明日へ繋がる、一歩前

「いらっしゃいませ」


 トートバッグを提げながら近くのコンビニの自動ドアを抜ければ、店員の覇気のある声が店内に響く。

 目的はプリンだ。目前のデザートの棚には、クリーム色のプリンと乳白色の牛乳プリン。そして、後ろにあるケーキ類が並ぶ棚には、プリン・ア・ラ・モードがある。


「んー……、どれがいいか……」


 ここは普通のプリンか。しかし牛乳プリンも捨てがたい。更にはプリン・ア・ラ・モードもあるとなると、悩む。

 ミノリが喜ぶのは、なにか。


「――やっぱ、これか」


 それを二つ手に取り、レジへと持っていく。会計を済ませ、彼はコンビニを後にした。



◇◆◇◆◇◆



 窓から見える景色は、今日も相変わらずの快晴だ。夏の風物詩の蝉も、元気よく鳴いている。例え七日間の命であろうと。


「――綺麗だ」


 澄んだ青に白い雲。そしてチカチカと輝く太陽。何時もそこに在る景色が、今日もそこに変わらずに在る。


「あ、」


 視線を下げれば、ハルカの姿が見えた。ミノリは急いで部屋から飛び出し、玄関まで直行する。


「ハルカっ」


 ドアを開けて抱きつけば、温もりがあった。なんというタイミングのよさなのか。


「おはよう」


 いきなりの行為に怒りもせず、彼はミノリの頭を撫でる。


「ん。おはよう」


 言い放ち顔を上げれば、笑っていた。

 午後十二時五十分――今の時刻は「こんにちは」が妥当だろうが、会ったばかりなので許容範囲内だ。


「中、入れよ」

「あぁ」


 背中に回した腕を解き、手を取る。彼を玄関に招き入れれば、手をやんわりと外された。


「冷蔵庫貸して」

「なんか買ってきたの?」

「甘いモノをちょっと」


 言い放ちながらコンビニの袋を掲げれば、ミノリは「そっか」と答えて、二人でリビングまで歩く。

 リビンクに入れば冷蔵庫直行で、すぐさまドアを開けて袋ごと投入して踵を返す。開け放った時に流れてきた冷気が、火照る躯を少しだけ冷やした。


「あのさ、オレの部屋で課題やろう」


 言いながら腕を取る。それに指を絡めて引っ張った。


「え、リビングここじゃなくて?」

「そうだよ。ハルカはまだオレの部屋に入ってないだろ?」


 部屋の中を見られたことはあるが、中に入れてはいない。自分は部屋に入ったのに、これじゃあ、アンフェアだ。


「行こ」


 リビングを出て、階段を上りながら、前方のハルカに問う。


「買ってきた甘いモノってなに?」

「秘密。あとで解るよ」


 彼は振り向き、お決まりのように人差し指を口に添えて答え、ミノリの頭を撫でた。


「うん。判った」


 軽く頷き、背中を押して歩くように促す。

 階段を上りきって、前方に佇んでいる彼の手を取り歩を進める。


「ちょっと汚いけど」


 言い放ち、ミノリは目前にあるドアノブを空いている片手で回す。

 二人で部屋に入れば、開け放たれた窓から風が吹き込んできた。


「飲み物持ってくるから、適当に座ってて」

「解った」


 了承すれば彼は自室を出ていった。ドアが閉まる音が小さく響く。

 一人残されたハルカは、部屋の左寄りに置かれた白色のミニテーブル付近に腰を下ろした。よくよく見れば、それには今大人気の六体のパンダのキャラクター・パンダァズが右端に小さく描かれている。

 部屋を見渡して、やっと心臓が落ち着いてきた。


「アレはないだろ……」


 口を押さえて呟く。

 インターホンを鳴らそうとすればドアが開き、いきなり抱きついてきた。嬉しそうな顔をして――。ただただ心臓が跳ねた。それを気付かれないようにする為に必死で、あの時は頭を撫でるので精一杯だったのだ。


「ハルカ、ちょっとドア開けてくれないか」


 外から聞こえた声に我に帰って立ち上がる。そうしてドアまで歩み寄り、ゆっくりと開けた。


「ありがとう。あのさ……、いま麦茶くらいしかないんだけど、それでいい? ジュースがいいなら買ってくるけど」

「お茶でいいよ。早く座りな」


 ミノリの持つトレーを自分の手に取り、彼に座るよう促す。言われた通りにミノリは、ハルカのトートバッグが置かれている真正面に座り込んだ。

 トレーをミニテーブルに静かに置きつつハルカが座れば、彼はプラスチック製のお茶入れからコップへと麦茶を注ぐ。コポコポと音をたて、麦茶はコップに吸い込まれる。

 二つのコップにお茶を汲み終われば、ミノリの目前のミニテーブルにコップが一つ置かれた。


「ありがと。ハルカはどれくらい進んでる?」

「んー……、現国は終わったな。あとは、程々にやってるところ」


 お茶入れを乗せたトレーを床に置いて、言い放つ。


「そっか。オレは古文が終わった。あと、数学と英語は三枚終わったよ」

「そう。頑張ったな」


 頭を撫でれば、彼は嬉しそうに笑う。やっぱり、笑顔が一番可愛いなと思った。


「……あの、そんなにじっと見られると恥ずかしいんだけど……」

「え、あ……、悪い」


 瞬間目を逸らしたが、それでもやはり見てしまう。意識せずとも自然と追う形になるのだ。


「課題、やろうか」


 そう言ってミノリは立ち上がる。学習机に歩み寄れば、並べられた課題と筆箱を手に取り戻ってくる。


「そういえば、友紀さんは?」


 腰を下ろしたミノリに問えば、彼は首を傾げながら答えた。


「パートでいないけど、どうかした?」

「気になっただけだよ」


 ――ちょっと待て。


「そ、そんなつもりで呼んだんじゃないからなっ!」


 よく考えてみれば、二人っきりだ。今は。事に及ぼうとすれば、平気で及べる。


「判ってるって」


 慌てるミノリに対して、ハルカは落ち着いている。もう少し――ほんのちょっとだけでも慌ててくれてもいいのに。

 二人っきりだと、そう気付いて、心臓が張り裂けそうになっていた。

 ハルカは――どうなっているのか。同じようになっているのだろうか。


「課題やるんだろ。早くやろう」

「――そういうことになっても、嫌じゃないからな」

「っ……な、はっ?」


 呟きに、トートバッグから出した課題が床に落ちる。課題とミノリの顔を交互に見遣るハルカを察するに、どうやら取り乱したらしい。


「な、は……、な、な、なにをっ、……ちょ、待て!」


 拾い上げた課題で口を隠す。頬は赤く染まっていた。


「怒った?」

「怒ってない……。ちょっと驚いただけだから」


 積極的なのは素直に嬉しい。嬉しすぎる。がしかし、いきなりは心の準備が出来ていない訳で。


「驚かせてごめん」

「嫌じゃないのは知ってる。でも、ミノリに負担がかかるから、今日は――」


 身を乗り出して頬に触れる。そして、啄むように唇を落とした。


「これだけな」


 我ながら気障キザだとは思うけれど。

 躯の繋がりは繋がりで、大事なことだと判っている。けれど、やはり負担がかかるのだ。我慢は出来るのだから、なるべくかけたくはない。負担が少ないものでも、想いが伝わるモノだって沢山あるのだから。

