第194話 月光

 夜の屋上は、風が吹き抜けて、夏だけど少し肌寒い。

 月齢がもう直ぐ満ちるため、辺りは薄っすら見えている。

 下に視線を移せば、夜の町は、まだ眠りについてはいない。


 月光が、町の輪郭が変わりゆく様を、ぼんやりと照らしてくれている。

 町の人々に暮らしがあって、日々の、楽しいことも、苦しいことも、全ての思いを月光が、ただ照らし続けているのだと思う。


 僕が営む、日々の暮らしも、許嫁達との触れ合いも、月光は照らし続けている。

 僕が今思っていることも、ただ月光は照らし続けているだけで、そこには何の意味もないのだろう。


 〈アコ〉が来るのを、暗い中で待っていたら、センチメンタルな気分になってきた。

 目で合図を送っただけだから、意図が分からず、ここへ来るとは限らない。

 意図が分かっていても、面倒だと思われ、来ない可能性もある。


 自分で思っている以上に、心の奥では不安を感じているのだろう。

 〈アコ〉に、無視される恐怖を、感じているのかも知れない。


 周囲の暗さに同調したような、薄黒い後ろ向きの考えが、ぐるぐる頭の中で回り続けている。


 「〈タロ〉様、こんばんは」


 月光の中で、白く浮き上がる〈アコ〉の顔が、僕の顔を覗き込んだ。


 「あっ、〈アコ〉。こんばんは。良く来てくれた。逢えて嬉しいよ」


 僕は、考え事をしてたせいで、突然現れた〈アコ〉の顔に少し驚いた。

 〈アコ〉が来てくれて、嬉しい気持ちは当然あるが、それ以上に安堵感が大きい。

 僕は、〈アコ〉に無視されなかった。


 「ごめんなさい。お待たせしちゃいました」


 〈アコ〉の表情は、良く見えないけど、少し気がかりそうに聞いてきた。


 「ううん、そんなに待ってないから、気にしないで」


 「それなら、良かったですわ。ぐるぐると回っておられたので、怒られているのかと心配になりました」


 頭の中がぐるぐる回っていたら、身体もぐるぐる回っていたようだ。

 ひょっとして、僕は、ちょっぴりヤバイ奴かも知れないな。


 「少し考え事をしてたんだ。動いている方が、良い考えが浮かぶと思ったんだ」


 「そうなのですか。何を考えておられたのですか」


 「えーと。それは、もちろん、〈アコ〉のことだよ」


 「まあ、私のことですか。どのようなことを、考えておられたのですか」


 「えーと。それはだな、 …… 」


 「何ですか。言いにくいことなのですか」


 「そんなことはないよ。あれ、あれだよ。〈アコ〉に逢ったら、何を話そうかと考えていたんだ」


 「ふぅー、〈タロ〉様。間違っていたら申し訳ないのですが、〈タロ〉様が考えていたことは、そうではないと思いますわ。私は、例え良くないことであっても、本当のことが聞きたいです」


 「うっ、嘘というわけじゃないんだ。実は、〈アコ〉が、ここに来なかったら、どうしようと考えていたんだ」


 「はぁー、呆れましたわ。そんなことを、考えていらしたのですか。私が〈タロ〉様に、逢いに来ない、選択肢なんかありません」


 「うーん、そう言わないでくれ。目で合図しただけだから、ちゃんと伝わっているか、心配だったんだよ」


 「うふ、〈タロ〉様の合図、可愛らしかったですよ。でも、ちゃんと伝わりましたわ」


 「はっ、可愛かったって、よく言うよ。笑って、噴き出していたんじゃないか」


 「うふふ、だって、〈タロ〉様が、必死に片眼をつぶろうとされている、お顔を見たら我慢できませんわ。小さな男の子が、頑張って、大人の真似をしているみたいなんですもの」


 「ふっ、どうせ僕は子供みたいだよ。〈アコ〉は、大人なんだね」


 「ふふっ、〈タロ〉様、すねないでください。〈タロ〉様は、もう立派な大人ですわ。功績を沢山あげられているじゃありませんか。私はもちろん、〈タロ〉様がご立派なことは、皆知っていますわ」


 〈アコ〉が、そう言うのなら、大人がすることをさせて貰おう。

 僕は、〈アコ〉の背中に手を回して、強引に〈アコ〉を引き寄せた。

 強引に引いたから、〈アコ〉はバランスを崩して、僕にしがみつく格好になる。


 「きゃっ、〈タロ〉様。怒ってますの」


 「少し怒っているけど、〈アコ〉を抱きしめたら、機嫌は直ぐに直ると思う」


 「うふ、それでは、今直ぐに、私を抱きしめてくださいな。私は、そのために来たのですよ」


 僕が、両手に力を込めると、〈アコ〉もしっかりと、僕を抱きしめてきた。

 〈アコ〉のおっぱいが、僕の胸に当たって、その大きさを驚くほど主張してくる。

 暗くてあまり見えないせいなのか、いつもより、倍大きくて、そして柔らかい。

 〈アコ〉の髪からは、清々しい石鹸の匂いが漂ってきた。香草を練り込んでいる石鹸か。

 顔を〈アコ〉の髪に、そっとつけると、髪が僕の頬を濡らした。


 「〈アコ〉、お風呂に入ってきたの」


 「そうですわ。〈タロ〉様に、逢うんですもの、それは入りますわ。夕食を早く済ませて、急いで洗ってきました」


 「そうか。それで、少し遅くなったんだね」


 「そうなんです。だから、遅くなったのは、許してくださいね」


 「嫌だな。キスしてくれないと、許してあげないよ」

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