雨のち晴れ。―青空の下、君と―
携帯のアラームで意識が浮かび上がる。徐に瞼を押し上げれば、カーテンの隙間から一筋の太陽光が漏れているのが解った。それは目覚めたばかりの眼を刺激し、ぼやけた視界には痛い。輝く太陽は、今日も替わらずに存在を示しているらしい。
「朝、か……」
起き上がりつつ携帯を手に取りアラームを止めて躯を伸ばす。次いでベッドから出てカーテンを開け、階下に行く為に部屋を後にした。
洗面所に足を踏み入れ顔を洗う。冷たい水が肌を冷やし感覚を鋭くさせる。
「にやけてる」
鏡に映る自身の顔はにやけ顔。会えると思うと嬉しさが抑えられない。
掛けてある無地のタオルで顔を拭いて、ポケットへと押し込んだ携帯を取り出した。サブディスプレイに映された時刻は午前八時五十三分。このままいけば間に合うだろう。
「うん。大丈夫だ」
呟きに小さく頷き、洗面所を出てリビングへと入る。
「おはよう、ミノリ」
「おはようございます」
「寝癖、酷いな」
「うわっ!? っな、……お父さん」
後ろから髪を弄られ躯が竦くんでしまう。驚きに振り返れば、父親が立っていた。
「おはよう」
「お……はよう、ございます」
「ハルカくんは何時来るんだ?」
「九時五十分ぐらい、かな」
「そうか。俺達は十一時頃に帰ってこればいいんだよな?」
「うん。それまでは絶対に帰ってこないで」
当たり前だが友紀から話が伝わっているらしい。だが、もう一度釘をさす。帰ってこられては台無しだ。
「はいはい」
孝斗は小さく肩を竦めながら笑みを溢した。
「きっ、着替えてくるっ」
急に恥ずかしくなり、踵を返してリビングを出て、彼は早足に自室へと戻る。クロゼットを開けて服一式を取り出し、さっさと着替えてしまおうとパジャマを脱ぎ捨てる。
姿見に映る自分の今の姿には違和感などない。痛々しくあるが。それでも。
「――これも含めてオレだ」
全部を好きだと言われたから。なら、この躯も含めて自分を好きになろう。
何時も通りに着替えてから、脱いだパジャマは畳んで隅に置く。そうして端に腰を掛けて手櫛で髪を弄る。
「直った……よな?」
じっと姿見を眺めるが、髪は跳ねてはいない。後ろは解らないが、触った限りでは大丈夫だろう。
「よし」
立ち上がりクロゼットを閉めて、もう一度部屋を出て階下のリビングへと赴く。
「あ、ミノリ、俺達出掛けるからな。ハルカくんの家に行くなら、なにか軽く食べろよ」
「うん」
孝斗はくしゃくしゃと頭を撫でて、友紀はその様子ににっこりと笑う。そうして二人は揃ってリビングを後にした。
後に残った彼は再び髪を直して、炊飯器の隣に置かれたカゴの中に入れられた食パンを取り出した。それをダイニングテーブルに置き、袋からパンを一枚取り出す。
イスに座りなにも付けないそれをもそもそと食べながらあることを思い付いた。迎えにいこう、と。
思い立ったが吉日だ。パンを食べ終わればすぐに行動に移す。片付けて歯を磨き、必要な物を無地のトートバッグに入れて家を出た。
走り始めて数分でハルカの家へと着く。この距離でよかったと思う。もう少し遠かったら確実にばてているだろうから。速い鼓動を落ち着かせる為に肩で息をしつつ、インターホンへと腕を伸ばす。ピンポーンと鳴り響く音の後、すぐに声が響いた。
『――はい、どちら様でしょうか?』
「ハ……ルカ」
『待ってて、いま開けるから』
声で気付いたらしいハルカはそのまま親機の通話を切ってすぐに玄関へと赴く。そうして門に駆け寄り、石段を降りてミノリの前に立った。
「どうしたんだ?」
「ん、会いたかった、から……、来ちゃった」
「そっか。俺も会いたかったよ。お早う、ミノリ」
肩で息をしている彼の頭を撫でて小さく笑う。
「走ってきたんだな」
「う、ん……。ちょっと疲れた」
はぁ、と一際大きく息を吐き出して笑みを溢す。
「おいで。時間まで休んだらいい」
「ん、ありがとう」
腕を引いて家の中に招き入れれば、リビングへと通した。ソファーに腰を下ろしたミノリを一瞥し、ハルカはキッチンへと向かう。並べられたコップを二つ取って冷蔵庫へと向かい、中から緑茶のペットボトルを取り出した。
「着替えてくるから、飲んでて」
ガラステーブルの上にそれらを置いて彼はリビングを後に自室へと戻っていく。着替えてくるからと言う言葉で察するに寝間着だったその格好は、ラフなそれだ。着替えが必要なのかと思うが、寝間着なら着替えるだろう。
リビングに一人残されたミノリはコップに緑茶を注ぎ、ちびちびと口へと運ぶ。見渡すリビングには自分以外誰もいない。
「……おばさん、いないよな?」
休みなら何時も傍らにいるのに。
「お待たせ」
着替え終わったハルカがトートバッグ片手にリビングへと戻ってきた。隣に腰を下ろす彼に問えば、コップに緑茶を注いで一口飲んだ後に口を開く。
「用事があるからって出掛けたよ。時間までには帰ってくるってさ」
「そっか」
だからいないのか。その理由が解り返事をすれば、空いている手でそれを握った。
「ミノリ?」
「繋ぎたかった、から……」
恥ずかしそうに返される言葉に、ハルカは髪を撫でて返した。
「俺達が初めて会った時のこと、ミノリは覚えてる?」
「うん。覚えてるよ」
それは保育園年長組の時になる。年中組から一年経った五歳の頃だ。クラス替えで、二人は同じクラスになった。ハルカにとっては父親に悪態をつかれた後で、ミノリにとってはまだ母親から暴力をふるわれていなかった時。
恐る恐る声を掛けたのはミノリからで、ハルカは恐る恐る応えた。
「今と逆だった。ハルカの方が怯えてたな」
「そりゃ、悪態つかれてすぐだったし。精神面に大分ダメージ食らってたからなぁ」
「でも、笑ってくれた」
応えた後に小さく笑った。そうして、手を伸ばして頭を撫でたのだ。小さい、と呟いて。吃驚したが、嫌だとは思えなかった。その手が優しく触れ、その笑顔が綺麗だったから。
「ミノリが笑ってたから、自然と笑えたんだろ」
「他人事みたいに言うなよな」
コップを置いたその手を、彼の頬をつねる為に上げた。しかし、ハルカはやんわりと手を止める。
「おっと。他人事なんて思ってません。俺の大事な思い出だよ」
掴む手を離し、その手で彼の頬に触れた。
「全部。辛いことも楽しいことも、その全てが思い出になった」
「そっか。なら、怒れないな」
それでも、本気で怒る気はさらさらない。ただ、他人事っぽい言い方が嫌だっただけなのだ。
「嘘、元から怒る気はないよな」
「笑うなよ」
端からバレているのは解っているけど。頬をふにっと軽くつねれば、彼はまた頭を撫でてきた。
「そろそろ、行くか?」
頬に触れる手を離して問えば、首を振る。
「もう少し、待って」
ぎゅっと握る手に力を込め、目を閉じた。そうして躯を傾けて、肩に寄り添う。
「ミノリ?」
「キラキラしてたんだ。笑顔が綺麗だった。いまも目を閉じれば瞼の裏に浮かぶ」
「――そう」
まだ彼の記憶には鮮明に残っているらしい。どう笑えたのかは解らないが、それはとても嬉しい部類に入る。
「行こうか、買い物」
目を開けて見上げれば、ハルカは肩を震わせていた。
「あぁ……」
「なに笑ってんだよ?」
「ん、可愛くて」
もう一度くしゃりと頭に触れて、ハルカは立ち上がった。ペットボトルを手に取り冷蔵庫へと進む。そこに緑茶のペットボトルを戻して踵を返した。
「それじゃあ、行くか」
「コップはいいの?」
「あとで洗えばいいし。お茶は出しっぱなしだとヤバイだろ」
「そうだな」
この夏に出しっぱなしは確かに大変なことになりそうだ。軽く頷いて立ち上がり、二人はトートバッグを提げながら山並家を出た。