 解ってくれといわんばりに、もう一度キスをする。


「う、うん……。今日は、これでいいや」


 髪を撫でれば、彼は俯いて言い放った。


「本当はな」

「ん?」


 すぐに顔を上げて呟くミノリに、ハルカは笑いかける。


「本当は……、課題をやる為に呼んだんじゃないんだ」

「じゃあ、なんの為に呼んだんだ?」


 問えば、彼は立ち上がり横に腰を落ちつける。


「食事会、しようと思って」

「食事会? って、え?」


 どういうことかと聞こうとすれば、彼が先に口を開いた。


「お礼をしたいんだ。オレ達に関わってくれた人に。友紀さんとお父さんと、おばさんと部長と黒崎さんにね。『達』ってくくっちゃったけど勿論――ハルカも入ってるよ」

「俺も? というか、俺に言ったら意味なくないか、それ」

「それはそうだけど……。手伝ってほしかったから」


 そう言い放ったミノリの手を優しく握りしめた。彼は彼で握り返す。


「そう。なに作るんだ?」

「カレーだよ。ハルカは、カレー好き?」

「ハンバーグの次に」

「オレも麻婆豆腐の次に好き」


 美味しいから、と言えば、でも、とも言い放つ。


「皆一緒の時間じゃなくて、友紀さんとお父さんとおばさんには一時間くらい早く来て貰うよ」

「話とかあるんだ?」

「な、なんで判って……!」

「そりゃあ、雰囲気でなんとなくね」


 空いている片手で髪を撫でれば、視線を逸らされた。


「キラキラしてる。なんか見てると、光線にやられそうだ」

「光線って、なんだよ。ビームなんて出してないし。大体ミノリの方がっ」


 ハルカはフイと顔を背けた。小さく呟く唇に、手の甲を添える。


「凄い……キラキラしてるし」

「顔、赤い」


 軽く吹き出すと共に、ミノリは口に添えられた掌に触れた。ぴくりと手が動く。


「ありがとう」


 恥ずかしげに、しかし、嬉しそうに笑っている。


「どういたしまして」


 ハルカの唇からは自然と言葉が紡がれた。


「話、逸れたけど戻していい?」

「いいよ」


 唇から手が滑り落ちる。ミノリは手を離すことはなく、その手を軽く握りしめた。


「友紀さんが家に来て、四年経った。オレはその間一度も、『お母さん』って呼んでない。……ただの一度もね」


 彼の言葉にハルカは軽く頷く。呼びたくても呼べないことを知っている。


「今の母親は、友紀さんだ。だから――」



 コレにもけじめをつける。



「――あぁ」


 ハルカの腕の中にミノリは収まった。


「ミノリはカッコいい」

「カッコいいのはハルカだよ」


 何時もその声で背中を押してくれる。何時も、その手で掴んでくれる。迷った時には、泣きたくなった時には、力強くて安心した。


「そうか?」

「うん。ハルカはカッコいい」


 腕の中で身動ぎ、背中に腕を回す。どうにも照れ臭くて、胸に顔を埋めた。数秒の間の後に『ありがとう』という呟きが聞こえる。その声音から考えれば、ハルカも照れているのだろう。

