その日常は、

 学校からの帰り道、ミノリはハルカに言葉を紡いだ。


「ダメ?」

「――な訳ないだろ」


 ハルカは小さく笑いながらくしゃりと彼の頭を撫でる。


「ん。じゃあ明日な」


 照れたようにミノリは顔を背け、空へと視線を向ける。

 『明日一緒に夏休みの課題をやろう』――それが紡いだ言葉だった。


「ミノリ」


 振り向かせたくて名前を呼べば、恥ずかしそうに視線が戻った。


「なんだよ?」

「なんでもない」


 笑みを溢すハルカに対して、ミノリはきゅっと絡める指に力を込める。そうして小さく漏らした。


「名前……」

「うん?」

「もっと、呼んで」


 言い放ってから、羞恥が込み上げてくる。体温が上がるのが判った。繋いだ手もじんわりと汗ばむ。

 彼は目を見開き、不思議そうにこちらを見下ろしている。羞恥が強くなった。


「や、やっぱりいいや。忘れてくれ」

「ミノリ――」


 見開いた目が細められ、繋いでいた手を引っ張られる。胸の中に収まり、頭を撫でられた。


「何度でも呼んでやるよ」

「いいってば! 言葉の綾だしさ。恥ずかしいし」

「恥ずかしい? 判った。じゃあ、呼ばない」


 その言葉に、ミノリは頭を振った。それは嫌だ、と。


「今は恥ずかしいんだろ? 恥ずかしくない時に呼んでやるからさ」

「ん、ごめん」


 申し訳なさそうな瞳がくしゃくしゃと頭を撫でるハルカを捕らえる。眉が下がり、今にも泣き出しそうな顔。


「いいよ。ミノリが恥ずかしがり屋なのは知ってるし。でも強くて反対に脆いのも知ってる。――今更、だろ」


 そう言い放ち、また髪を撫でた。


「あのさ、ハルカは名前を呼んでほしいとかないのか?」

「そう思う前に呼ばれてるから、ないな」

「誰に?」

「……お前な……。そこでそれを言うか」


 呆れた顔で小さくため息を吐く。まさかそんなことを言うとは思わない。


「いや、だってハルカは友達沢山いるじゃん」


 ぺちっと軽く彼の頬を叩き、摘まむ。柔らかなそれをフニフニと弄り、強い口調で放つ。


「怒るぞ」

「ごめん……。自惚れるのは違うんじゃないかって思えてさ」

「違わないから自惚れろよ。俺が名前を呼んでほしいのは誰かぐらい解るだろ?」


 頬を摘まんでいた手を離し、真剣な顔付きで問う。そうすれば、ミノリは軽く頷いた。


「ならいいけど。それより暑いな」

「顔、赤いもんな」

「ミノリも赤いしな」


 ぽんぽんと軽く頭を叩き、ハルカは肩に回した腕を離してミノリを解放する。


「夕方だからだよ」


 頬を染めつつ唇を尖らせて視線を逸らす。オレンジ色の雲が視界に入った。


「そういうことにしとくか」


 楽しそうに笑う声が届く。視線を遣ると、拳を口に添えていた。見据えていれば、空いている片方の手が差し出される。


「手、繋ぎ直そう」

「……う、ん」


 改まって言われると恥ずかしいが、そっと手を乗せた。そしてゆっくりと歩を進める。風に流される雲のように、ゆっくりと。


「ミノリの手は綺麗だな」

「それ海に行った時も言ってたし」

「あの時のミノリの顔は忘れられないなぁ」

「は? なに、どんな顔してたのオレ」

「教えない」