◇◆◇◆◇◆
スーパーまでの道程は暑かったが、そこに入ってしまえば涼風天国である。買い物カゴを乗せたショッピングカートを押しながら、カレーを作るのに必要な材料をカゴに入れていく。
「にんじんと、玉ねぎと、じゃがいもと……」
脇にカートを止めて、カゴに入っている食材を確認していれば、前方からハルカが歩み寄ってきた。その手にはカレールーがあり、そのパッケージには中辛と書かれていた。辛さは五段階の中で三を表している。
「中辛で大丈夫か?」
「うん。あとは肉だけか」
カゴに入れられた食材の中で、ないものは肉のみ。ショッピングカートを押して精肉コーナーへと歩を進める。タイヤが床を擦って、カラカラと音を出す。開店して数分の今の時間はそんなに人がいないので、それは大きく聞こえる。
精肉コーナーまで行けば、並べられた肉を眺めて隣の彼を見遣った。
「ハルカの家はなに入れてる?」
「んー、豚肉もあれば鶏肉もあるし、牛肉の場合もあるな。その時の気分の違いだと思うけど」
「うちは豚肉だけど、豚肉でいいかな?」
お手頃な豚肉を手に取りカゴへと入れたが、そこではたと気付いた。
「部長と黒崎さんはアレルギーとかないよな?」
二人は五分前には行くから、と昨夜ハルカからメールが来たが、アレルギー云々については知らない。今まで病気の類いの話しなど、一切していないから。
「不安なら聞いてみるか?」
彼はトートバッグの口を開き、中から携帯を取り出した。
「俺は黒崎に聞くから、ミノリは部長に聞いてみて」
「解った」
小さく頷いて、同じように携帯を取り出す。それを開いてすぐに電話を掛けた。
『はいはい。どうしたの、木下くん』
決まり文句の『もしもし』ではなく、『はいはい』ときたが、その声はどこか上機嫌だ。
「部長はアレルギーとかある?」
『アレルギー? 私はないよ』
「ないならいいんだ。ありがとう、切るね」
『うん。じゃあ、後で』
ミノリは通話を切り、携帯をトートバッグの中に戻して、ハルカを見遣った。一方のハルカは通話が終わるのを待っていたらしく、今から彼女に電話を掛けるらしい。ぎゅっと手を繋ぎながら。
「――あ、黒崎?」
『うん。どうしたの?』
コール音の後に、少し不思議そうな声が響く。
「アレルギーとかある?」
『ないけど……? あ、もしかして木下が長袖なのはアレルギーだから?』
「んー、まぁ、うん。ちょっと違うけど」
『違うって、え? なに?』
「いや、ごめん。ないならいい。また後でな」
呟きの返事に答えることはなく、彼は慌てて電話を切った。そうして、余計なことを言ってしまった、と小さく頬を掻く。
「ミノリ、ごめん」
「なにが?」
軽く首を傾げた彼に小さく笑って答える。
「黒崎に長袖なのはアレルギーかって聞かれたから適当に応えたんだけど、『ちょっと違うけど』って呟き聞こえたみたいだ」
「ハルカが知ってるからいいよ。それより、黒崎さんはアレルギーある? 部長はないってさ」
「黒崎もないって言ってた」
その言葉と共に、ハルカは繋ぐ手を引いた。
「帰ろうか」
食材は全てカゴの中に入っている。後は会計をすればいい。
「うん」
カートを押しながらレジへと進み、会計を済ませてからスーパーを出る。買ったものは各々のトートバッグへと入れて。
「うわ、空気温い」
「そりゃ、夏だからな」
涼しい場所の冷気と蒸し暑い夏の外気とでは、天と地ほどの差があった。天国から一瞬にして地獄へと落とされた感じだろう。
「それは解るけどさ……」
もう少しどうにかならないか、とそう口を尖らせるミノリの腕を再度引いて歩き始めた。緩い歩幅に合わせて影が伸びる。
「――そんな顔するなよ。家の中は涼しいだろ?」
「そうだな」
言う通りに、外が暑い分涼しい家の中は極楽に変わるのだ。これは夏にしか味わえないことだろう。
「なぁ、ハルカは夏好き?」
「んー、そうだな。春も夏も秋も冬も好きだよ」
「そっか」
目を細めるミノリに対し、ハルカは一言付け足した。
「でも、夏のが少し上かな」
「え、なんで?」
「それは秘密」
小首を傾げる彼に、微笑みを返す。
四季の中で順位をつけるとするならば、夏が一番になる。他の季節は考えても順不同であるが。理由は至極簡単であり、明快だ。確率が高いのだ。雨が降った後の――確率が。幾つもの気象条件が重なる奇跡。――きっと、考えを覆してくれるだろう。
「面白いことあった?」
「ん?」
掛けられた声に視線を遣れば、彼は小さく笑みを溢した。
「笑ってるよ。それとも、思い出し笑い?」
「まぁ、そんなとこだな」
くしゃくしゃと髪を撫でながら言い放てば、乱れた髪を直しつつ彼は空を見上げた。
「オレも、好き。春も夏も秋も冬も――全部」
「あぁ」
もう一度頭を撫でれば緩やかな風が吹く。生暖かいそれは髪を靡かせて空気に溶け込んだ。
「夏だな――うん、夏だ」
再度空を見上げる彼が漏らした言葉に目を瞬かせる。まさかそんな言葉を漏らすとは思わない。
「夏、だよ?」
「しみじみ思っただけだからっ。そんなに見るな、よ……」
恥ずかしげに視線を逸らすミノリは片手で口を覆い隠す。
「ん、ごめん」
「謝らなくていいし」
謝罪に首を横に振れば、ハルカは再び目を瞬かせた。
「ミノリの口から『謝るな』なんて初めて聞いたかも」
「えぇ? そんなことないだろ」
いやいやと空いた片手を振れば、「そうか?」と返ってくる。
「そうだよ」
「そっか、解った」
頷いたハルカはぎゅっと手を握りしめた。そうして走り出す。
「えっ、ちょ、ハルカっ!?」
後を追うしかないミノリはぽかんと口を開け、それでも転ばないようにと一生懸命走る。数メートル先に見える自宅へと。
「――着いた」
「ん……、そう、だな……」
息を吐きながら頷けば、ハルカは握る手を離した。同じように肩を揺らす彼は口角を上げる。
「夏、満喫したくて、さ……」
「走ったら、暑い、よ?」
「家に入れば、涼しいだろ?」
その言葉でそういうことだと納得した。
「待って、鍵開けるから」
ポケットの奥に仕舞われた鍵を取り出しながら、何時ものように石階段を上がる。門扉を開けて玄関へと進み、鍵穴へとそれを差し込んだ。鍵を回して玄関を開け、外で待っている彼に手を招いて呼ぶ。
呼ばれたハルカは何時ものようにそこに足を踏み入れた。石畳を踏む度に砂利が高い音をあげる。玄関に歩み寄れば、ミノリはさっさと中へと入ってしまった。「クーラーつけてくるから」と残して。それでもすぐに玄関に入ったが。
廊下を小走りに進むミノリの背中を見据えてスニーカーを脱いだ。急いだ為に転がる彼のスニーカーを直してから後を追う。
「涼しい」
ドアが開けられたリビングに足を踏み入れれば、クーラーから流れる風が当たる。
「先行ってごめんな」
リモコンをテーブルに置いたミノリはハルカに駆け寄り、片手で彼の腕を引きながら片手でドアを閉めた。
「気にしてないから、いいよ」
まだ少し息が荒いミノリの髪を撫で自身も息を整える。二人はずるずるとその場に座り込み、大きく息を吐き出した。
「やっぱ走ると体力使うな」
「うん……、ちょっと疲れた」
浮かぶ汗を拭えば、自然と笑い声が漏れる。少しの間そうしていれば躯の火照りも冷め、心拍数も落ち着いてきた。クーラーの冷風がそうさせたのだろう。
「よーしっ、作ろうか」
徐に立ち上がるミノリに次いでハルカも立ち上がる。二人は軽く躯を伸ばしてからキッチンへと歩み寄った。
隣接されたテーブルにトートバッグを置いて、ハルカはその中からエプロンと食材を取り出す。ミノリはイスに掛けたエプロンを着けてから食材を取り出した。