 ハルカはハルカで、ミノリの肩に顔を埋める。それを横目で見遣れば、耳がうっすらと赤い。やはり相当きているのか。


「可愛い」

「お前がそれを言うか」


 腕を離し、その長い指でデコピンを繰り出した。


「っ……てぇ」


 額を片手で押さえて、ミノリは彼を見上げる。


「デコピンは地味に痛いから止めろよ」


 そう言い放ったミノリの頭を撫で、ハルカは声を出して笑った。


「ごめん」

「別に、あんま痛くなかったしいいけどさ」


 多分、ちょっと赤くなっているだろうが、痛みはあまりなかった。そんなに力は入れていないのだろう。


「部長に電話してみるな」


 話を切り替え立ち上がり、ベッドフレームの棚に置かれた携帯を手に取った。


「……そういえば、電話するのは初めてだ」


 番号とメールアドレスの交換は、部員になってすぐにした。――半ば無理矢理だったが。宝の持ち腐れであったが、今日やっと役に立つ。


「交換してよかったな」

「うん」


 ボタンを弄り、電話を掛ける。コール音の間にハルカの隣に行き、隣に腰を下ろした。


『――初めてだね、木下くんからの電話』


 数回のコール音の後に、部長の澄んだ声が聞こえた。


「そうだね。ちょっと話があるんだけど、大丈夫?」

『大丈夫だよ』


 返答が聞こえたらば、彼は食事会の説明をする。感謝をしたいこと、カレーを作ること、来てほしい時間を簡潔にである。彼女は静かにそれを聞いていた。


「あ、でも部長、夏期講習なかったっけ?」

『大丈夫ですよー。偶然にも明日は休みだしね。じゃあ、明日お邪魔するから、よろしくお願いしまーす』

「部長、あと黒崎さんにも伝えてほしいんだけど、いいですか?」

『黒崎さんに? オッケー、判った。あとさ、傍に山並くんいるよね?』

「いるけど……」


 どうして判るのだろうか。


『勘だよ、女の勘ってやつ。――じゃあね』


 沈黙からなにかを察したらしい部長は一気に言い放ち、通話を切った。


「切れた」


 携帯を耳から離し、ミノリも通話を切る。


「部長、なんだって?」

「来るって言ってたよ。黒崎さんにも伝えてくれるってさ」


 後は――残り一人だ。


「あと、お母さんにも伝えたい」


 折り畳んだ携帯を軽く握りしめる。――アレで会えないのは、心苦しいんだ。


「連絡先、知ってるのか?」

「知らないけど……。ダメかな?」


 ミノリは携帯をミニテーブルに置きながら問う。


「ミノリが来てほしいなら、なにも言わないよ」


 言って手を握れば、握り返された。


「多分……、ううん、絶対に来てくれないだろうけど、伝えるだけは伝えたいんだ。完全な自己満足だけどね」


 皆が知っている中で、一人だけ知らないのは、いけない気がする。伝える術があるのなら、それに越したことはない。


「じゃあ、俺も父さんに伝えようかな」


 彼が母親に伝えるのならば、自分も父親に伝えようと思える。


「お父さんに?」

「うん。まぁ、こっちも忙しそうだし、来れないとは思うけどな」


 壁に頭を預けつつ天井を見上げて目を閉じた。


『――お前の所為だ!!』


 甦る父親の言葉はどこか遠い。


『お前の――』

「ハルカ」

「ん、なに?」


 遠い声はミノリの声に消され、ハルカは瞼を押し上げる。


「眠たい?」

「違うよ」

「そっか」


 ミノリも同じように天井を見上げる。コツン、と壁に頭を預ける音がした。


「ミノリ?」

「オレさ、ハルカと遊ぶ前の日は、なかなか眠れないんだ」


 楽しみすぎて、と彼は音量を落として呟く。どうやら眠たいらしい。無意識に瞼を擦っている。


「ほら、膝枕」


 足を投げ出した彼はミノリを引き寄せて太股ふとももに頭を乗せた。


「眠たいなら、寝ろよ」


 横に寝かせたミノリの髪を撫でながら言い放てば、彼はその手に指を絡ませる。


よだれ、垂らしたら怒る?」

「怒らないよ。拭けばいいだけだから」


 そう言ってまた髪を撫でた。


「――ハルカも寝たいなら寝ていいよ」

「そうするよ」


 返答を聞いて微笑めば、徐々に瞼が下がる。ここらで限界らしい。


「おやすみ、ハルカ」

「おやすみ」


 寝息が聞こえたのはすぐだった。余程眠たかったのだろう。

 残された彼は壁に凭れ、寝顔と蝉の鳴き声、そして窓から入る涼風を一人堪能したのだった。



◇◆◇◆◇◆



 通話を切り、彼女はメインディスプレイに表示されたアドレス帳を眺める。


「さて、出るか否か」


 発信を押して、携帯を耳に添えた。発信音の後のコール音が耳を支配する。


『…………もひもひ?』


 数秒間の沈黙の後、寝起きの様な声が響いた。


「黒崎さん、寝てた?」

『んー、その声は……部長? ……んーそう、寝起き……』


 予想を裏切らない回答に彼女は――馨は笑みを浮かべる。


「そかそか。あのさ、木下くんから食事会に誘われたんだけど、黒崎さんは行く?」

『はい? 食事会にさらわれた……?』

「違うよ、さ・そ・わ・れ・た、んだよ。誘われた、ね」

『あー……、あぁ、誘われたね。寝惚けてた』


 紗夜の声ははっきりしてきた。どうやら寝起きから冴えたらしい。


「で、行く?」

『部長は?』

「行くよ。だから黒崎さんも行こうよ。食事会は正午からだってさ」

『ちょっと待った。それ何時やるの?』


 話を進めるのはいいが、何時やるのかはでてきていない。


「え? あぁ、言ってなかったっけ? 明日だよ、日曜日」

『明日……、ね』


 それっきり彼女は黙り込んだ。


「行きたくないなら断っとくよ?」

『ううん、邪魔じゃないかなと思ってさ』

「誘われたなら邪魔じゃないって」

『そうかなぁ……。んー、部長が行くなら行こうかな。やっぱ誘われるのは嬉しいしね』


 行くことを決意した紗夜はそれを部長へと伝える。


「じゃあ、そう伝えとくね。あ、五分前には行きたいからよろしく」

『判りました』


 声の後に機械音が響いた。部長も通話を切り、彼女はなにを思ったのか今度はハルカに電話をかけたのだった。



◇◆◇◆◇◆



 髪を撫でれば、ミノリは身動ぎ寝転がる。


「ん~」


 寝言を溢し、片手を小さく上下に振る。一体どんな夢を見ているのか。


「ん……? んー?」


 耳を澄ませば蝉の鳴き声に混じり、なにかが聞こえる。もしやと思い、隣にあるトートバッグを見れば、それは微かに震えていた。着信かメール、はたまた不在着信であろう。

 手を突っ込み、奥にある震えたままの携帯電話を取り出す。サブディスプレイを見遣れば、着信マークがあり、『部長』と表示されていた。彼は急いで携帯を開き、着信に応じる。


「はい」

『山並くん?』

「うん」

『っ……やっと繋がった! よかったー』


 歓喜の声が聞こえたかと思ったら、安堵の溜め息混じりの声が届く。


『三回もかけたのに出ないからさぁ、どうしたのかと思ったよ』

「それはすいません。ミノリと話してたから、出れなかったんですよ。今は寝てるけど」

『ほぉ、お昼寝ですか』

「それより、なんでこっちにかけてきたの?」

『なんとなく!』


 その言葉で無意識に、腰に手をあて胸を張る部長の姿が浮かぶ。威風堂々たるその姿は、さすがといったところか。


「黒崎、なにか言ってました?」

『邪魔じゃないかなって言ってたよ。でも私が軽くたしなめたら、考えが変わったみたいで来るってさ』

「そうですか。伝言ありがとうございます」

『いえいえ。――ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?』

「どうぞ」

『随分前に木下くんにも同じような質問したんだ。だから、山並くんにも聞くね』

「なんですか?」


 なにがくるのかと身構えて、少しだけ躯が固くなる。


『木下くんのどこが好き?』

「――……部長がそれを知って、なにか意味が在るんでしょうか?」

『意味なんてないよ。木下くんに聞いたから、山並くんにも聞かなきゃなって思っただけで』

「その…………、恥ずかしいから、ミノリには絶対に言わないで下さい。――限定されてどこがっていうのじゃなくて、ミノリの全てが好きです」


 そう紡げば、ミノリが動いた。心臓が大きく跳ね、躯が竦んでしまう。どうやらまた寝返りをしたようで、寝顔がこちらにある。寝ているから聞いていないだろう。


『――そうなんだ。大丈夫、木下くんには言わないよ。約束する』

「ミノリは、なんて言ってた?」

『木下くんは……、木下くんは答えられなかった』


 声の質が下がる。言い淀むのは解らなくもないが、それは当たり前だと思ってしまう。


「まぁ、そんなところでしょうね。時々考え過ぎる質だから」


 張本人の髪を撫でれば、鬱陶しげに眉が下がる。彼は撫でるのを止めて、腕をだらけさせた。


『よく見てるんだね』

「ミノリに関しては、ですけど」

『うん。本当に山並くんは木下くんしか見てないもんねぇ。こっちが恥ずかしくなるくらいだよ』


 時々、クラスメイトや友人が目を逸らしたり、顔を俯かせるのはそういう理由か。


「それはどうも」

『なんか話が大分逸れちゃったね。ごめんね』

「いや、部長が謝ることはないですから」

『明日、五分前くらいに着くように行くから、よろしく』

「五分前ですね。伝えておきます」

『楽しみにしてるよ。じゃあね』


 通話が切れる。電源ボタンを押して、ハルカも通話を切った。すぐに畳んだ携帯をトートバッグに戻せば、動く気配がする。


「――あ、悪い……、起こしたか?」


 眼下には目を擦るミノリの姿。心しか頬が赤い。


「……ハルカ……」

「なに?」


 なにか言いたげに口を動かすミノリに顔を近付ければ、目を腕で覆ってしまう。


「おはよ……」

「おはよう」


 その声を聞いて上半身を起こし、ミノリは俯きながら彼に問い掛けた。


「――足、痺れてない?」

「大丈夫」

「そ……か。あ、顔洗ってくるな」


 そそくさと部屋を出て行くミノリを眺め、ある考えに至る。あの時、動いたのは。頬が赤いのは――。


「……まさか――――聞いてた、のか?」


 一気に羞恥が湧き上がり、躯が火照った。片手で髪を掻き上げ、片手の甲で口を覆う。


「……恥ず」


 彼は小さく呟き、どこか嬉しげに口角を上げた。



◇◆◇◆◇◆



 洗面所に駆け込んで、勢いよくドアを閉める。

 耳を纏う言葉は、意識が浮上した時に聞こえてきたモノだ。

『その…………、恥ずかしいから、ミノリには絶対に言わないで下さい。――限定されてどこがっていうのじゃなくて、ミノリの全てが好きです』

 蝉の声も車の走り去る音も、なにもかもが止まった気がした。ただ彼の声だけが、自分の中に入ってきた。そして、羞恥を誤魔化すように寝返りをした。


「っ――」


 洗面台の鏡を見遣れば、頬が赤いことに気付いた。熱を冷ます為に急いで蛇口から水を出し、顔を洗う。


「……どうしよう」


 蛇口を止めて、洗面ボウルの縁を人差し指でなぞる。

 彼は『絶対に言わないで下さい』と言った。それなのに、聞いてしまった。怒るだろうか。いや、笑って許してくれるだろうが、聞いてはいけないことを聞いたのだから非はこちらにある。やっぱり――謝ろう。