 ふっ、と口端を上げる。それは楽しげであるが、妙な色香があった。


「教えろよっ」

「今度な」

「今度って……、まぁ、いいや」


 小さくため息を吐いて繋いでいる手を離した。刹那、指を絡めて繋ぎ直す。俗にいう恋人繋ぎだ。


「どうした?」

「いや、別に」


 不思議そうに見遣る彼に声を掛ければ、彼はすぐに顔を戻した。

 繋いだ手が変わったことに気付いている気配はない。寧ろ、気付かれたくはないけど。


「こうやって、手を繋ぐのは何度目だろうな」

「えっ、あ……」


 繋がる手を振り上げ、視線が手元にきた。まじまじと指先を見ている。――恋人繋ぎがバレた。

 一人だけ浮かれた様に、全身が熱を帯びる。涼風にあたり冷えかけた躯は、今にも湯気を出しそうだ。


「こ、れは、その、アレでして……」


 俯き、目を泳がせる。沈黙が痛かった。痛すぎる。大胆すぎたか。普段はしない行動だから驚くのも無理はない。ただ単純にしたかった。それだけ。


「いいな、これ」

「な、なっ、なにが?」


 動揺で声が掠れた。鼓動が速くなる。怒られるのだろうか。


「恋人だって、一目で解る」


 そう言い放ち、ハルカは指先に力を込めた。その言葉にミノリは跳ねるように顔を上げる。そこにはほっとしたような顔があった。


「お……、怒らないの、か……?」

「なにに怒るんだよ。そりゃあ、ちょっとは驚いたけどな」


 繋がる手をワザとらしく目線に合わせ、にっこりと笑う。


「今までミノリは消極的すぎたから、これからは大胆になればいい。あ、大胆すぎるのはよせよ」

「判った」


 『大胆すぎる』とはどういうことか。いまいち理解出来ないが、小さく相槌を打った。


「そういえば、明日はどこに集まって課題をやるんだ?」

「オレの家だよ。ハルカは、ハルカの家がよかった?」

「いや」


 言い放ちながら、左右に首を振る。


「この時期だと図書館も考えたんだけど、人、いるしさ」

「そうだなぁ。図書館は一杯だろうし、そもそも人が多いのはごめんだしな。やっぱり家が一番だろ」

「ハルカは意外に人混み嫌いだよな。何時も友達に囲まれてるのにさ」


 言葉を紡ぎながらくすくすと笑う。ハルカが人混みが嫌いだと知っているのは、自分だけ。誰も知らない。それは誰よりも自分が近くにいる証だろう。


「アホか。規模が違うだろ、規模が。十数人と何百人くらいの差があるぜ? んなところに行けるわけないだろ」

「夏祭りとかはダメか?」

「行きたいのか?」


 呟いた言葉に、返答があった。


「……少しだけな。この年になっても祭りとか一度も行ったことないし、どんなのか見てみたい気もするけど、でも……やっぱり恐いかな」


 数秒の沈黙の後に、言葉を紡ぐ。本心であり、小さな願いであった。祭りの風景がテレビで放送される度に、輝かしい人々に憧れを抱いた。楽しげに笑う人々。色とりどりの飾り付け。それらは憂鬱な気分を取り除いてくれた。――だが、撮される夜の空間に、戸惑った。祭りが盛り上がるのは、必然的に夜だ。暗闇が嫌いな自分は、行けるわけがない。

 クロゼットに閉じ込められたあの時の恐怖が、地の底から這い上がってくる。真っ暗の中に、置き去りにされた哀しさ。繋ぐ手も温もりもなにもなく、ただ一人ということの虚しさ。