食材が並ぶテーブルを見遣り、二人は胸を撫で下ろす。
「潰れてなくてよかったな」
特に柔らかな肉。先程の衝撃で潰れていないか不安だったが、そんなことはなかったらしい。
軽く手を洗った後に、シンク下にある開き戸の収納扉を開けて包丁を二本、俎を二つ、大鍋を一つ取り出し調理台へと一度置く。それを軽く洗い拭けばもう一度調理台へと置いた。
「あ、そうだ。これ友紀さんが買ってきたんだけど、凄い使えるんだよ」
ミノリがアイデア商品である折り畳み式の俎を指差せば、ハルカは小さく吹き出した。
「うちにもあるよ、コレ」
「本当に?」
「本当。吃驚した」
大方、友紀も美江子も隣町にある大型家電量販店で買ってきたのだろう。ここら辺では家電量販店はそこにしかないのだから。
「ハルカはなに剥く? じゃがいも? にんじん? 玉ねぎ?」
どれがいいか、と聞くミノリは食材が入れられた袋を丁寧に開けていた。口を縛るテープを剥がしている。
「ミノリはどれがいい?」
「オレはハルカが剥かないやつだけど?」
「じゃあ、それで」
手にある玉ねぎの袋を彼から取り上げて調理台へと置く。
「玉ねぎ?」
「
彼は滲みるから自分が切ると言っているらしい。とことん優しいから。ならその好意に甘えよう。
「そっか。じゃあ、オレはじゃがいも剥くな。包丁と俎貸して」
ん、と揃えて掌を出せば、その上に俎と包丁が乗せられた。それをテーブルに置いて、じゃがいもが入れられた袋を開け始めた。
「くっ……固い」
玉ねぎが入っていた袋より、こちらは口を縛るテープは固い。爪で剥がそうとするが巧くいかないのだ。
「どうせ全部使うんだし、包丁で切っちゃえば?」
様子を見ていたハルカが言えば、そうかと言うようにぽんと手を打った。
「そうだな」
中身を残すのなら袋は必要だが、人数的には全て使うことになるだろう。袋の口の少し下に包丁を添えて、言われた通りに切ってしまう。
開いた口からじゃがいもを取り出して軽く洗い、皮を剥き始めた。包丁を滑るそれは短いが、くるくると円を描いている。
「剥けるもんだな」
ミノリは自身に感心した。ここ何年かは包丁を持つこと――いや、炊事自体をしていないので、剥くことは難しいと思っていた。のだが、やってしまえば出来てしまったのだ。
次々に皮を剥き、終われば一口大に切る。端に寄せた皮を破いた袋に入れ、もう一度開き戸の収納扉を開けた。切った材料を入れるボウルを出し忘れたことに気付いたのだ。軽く洗い、そこにじゃがいもを投入する。
「ハルカ、じゃがいも切れたよ」
「あぁ。玉ねぎも切れた」
じゃがいもの上にスライスされた玉ねぎが乗る。つんと鼻を刺す匂いに、涙が出そうになった。ミノリは鼻を押さえて言い放つ。
「やっぱ玉ねぎは涙が出そうになるな」
「玉ねぎだからな」
ハルカを一瞥すれば、涙の筋があった。やはり玉ねぎには勝てないらしい。
「次はなに切る?」
「俺は肉を切るから、ミノリはにんじんな」
肉のパックを手にハルカは踵を返した。残ったにんじんの袋を手にし、封を開ける。中から取り出したそれを軽く洗い皮を剥く。じゃがいもはごつごつしていて剥きにくいモノもあったが、比較的にんじんはまっすぐで剥きやすい。
一口大に切ったにんじんを玉ねぎの上に乗せれば、サラダに見えてきた。白い玉ねぎがにんじんの橙を鮮明にさせている。ボウルから溢れそうなサラダ。
「あ、ダメだ。もうサラダにしか見えない」
「確かに見た目はサラダだな」
「このまま食べてもいいような気がする」
ハルカの声に被せれば、軽く小突かれた。
「コラ。カレーを作るんだろ、カレーを」
言われればそうだ。有言実行をする気はないが、そもそもカレーを作るために買ってきた材料である。
「そうだよな。ごめん」
気にしていないというように頭を撫でられる。恥ずかしさに彼の向こう側に視線を遣れば、俎の上に一口大の肉が鎮座していた。なぜか淋しそうな哀愁漂っている。
「よし、材料は切れたし、炒めようか」
早く肉を仲間にいれてあげよう。一人は淋しいだろうから。
ミノリは材料が入り重たいボウルを両手で抱え、調理台へと歩み寄る。二・三歩のことだが、落とさないようにと慎重になり、躯が震えてしまう。
「よっ、と」
一度調理台へと置き、コンロへと置かれた大鍋を再度洗う。軽く拭いたそれをまたコンロに置いて火を着けた。数秒すればパチと水分がはぜる。
「ハルカ、油取って」
「ほら」
調理台の奥に並べられたサラダ油をミノリに手渡す。隣接している箸入れに入れられたお玉と木しゃもじも洗って渡した。
油を引いた鍋の中にボウルに盛られた材料を投下する。勢いに油が跳ね、四方八方に散る。だが、底が深い為に外には飛ばない。
急いで調理台に空のボウルを戻して、一口大に切った肉を入れてから木しゃもじで材料を炒めていれば、いい匂いが鼻を刺激してお腹が鳴りそうになる。まだ工程があるのに、だ。耐えながら数分間炒め続け、一度火を止める。鍋に水を加えるからである。
「水、水ー」
ミノリは一番目の引き出しから計量カップを取り出して洗い、そこに水を入れて鍋に足す。二度三度と繰り返し、丁度いいところで止めた。そうすればあとは煮るだけだ。もう一度火を点けて温度が上がるのを待つ。
「この間に片付けられるモノは片付けようか」
「あぁ」
ミノリの発案にハルカは頷き、調理台に置かれた調理器具に手を伸ばした。シンクに置けば、今度はテーブルに置かれた器具を手に取った。それもシンクに置いて軽く水を出す。
俎の端に点在する剥いた皮は結構な量があり、三角コーナーは無理そうだ。考えるより先に、テーブルに置いたままである肉のパックを入れていたビニール袋を取り、そこにくずを投入する。ガサガサと音がする中、視線に気づいたハルカは小さく笑う。
「俺が洗うから、ミノリは鍋見てて。あと、ボウル貸して」
先程取れなかったボウルを指し示せば、ミノリはすぐにそれを取った。
「はい」
「どうもありがとう」
ボウルを受け取り先に洗い、残りも順々に洗ってしまう。洗い終われば水を切ったスポンジを戻し、近くに置かれた灰色のゴミ箱にくずを入れた袋を捨ててから手を洗って、最後に手に残る水分を払った。
洗っている間に、何時ものようにミノリをちらちらと見ていたが、彼はじっと鍋を見ていた。時々、小さく笑いながら。きっと食事会の様子を思い描いているのだろう。
「どうなってる?」
「煮えてきたよ」
歩み寄るハルカの問いに答えたミノリは、相変わらずぐつぐつと鍋の中で煮える様子を眺めている。水面に灰汁が踊ればお玉で掬いシンクへと流し捨てる。それを繰り返すうちに灰汁は減り、減った分少し水を足した。そしてまた、煮えるのを待つ。それを何回か繰り返した後に、もう一度お玉でかき混ぜ、二段目の引き出しから竹串を取り出す。どうやら立てて置いてあり、取り出しやすくなっていた。
お玉でじゃがいもを掬い取って挿せば、竹串は易々と中に吸い込まれていく。じゃがいもは中まで火が通ったらしい。それを戻して、今度はにんじんをお玉で掬った。鮮やかながオレンジが水面から現れる。じゃがいもと同じように中心辺りに竹串を挿した。少し力が要るが、入らないこともない。カレールーを入れて煮ることを考えれば、これで丁度いいだろう。
「もうそろそろだな」
そう言ったハルカはテーブルに歩み寄り、残るカレールーを手に取った。外箱を開けて中身を取り出してから、包装の端を掴んでパッケージに書かれた通りに個々に割る。パキパキと小気味よい音の後に封を開ければ、スパイスのいい匂いが鼻腔をくすぐる。