「全てが好き、か」


 自分は――答えられなかった。考えても、答えなんて出なかった。


「――全部、好き……?」


 呟いて、そういうことかと理解した。


「同じなんだ。うん、一緒だ」


 どこが、ではなくて――。


「全部好き」


 はっきりした。やっと解った。解って、張りつめた糸が切れ、躯から力が抜けてしまう。その場にへたり込み、口を押さえて俯いた。耳まで赤くさせながら。



◇◆◇◆◇◆



 トートバッグから携帯を取り出し、時間を眺め、息を吐き出す。


「三分、か」


 よもやカップラーメンが出来上がる時間が経過した。


「またなにか考え込んでるとか?」


 有り得ないことではない。寧ろ、有り得すぎる。


「…………あと二分待と」


 ――そうして、迎えに行こう。

 結論を出しても、出さなくてもどちらでもいい。それが答えなら、受け止める。


「あれ……、そういや、友紀さんが呼んだんだっけ?」


 ふと思い起こしてみれば、元母親を呼んだのは他でもない友紀である。連絡手段は、ちゃんとあった。


「じゃあ、聞けば判るか。あ……、二分軽く過ぎてるしっ」


 サブディスプレイを見て、ポケットにそれを突っ込み、ハルカは慌てて部屋を飛び出した。知らず知らずのうちに笑みを浮かべて。



◇◆◇◆◇◆



「顔を洗うならキッチンか、洗面所か……」


 ぶつぶつと独り言を呟きながら一階に下りて、リビングのドアを開け放つ。すぐさまキッチンに視線を遣るが、そこにはミノリの姿はない。


「あれ? いないな。なら、洗面所か」


 ドアを閉めて、斜向はすむかいの洗面所に歩を進めた。そのドアを開け、我が目を疑う。――床に座り込んでいるではないか。しかも俯いている。


「ミっ、ミノリっ!?」

「え、あ……、ハルカ」


 腰を抜かすかと思った程に驚くハルかとは対照的に、ミノリはなんともないような穏やかな口調でハルカを見上げた。


「どうした? 気分が悪いのか? 立てるか?」

「問いかけばっかりだ」


 可笑しそうにくすくす笑い、彼は頭を左右に振る。


「大丈夫。ちょっと躯の力が抜けただけだから」

「そ、そっか……。じゃあ、なんともないんだな?」

「うん」


 その言葉に胸を撫で下ろし、彼はミノリと目線を合わせた。


「吃驚した」

「ごめん。――ごめん、ハルカ」

「いいよ。腕、動かせる?」


 問われて腕を上げる。腕が動くなら、直ぐに足も動くだろう。確証はないが。


「ん、なら大丈夫かな」

「ハルカぁわっ!?」


 彼は持ち上げられたのだ。俗にいうお姫様だっこである。背負うことは足が動かないので消去し、荷物のように担ぐのも気が引ける。――なら、残るのは一つ。


「お、重い……だろ」

「そりゃあミノリは男だし、女子よりは重いな。でも、俺より軽いだろ」

「ハルカはデカいんだよ」


 言い放ちながら落ちないように首に腕を回す。


「デカいか?」

「オレよりデカい」


 歩き始めれば、ミノリは彼に躯を預けた。


「でもそれがハルカだもんな。小さいハルカは想像出来ないや」

「俺も、デカいミノリは想像出来ないな」


 開け放たれたドアから出て、ふと気付く。


「これじゃあ、ドア閉められないな」

「あとで閉めればいいよ」


 言うことは尤もだ。この状況で片手を離すのは危ないだろう。


「じゃあ、後でいいな。リビングのドアは開けれるか?」

「どうだろ……」


 言い放ち、手を握りしめ、ゆっくりと開く。


「動くから開けれるかな。多分、だけど」


 その言葉を聞いて、再度歩き始めた。数歩進むだけで、リビングのドアがそびえ立つ。そっ、とドアノブに手を伸ばし、それを少し下げて手前に引く。キィッ、と小さく軋む音が響き、ドアが開かれた。


「開いたよ」

「ありがとう」


 リビングに入り、右側にあるソファーへとミノリを運ぶ。丁寧に下ろされた彼は、目前に佇むハルカの服の裾を掴んだ。


「なに?」

「ごめんなさい」

「ミノリ?」


 不思議そうに問えば、ミノリは目を泳がせる。ハルカは裾を掴む手をやんわりと外して、隣に腰を下ろした。


「――謝るようなこと、した?」

「聞いたから。言わないで下さいって言ったのに、聞こえたんだよ。だから、謝ろうと思ったんだ」


 まっすぐに瞳を向ける彼の顔はほんのりと赤い。察するに思い出したのだろう。


「なんだ。やっぱり聞いてたんだ」

「やっぱりって、判ってたの?」

「あの慌てようで解るし」


 そう言って、何時ものように頭をくしゃくしゃと撫で回す。


「聞こえたなら不可抗力だし、言わないで下さいって言ったのも、ただ恥ずかしいだけだから」


 謝らなくてもいいよ、と紡ぎながら、また頭を撫でる。


「いいの?」

「いいよ」

「ありがと」


 柔らかく笑い、頭に置かれた彼の手を取って、自分の手を重ねる。


「オレ、正直言って解らなかった。ハルカは好きだけど、『どこが』って聞かれても答えられなかったんだ。考えても答えなんて出せなくてさ……。でも、ハルカの言葉を聞いて解った。オレはハルカの全部が好きだって。顔も声も、強さもあるし、それに弱さだって好き。――全部が大好きなんだ」


 言い終わるなり、ハルカの顔がみるみる赤く染まる。ハルカだけではなく、ミノリの顔も先程より赤く染まっていた。


「も……一回、聞かせて……」


 手を頬まで挙げ、人差し指を立てる。


「大好き?」

「うん。もう一度聞きたい」

「大好きだよ」


 今度は気恥ずかしさに顔を逸らしていたが、それも可愛らしい。


「オレも……聞きたい。ハルカの声で、『大好き』って聞かせてよ」

「大好き」

「……もう一回」


 逸らした顔を戻し、俯いた。


「大好きだ」

「……ん」


 照れを隠す為か否か、手の甲で口を押さえ、頭を縦に振る。そんなミノリの頭を撫でて、ハルカは立ち上がった。


「俺、二階うえから荷物持ってくるわ」

「判った」


 ハルカはリビングを出ていく。――彼は三度の往復で、二階の部屋に置いたトートバッグ、各々の課題と筆記具、コップとお茶入れを持ってきた。


「あ、ドアはちゃんと閉めたからな」

「うん。お疲れ様」


 生温なまぬるくなったお茶を飲み、口を開く。


「あと、考えてみたんだけど――友紀さんが呼んだんだよな?」

「え?」


 軽く首を傾げる彼に、ハルカは笑みを浮かべながら答えた。


「ミノリの母親」

「あ……、そういえば……」

「聞いたら判ると思うよ。こっちも、美江子さんが連絡取ってるみたいだから、聞いてみる」

「よかった」

「うん?」

「ちゃんと伝えられる」

「そうだな」


 嬉しげに笑う彼の頭を撫でて、再び立ち上がる。


「ハルカ?」

「甘いモノ、食べたくないか?」


 唐突に紡がれた言葉に、また首を傾げた。


「甘いモノって、買ってきたやつ?」

「そうだよ、食う?」

「食べる」


 返答を聞いて冷蔵庫へと歩を進めた。ドアを開けて冷えた袋を取り出し、踵を返してソファーへと戻るその一連の動作にも見惚れる辺り、やはり好きすぎるみたいだ。


「あー、スプーン出すの忘れてた……」


 袋の中を覗き見て、スプーンを取り出す。


「冷たくて丁度いいかも」

「その考えはなかったわ」


 片手で取り出したプリンをテーブルに置いてから、片手で持っていた冷えたスプーンを伸ばされた掌に置く。


「甘いモノってプリンか」

「プリン・ア・ラ・モードと牛乳プリンもあったけど、スタンダードが好きだからな」

「ハルカが?」

「ミノリが、だよ。プリン好きだろ?」

「好きだよ。だけど、プリンじゃなくたって、ハルカが買うならなんでも好きになるかな」

「なんでもって、アバウト過ぎるし」


 困ったように眉を寄せるが、嬉しそうに口角は上がっていた。


「――かっ」


 可愛いと言いかけたが寸でのところで飲み込んで、慌ててプリンを手に取り蓋を剥がす。


「え、なに?」

「なんでもないっ。気にしなくていいから」


 次々とプリンを口に運び、咀嚼をしながら横を見遣る。隣にいる彼は、その蓋を剥がしていた。


「ん?」

「んーん」


 頭を振ってまたプリンを口へと運ぶ。それを眺めて、ハルカもプリンを口へと運び始めた。


「急いで食うと詰まるぞ」


 隣をチラチラと眺めながら咀嚼を繰り返すミノリに言い放ち、片手で頭を撫でる。


「課題、ここでやるか。まぁ、その為に持ってきたんだしな」

「ん!」


 紡がれた言葉に頷き、今度はちびちびと食べる。言われた通りに、掻き込み過ぎて喉が詰まりそうになったからだ。


「ご馳走さま」


 ほぼ同時に空の容器がテーブルに置かれた。ミノリはそれを手にシンクへと歩く。水が流れる音が数分響き、彼はゴミ箱へと容器を放った。


「さ、課題やろっか」


 ちょこんとフローリングカーペットに腰を下ろし、課題を手に取る。それに習い、ハルカはソファーからカーペットに座り込んだ。


「はい」

「ありがとう」


 渡された課題を開き、筆箱からシャープペンシルと消しゴムを出して、課題に取りかかる。それからはペンを走らせる音と消しゴムをかける音、課題の小冊子や束ねたプリントを捲る音、それに蝉の鳴き声に時計の針が進む音がリビングを占領した。


