十話


「ノン! 」


 自分の声が場内に響くのを聞いた。ノータだ。彼女は勢いよく椅子から飛び降りると、アンブロシウスの方へ歩いてきた。コツコツ、と彼女のブーツの音だけが響く。


 彼はただ三角座りをして俯いていた。


『もう辛いんだ。ほっといてくれ』

『そうか……』

『君が僕を騙したからこんなことになってるんだぞ』

 彼は意志のこもっていない左腕を乱雑に振った。

『そうだな……』

『悪魔! クソ女! あっちへいけ! 僕はあの時、本気でやり直せると思ったんだ。リセットしたかったんだよ、人生を』

『そうか、お前……本当は期待してるんだな、世界に。でも傷つくのが怖い、失敗して無能が晒されるのが怖いんだろ』


 ノータの唇が悪戯っぽく弧を描く。アンブロシウスは腕で目頭をこすった後、ノータを見上げた。彼の目の周りはほんのりと赤く腫れている。


『ハッ! それを踏まえても尚、どうでもいいな! 』

『うるさい! 放っておけって言ってるだろ! これは僕の体だ。心も僕のものだ。さっさと出ていけ! 』


 するとノータは小首を傾げて、疑問そうに言った。


『は? なんでオレがお前の言うことを聞かなきゃいけないんだ? 』

『え――』

『第一に、オレはお前が好きじゃない』

 彼女はフンと鼻を鳴らす。

『根暗で、陰気臭くて、問題に向き合う勇気もないくせに、かといって死ぬ勇気もない。どうしてそんなに暗いんだ なぜ世界をすぐ切り捨てようとする? 大体、なんで他人の視線を恐れているんだ?』


 ノータが辛気臭そうに頭を左右に振る。その度に白髪が光を反射して眩しい。


『いや、答えなくていい。知りたくもない。第二に、オレはお前の子分でも部下でもない。お前のことなんてどうでもいい! オレの人生を生きるのに必死だからな。一秒だってお前のために割いてやるもんか』


 ノータは腰に手を当て、堂々と言い張る。その夜空すら射抜かんばかりの鋭い双眸の奥に、迷いは一切無かった。


『生きるのが辛い? 人生が苦しい? んなことは知らねえ。死にたいか。なら勝手に死ねばいい』


 その端正で柔らかい唇から熱い空気の塊を吐き出すと、ノータは瞼を閉じ深呼吸をした。そしてカッと見開くと、その瞳には意志のほむらがギラついていた。


『だがオレは生きたい、新世界を満喫したい! だからお前が百回死のうとしても、オレは百回とも生き延びてやる。生きて生きて、生き抜いてやる! 選んだ星と相手が悪かったな。せいぜいオレに振り回されろ』

『いや、そもそも選んで来たわけじゃ――』

『うるせぇ、ごちゃごちゃ言うな! 』


 走った後みたいに、ノータの胸は上下していた。そうして呼吸を整えると、アンブロシウスを見下し、乾いた唇を引き結ぶ。


『お前が死にたいと思おうが、思うまいがどうでもいいが、絶対に死なせない。だってまだ回路同期してないし! 』

『は――?』

『よく聞け、オレは心の底から嫌なことが三つある! 一つは王族。次に弱い物いじめ。最後に空腹だ。召喚魔法を使った夜から一度も星気を供給できてない! さっさとこの状況から抜け出して、大人しくオレに抱かれろ! 』

『えぇ……』


 唇を真一文字に結んで、いたって真面目な様子のノータを見ながら、アンブロシウスはややあっけに取られた口元を徐々に開いていくと、諦めたようにフッ、と笑った。


『お前、ずっとそのために行動してたのか? 』

『そうだけど……何か? 』

『もういいよ、好きにすればいい。今まで深刻に悩んでた僕がバカみたいじゃないか』


 アンブロシウスは口端に自嘲をのせた。

 

  ◇


 ノータは凍り付いたように固まったアンブロシウスの唇から、力強く空気の塊を吸い込んだ。手すりを掴み、足では床を掴み勢いよく立ち上る。


 驚きを隠せず、片眉を上げている老人に向かってノータは恭しく話をはじめた。


「ごきげんよう。セナートゥスの御仁」


 セナートゥス。これが老人の名前だと、各魔術師がローブにつけている文字盤からノータは判断する。


「私から提案があるのですが、宜しいでしょうか? 」


 ノータは礼儀正しく膝をつき、右脇で両手を組んだ。その儀礼に満足したのか、セナートゥスは発言を許可する。


「学園から出ない、そちら側の計画に私を使ってもよい。という条件の下、猶予を頂けないでしょうか? 学園生活の中で、少しでも脅威とそちらが判断すれば殺してくださって構わない。つまり、あなた達の監視を甘んじて受け入れるということです」


 アンブロシウス……ノータの玲瓏とした声が響く。



 セナートゥスは思案顔で顎をさすりながら言う。


「計画のう……。お前がどこでそのことを知ったのか詮索はしないが」


 そこまで言いかけて老人の薄い瞼が震えはじめ、頬が強張った。握っている封筒がクシャリと音を立てる。


「ワシはあの計画が憎い。初孫を奪ったあの計画が。学長は一体何を考えておるやら……」


 どうやら地雷を踏んだようだ。


「駄目だ。認められん。判決も公文書も取り消しはできん。それにお前は怪しすぎる。たとえ魔法を使えるとしても、お前からの協力はいらん。貴様のような浮浪者に頼るほどこの学園も落ちぶれてはいない。よって判決は変わらぬ。無駄だ。」


「そうですか。残念です……」


 アンブロシウスの威勢が萎み、椅子に座るかと思いきや突然、不気味な笑みを見せながら上品にお辞儀をした。


「であれば、ここで全員殺してみせましょう」

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