第208話 {天智猫}は、かっこ悪いんだ
それに、今、持っているハンカチは、〈サトミ〉に貰ったものだ。
乗船前に、〈サトミ〉が手渡してくれたものだ。
僕のために、頑張って刺繍をしてくれたものだ。
僕の贈り物のお返しに、自分も何か贈りたいと思ってくれたものだ。
「〈タロ〉様。綺麗に刺繍が出来なかったけど、このハンカチを貰ってください。後で、ポイって捨てても良いけど、使ってくれたら嬉しいな」
「はぁっ、〈サトミ〉が刺繍してくれたハンカチを、捨てるはずがないだろうが。〈サトミ〉は、僕のことを馬鹿にしているのか」
「うぅ、馬鹿になんかしてないよ。〈タロ〉様、〈サトミ〉をそんなに怒らないでよ。上手に出来なかったから、自信がないの」
「何言ってるんだ。〈サトミ〉が、くれたこのハンカチは、僕の宝物だよ。一生大切に使うよ。〈サトミ〉、ありがとう」
「あはっ、〈タロ〉様、宝物は大げさ過ぎるよ。下手な刺繍をしただけだよ。それに、ハンカチは一生も使えないよ」
「そうだな。確かに、毎日使ったら一生は持たないな」
「ふぁ、〈タロ〉様。毎日、〈サトミ〉のハンカチを使ってくれるの」
「そうだよ。使うたびに、〈サトミ〉の可愛い顔が、思い出せるだろう」
「ぐすっ、〈タロ〉様……」
〈サトミ〉は、涙を隠すように、僕の胸へ顔を埋めてきたけど、キスは出来なかった。
周りに大勢人がいたんだ。
皆、笑って見てたけど、〈入り江の姉御〉他数名は笑ってなかった。
笑うより、感動したのかな。
船が、ゆっくり出航する時、僕は思いついてハンカチを大きく振りまわした。
〈サトミ〉は、それを見て泣き崩れてしまったようだ。
ただでさえ低い身長なのに、人垣に隠れて見えなくなってしまった。
〈サトミ〉は、僕達が離れていくのを、見続けることが出来なかったんだ。
少し心配だけど、〈ハヅ〉が横にいるので問題ないだろう。
〈サトミ〉のハンカチの刺繍は、「天智猫」の絵柄らしい。
ただ、実物の中年猫と違って、雄々しいライオンにように描かれている。
今度帰った時に、これだけは〈サトミ〉に注意しなければならない。
物事には限度があるんだ。あまりにも、違い過ぎる。
{天智猫}は、かっこ悪いんだ。
船出して、一晩寝たら、案の定言い出しやがった。
〈リク〉が、「午前中は、鍛錬をしましょう」と言い出しやがった。
〈サヤ〉も、そうだそうだと言いやがる。
何だろう、こいつらは。理解が及ばないよ。
嫌だと言っても、粘り強く説得してくるから、嫌になる。
心からの善意で言ってくるから、本当に始末に負えない。
「地獄への道は善意で舗装されている」を地でいっている。困る。
今日から、王都までの船旅は、地獄の鍛錬か。辛い。
〈アコ〉と〈クルス〉も、午前中は護身術の練習となった。
〈サヤ〉に言われて、ただ頷くしか出来なかったらしい。
断れば、学舎生活が、苦しいものになるんだろう。
学舎生活の方が、比較にならないほど長いからな。
婚約者の僕が鍛錬するのに、あなた達は遊んで過ごすのですか、と言われたらしい。
僕に涙目で、「〈タロ〉様、どうにかして」って泣きついてきた。
「知らないよ。自分達で考えろよ。自分の生き死にで、精一杯だ。僕も被害者なんだ」
僕が冷たく言い放つと、二人とも、光のない死んだ目になっていた。
言い過ぎたかも知れないが、僕にも心の余裕がなかったんだ。
許嫁達も、同じように辛い練習をするなら、僕も乗り越えられると思ったんだよ。
それでも、二人は必死に考えたらしく。
〈アコ〉の母親と、〈リーツア〉さん、〈カリナ〉を引き込むことに成功したようだ。
二人より、五人の方が楽になるという、賢い考えだ。
「自分達だけ、楽をしようとして狡いぞ」
「〈タロ〉様は、私達を冷たくあしらったのに、良く言いますね」とニタリと笑って言いやがった。すごく嬉しそうだった。
許嫁達が、僕に向かって、こんな笑い方をするとは。すごいショックだ。
僕は、何も悪くないのに。
しかし、三人とも、よく護身術の練習をする気になったな。不思議だ。
〈アコ〉の母親と、〈リーツア〉さんは、暇なので乗ってきたみたいだ。
二人とも勘違いして、娘時代に戻っているのもあると思う。
無理して、膝や腰を悪くしないと良いけど。
〈カリナ〉が、乗ってきたのは、良く分からない。
〈リク〉と〈サナ〉が、仲良く鍛錬しているのが、気に食わないんだろう。
少しでも、邪魔してやれっていうことかな。
ただ、〈アコ〉と〈クルス〉の策略も、穴があるのが分かった。
〈リーツア〉さんと〈カリナ〉は、食事の準備で、直ぐに練習を抜けてしまう。
食事が出来なかったら困るので、これは仕方がない。
〈アコ〉の母親は、食事の準備はしないが、疲れたと言って練習を直ぐにさぼる。
若くないので、無理強いは出来ない。
結局、半分以上の時間、〈アコ〉と〈クルス〉だけで、練習をすることになってしまっている。
そしてそこに、鬼教官の〈サヤ〉が来て、厳しい指導を行うようだ。
二人とも、鬼畜の練習だと言っている。「藍色の女豹」だからな。
野生の女だから、しょうがない。
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