「んー……、ハルカ、ここ解る?」

「どこ?」

「ここ――問六」

「こっちの公式でやってみ」


 トントンとペンの尻でページ上部に書かれた公式を叩き、またペンを走らせる。


「そっか、判った」


 軽く頷き、公式通りにペンを走らせれば簡単にそれは解けた。解けなかったのは、使う公式が間違っていたかららしい。要は判ったので、次々に問題を解いていく。


「――……で、だから訳は……、なんか違うな。辞書いるか」


 呟きつつ英語の課題を進めるハルカは、トートバッグから電子辞書を出した。辞書の蓋を開き電源を入れて、意味を調べる。それを念頭に置き、日本語訳を書き直す。

 カリカリとペンの走る音が響く中、時間は過ぎて、リビングのドアが開く。


「ただいまー。あ、ハルカくん、いらっしゃい」


 二人共課題に集中していた為に、その声に躯を竦め顔を上げた。


「あ、友紀さん。お帰りなさい」

「お邪魔してます。あれ、――今何時……?」


 トートバッグから携帯を取り出し、サブディスプレイに映る時間を見遣る。時刻は十七時四十二分を示していた。


「ミノリ、俺は帰るわ」


 言って急いで机上を片付け、トートバッグを肩に掛ける。立ち上がろうとする彼の服の裾を掴み、ミノリは言葉を紡ぐ。


「待って。玄関まで送る」

「じゃあ、一緒に行こうか」


 やんわりと外した手を取とって立ち上がり、歩き始めた。ドアを抜けて廊下を進み玄関まで来れば、すぐに外してしまう。その手で彼の頭を撫で、靴を履く為か躯の向きを変える。


「ハルカ」

「ん?」


 靴を履き終え、肩から落ちた持ち手を掛け直すハルカに声を掛ければ、彼は肩越しに振り向いた。


「少しだけ、抱きしめていい?」

「――いいよ。ほら」


 躯を反転させてミノリに向き直り、軽く両手を広げる。その胸に飛び込んで、不安を消し去る為に抱きしめながら言い放った。


「ちょっと……怖くてさ」

「ちょっとだけ?」

「うん」


 そのちょっとの不安も消えかかっているが。

 返答を聞いて微笑み、くしゃりと髪を撫で、背中に腕を回す。


「俺も――怖い」


 父親に対面しても一応一通りは話せるが、あの声がどうしても耳に響く。それは遠くなったが、それでも消えることはない。


「どうしたら、消えるんだろ……」

「消えるまで、一緒にいるよ」


 呟いた声にまさかの返答があり、彼は目を見開き言葉に詰まる。


「そ、れ――……だと、また、長い時間になる、と思う」

「いいよ。それに、今更すぎるって」


 見上げる瞳は、なにを言っているのか、と物語っていた。


「……悪い。そうだな」


 これまで一緒にいて、これからも一緒にいるのに、自分はなにを言っているのだろうか。

 ふと背中から温もりが消え、今度は頬に掌が添えられた。


「ありがとう、落ち着いた。オレは伝えるよ、ちゃんと」

「うん」


 小さく頷くハルカだが、元気がない。言わずもがな、先程のことが原因か。


「ちょっと屈んで」


 言われるままに膝を折って、目線を合わせる。黙りなその口に、触れるそれは唇。



「ちゃんと伝えられるように」



 その言葉を飲み込むのに数秒かかってしまう。いきなりのキスに、気が動転したからだ。


「――っ……うん……。伝えるよ、伝える」


 紡ぐ声を聞いて、ミノリはもう一度抱きしめた。


「ありがとな。ミノリのお蔭で怖くなくなった」


 くしゃくしゃと髪を撫で回し、その手で絡む腕を外す。


「伝えるって、言ったのは俺だ。変わらないよ」


 刹那、ぎゅっ、と抱きしめてそっと離す。



「伝えられるように」



 額に落とされた唇は、瞬時に距離を保った。


「じゃあな」


 もう一度髪を撫でてから踵を返す。ドアが開き、彼はドアの向こうに消える。

 ミノリは静かに閉まったドアを眺め、額に触れたのだった。



◇◆◇◆◇◆



 茜が射す空の下、帰路に着いた彼は自室へと足を運び、ラフな格好へと着替える。


「……大丈夫だ……」


 クロゼットに頭を預け、掌を握った。まだ怖いのか、と自身に問い、目を閉じた。一秒ごとに進む秒針の音を聞きながら、思い出す。

『じゃあ、俺も父さんに伝えようかな』

 確かに、そう言った。それは紛れもない事実。嘘にはしたくない。――だから、伝える。

 ゆっくりと目を開き、脱いだ服を手に部屋を出た。

 階下にある脱衣場に置かれた洗濯機に服を突っ込み、小さく息を吐く。ねっとりと絡み付くような口にし難い嫌な感情はどこかに消え失せて、今はどこか晴れやかなモノが胸の中にある。


「大丈夫。怖くない」


 もう、怖くない。もう一度掌を握り、脱衣場を後にした。

 リビングのドアを開ければ、味噌の匂いが鼻腔をくすぐる。キッチンを見遣れば、美江子がコンロの前に立っていた。その後ろ姿に声を掛ける。


「美江子さん」

「もう少しでお味噌汁が出来るから待っててね」

「あぁ……、はい」


 言われて小さく頷く。今は聞けない雰囲気で、聞くことを止めた。

 キッチンの前に配置された食卓用テーブルのイスを引き、腰を下ろす。テーブルには何時ものごとく二人分の茶碗と箸、コップにおかずが盛られた大皿、それに取り分け用の小皿が並べられていた。