「はい」
「ありがとう」
ミノリは火を止め、一つ一つ確実にルーを入れていく。そうしてお玉でかき混ぜれば、鍋の中は少しずつカレーに変わった。ルーを溶かしきれば、今度は弱火にかける。
「あのさ、いま思ったんだけど」
「うん?」
空の外箱と包装を捨てて戻ってきたハルカを見据えれば、反して彼は鍋を見ていた。コトコトと音をあげるそこからは、湯気と共にカレーの匂いが漂う。
「部長と黒崎さん、中辛で大丈夫かな?」
「ダメならコンビニまで走ろうぜ」
「あ、そっか。コンビニがあったか……。完全に忘れてた」
ミノリは顎に片手を添えて呟く。どうしようかと考えていたが、その手があったらしい。どう考えても最善であろう。浮かばなかったバカさ加減に呆れつつ、湧き上がる羞恥を誤魔化すようにお玉で鍋の中をかき混ぜた。何度もカレーの中を踊るお玉にハルカは目を瞬かせ、小さく噴き出す。
「かき混ぜすぎだろ」
「かき混ぜた方が美味しくなるんだよ」
「そう」
彼は可笑しそうに笑いながら、くしゃくしゃとミノリの頭を撫でていた。勿論、全てを解っていての行動である。
「でも、もうやめるし。あとは来てからでいいと思う」
想いを悟ったミノリは鍋に蓋を被せて火を止め、頭を撫でる手を取った。軽く握りしめて、ハルカを見上げる。仄かに赤く染まる頬に赤みが増した。
「ミノリ?」
「ど、どうしよう。ドキドキしてきた……」
「――じゃあ、落ち着くおまじない」
紡がれた言葉に笑みを溢し、片手を腰に添えて抱きしめれば、腕が背中に回る。
「効きそうだ、このおまじない」
小さく笑って見つめ合えば、バタンと大きな音が響いた。刹那、躯を竦めて反射的に音がした方を向く。
「えっ!?」
「なにしてるんですか!?」
二人は驚きに目を丸める。そこには、ドアから身を乗り出して乾いた笑いをあげる友紀に彼女を支える孝斗、それに心配そうに二人を見据えている美江子の三人がいた。状況がいまいち飲み込めなかったが、とりあえずどちらかともなく腕を離した。
「の、覗きじゃないの!」
違うの違うのと慌てながら両手を振る友紀に、自然と彼らの顔が綻んだ。二人は目配せをし、彼女を安心させる為に口を開く。
「解ってますよ。だから、そんなに慌てなくても大丈夫です」
「友紀さんは、なんでそんなことに?」
聞けば、ミノリも友紀も恥ずかしげに視線を逸らす。それも仕方がないことだが。目前の彼女は転けかけたような格好をしていたのだ。それを孝斗が懸命に支え、美江子も手を貸し、なんとか体勢を戻していまに至る。
「あー……のね、」
口をモゴモゴさせる彼女の替わりに「気になって」と隣に立つ彼が言い放つ。
「気になる?」
きょとんとしながらミノリが答えれば、今度は美江子が口を開いた。
「友紀さんと孝斗さんは家に来てね、三人で雑談をしていたの。勿論ミノリくんとハルカことになるわ。やっぱり自然と出てくるのよ。それで、二人のことが気になっちゃって早めに切り上げたわけ」
「それで、様子を見てたんだけど……滑っちゃって」
「俺はビビったけどな」
会話から察するに、結果あんなことになったらしい。
「そう、なんですか」
感嘆の声を漏らしながら小さく頷くハルカに対し、ミノリは俯きながら彼の手を握った。温もりに視線を遣れば、ハルカはその顔に笑みを溢す。ミノリは耳まで赤く染めていたのだ。嬉しさか羞恥かは窺い知れないが。
「ミノリ」
頭を撫でれば、びくりと躯を竦ませ、弾かれたように顔を上げる。赤く染まる頬に反して、その瞳には強い光があった。
「――いま、言える……」
「うん。俺も美江子さんに言いたいことがあるな」
ずっと口に出せなかった想いを、いまなら口に出すことが出来る。
どちらかともなく繋いだ手に力を込めて、指から伝う温もりにまた勇気づけられた。そうして一歩一歩と近付く。
「お話、いいですか?」
ハルカの紡いだ声に、大人達はきょとんとしながらも、頷いてくれた。それにほっとし、各々話すべく徐に手を離す。
「あの……お、オレは、友紀さんとお父さんに話があります」
「俺は、美江子さんに話があります」
各々の腕を取り、少し離れた場所で話が再開された。彼等が紡ぐ言葉には、目を見張るしかなかった。
◇◆◇◆◇◆
「あの……お、オレは、友紀さんとお父さんに話があります」
そう言ってミノリに腕を取られた夫婦は、互いに顔を見合わせた。二人から離れた場所で話が再開されたのを見るに、あまり聞かれたくない内容なのかもしれないとさえ思う。夫婦はじっと息子を見据え、話が切り出されるのを待った。
そんな二人に対し、腕から手を離して目を泳がせたままのミノリは、唇を噛みしめ意を決したようにぎゅっと掌を握りしめた。
「オレは……、オレは……っ、お、お礼をしたいんです! ありがとうって、言いたい、から。あ、あと……友紀さんに、ずっと、ずっと……言いたかったことが、あって」
言って、今度は友紀に視線を合わせる。刹那、彼は息を吐いてからゆっくりと息を吸い込み、想いの丈を紡ぎ出した。
「ゆ、友紀さん……じゃなくて……っ、お、おおおっ、お母しゃんって呼び、た、くて――」
噛んだことで力が緩み、涙が浮かんだ。頬に伝う前に友紀に抱きしめられ、涙が少しだけ引っ込む。
「ゆ、き、さん?」
「いいの。いいのよ。ゆっくりでいいの」
「ちが……違う、んです。オレはずっとお母さんって呼びたかった。けど……、目が合うと、なにがなんだか解らなく、なって……だから、友紀さんって言うしか、なくて……」
「ミノリ……」
彼が緩く頭を振れば、引っ込んだ涙は止まることなく溢れ出てきた。ぐしゃぐしゃのその顔に、彼女は手を添える。ミノリはその温もりに自身の手を重ね合わせ、軽く握りしめた。
「それで、オレは友紀さんに嫌な思い、いっぱいさせて……」
「私は、そんな思いはしてないから。大丈夫だから。だから、泣かないで。ね、ミノリ」
「っ……」
指の腹で涙を拭われ、ぴくりと躯が竦まる。
「私はミノリに笑ってほしいの。ハルカくんの傍で、ハルカくんと一緒にね」
「友、紀さん……」
「お母さんって呼んでくれてありがとう。私はその一言で救われたわ。大丈夫よ、いま言えたんだもの。ねぇ、孝斗さん」
頭を撫でる友紀に話を振られた孝斗は大きく頷いた。そうして彼もミノリの頭を撫でる。
「ミノリなら出来るよ。俺の息子だからな」
「お父さん……うん……ありがと……」
小さく頷いた彼は涙を拭って笑みを溢した。
◇◆◇◆◇◆
「俺は、美江子さんに話があります」
彼は彼女の腕を取り、彼らから少し離れた場所に移動する。それでも彼らの話を一部始終聞きながら、彼女に視線を遣った。
「ハルカ……?」
不思議そうに問う声に、照れ臭そうに頬を掻く。
「――同じです。ミノリと」
「同じ? って、こと、は――……?」
考えを巡らせる美江子の手を握りしめ、想いを言葉に変える。
「もう一度、昔みたいにお母さんって呼んでいいですか?」
いつの間にか照れくさくて呼べずにいたけれど――もう一度呼びたいと思った。家族になりたいと。これはその一歩なのだ。
「……バカね。当たり前じゃない」
彼女はハルカの肩を一度叩いて、破顔した。その目尻に涙を浮かべながら。
「はい。美江子さん」
釣られたように彼も笑みを溢し、握る手を離して美江子を抱きしめた。そうして彼は呟く。お母さんありがとうと――。
◇◆◇◆◇◆
メタリックブルーの携帯のサブディスプレイの表示は午前十一時五十分。紗夜はそれをカバンにしまうと、足元に置いた紙袋を手に取った。
「黒崎さーん!」
