第272話 お腹がギュルギュル

 〈クルス〉が、僕の方に向き直って、目を見詰めてきた。

 怖い気持ちを、抱きしめて消し去って欲しいのかも知れない。


 僕は、両手で〈クルス〉を抱き寄せて、唇を押し付けた。

 ただ、〈クルス〉の手は膝の上から動かない。

 軽いキスしかしないで欲しい、という気持ちの表れだと思う。

 旅は始まったばかりだから、〈クルス〉の意思を尊重しておこう。

 旅はこれからなんだ、無理は止めよう。もう一度軽いキスをして、それで今は終わりにた。


 「ふふ、〈タロ〉様に、優しくキスをされて、怖さが少し減りました。どうかお願いしますね。大好きな、〈タロ〉様」


 「僕も〈クルス〉が大好きだ。よろしくお願いするよ」


 「もう、よろしくなんて、言わないでくださいな。また怖くなりますよ」


 馬車が徐々にスピードを緩めて、止まった。外を覗くと、街道沿いの店の前で止まっている。

 ここで、遅い朝食というのか、早い昼食をとるようだ。


 「ご領主様。ここで、食事休憩をとります。お疲れになったでしょう」


 〈リク〉が馭者台からポンと飛び降りて、店へ案内してくれる。


 「〈リク〉の方こそ、疲れただろう。ご苦労様。僕達は、少し眠れたから問題ないよ」


 〈アコ〉と〈クルス〉も、〈リク〉に労いの言葉をかけている。

 ついでに、馭者にもかけておいた。旅はお互いの気遣いで、雰囲気が大きく変わるからな。

 言葉なんて安いものだ。


 皆それぞれ、「うーん」と強張った身体を伸ばしながら、店に入っていく。

 中途半端な時間だから、店は空いていた。

 メニューは、パンと肉の塊が入ったスープという簡単な定食みたいなものだ。

 運送業や旅人に、食事を提供するドライブインみたいな店なんだろう。

 店の周りには、刈り取りを終えた春まき小麦の畑が広がっている。

 牧歌的な風景だな。気持ちが、ほっと安心する景色だ。


 〈アコ〉と〈クルス〉には、定食の量が多すぎたようで、僕に残りを食べてと差し出してきた。

 僕のお腹は、パンパンで、はち切れそうだよ。


 食事休憩が終わって、また《アンサ》の港へ向かう。

 明るくなっているので、馬車の窓を開けて風景を見ることにした。

 刈り取られた畑や、緑の森と青い池が、街道の両脇に点在している。

 全体的には、人が少ない農村風景だ。町と町の間だから、こんな感じなんだろう。

 〈アコ〉と〈クルス〉も、窓の外を熱心に見ている。

 そんなに大した景色じゃないけど、初めて通る場所だからな。物珍しいんだろう。


 でも待てよ。〈アコ〉は初めてでは、ないんじゃないのか。


 「〈アコ〉、この道は前に通ったことあるよな」


 「はい。あります。でも、全く覚えていませんわ。ただ、〈タロ〉様のことを考えていました。辛かった記憶しかないのです」


 〈アコ〉は、今にも泣きそうな顔で、声を絞り出すように答えてきた。


 「〈アコ〉ちゃん。〈タロ〉様が、《ベン》島に向かわれた時ですか」


 「〈クルス〉ちゃん、そうなの」


 「そうですよね。辛かったです。私は自分の部屋で泣きました」


 戦争の前のことを思い出して、二人が抱き合って、シクシクと泣き出してしまった。

 えー、どうして。なぜなんだ。僕は生きて、目の前にいるだろう。


 僕も泣き出しそうになってきた。


 さっき食べた食事が、多すぎたんだ。

 〈アコ〉と〈クルス〉に、残飯処理をさせられたのがいけなかったんだ。


 猛烈に大がしたくなってきた。下痢だ。お腹がギュルギュルと苦しい。

 汗が噴き出して、下腹部が冷たくなってくる。

 固く握りしめた拳からは、ポトポトと汗が滴り落ちてきた。


 〈アコ〉と〈クルス〉が、悲しかった時の話を互いにして、慰め合っている声が遥かに遠い。

 僕は今、激烈な生理現象のため、隔絶された世界に閉じ込められているんだ。

 便を閉ざすため、他のことは、微塵も考えられないっていうことだ。


 馬車を止めて、野グソをするべきか、宿泊先の旅館まで我慢すべきか。

 究極の二択を迫られている。

 今馬車が走っている場所は、田園地帯なので、野グソのハードルは極めて低い。

 森に少し入れば、野グソはやり放題だろう。


 でも、それで良いのか。僕は伯爵だ。伯爵が野グソをして良いものなのか。

 〈アコ〉と〈クルス〉に、野グソを明るくしてきます、とも言いたくない。

 暗く言った方がまだましか。どちらにしても、二人に「えっ、野グソ」と思われるだろう。

 切羽詰まった頭で、考えても焦るだけで結論が出せない。


 考えている間も、便意は、引いては寄せる波の様に、僕の肛門括約筋を突き崩そうとしている。

 怖いことに、便意の波の間隔は、刻一刻とその間合いが詰まって、最早猶予がない。

 そうだよ。噴出の衝動が、もう連続して、絶え間なく襲ってきているんだ。


 僕の異変を察知したのか、〈アコ〉と〈クルス〉が、僕を心配してくれているようだ。

 盛んに僕へ話しかけてきている。でも、今は構っていられない。無理なんだ。

 今の僕には、返答を返す余裕が極少量もない。肛門に極大量のものが、押し寄せてきているんだ。


 〈アコ〉と〈クルス〉の胸を揉むか、スカートを捲れば、気がそっちへ行くかとも考えた。

 でも、そんな刺激では、この問題は解決しない気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る