 彼はテーブルの端に置かれたペットボトルのお茶をコップに注ぎ、一気に飲み干す。お茶の冷たさが躯を冷やし、落ち着いた心には静けさをもたらした。

 これまたテーブルの端に置かれたリモコンで、テレビの電源をつける。高い声が聞こえ、民放の女性ニュースキャスターが画面に映った。


「天気、どうだろ」


 明日は晴れるだろうか。それとも、曇りか。はたまた――雨、だろうか。地元ニュースや全国ニュースより、気になるのは天気予報だ。

 ニュースを流し見つつ、天気予報になるには数分かかった。テレビでは男性予報士並びに女性ナレーションが、明日の天気について語っている。


「明日は晴れか。よかった」


 明日も気温は高く、湿度もそれなりにはある。熱中症には気を付けてなければな、とぼんやりと思う。

 テレビ画面が明日の天気から週刊予報に変わった丁度その頃に、カチン、とコンロを止める小さな音がした。リビングに味噌汁のいい匂いが漂っている。


「今そっちに行くから」


 そう言って、二つの御椀に味噌汁を注ぎ、ゆっくりと運んでくる。


「ありがとうございます」

「麻婆豆腐は温め直すからね」


 湯気が立ち上る味噌汁とは違い、大皿に盛られたおかず――麻婆豆腐は冷めていた。それを電子レンジにかけ、温め直す。


「あの、美江子さん」


 電子レンジの作動音を聞きながら、ハルカは横に立つ美江子を見上げた。


「んー? どうしたの?」

「と、父さんの……電話番号……」


 口ごもる声は消え入りそうな程に小さく、聞き取りずらい。彼自身も思わぬ小さな声に、唇を噛みしめた。


「っ……、あのっ、父さんの電話番号教えて下さいっ!」


 一気に言い放って、再度美江子を見上げれば、彼女の顔には笑みが浮かんでいた。柔らかいその笑みに、胸の奥が一瞬熱くなる。

 彼女は仄かに震えるハルカの頭上に腕を伸ばし、そっと頭を撫でた。


「――片付けが終わったあとでね」

「あ……、はいっ」


 なにを言われたのかすぐには理解出来ず、だが頭を回転させて自分なりに噛み砕く。片付けを終えたら、父親の電話番号を教えてくれる、と。



◇◆◇◆◇◆



 ドアを開ける小さな音がリビングに響いた。


「課題は進んだ?」

「それなりには進みました」

「そう」


 返事を聞きながら、彼は机上を片付ける。


「友紀さん。オレ――聞きたいことが、あるんですけど……」

「聞きたいこと?」


 振り向く友紀に近付いて、ミノリは小さく頷いた。


「教えて下さい。お母さんの電話番組」

「知ってどうするの? あの人は――……よりは、もう逢わないと言ってた」


 未依――。紡がれたその名前に、目を見開く。


「え……、なんで、友紀さんがお母さんの名前を知って……?」

「同級生だったの。大学まで一緒だったからね」


 彼女の話を聞くに、未依と友紀、それに父――孝斗は小学校からの付き合いらしい。ミノリが十二歳の頃に未依と離婚をした孝斗は、その後、友紀に再婚を申し出た。彼女自身は少なからず好意を抱いていたので申し出を受け入れたという。


「そう、なんですか……」


 初めて知った関係に、開いた口が塞がらない。


「孝斗さんは一人で育てようとしたのよ。けれども、仕事が立て込んで、一人ではどうにも出来なくなってしまったの。まぁ、元々、時間が経ったら再婚しようとしてたみたいだけど」

「お父さんが一人で?」

「そうよ、一人で」


 さらりと言い放つ友紀の顔は何時もと変わらない。


「一人って――……」


 それは、大変じゃないか。


「それと――孝斗さんはね、ミノリが淋しくないようにって私と再婚したの」

「今も昔も淋しくはないですよ」


 彼女と再婚するまでの一ヶ月間、父親の帰宅時間は遅かった。遅いにも関わらず、朝も早い時間に家を出る。多忙過ぎて、躯を壊すのではないかと思った程だ。

 その間、自分一人で家事をこなし、自分一人だけでご飯を食べた。しかし――淋しいとは一度も感じなかったし思わなかった。


「友紀さんも時々会いに来てくれたし、ハルカがいたから、淋しいなんて思わなかったんです」


 初めて会った時は倒れてしまったが、それでも、嫌な顔一つせずに友紀はお土産を持ってミノリに会いに来た。少しずつではあるが、彼はそんな彼女に心を開いていったのだ。しかしそれは、ハルカに接するような心の開き方ではない。友紀に接する時は何時も一枚の壁を隔てたような、溝がある。だが――それももう、終わりにしたい。


「……それ、孝斗さんにも言ってあげて。きっと喜ぶと思うから」

「え……、あ、はい。それで、電話番号教えてくれるんですか?」

「どうして――知りたいの?」

「それは……」


 問われ、口を閉ざす。既視感が否めないが、どうしようも出来ない。理由わけを言ってしまえば企てた計画がバレてしまう。全てが水の泡だ。


「ミノリ?」


 心配そうな声が聞こえ、彼は片手で二の腕を掴みその手に力を込めた。


「――……終わりにしたい、から……。終わりにしたいんです」

「終わりにしたいって、え? なにを?」


 彼女は目を白黒させている。困惑が前面に出ていた。


「全てを終わらせる。一度区切りをつけたい。過去に囚われたまま生きていくって選択もあるけど、オレは囚われたまま生きていくのは嫌だ。少しずつでいいから、変わりたい。……だから、明日、食事会をやろうと思ったんです」

「明日……、午後? だから、一昨日……?」

「はい」

「――そ、う。ミノリは、色々考えてたのね……。そう……」


 まだ頭が覚束おぼつかない様子な友紀は、揺れる瞳でミノリを見遣る。彼女は彼の瞳を見据えた後に、目頭に手を添えて一度頭を振った。


「そう、ね。なら――教えてあげる」


 友紀の瞳は、ただまっすぐにミノリを捉えた。



◇◆◇◆◇◆



 水が流れる音と、食器同士がぶつかる音がする。


「…………キスされた」


 ぼんやりとテレビを眺め、無意識に唇に触れる。彼からしてきたのは数えて二回程度。それも、落ち込んだ時ときた。完全に読まれているらしい。


「――っ!」


 思い出して顔が熱くなる。キスをした後の気恥ずかしげな表情が愛しくて堪らない。


「ハルカ、どうしたの?」

「な……なんでもありません」

「顔が赤いけど、本当に大丈夫?」


 額に触れる冷たい手を見詰め、だがすぐにそれを外す。熱があるわけではないからだ。


「大丈夫です」

「なら、いいわ」


 彼女はハルカの髪を梳き、隣のイスを引く。そうして片手に持っていたメモ帳を開き、同じく片手に持っていたボールペンが綴るのは、家の電話番号。メモ帳から千切られ、二つ折りにされた用紙を渡される。


「美江子さん、明日、ミノリの家で食事会をやるんですが、来てくれますか?」

「勿論」

「ありがとうございます。コレ、戻してきます」


 机上に置かれたメモ帳とボールペンを手に、彼は立ち上がった。ドア付近にある電話台へと歩を進め、電話機の隣へとそれらを戻す。

 握ったメモ用紙を開き、軽く空気を吸って息を吐く。


「――よし」


 受話器を手に、細長い指でボタンを押し始めた。

 耳に当てた受話器からはコール音が響くが、出る気配はない。コール音が途切れた後には、留守電のアナウンスが流れ出す。どうやら留守のようだ。それならば、伝言を残すしかない。受話器のコードを弄りながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「父さん、ハルカです。留守のようなので、伝言を残しておきます。明日、食事会をするんですが、来れるようなら来てほしいです。場所は――」


 場所と時間を告げ、受話器を置いた。短い息を吐いて、電話台へと突っ伏す。


「……あー、緊張した」


 汗ばむ掌で前髪を掻き上げ、もう一度息を吐く。


「ハルカ、スイカ食べましょう」


 その声に躯を起こして肩越しに振り返れば、切ったスイカが乗る皿が目に映った。赤く熟れたそれに塩を振り掛ける美江子の目は、少し赤い。

 彼女の傍まで歩み寄り、前方にあるイスに座り込む。


「美江子さん。目赤いんですけど、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。ちょっとゴミが入ってね……」


 スイカを食べる美江子を眺めながら彼はスイカに手を伸ばす。

 ゴミが入っていないことは知っていた。伝言を残している時に、啜り泣く音が聞こえたのだ。恥ずかしいのか誤魔化したみたいだが。本人が言いたくないなら聞かない方がいいだろう。


「そうですか。――いただきます」


 目前の美江子を一瞥して、スイカにかじりついた。伝えられた嬉しさに、頬を赤くさせながら。



◇◆◇◆◇◆



 家族揃っての食事を済ませたミノリは自室に戻り、ドアに凭れながら床へと座り込む。

 胸ポケットから白色の携帯電話を取り出し、数秒眺めた。それは彼のモノではなく、友紀のモノだ。これで母親に連絡をとれば怪しまれないとの配慮の結果である。

 スライド式のそれは同じ会社のモノだが、製造元が違っていた。取り敢えず画面をスライドさせて、ボタンを眺める。ボタン配列は使用しているモノと酷似していた。なら、大体は同じだろう。