待ち合わせ場所である本屋の駐輪場の日陰で待っていた彼女は、その明るい声に顔を上げた。声の主たる部長は伸ばした手をヒラヒラと元気よく振り、駆け寄ってくる。
駐輪場といっても、二人共に自転車には乗っていない。ただ、彼女達の家の中間地点にこの本屋があったのだ。
「部長――え、と?」
じっと黒い双眸が紗夜の私服を捉える。変な格好だったかと首を傾げれば、部長は目を細めながら顎に手を添えて大きく頷いた。
「うんうん。黒崎さんの私服可愛いね」
「それ、なんかナンパみたいだけど」
「えっ、ええっ!? 違うよ、ナンパじゃないから!」
紡がれた言葉に慌てたように頭と手を振る彼女はなにかに気付いたのか、動きを止めてそれを見据える。目を見開いた後に言いにくそうに言葉を発して、それを指し示した。
「黒崎さん、それ――……」
「部長も、それ……」
紗夜もそれに気付いたらしく、目を丸くさせていた。その手に持つ紙袋は、全く同じものだった。同じ店名が記されているその店は、この界隈で有名な洋菓子店のものだ。しかも、この場所から遠くないところにある。どうやら同じ考えだったようだ。
「手ぶらじゃアレだからさ。私はプレーンクッキーを買ってきたんだけど、黒崎さんは?」
「わたしもプレーンクッキー買っちゃった、んだけ、ど……」
彼女は気まずそうに視線を逸らす。反して部長は一瞬きょとんとし、大きく口を開けた。
「ありゃ、被っちゃったわけか。ごめん、電話すればよかったね。じゃあ、一つは木下くんに、一つは山並くんにあげようか。うんうん、妙案だねー」
自画自賛しながら彼女は紗夜の手を掴み、にっこりと笑う。紗夜は紗夜で、釣られたようにぎこちなくもその顔に笑みを浮かべた。
「行こう、黒崎さん」
「えっ、うあっ!? ちょっ、部長っ!?」
ギリギリでポールをかわし、慌てふためく彼女の頬を風が撫でてポニーテールを靡かせていく。輝く青空の下、彼女たちは目的地に向けて駆け出したのだった。
◇◆◇◆◇◆
想いを紡ぎ出した後は軽く顔を洗い、大人たちの「あとはやっておくから」という申し出を受け入れて外に出た。迷わないようにと家門の前で彼女たちを待つ。緩く吹く風が木々を揺らしながら頬を撫でていく。
「目、赤くないよな?」
「あぁ。赤くないよ、大丈夫」
ハルカを見上げて問えば、ミノリはくしゃりと頭を撫でられる。洗顔時に鏡を見て知ってはいるが、やはり少し気になるのだ。
「ハルカも、大丈夫だよ」
「そっか」
もう一度頭を撫でてから、その手をミノリの指へと絡める。刹那、「ハルカ?」と不思議そうに名前を呼んだ彼に小さく笑みを溢した。
「繋ぎたいから」
「うん。ただ冷たいから、ちょっとびっくりした」
「それは悪い」
言われて気づいた。水で少し冷たくなった手でいきなり触れれば躯が竦まると。
「バカ。気にしてないし」
「ありがとう、ミノリ」
空いた手で肩を叩くミノリの頭をみたび撫でれば、彼はそこに触れて頷く。そうして前を向いて、握りしめたその手に力を込めた。
「部長たち、早く来ないかね」
「噂をすれば、ってやつだな」
指し示された先にあるのは手を振る人。その後ろには半ば引っ張られる形でもうひとりいた。謂わずもがな、手を振るのが部長であり、半ば引っ張られているのが紗夜である。
「黒崎が大変そうだ」
「本当だ。大丈夫かな……」
徐々に近づく二人は、息があがっていた。走ってきたのだから当たり前だが。
「黒崎さん大丈夫?」
「大丈夫……。久しぶりに、走ったから、しんどい、けど……大丈夫」
「ごめん、黒崎さん! はしゃいじゃって」
繋いだ手を離した部長は、両手を合わせながら紗夜に頭を下げた。声からしてテンションが高いことが窺える。しかし、彼女のテンションはいつも高めなのだけれど。
「だから……大丈夫だって、ば……それに、わたしは……怒ってない、し」
片手を振りながら、一際長く息を吐き出す紗夜は、ジーパンのポケットからタオルハンカチを取り出して額に浮かぶ汗を拭う。
「うん……たまに走るのも、いいかもね」
「お茶いるよね? ちょっと待ってて」
ミノリは繋いだ手を離していそいそと玄関へと消えていった。ハルカは紗夜の腕を引いて、彼の後を追いかける。部長はその後ろに着きながら、お邪魔しますと紡いだ。
「あ、ハルカ……」
「なに?」
「ちょっと痛い、かな」
ミノリの腕を掴むが如く力をいれていないが、紗夜には痛いらしい。肩越しに振り返って見据える彼女の腕は、ミノリより少しばかり細く見えた。
「――あ、悪い。黒崎は女の子だもんな」
「ううん。ちょっと痛いだけだったから。こっちこそ、気分悪くさせてごめんね」
離した腕には、仄かに赤い痕ができていた。ハルカが軽く頭を下げれば、紗夜は慌てたように手を振る。刹那、ドアが閉まる音に、一様にそちらに顔を向けた。
「黒崎さんも部長も、お茶をどうぞ」
トレイに二つのコップを乗せたミノリは、中身を溢さないようにそろそろと歩んでいる。もう少し早くても支障はなさそうだが、そこには八分目辺りまで注がれているので、ゆっくりになってしまうのだろう。
「ありがとう、木下くん。喉カラカラだから助かったよ」
部長はひとつのコップを手に取り、一気に飲み干した。その潔い飲みっぷりは、どこか男らしい。
「黒崎さんも、どうぞ」
「ありが……と」
ミノリから渡されたコップを手にし、紗夜は彼を見遣る。ミノリは目を瞬き、はっとしたように大きく口を開いた。
「どうかした? あっ! 麦茶嫌いだった?」
「違うよ。そんなに見られたら恥ずかしいって思っただけ」
「え、あ……っ……! そ、そうだよね。ごめんっ」
彼がバツが悪そうに視線を外して頬を掻けば、彼女はコップに口をつけ、部長と同じように一気に喉へと流し込んだ。
「――ありがと」
空になったコップを渡しつつ、紗夜はもう一度小さく漏らした。頬を仄かに染めながら。
「どういたしまして」
「はい、木下くん。――上がってもいいかな?」
部長も持っていたコップを渡し、笑顔で問うた。
「もちろん」
「じゃあ改めて。お邪魔します」
玄関先に上がる二人の邪魔をしないように端に寄れば、リビングのドアが開いた。そこから顔を出すのは孝斗であり、その顔には笑みを溢している。
「お客さんか?」
「うん。今日、招待したんだ」
「そうか。いらっしゃい」
彼がリビングのドアを大きく開ければ、カレーの匂いが廊下に伝わってきた。
「んー、いい匂い」
部長のその言葉に、こっちだよ、と手を引く。彼女は目を丸めた刹那、細めた。触れた指先を少しだけ緩めて。
「木下くん、」
「なに?」
「なんでもない。――山並くんに怒られちゃうかな」
「ハルカは怒らないよ。部長だからさ」
きょとんとしながら振り返ったミノリに聞こえないように漏らされた声であるが、どうやら聞こえていたようで返答があった。
「そうかな?」
「そうだよ」
ほら、とリビングに足を踏み入れた矢先に振り返れば、そこにいるのはハルカと紗夜であり、案内するかのように手が繋がれていた。――同じように。二人は「なにか?」とでも言うように、軽く首を傾げている。
「ね」
「本当だ」
クスクスと笑う彼女は手を離して、恥ずかしそうに頬にそれを添えた。
「やだ、私、心配性すぎた!」
「でも、それが部長だし」
もう一度部長の手を握る彼は、その顔に笑みを浮かべる。
「オレはそんな部長が好きだよ。ハルカも黒崎さんも――ここにいる皆が好き」
大好きと紡がれる言葉に、沈黙が訪れた。その間にミノリは、「変な意味じゃないから!」と慌てて付け足す。それでもなにも返ってこないことに耐えられないのか、彼はすぐさま下を向いた。
「大丈夫。解ってるから」
