脇をずっと触っていたからだよ。変になっちゃたんだよ」
〈サトミ〉は、プンプンって感じで怒っている。怒っている〈サトミ〉も可愛いな。
「本当に、合格出来て良かった。頑張ったな、〈サトミ〉」
「うん」
〈サトミ〉は、また目尻に涙を溜めている。もう、脇は触ってないのに。
それから、合格者は大きな部屋に集められて、大まかな学苑の説明を受けた。
入舎式が、十日後にあるらしい。
いよいよ、〈サトミ〉の王都での生活が、本格的にスタートするんだ。
〈サトミ〉との王都の生活は、どうなるんだろう。
それは、絶対楽しいものになると思う。だって、〈サトミ〉は世界一可愛いんだ。
ならないはずがない。
ただ、三人の許嫁と王都で過ごすのか。
どう考えても忙しくなるし、とても駆り立てられるだろう。
僕の身体と自制心は持つのだろうか。すごく心配だな。たぶん、持たないだろう。自信がある。
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