 ボタン操作でアドレス帳を呼び出し、ま行まで進める。そこにあるのは、母の名前。それを眺めていれば、目頭が熱くなってくる。息を吐いて気を落ち着かせようとするが、巧くいかない。湧き上がる感情が自由を奪う。


「……っ、ち、きしょう」


 携帯を濡らさないようにと床に置いて、涙を拭う。

 ここまできて、怖いと思ってしまった。そう思ったら最後、止まることはない。


「なんで……こんなっ……」


 母の優しさを知ったのに。それなのに――怖い。


「――嫌だ……っ!」


 怖い。けれど、伝えたい。

 頭を振って、自分の携帯がある勉強机までよろめきながらも足を進める。震える手で携帯を掴み、直ぐ様電話をかけた。勿論、ハルカに、だ。

 鼓膜に響く機械音とコール音がもどかしい。その間も涙が溢れて頬を伝う。拭う度に袖は濡れて、冷たくなっていく。


『ミノリ? なにかあった?』


 愛しい人の声が聞こえ、携帯を軽く握りしめる。すん、と鼻を啜り、応えた。


「ハルカ……」

『ミノリ……、お前、泣いてるのか?』

「気、のせ……、だよ」


 なんて言ってみるが、鼻を啜る音や震える声で筒抜け状態だろう。


『玄関先、行ける? そこで待ってろ、判ったな』

「あ、ハルカっ」


 一方的に言い切って、通話が切れた。ただ声を聞きたかっただけなのに。


「ど……しよう……」


 彼は会いに来るつもりらしい。喜ばしいことだが、素直に喜べない。

 急いでメインディスプレイに戻した携帯を折り畳んで胸ポケットへと押し込み、涙を拭ってドアまで近付く。床に置いた携帯を拾い上げ、自室から走り去った。

 勢いのまま階段を駆け下り、廊下を突き進む。玄関先で息を吐いて、胸ポケットから携帯を取り出し電話をかけた。

 まだ間に合うだろうか。電話をすれば、帰ってくれるだろうか。しかし思いとは裏腹に、虚しくコール音が響くだけ。一向に出ずに、留守番電話サービスに切り替わった。


「出ない……」


 唇を噛みしめて、通話を切る。両手に持つ携帯をズボンのポケットへと押し込ませると、また涙が浮かんでしまう。

 情緒不安定では、思考が上手く働かない。どうしよう、とそればかりだ。最終的には頭を抱えて蹲ってしまう。

 ドアを叩く音で我を取り戻し、ふらふらと歩を進めて鍵を開けた。刹那、吸い込まれるかのように胸の中に収まる。


「ごめん……、ごめんなさい」

「コラ。開口一番、謝るなよ」


 小突く替わりのぽんぽんと背中を叩く手が心地好い。だが、それはハルカが来たことを思い知らされる。


「だって、ハルカは、休息中で……、オレはっ、休息、邪魔したっ」

「それぐらいいいよ」

「よ、よくない、だろっ。課題やったり、して……、る、のにぃ……っ」


 しゃくりあげる声は細く、息を吐く度に肩が大きく上下に動いている。熱い息は素肌の腕にかかり、少しばかりくすぐったい。


「それもあるかもな。それでも、呼びたい時に呼べばいいから」


 そう言い放ち、彼はデニムの後ろポケットからタオルハンカチを取り出した。それを目尻に宛がい、優しく涙を拭く。

 片手の甲で反対側の目尻に浮かぶ涙を拭い、ミノリは鼻を啜る。


「ミノリの好きなようにすればいい」

「邪魔、するのは、嫌だ……」

「今日は暇だったから、邪魔じゃない」


 俯く彼の髪を撫で、ハルカは小さく笑う。嘘か真かは解らないが、彼が言うなら、そう信じよう。


「ん……。来てくれて、ありがと……」


 釣られて笑うミノリだが、乾いた涙が邪魔をして巧く笑えなかった。


「一回顔洗ってこいよ。な?」


 タオルハンカチをポケットへと突っ込んで、くしゃりと髪を撫でる。


「服……」

「すぐ乾くよ」

「……うん」


 母親と会った時と――あの時と同じ言葉に軽く頷いて、ぎゅっと手を握る。


「中、入って」

「――……お邪魔します」


 本当は、泣き止んだらすぐに帰るつもりだった。彼が泣いていると知って、いてもたってもいられなかったのだ。しかし、現状を目の当たりにしては、弱っているミノリを一人にするのは良心が痛む。だが、いていいと、いてほしいとの想いが伝わり、彼は傍にいることにした。


「ハルカ?」


 足を進めないハルカに問いかければ、彼はミノリを見遣る。


「――ん? なに?」

「また、上の空?」

「……まぁ、そんなものかな」


 少しだけ、邪魔じゃないだろうかと考えた。彼は言った。『だって、ハルカは、休息中で……、オレはっ、休息、邪魔したっ』――と。ミノリも休息中だろう。なら、自分はいてもいいのだろうか。いてほしいと感じたが、それは本当だろうか。何時もなら気にもならない些細なことが、今は気になってしょうがない。


「いてもいい?」


 無意識に呟いてしまう。


「いてほしいけど、帰りたいなら……帰ってもいいよ」

「え?」


 返ってきた言葉に目を見開く。返事がくるとは思わなかった。


「帰りたいんじゃないの?」


 少し困った顔で言い放つが、変わらずに手は握られている。


「ごめん。冗談だから」


 『いてほしい』と口に出されたら、悩みなんて吹き飛ばされた。どちらにも似たような想いがあるらしい。

 頭を撫でて、握る手に力を入れる。


「冗談……?」

「バカだよな。些細なことが気になってる。今日はちょっと変だ」

「うん。ちょっと変かもしれない」


 赤くなった目が彼を見遣る。同時に繋いだ手を引っ張られた。


「あのさ……さっき、冗談だって言ったよね? 一緒にいてくれるの?」

「ミノリの気が済むまでいるよ」


 一歩踏み出して玄関へと入れば、背後ではドアが閉まる小さな音が響く。二人はさすがにきついが、なんとかなるものらしい。


「――ありがとう」


 お礼を述べるミノリを抱き寄せて、小さく囁く。少しだけ悪戯心が湧いた。


「どういたしまして」

「くすぐったい」


 身を捩るミノリの腰から腕を離し、靴を脱いで玄関先へと上がる。


「ほら」


 差し出された手を取り、彼も同じように上がる。

 歩き出して数歩のところにある洗面所兼脱衣場のドアに差し掛かれば自然と手が離れる。ミノリはドアを開けながらハルカに言い放った。


「顔洗ってくるから、先に二階行ってて」

「判った」


 ドアが閉まる音が鼓膜に届くと、彼は階段を上がる。上がりきれば数歩進んで、この間覚えた彼の部屋のドアを開けた。この間となんら変わりはなく、酷く落ち着くのが不思議でしょうがなかった。自分の部屋ではないのに。


「ハルカ?」


 後ろに引っ張られた気がしたが、それと同時に背後から声が聞こえた。


「あ、悪い。突っ立ってたら、入れないよな」

「ベッド座ろう」


 肩越しに振り返れば背中を軽く押され、ハルカ――もとい、二人は部屋に入る。ベッドの縁に腰をかければ、ミノリの手がハルカの手を握った。


「泣けてきたんだ、お母さんの名前見てさ。伝えるって言ったのに、このざまで……笑えてくる」


 ぽんぽんと軽く頭を叩くハルカは、とても優しい目でミノリを眺めている。


「ハルカの声を聞いたら安心するから、だから電話したんだ」

「そう」


 一方的な電話に怒ることも愚痴を言うこともない。彼はただ笑っていた。それに報いるには、伝えなければいけない。一番に伝えると言ったのは、自分なのだから。ハルカはただそれに乗っただけにすぎないのだ。