真っ赤に染まる顔を俯かせているミノリを背後から抱きしめたハルカは、再び「大丈夫」と落ち着かせるように囁いた。その囁きに躯を捩るが、離す気はないらしい。
「人が苦手なミノリが言ったから、ちょっと驚いただけだよ」
「本当に?」
「あぁ。だから、顔上げてみ」
頭を撫でるその手を離して、いつものように手を握れば、ぎゅっと握り返される。みたび「大丈夫」と囁き、握り返された手に力を込めた。
「ん……解った」
恐る恐る顔を上げた彼は、瞬きを繰り返す。辺りを見渡せば、誰も彼もが心配そうにしていたのだ。やはりハルカが言っていたように驚いただけなのだろう。
緊張を解けば、近くにいる部長は勢いよく手を合わせた。パンと小気味よい音が空気を揺らす。
「部長……?」
「ごめんね、木下くん。ちょっとビックリしちゃったんだ。木下くんがそう言ってくれるなんて思わなくて……。私もね、木下くんのこと好きだよ。大好き」
面と向かって言うとちょっと恥ずかしいね、と笑いながら言い放つ彼女は、「これ」と提げる紙袋を彼に渡した。次いで、慌てたように紗夜が同意を示し、同じものを勢いよく差し出す。顔を真っ赤に染めながら。
「わ、わたしも! 初めは酷いこともしちゃったけどっ……わたしも、好き、ですっ! あとこれ、どうぞ!」
「俺も好き。大好き。――だから、笑って」
抱きしめられながら、「ありがとう。心配させてごめんなさい」と、二つの紙袋を受け取ったミノリの顔には小さな笑みが浮かんでいた。耳まで淡く紅潮しているが、それは嬉しさからであろう。彼はもう一度「ありがとう」と紡いで、紙袋を軽く抱きしめた。
「一つ言っておかなきゃいけないことがあるんだけどね、私たち同じものを買ってきちゃったんだ。連絡のし忘れで。だから、木下くんの家と山並くんの家で別けてね」
「解った。そうさせてもらうよ」
頷く最中、誰とも解らない腹の虫が鳴る音が響いた。約束の正午から時間が経過し、限界だったのだろう。
「――わわ! わたしのバカ!」
ばっとお腹に手を添えた紗夜は勢いよく座り込み、恥ずかしさからか先程より赤く染まる顔を俯かせた。察するに、
「お腹すいたね。待たせてごめん」
ミノリは紙袋をハルカに預けてから身を屈める。伸ばした手をお腹から膝に置かれた紗夜の手に重ねて、徐に引き寄せた。
「き、木下?」
胸の中に埋まる紗夜は、仄かに染まる顔を上げて彼を見上げる。彼女にとっては予測不能な事態だが、瞳に映るミノリの姿が緊張を緩和させていた。それは数秒であり、彼女はすぐに離される。
「早く食べようか。あ、黒崎さんは中辛は大丈夫?」
「平気。わたしいつも辛口だから」
「そうなんだ。なら、よかった」
何事もなかったかのように振る舞う彼に手を引かれ、彼女は席に案内される。
「黒崎さんはここで。部長は黒崎さんの隣です」
「はいはーい」
手を招かれた部長は、ハルカの腕を引きながら足早にその場に近づき、ミノリの服の袖を緩く引っ張た。
「ねぇ、木下くん。さっきの、なに?」
「え、あ、うん。アレはね、黒崎さんが恥ずかしい思いをしたから、オレも恥ずかしい思いをすればいいかなって。おあいこになるし。女の子を抱きしめたことがないから、変な抱きしめ方をしてたらアレだけど……」
アレでよかったかな、と呟く彼に対し、部長は思わぬことを言い放った。さらりと。
「私も、抱きしめていい?」
「え?」
至極当然に彼の目は丸くなり、意味が解らないとでも言いたげな顔になる。ふふ、と笑む彼女は、「ちゃんとした理由があるよ」と手を取った。温かいその手も、本来なら触れることさえもままらないのに、今日は自身から触れてきた。――それはなにか変化があったからであろう。
「木下くんが変わって、嬉しいから」
「そ、そういうことなら、どうぞ」
了承するやいなや、すぐさま柔く抱きしめられるミノリは、彼女の背中に手を回す。細い躯を包むように肩を抱き、耳に顔を寄せた。
「――ありがとう」
「私の方こそありがとうね」
「ミノリ、そちらの二人は?」
たった数秒間。それでも、温かく優しい。微笑み合う二人に、友紀は声を掛けた。いままで黙っていたのは割って入るタイミングがなかっただけで、本当は気になっていたのだ。ずっと。彼女たちがリビングに来た時から。
「友紀さん。この人たちはオレの――」
友達。大切な友達。そう言っても怒られないだろうか。二人を見遣れば、彼女たちはなにかを察したのか口を開く。
「木下くんの友達です。ね、黒崎さん」
「うん。わたしは友達だと思ってるし。いや、わたしが言うのもなんだけどね」
彼女たちの言葉でぱっと明るくなる顔に気づいたハルカは、頭を撫でた。静かにやり取りを見ていれば、溢れる笑みも愛しさも、髪を撫でる手さえも止まらない。本当はいますぐにでも抱きしめたかったが、状況的にやめているだけである。
「ミノリが友達だと思ったなら、それでいいんだよ。ミノリの口から言って大丈夫だから」
「う、うん! オレの、友、達……です。大切な大切な、友達です! だから、今日呼んだんです。お礼をしたくて」
興奮気味に吐き出される声は徐々に落ち着きを取り戻し、友紀に説明をし始める。
「部長が、新聞部の部長の佐々木馨さんで、黒崎さんが同じ部員の黒崎紗夜さんです」
「はい。解りました。来てくれてありがとうね。どうぞ座って。いま持ってくるから」
「はい」
促されて食卓用テーブルに腰を下ろした部長は、組んだ両手に顎を乗せてにんまりと笑う。
「――ねぇ、黒崎さん」
「なに?」
「私、新聞部でよかったかもって思っちゃった。木下くんと山並くん、それに、黒崎さんに出会えたから」
「部長ってたまにドラマみたいな台詞をぽんと言うよね。ちょっと尊敬するよ」
数秒間目を瞬かせる彼女は、部長に尊敬の眼差しを送る。部長は部長でいやいやと恥じらいつつ理由を吐き出した。
「ドラマ好きだし。その影響かな、やっぱり。あ、バラエティーも好きだよ。私、テレビっ子なんだよね。最近は専ら配信で見てるけど」
「だからか」
一人納得をした紗夜は同じように手を組んで、運ばれてくるであろうカレーを待つことにした。二人を眺めながら。
反して、彼女たちを案内し終えた彼らは、キッチンへと足を進める。
「あら、ハルカもミノリくんも座ってていいのよ?」
カレー鍋を見詰める美江子は、二人に気づいて肩越しに声をかける。友紀や孝斗は皿やスプーンを出しているようだ。
「でも、企画したのはオレたちだから。美江子さんこそ、座っていてください」
「それもそうね。はい、ミノリくんにバトンタッチ。ハルカは話があるからこっちで」
意向を汲んだ彼女にお玉を渡されたミノリは小さく頷いてから鍋の前に立った。ハルカは腕を引かれてリビングを後にする。
彼女はドアを閉めながら、話を切り出した。
「ハルカが電話を掛けたその日に、朱吾から折り返しの電話があったの。さっきは驚いてしまって、言い忘れてたわ。ごめんなさいね」
「いえ。気にしないでください」
バツが悪そうに髪を掻き上げるその仕草は、本当に申し訳なさそうである。言い忘れることなんて、誰でも一度は経験があるのだから、そんなに気にしなくてもいいのに。
「仕事を片付け次第行くからって。だけど、あの子の会社はこのご時世にも拘わらず業績が伸びているらしくてね、忙しいみたいなの」
「忙しいのは知っていますよ。見ていれば、察しはつきますから」
「あら、そうなの? てっきり知らないものかと思ってたわ」
美江子は意外そうに目を見張り、三回ほど瞬かせる。そんなに驚くほどなのかと、ハルカも目を瞬かせた。
「自分で言うのもなんですが……、観察力はある方だと思っているんで」