 母親の愛を理解しても、トラウマは消え去ることはなかった。少しずつ、自分で消化していくしか道はないだろう。


「ミノリが祭りに行きたいなら、行こうか」


 放たれた言葉に目を見張る。


「えっ!? でもお前、人混み嫌いだろ?」

「我慢出来ないこともないし、いいよ。考えてみれば、ミノリとどこかに行くことは殆んどなかっただろ? 行ったとしても公園だけだったし」

「そうだっけ?」

「うん。どちらかの家に行って話をするぐらいで、後は公園に行って遊具で遊ぶぐらいしかしてないな」

「んー……、そう、言われると、そうだな」


 顎に手を添えて記憶を手繰れば、少しずつ記憶が甦った。彼の言った通り、話をしている姿や公園の遊具で遊ぶ姿が脳裏に浮かぶ。


「本当にどこにも行ってないな、オレ達」


 遠足や社会見学以外で、遊園地や動物園・その他テーマパークの類いには足を踏み入れたことがない。それでもなんら支障はなかったが。


「だろ。時間があったら行こうな」

「でも人混み――いてっ!」


 ハルカのデコピンがミノリの額を襲った。じんとした痛みが残る。


「んなこと気にしなくていいから」

「でも……」


 横目でちらりと見ると、視線がかち合う。そうして、風が二人の間を吹き抜けた。


「ミノリ」

「時間……あったら、行く」


 顔を背けて言い放つ。怒気を含ませた声。だが、その声には優しさも滲み出ていた。

 大人っぽいハルカに対し、意地っぱりな自分がやけに子供染みて見える。――恥ずかしさで、顔が見れなかった。意地を張り続けるのは、ハルカにしてみれば迷惑極まりないだろう。怒るのも頷ける話だ。しかしそんな感情は抱かせたくない。怒るより、笑ってほしい。隣で。


「あぁ。約束、な」


 頭部でなにかが動く。言われなくてもハルカの手だ。頭を撫でられる度に、心地のよいモノが躯を巡る。

 それは嬉しさか、はたまた安らぎか。どちらだろうか。――いや、『どちらか』ではない。両方だ。嬉しさも安らぎも混同されて、全身を流れる。そうして、ふわふわと足が浮きそうな錯覚に陥るのだ。


「また明日」


 言葉と共に、頭部の手が離される。『明日』という単語に、家の前に着いたのだと悟った。繋いだ手も離される。


「時間決まったら電話してくれ」

「判った」


 本当は、もう少しだけ触れてほしい。


「ミノリ……、帰れないんだけど」

「えっ? あっ!?」


 服の端を掴んでいた手を離す。無意識にしていたようで、全く気付かなかった。


「ごめん」

「そうだな。もう少しだけ、一緒にいようか」

「わ……っ」


 彼は顔を綻ばせ、ミノリの腰に手を回し、抱き寄せる。微かに香る陽の匂いが、二人の鼻腔をくすぐった。

 風が吹き、庭の木を踊らせる。チリリン、と窓に吊るされた風鈴が涼しげな音を出した。風に乗り、土と緑の匂いも届く。

 ミノリはそっとハルカの胸に顔を埋めた。聞こえてくる彼の鼓動は、規則正しく脈を打つ。自分の鼓動と混ざり合い、大きな波となって打ち寄せるような、言い表せない感覚が纏う。それは触れられている証。触れている為に起こる現象。

 ものの数分で離されたが、それでもミノリの心は満たされた。まるで渇いた喉を潤すように、ゆっくりと温かいモノが全身に広がっていく。


「ちゃんと電話しろよ」

「判ってるってば」


 二度も同じことを言われ、唇を尖らせた。うとい訳ではないので、一度でいい。


「じゃあな」


 最後に、手が頭に触れた。だが、すぐにそれを離して、彼は踵を返す。その背中が消えるまで、ミノリは彼を見送った。視界の端に映った空には、茜色を覆うように闇が姿を現していた。



◇◆◇◆◇◆



「はー……」


 冷蔵庫に凭れ、火照った躯を麦茶で鎮める。マグカップの中の茶色の液体には、自分の姿が映し出されていた。


「なんつー顔をしてんだよ」


 呟き、マグカップに口を付ける。にやつく自分を消し去りたかった。


「ミノリ?」


 キィ……、とリビンクのドアが開き、友紀が姿を現す。


「あ……、友紀さん」

「お帰りなさい」

「た、ただいま」


 微笑まれたが目を逸らしてしまう。

 目の前の女性が傷付いているであろうことは容易に想像出来た。四年間同じことを繰り返して、誰が傷付かないだろうか。


「……あの、友紀さん」


 彼はマグカップを握りしめた。それは小さな決意。もう誰も傷付けたくない、という大きな想いがあった。


「なに?」


 一定の距離を保つ母親に目を合わせれば、長い睫毛に覆われた二つの黒い双眸とぶつかる。逸らしてしまいそうになるが、しかし、今度は逸らさないように細心の注意を払う。


「っ……、あの、明日……ハルカと一緒に課題をやります!」

「そうなの? 無理しないでね」


 彼女はダイニングテーブルのイスを引き、腰を下ろす。


「そ、それと、明後日……、友紀さんパート午後から、でしたよね?」

「ええ」

「その、明後日……、十一時ぐらいまでお父さんと出掛けてくれませんか?」

「どうしたの急に。なにかあるの?」


 訝しげな瞳がミノリを捕らえ、彼は怯みそうになった。

 今すぐ、逸らしたい。しかしふるふると頭を振り、再度マグカップを握りしめた。割れやしないかという程の力で。



「まだ言えないけど、区切りを着けたいんです」



 彼の瞳は、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えていた。初めて見た息子の真剣な顔が、脳裏に焼き付く。