 ――伝えるんだ、母に。


「電話するから……、このまま手ぇ握ってていい?」

「いいよ」


 その言葉を胸に、瞳を閉じて息を吐く。


「――よし……」


 ゆっくりと瞼を上げて、ポケットに押し込んだ白色の携帯を取り出した。画面をスライドさせボタンを弄り、アドレス帳を開く。名前を見て、鼻の奥がツンとする。目頭が熱くなり、また涙が浮かんできた。


「……っ」

「大丈夫か?」


 頭を撫でられ、力が抜ける。

 ――母親に対面しただろ。怖くても、それでもちゃんと話せたじゃないか。出来るだろう。強く言い聞かせてもう一度息を吐いた。


「大丈夫。うん、大丈夫だ」


 ハルカを見遣るミノリの顔には笑みが浮かんでいる。

 大丈夫。出来るだろう。そう思った。それは贔屓目ではなく、本心から。

 ボタンを打つ姿を眺めつつ、彼はまた頭を撫でる。携帯を持たない側の手の繋ぎが強くなった。

 携帯を耳に宛がい、機械から厭に響くコール音を聞きながらも、緊張しているのが明らかである。ミノリは早く出ないかと内心そわそわしていた。

 反して、秒針と共に僅かに聞こえるコール音を聞きながら、ハルカは窓から見える空を眺めている。暗い空に月が朧に霞んでいた。

 ――あ、の、と不意に聞こえた声に耳を澄ませて聞き入る。


「……オレ、伝えたいことが、あって……」


 恐る恐る口から漏れた言葉は意外に大きく、母に届いていることだろう。


『伝えたいこと……? それより、どうして友紀の電話からかけてきたの?』

「それは――」


 知らない番号は怪しむから、と伝えれば、母はそうね、と簡素に答えた。


「それで、伝えたいことなんですけど、……明日、食事会しようと思って――」

『行かないわ。言った筈よ、二度と関わらずに生きていく――……。そう、言ったよね?』


 彼女の声は強い口調から優しい口調へと変わっていった。子供を宥めるようなそれは、耳に纏い離れない。


「でも、オレ……は、オレはお母さんに来てほしいんです」

『ミノリ、貴方の母親は友紀なの。私じゃない。もう……、私じゃないから。誘ってくれてありがとう。――貴方の幸せを願ってる』


 一気に聞こえた声はすぐに機械音へと変化した。腕を下ろして通話を切り、電話を眺め小さく呟く。


「来てくれないか……」


 会わない方がお互いの為。予想はしていたが、万が一の可能性にかけた訳である。しかし来てくれるかも、という淡い期待は叶わずに、泡と化した。


「ミノリ、どうだった?」

「――来てほしいってのはただのエゴだけど、ちょっとだけ……期待しちゃったんだ。でも、やっぱり、無理だった」


 渇いた笑いを漏らした彼は、揺れる瞳でハルカを見遣り言い放つ。


「そう……」

「携帯、返してくる」

「あぁ、行ってらっしゃい」


 くしゃり、と髪を撫で、その手を小さく振る。

 ミノリはベッドの縁から立ち上がり、部屋を後に一階へと下りていった。


「貴女が望むなら、もう関わらないよ、お母さん」


 それでいいんだよね。そう小さく呟いて、リビングのドアを開ける。


「友紀さん、携帯ありがとうございました」

「はい。どういたしまして」


 イスに腰をかけて寛ぐ友紀に携帯を返し、彼は踵を返した。瞬間、父の声が鼓膜を刺激する。


「ミノリ。これ、ハルカくんに」


 振り返れば、父親は片手に一つずつ紙パックを持っている。そこには潤って美味しそうなリンゴが描かれていた。


「なんでハルカがいるって、解ってるの?」

「あ、いや……、覗きじゃないぞっ。たまたま廊下を歩くハルカくんが見えてだな……うん。覗きじゃないからな」

「そう。ありがとう、お父さん」


 慌てる父を見て笑みを溢しながら、リンゴジュースを彼の手から取る。


「……ミノリ、」

「な、なにっ!?」


 頬に触れられ、躯が跳ねた。孝斗を見上げれば、彼は小さく笑っている。


「大きくなったな」

「……うん。でも、ハルカよりは小さいけど」

「まだ伸びるさ」

「そうだといいけど」


 言って彼は向きを変えてリビングを進む。入り口でもう一度振り返り、言い放つ。


「オレ、ハルカが好きなんだ。それで、迷惑をかけるかも知れないけど、その時は宜しくお願いします」


 軽くお辞儀をして彼はその場から走り去る。


「――知ってるよ。昔から」


 優しい目で言い放つ父の言葉は、去った彼には聞こえなかった。


「知らないところで育ってくんだなぁ」


 父もとい孝斗は涙が浮かぶ目を拭いて、彼女の隣に座る。


「本当にね」


 彼女も目を潤ませて、彼を見遣ったのだった。

 トントンと階段を上りきり自室の扉を開けつつ、最愛の人が腰を掛けるベッドまで走り寄った。


「お帰――っえぇっ!?」


 二人はそのまま倒れ込み、ベッドのスプリングが軋む音が響く。


「なに……、は……? どうした?」


 目を白黒させてミノリを見れば彼は起き上がり、不可抗力で倒れたハルカを見下ろした。


「さっき言った。ハルカが好きだって」

「あー……、言わなくても解ってると思うよ。友紀さんに伝えたなら、孝斗さんにも伝わるのが自然の流れだしさ」


 口元を緩めながら言うその姿は嬉しそうで、ミノリの顔に笑みが溢れる。


「あ、そか……。あのさ、重くない?」

「大丈夫。ところで、なんでリンゴジュース持ってるんだ?」


 彼は目だけを動かして言い放つ。


「お父さんがハルカにって」


 ミノリはベッドフレームにリンゴジュースを置きながらも、彼の上から退くことはしない。


「そっか。ありがとうございますって伝えといて」

「ん、判った。あのさ……、ハルカは伝えた?」

「電話したけど留守電だった。だから伝言に入れといたよ」


 ミノリの髪を梳きながら言い放てば、彼は嬉しげに笑う。


「ちゃんと伝えられた」


 髪を梳く手を取って、ぎゅっ、と抱きつく。


「緊張したけど」

「うん。緊張したけど」


 緊張しすぎて一時はどうなるのかと思った。だがそれは過去のこと。もうなにも心配しなくていい。そうして、一つの疑問が浮かんだ。


「――そういや、明日はどうするんだ?」

「どうって?」

「食材買いに行く訳だから、待ち合わせ時間決めないと」

「十時に開くから、五分前くらいには行きたいかな」

「そっか。じゃあ、五十分ぐらいに迎えにくるわ」


 ぽんぽんと軽く頭を撫でて、ハルカはミノリを引き剥がす。


「そろそろ帰るな」

「うん……、判った」


 前触れもなくなくなった温もりが淋しく、自然と声が小さくなる。

 ハルカは起き上がりつつベッドフレームのリンゴジュースを手に取った。


「下まで送る」

「じゃあ、お願いします」


 目前に差し出された手を取り、ミノリはベッドから退いた。

 二人で部屋を出て階下に降り、玄関まで辿り着けば繋いだ手がどちらかともなく解かれる。離さなければ、きっとずっと繋いだままだ。それでは帰れない。


「また、明日」

「うん。明日、な」


 靴を履いた彼は振り返り、片手でくしゃくしゃとミノリの頭を撫でて、玄関を出ていった。

 ドアが閉まるのを見詰めながら、彼は顔を綻ばせつつ小さな息を吐く。


「髪の毛くしゃくしゃだ」


 乱れた髪を手櫛で直して、彼は部屋へと戻っていく。明日に想いを馳せながら。




 

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