「そう、ね。言われてみれば、ハルカは観察力があるわ。だから、ミノリくんの言いたいことも解る。空気を読めるのは素晴らしいと思うけど、読めすぎるのもアレよね」
顎に手を添えた彼女は数秒ほど思案し、もう一度彼を見据える。
「ハルカ。――もうひとつ、いいかしら?」
「はい、どうぞ」
「私はね、ハルカに敬語をやめてほしいの」
「え、と……、それはどういう意味ですか?」
きょとんとするハルカは、ふたたび目を瞬かせる。瞬間、緩く首を傾げ、美江子の言葉を待った。
「小学校三年生からだったわね、敬語で話すようになったのは。ハルカが心を開いてくれるのはよかったけど、本当はずっと、疎外感があったのよ。ミノリくんとは普通に話すのにって。いい大人が嫉妬丸出しで、大人げないのも解ってた。――もちろん、いますぐでなくても少しずつでいいの。それにこれは、私の最初で最後の我が儘だから、ハルカが嫌なら聞き流しても構わないわ」
「聞き流すなんて、そんなことできませんよ。俺は美江子さんの我が儘なら、無条件で聞き入れます。そうしなければ、フェアじゃないですし。だから、美江子さんが敬語をやめろと言うのなら、少しずつですけど改善しますよ。……うん。改善、するから……」
照れ臭そうに頬を掻く彼は、美江子に抱きしめられた。彼女の髪が頬を掠めて、ようやく気づく。
「美江子……さん?」
「私は幸福者だわ。ハルカが本当に……、本当にいい子だから。――ありがとう、ハルカ。私は貴方が大好きよ」
「俺も美江子さんが好きです。ずっと愛してくれてありがとう」
抱きしめ返して言い放つその言葉は、気恥ずかしさからか少しだけ小さな声であった。
「戻りましょうか。これ以上待たせたら悪いし」
「はい」
美江子は小さく頷いて彼を離し、微笑みながらふたたび腕を取った。ドア向こうに見える景色は二人を待っているらしい姿であり、彼女の言った通りにこれ以上待たせるのはさすがに
「待たせてごめんなさいね」
「いえ。大丈夫ですよ」
友紀が発した言葉に美江子は再度小さく頷いて、繋いでいた手を離した。次いで、その手でハルカの背中を軽く押す。彼は彼でミノリたちの元へと戻り、ようやく食事会が始まろうとしていた。
キッチンへと向かったミノリとハルカがよそったカレーライスが次々に運ばれてくる。湯気がのぼるそれは、匂いだけでも堪らない。
「あ、あの……、食べ始める前に一言だけいいですか?」
運び終わったにも拘わらずに、自身の席に立ち尽くすミノリは周りを眺めて言い放った。皆の視線を浴びる中で、キョロキョロと動く瞳や赤く色づく頬は緊張の現れだろう。
「オレたちに――ううん。皆オレに関わってくれてありがとう。お礼にはならないかもしれないけど、カレーを作ったので食べてくれたら嬉しいです。それだけだから、た、食べ始めてくださいっ」
緊張が解けたのか、へなへなとへたり込むミノリは、反してやり遂げたという顔でエプロンを脱いで畳んだ。それを椅子に掛けてから軽く手を合わせて「いただきます」と紡ぐ。その一言を合図にして、各々が好きなように目の前のご馳走を食べ始めたのだった。
リビングに響くのは、スプーンが皿に当たる高い音と談笑で、和気藹々とした雰囲気が広がる。
「あ、のさ、木下」
「なに?」
「お、おかわり……ある?」
「うん、あるよ。友紀さんが多めに炊いてくれたから。ちょっと待ってて」
言いにくそうに紡がれた言葉に笑顔で答え、置かれた皿を手に炊飯器に歩み寄った。
「どれくらい?」
「半分より少なめでお願いします」
「解った」
言われた通りに半分より少なめによそい、今度はコンロの前に行く。素早くカレーを盛って紗夜の元へと戻った。
「どうぞ。部長とハルカはおかわりいる?」
「じゃあ、私も少しだけ」
「俺は大丈夫。ついでだから、部長の皿こっちにちょうだい」
どうやら片すついでにおかわりを持ってこようとしているようだ。ミノリは立ち上がったハルカと部長を交互に見遣り、「じゃあ、任せる」と手に持つ皿を彼に渡した。ミノリはもう一度ハルカを一瞥してからイスに座り、食事を再開させる。
「山並くんは相変わらず優しいね」
「それがハルカだからな」
その気持ちを誰にでも捧げるのも。それが彼の一部分。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう」
ついでに各々に少なくなったお茶も注ぐ。然り気無いのがカッコイイ。
「ミノリ? 早く食わないと冷めるぞ」
「え? あ、あぁ……うん」
いつの間にか見惚れていたらしい。そんな簡単には冷めないと思うが、誤魔化すようにいつもの倍の早さで残りを平らげたミノリであった。
つつがなく進んだ食事会を終えて片付けようとした矢先、大人たちは「どうせなら送っていってあげたら?」と提案してきた。そうなら、と二人と話し合い、待ち合わせ場所であった本屋まで送っていくことになった。いま現在、炎天下の道をゆっくりと進んでいる。
「お、入道雲だ」
「本当だ」
部長が指し示す先にあるそれに、ミノリは頷く。
「入道雲があると、雨が降るんだっけ? いつだったか、天気予報士が言ってた気がする」
「え、それ、本当?」
ハルカの問いに紗夜は、「気がするだけだからなぁ」と困ったように笑みを溢す。
「私は折り畳み傘常備だから、雨が降ったら誰か相合い傘しよ」
「でも相合い傘するなら、折り畳み傘じゃ厳しくない?」
「やっぱり木下くんもそう思う? 私も厳しいかなって思ったんだけど、ノリで言ってみたんだよねー」
ツッコミありがとう、と部長はミノリの腕に軽く触れた。
「いまのはツッコミじゃなくて疑問だよ?」
「そんな固いこと言わない言わない」
ね、と彼女は笑み、ふたたび空を見上げた。青い空に入道雲が伸びているこの風景は、明日には見れなくなるだろう。
「空、青いねー」
「うん」
「夏だからね」と紗夜が紡いで、ハルカは「あぁ」と相槌を打つ。そんな他愛もない話をしながら、四人は目的地までやってきた。
「じゃあここで。またね」
「ご馳走さま。また学校で」
彼女たちは緩く手を振って、踵を返した。どうやら同じ道を行くらしい。
「俺たちも帰るか」
「うん。帰ろうか」
お互いに手を握りしめて、来た道を戻っていく。ゆっくりと歩を進めながら。
「ハルカ」
「――っ!?」
公園の前に差し掛かったときである。突然の背後からの声に、ハルカは躯を竦めて足を止めた。ミノリは緩く首を傾げ、心配そうに彼を見据える。
「ハルカ?」
「ハルカ、だよな? 悪い、驚かせて」
「突然声を掛けられれば、誰だって驚きますよ」
繋いだ手を離して振り返るハルカは小さく息を吐いた。反して数センチ先にいる男は、カバンとスーツの上着を手に、申し訳なさそうな顔で彼を見ている。
「だから、そんなことは気にしないでください。――父さん」
「ハルカの、お父さん……?」
ハルカの声にミノリは目を見張った。目前の男はハルカの父親らしい。確かに言われて見れば、雰囲気も顔立ちもよく似ている。父親の方が少しだけ背が高いのが違うところだろうか。
「そう、俺の父親。ミノリは初めてだな」
「ミノリ? もしかして――その子が、そうか」
父親はミノリを凝視し、ハルカは困惑する彼の前に立つ。背中越しに見える男は、やはりハルカに似ていた。
「あ、いや、違うんだ。怖がらせるつもりはないから。悪いね。姉さんから君の存在を聞かされたから、どんな子か気になってて……」
「い、いえ……」
頭を振るミノリは視線を逸らす。想い人に似た男にまじまじと見られるのは恥ずかしさしかない。