「……そう。判った」


 数秒の沈黙の後、彼女は笑顔で応えた。手の平を合わせ、軽く握りしめながら。

 先程の言葉が、友紀の脳内で反芻する。見ていないところで、彼は大きく成長をしていた。嬉しくて、顔が緩む。


「あ……っと、ご飯は食べてこないで下さい」

「あら、どうして?」


 そう問われ、ミノリは目を泳がせた。極度の緊張の為か、背中に脂汗が伝う。


「それは――、その、……なんと言うか……」

「――なにか理由があるのね」

「あ、え? は、はいっ」

「じゃあ、ミノリの言う通りにするわ。初めてのお願いだものね、聞かない訳にはいかないわよ」


 イスから立ち上がり、友紀は言い放つ。やはり笑顔だ。


「そろそろ時間ね。晩御飯のおかずでも買ってくるわ」


 壁掛け時計を横目で見遣り、イスを元に戻した。


「あのっ」

「ん?」

「い、行ってらっしゃい」

「――……、行ってきます」


 突然の言葉に目を見開く。なにを言われたのか一瞬解らなかったが、それは初めて発せられた言葉だということだけは、頭の片隅で理解していた。返事をし、彼女はリビングを後にする。


「は……ははっ、あははははっ」


 パタン、とドアが静かに閉まると同時に笑いだす。

 簡単じゃないか。想ったことを伝えればいいじゃないか。それなのに――。


「簡単……なのに、な」


 どうして出来ないのか。どうして傷付けるだけなのか。自分を守れば、誰かを傷付けるしかない。そんなジレンマはもう要らないんだ。――初めから要らなかったのに。

 変わりたい。傷付けないようになりたい。そう思っているが、簡単に変わることは出来ないだろう。それでも、昨日と今日とで、なにか少しでも違っているように。そうあるように。

 願いを込めて、水道のレバーを下げる。水が流れ、そこにコップを差し出す。それから溢れた水は排水口に流れた。軽くコップを濯ぎレバーを上げ、元あった場所へと戻す。


「明後日には、決着だ」


 そう呟き、きゅっと手を握りしめた。



◇◆◇◆◇◆



 親の心子知らず。子の心親知らず。その名の通り、知らなかった。彼がなにを考えているのか。親子なのに。

 友紀は家の近所のスーパーに足を踏み入れていた。灰色の買い物カゴを腕に提げ、店内を歩く。

 ――なにを考えているのか解らないのは同じ。そんな考えが彼女の頭を掠める。ミノリにしてみても、彼女がなにを考えているか判らないだろう。親子でも知らないことはある。


「どっちもどっち、か」


 小さくため息を吐き、遠い過去を思い出そうと記憶を手繰り寄せる。

 四年間、彼女はミノリを見てきた。彼が『母親』というものに怯えていることは聞かされていたが、出会ってすぐに倒れたのには驚いた。彼は『嫌だ!』と叫び、意識を失ったのだ。

 ただ目を合わせただけ。それだけだったが、彼の癇に障るなにかがあったということだけは判った。

 倒れた理由を父親に問えば言葉を濁すだけで、なにも教えてはくれなかった。

 そうして時が経ち、聞かされたのだ。彼が母親から暴力を受けていたことを。だからこそ、怯えていることを。しかし彼は、優しい心を持ち合わせていた。目を逸らした後の顔は何時も『やってしまった』という後悔の顔だ。

 触れたかった。触れて、抱きしめてあげたい。けれどそれは、叶わない夢で。自分が触れてしまったら、彼は壊れてしまいそうで触れられなかった。一定の距離を保ち、見守ることしか叶わない歯痒さ。どれだけ彼を想っても、触れられなければ意味はない。

