第261話 簡単な答え

 しょうがない。〈クルス〉の直ぐ後ろで、階段を昇るしかないな。

 もしも、〈クルス〉が足を踏み外したら、自分のエゴを後悔するはめになる。

 自分のエロの方が、より正しいか。どっちにしても、後悔先きっぽ立たずだ。


 〈クルス〉の下着は諦めるしかない。何色なんだろう。見果てぬ夢だ。夢幻の彼方だ。

 がっかりだ。楽しみが、目前からするりと逃げてしまった。

 僕の目の前にあるのに、何がいけなかったのだろう。


 〈クルス〉の背中を見詰めながら、階段を昇って行くと、良い匂いがしてきた。

 花の髪飾りの匂いと、林檎のような〈クルス〉の匂いだ。

 見る対象がないと、視覚以外の感覚が鋭くなるんだな。

 僕は、〈クルス〉から出る匂いを胸一杯吸い込んだ。甘い匂いが、また僕の心を切なくする。


 「〈タロ〉様、やっぱり気分が優れないようですね。大丈夫ですか」


 階段を昇り切り、部屋に入る時に〈クルス〉が心配そうに聞いてきた。

 僕は今、期待が裏切られたので、非常に悲しい顔になっているんだろう。


 「大丈夫だ。身体はどこも悪くないよ」


 望みが打ち砕かれただけさ。


 「それなら良いのですけど」


 「心配ないよ」


 僕と〈クルス〉は、横に並んで絨毯に座った。もう部屋着に着かえている。


 「〈タロ〉様、対抗戦を拝見しました。怪我をされなくて、本当に良かったです。それに、団体戦も大将戦も勝利されて、とても誇らしいですよ」


 〈クルス〉は僕の手をとって、微笑みながら褒めてくれた。

 手をとってくれたのは、僕の様子が変なのを、心配してのことなんだろう。

 〈クルス〉の手は、細くてひんやりとしている。華奢な手だ。

 こんなに華奢なのに、僕を元気づけようとしてくれているんだな。


 「ありがとう。〈クルス〉に褒められて嬉しいよ」


 「それは褒めますよ。〈タロ〉様は、それだけの活躍をされたのです。周りの人も、「すごい」「格が違う」と言っていましたよ。私は嬉しくって、胸が熱くて大変でしたよ」


 「そんなに褒められると、何だかくすぐったいな。そう言えば「油断しないで」って、〈クルス〉の応援の声が聞こえたよ」


 「あっ、聞こえました。恥ずかしいです。知らないうちに、大声を出してしまいました。私、熱くなり過ぎですよね」


 「ははっ、すごく嬉しかったよ。〈クルス〉の声で、気が引き締まったんだ」


 「ふはぁ、〈タロ〉様、嬉しいのですが、もう言わないでください。私の声が会場に響いて、とても恥ずかしかったのですよ」


 〈クルス〉は、真っ赤になって照れている。そんなに恥ずかしいことなのかな。


 「〈クルス〉、顔が真っ赤になっているよ」


 「思い出すだけで、こうなるのです。仕方ないでしょう。それに、〈タロ〉様が、お守りをあんな風にするから、それが一番恥ずかしかったのです」


 「ちょっと服の上から、触っただけなんだけどな」


 「それがいけないのです。お友達に、散々聞かれて参りました。あれほど、秘密だと言ったのに、〈タロ〉様は」


 「あれでどうして、分かるんだろう」


 「女の子は、あれだけで分かってしまうのですよ。お守りを作ろうとして、渡せずにいる人が、大勢いるのだと思います。それで、ピーンとくるのですよ」


 「そうなんだ。皆も渡せば良いのに。男は誰でも喜ぶと思うけどな」


 「そうですけど、渡すのは、それは勇気がいるのですよ。私は〈タロ〉様の婚約者ですけど、それでも勇気が必要でした。婚約者でもない人に、乙女のお守りを渡せる人は、そうはいないと思います。婚約者でも渡していない人は、大勢いるんじゃないでしょうか」


 「へぇー、乙女のお守りは、特別なものなんだ。恋人に渡すものなの」


 「そうです。とても特別なものです。だから渡したんですよ。〈タロ〉様、どう思っていらしたのですか」


 〈クルス〉は、少し頬を赤らめて、僕の左手に両手を絡めてきた。

 僕は、髪の上から〈クルス〉の耳を両手で押さえた。

 〈クルス〉は、「あっ」って小さく息を吐いたけど、何も抵抗はしない。

 僕は、耳を押さえてまま、〈クルス〉の顔を上に向けた。


 「んう、〈タロ〉様。私は、お返事を頂いていません」


 〈クルス〉は、僕の目を真直ぐに見詰めて、問いただしてきた。

 甘い雰囲気にはなっているけど、何だか緊張感があるな。

 僕の返答次第で、一気に部屋の温度が、氷点下に低下する気がする。

 間違ったら、取り返しがつかない感じだ。寒々しくて身体中が縮こまってしまうと思う。


 「〈クルス〉は、婚約者で、恋人だよ」


 「あはぁ、私、幸せです」


 簡単な答えだったので良かった。これは間違いようがない。いつもこうだと、良いんだけどな。

 僕は、目を見ながら、〈クルス〉の唇にゆっくりと唇を近づけた。

 〈クルス〉は、「あぁ」と呻くように言って、目をゆっくりと閉じた。

 僕が唇を重ねた時、〈クルス〉のまつ毛は、満ち足りたように揺れた。

 〈クルス〉の唇を、僕の唇でゆっくりとなぞることを繰り返す。

 〈クルス〉の唇も、僕の唇をゆっくりなぞってくれた。何度も。


 唇が離れた時に、〈クルス〉が「はぁ」と溜息のような声を出したのは、〈クルス〉が安心した気持ちの表れだと思う。

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