「美江子さんがミノリのことを?」
「あぁ。いつでもハルカの一番傍にいてくれる、大切な子だって。男だっていうのも教えてもらった」
「……そう、ですか……」
「ミノリくん、少しだけいいか?」
「え、あ……はい」
それを知った父は、彼になにかを言うつもりだろうか。傷つける気なら、この場から走り去ろう。ハルカは背中から離れたミノリの手を握り、近づく男を見つめている。
「確か、ハルカ以外には触れられるのがダメだったな。――けど、少しだけ我慢してくれないか?」
「は、はいっ」
少なからず怯えの色があるが、それでも小さく頷いたミノリの頭に手が乗せられる。大きな手はゆっくりと動き、すぐに離れていった。
「ありがとう。ずっとハルカの傍にいてくれて。俺が負わせた深い傷を癒してくれて。これからも、ハルカの傍にいてやってくれないか?」
「え?」
「父さん?」
父親の言葉に、彼らは目を丸めて凝視する。なにを言われたのかいまいち飲み込めなかったのだ。そんな言葉が出るとは思ってもみなかったから。
「俺は父親失格だが、人間失格にはなりたくない。二人を引き離すことはしないから、安心しなさい。っと――そうだ。肝心なことを聞き忘れた。食事会はお開きになったよな?」
「残念ながら」
父親の問いに、ハルカが答える。「そうか」と一言残念そうに返された言葉に、彼は「書くものありませんか?」と問うた。
「いまは携帯を持っていないので。いきなりでアレですけど」
彼の言葉に今度は父親が目を見張った。
「――は?」
「来てくれたお礼――にはならないのかもしれませんね。俺が父さんと交流をしたいだけなので」
「ハルカ、が……俺と、か?」
「嘘だろ」という呟きと瞬きとを繰り返す父親はそれでもようやく理解をしたのか、カバンから手帳を取り出す。黒革のシックなそれは、仕事に使うのだろう。手帳とともに渡されたペンで、メモ欄に番号とアドレスを記して返す。
「早朝と深夜以外ならいつでもどうぞ」
「本当に、いいのか?」
「ええ。親子といっても、話さないと解りませんしね」
「……その通りかもな。――ハルカ」
手帳をカバンに戻して、ハルカの顔を見つめる。
「はい?」
「また、会いに来てもいいか?」
「――それもいつでもどうぞ」
少しだけ緊張混じりのその声に返答すれば、父親は笑みを浮かべる。その顔は姉である美江子を彷彿とさせた。やはり姉弟だからか。
「ありがとう。今日はもう帰るな」
「はい」
踵を返したその後ろ姿を小さくなるまで二人で眺めて、ふたたび手を握りしめる。
「ハルカのお父さんは、やっぱりハルカのお父さんだな」
「それ、どういう意味だよ?」
「ハルカに似てた。雰囲気も顔も」
「そりゃ、遺伝子受け継いでるしな。つか、それを言うなら、ミノリの母親もミノリに似てるよ」
「うん。遺伝子受け継いでるしさ。というか、空曇ってきてるな」
いつの間にか空は曇り、雨が降りだしそうな雰囲気だった。夕立がきたのだろうか。そう思ったのもつかの間、ポツリポツリと雨粒が落ちてくる。
「降ってきたな」
「こっち」
まだ小降りだがこのままではないだろう。早目に雨宿りをした方がよさそうだ。そう判断したらしいミノリに手を引かれた先は、屋根があるベンチだった。ここで弁当を広げる親子や日向ぼっこをしている猫を見たことがあるが、いまは雨宿りに適した場所に替わっていた。並んで座りつつお互いの姿を見据えて小さく笑みを溢す。
「ちょっと濡れたな」
「ちょっとだけだから大丈夫。なぁ、ハルカ」
腕を伸ばした彼は、ハルカを抱きしめた。ぽんぽんと肩を叩いたハルカは、抱きしめ返して優しく囁く。
「ミノリ?」
「お父さんといたとき、ちょっと緊張してただろ。オレも緊張してたけどさ」
「ちょっとだけな」
「一緒にいていいって言われてびっくりした」
「俺も。まさかあんなことを言われるとは思わなかったし。雨、酷くなってきたな。夕立か?」
肩越しに見える空は暗さを増し、その分だけ雨足は強くなっていた。屋根を打つ雨音は次第に大きくり、ときどき雷も鳴っているようだ。
「夕立かは解んねぇけど。そういえばさ、昔ハルカがおぶって送ってくれたんだよな」
「ミノリが泣き疲れて寝たとき?」
「うん。お母さんから、ハルカがおぶって来てくれたって聞いたんだ。お礼を言いたかったんだけど、次の日も休んだから言えずじまいだったんだよな。ごめんな」
「アホ。そんなの気にしてねぇよ」
頬を軽くつねられ、ミノリはその手に自身の手を添える。へらりと笑みを浮かべながら。
「ん。ありがとう」
「あぁ。って――ミノリっ!?」
唇に触れる唇。触れ合うだけのキスだった。ハルカは耳まで赤く染めながら彼を眺めていた。
「なんか……したくなったから……?」
「なんで疑問系なんだ?」
緩く首を傾げるミノリにハルカは小さく笑う。
「……もう一回、いいか?」
「うん。いいよ」
赤く色づく顔で吐き出された言葉に頷けば、今度は彼から唇を触れ合わせた。
「好き」
「あぁ」
数秒で離れた唇を目で追いながら、もう一度抱きしめる。彼は頷きながら頭を撫でて、抱きしめ返してきた。少ししてお互いに離し、手を繋ぎながら雨が上がるのを待つこと数分。次第に雨足は小さくなってきた。
「雨……、弱くなってきた、かも?」
「そうだな。やっぱり夕立だったかもな」
すぐに雨音がしなくなり、雲の切れ目からは光が降り注ぐ。
「止んだみたいだ」
そう時間がかからないうちに太陽光が辺りを照らし始め、木々や屋根からは雨粒が滴り落ちていた。
「ミノリ、こっち」
「うわっ!?」
立たされたミノリはハルカに引かれながら進む。公園の真ん中辺りで足を止めて振り返り、彼は目を細めた。
「ミノリ、雨が降ったら晴れるって言ったの覚えてる?」
「覚えてるよ。でも、雨が降ったら雨の場合もあるだろ?」
「そうだけどさ。――見てみ」
指し示すのは空。指の先、晴れ渡る空に浮かぶのは虹である。
「虹?」
「そう。虹。綺麗だろ。雨が上がったら現れるんだよ。雨が降ったら雨の場合もある。だけど――晴れる場合もあるだろ。ほんの少しでいいから、晴れると信じてほしい」
みたび抱きしめて精一杯に吐き出すその言葉は、彼の大きな想いだ。きっとずっと言いたかったことなのだろう。
「ハルカが言いたかったのって、それだったんだ」
瞳に映る虹はもう微かでしかない。見慣れた虹だが、それでも綺麗なのは変わりなかった。儚く消えるそれは、雨が上がったら現れる奇跡だろう。降り続いても――晴れる。そう言いたいのか。
「ハルカが、そう言うなら……ハルカがそう言ってくれるなら……、オレは信じるよ」
しらず浮かぶ涙で、声が掠れてしまう。掌が頬に伸び、それを拭い取った。
「悪い。泣かせるつもりはなかったんだけど」
「バっカ! 泣いてねぇよ……。勝手に出てくるだけだし……」
「そっか」
「そうだよ」
ハルカは小さく笑いながらぽんぽんと頭を撫でて、手を握る。涙が止まるまでは数秒かかってしまった。その間に虹は消えてしまったが、また見れるだろう。
「帰ろうぜ」
「うん」
歩き出す二人の足元。水溜まりから跳ねた飛沫が、太陽の光に照って輝いた。
end.
【 あとがき 】
以上で完結です。最後までお付き合いありがとうございました。
◆ 執筆時期 ◆
執筆開始 : 2007/12/24 - 数年の放置がありまして - 執筆終了 : 2012/3/21
【BL】雨のち晴れ。―青空の下、君と― 白千ロク @kuro_bun
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