 そうして彼を見守る中で、幼馴染みの少年の『ハルカ』という存在が、彼をどれだけ救っているのかを知った。彼の傍では笑い、怒り、泣き――自分には見せない喜怒哀楽がはっきりと出ていた。彼に心を許しているのが端から見ても解る程であり、正直、羨ましさが芽生えたのは事実だ。

 そして気付いたことがある。彼が彼を見詰める瞳は優しく、時に切な気で、彼は彼を愛しいのだろうと。彼はその気持ちを言えずに、心の内にあることを。


「――さん……きさん? 友紀さん?」

「え?」


 呼ばれた声に我に帰れば、目の前には、買い物カゴを手に心配そうな顔をしている美江子がいた。同じように夕飯の買い物に来ているのだろう。


「美江子、さん……」

「こんな所で立ち止まって、どうかしたんですか?」

「いえ、ちょっと考え事を……」

「――あぁ、さてはミノリくんのことを考えてましたね」


 美江子は顎に手を添えて少し考える素振りを見せ、ズバリ言い当てる。


「判りましたか」


 バツが悪そうに頬を掻き、視線を彼女のカゴに遣る。中にはひき肉のパック、ビニール袋に入れられた玉ねぎ、パックの惣菜があった。


「今日はなにを作ろうとしてるんですか」

「今日は――ハンバーグですかね。どうもハルカはハンバーグが好きみたいなんで」

「うちは麻婆豆腐が好きみたい」

「多分、なにか思い入れがあるんでしょうね」


 ふふ……、と美江子は笑う。釣られて友紀も笑みを溢した。


「そうですね」


 なにかしら思いがあるから好きになる。美味しかったでも、もっと食べたいでもいい。それはとても大事な感情だ。


「昨日……ハルカくん、なにか言ってませんでした?」

「なにか、ですか。んー……、特には無いかな」

「本当に……、本当に無いですか?」


 彼女の言葉に美江子は再度記憶を手繰りよせた。――弟が尋ねてきて、ハルカが帰ってきた。それから――――。


「話を、しました」

「どんな話ですか?」

「他愛もない話ですよ」


 目前に立つ女性からは必死な感じが窺えた。どうしてそんなに必死になるのか、首を傾げたくなる。


「友紀さん、なにかありました?」

「いえ、なにもありませんよ」


 ではなぜそんなに必死なのか。少し落ち着かせた方がいいか、と美江子は考える。まともに話せないのは辛いモノだ。一から十を言ったとしても、切羽詰まっていたら九、或いは八までしか――いや、全然理解していない時がある。全てを理解するのには気持ちが落ち着いていなければ。


「おかず、買わなくていいんですか? 売り切れちゃいますよ?」


 彼女のカゴを見るが、買い物に来たというのにそこにはなにも入っていない。


「え、あ……」


 視線を追ってカゴを見て、あっ、と小さく呟いた。


「か、買ってきます」


 友紀はそそくさと惣菜コーナーへと行ってしまう。


「……さて、どうしましょうか」


 美江子は顎に指を添えながら言い放った。



◇◆◇◆◇◆



 ミノリは部屋に行き着替えを済ませ、ベッドに腰を掛けていた。

 カチカチと携帯電話を弄る。着信履歴を開き、ハルカの名前に合わせ詳細のボタンを押す。発信のボタンを押そうとするが、指が動かない。


「……」


 聞いてほしいことがある。――しかし、今電話をしても大丈夫だろうか、という考えが浮かんでしまう。彼は先程から同じこを何度も繰り返していた。


「あー、もー」


 携帯を片手に大の字にベッドに倒れれば、ゆっくりと布団が沈む。そうして目を閉じ、息を吐き出す。


「――よし」


 瞼を押し上げ、携帯を顔の前に翳した。

 寝転がる前と同じように、着信履歴を開く。詳細ボタンを押し、今度は意を決して発信ボタンを押す。押してしまえば後は楽だ。急いで起き上がり携帯を耳に当てれば、発信音が鼓膜を刺激する。


『もしもし?』


 耳に当てた通話口から聞こえた声に、心臓が跳ねた。


「ハルカっ」

『うん。どうした?』


 大きな声に電話の向こうの彼は驚いた様な声を出す。


「ごめん。今、なにしてる……?」


 いきなり大きな声を出したことを詫び、声のボリュームを抑えて問い掛けた。


『課題やってるけど。ミノリはなにしてたんだ?』

「電話、しようかなって考えてた」

『で、電話してきたのか。今、部屋か?』


 小さな笑い声が聞こえる。何故笑っているのかさっぱりだ。


「うん。――あのさハルカ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど……」

『話してみ』

「オレ友紀さんと話せたよ。ちゃんと目を合わせれた」

『そう。じゃあ、ミノリにご褒美やらないとな』


 唐突に放たれた言葉に、首を横に振りたくなる。


「ご褒美? そんなんいらないし」


 『ご褒美』がほしくて電話をした訳ではないので、きっぱりと断った。


『プリン、でもいらない?』

「プ、プリンっ……」


 『プリン』という単語に躯がぴくんと跳ねる。あの時――二人で食べた時――から甘いものではプリンが一番になった。


「っく……、こ、今度な。それより明日、一時くらいに来て」


 食べたい衝動を抑え込み、時間を伝える。

 一時なのは昼食を食べてからやろうと考えたからだ。一般には朝の涼しい内にやる方がはかどると言うが、そんなことはない。涼しいせいか、眠たくなり最後には睡魔に負ける。彼はどちらかと言えば午後に課題をやっていた。


『一時な。判った』

「ハルカ」

『ん?』

「……好きだよ……」


 ポソリと呟く声は小さい。


『うん。俺も好きだよ』

「じゃ、じゃあ明日なっ」


 耳から携帯を離し、通話終了のボタンを押す。何時もより速く心臓が脈を打ち、躯の奥が熱くなる。


「聞こえてたのかよ……」


 静かに携帯を閉じた。呟いた言葉はしっかりと届いていたようだ。携帯の性能が恨めしい。

 ベッドフレームに備え付けられた棚の上に二つ折りにした携帯電話を置き、枕に顔を埋める。


「あぁ~、恥ずっ」


 聞かせようとして言葉を紡いだ訳ではなく、ちょっと言ってみたかっただけなのだった。



◇◆◇◆◇◆



 夕陽を浴びながら歩を進める。買い物帰りであろう親子に軽く会釈をしながら、抱きしめた彼の温もりを思い出す。――本当はもう少しだけ抱きしめたかった。けれどあのまま抱きしめていたら、苦しがるだろう。


「……あれで丁度いいか」


 自分に言い聞かせるように呟いた。余りほしがるのも相手には重たいだけだ。なら、重たいよりは軽い方がいい、という結論になる。


「ハルカくん」


 声と共に背後から軽く肩を叩かれた。


「あ、友紀さん、こんにちは」


 彼は振り返りその瞳に人物を認め、微笑んだ。


「こんにちは。ところで、ハルカくんは何時もミノリを送ってくれてるね」


 その人物――友紀はハルカの隣に並ぶ。手には革製のハンドバックが握られていた。買い物に行くのだろう。


「えぇ」

「どうして?」

「昔からそうしてますから。俺にしてみれば顔を洗うようなものです」

「そう。それを嫌だと思ったことはない?」

「ありません」

「よかった。ミノリを大事にしてくれてありがとうね、ハルカくん」


 彼女は彼に視線を合わせ、目を細めた。


「大したことはしてませんよ」


 習慣付いたものを今更直す気はない。例え友紀に嫌がられようとも、ミノリを家に送るつもりだ。


「あ、そうだ。俺――昨日、美江子さんと話をしました」


 思い出したように言い放つ。これは話した方がいいだろう。


「話って、どんな?」

「……大切な人の話を少々」


 恥ずかしそうに視線を逸らし、言葉を紡ぐ。


「美江子さんはなにか言ってた?」


 彼女ははたと、先程から疑問しか投げ掛けていなことに気付いた。が、聞くことで進展に繋がるならそれはそれでいいと思えた。


「いえ、特には。強いて言うなら、大切にしなさいと言ってました」

「……そう。美江子さんはそう言ってたの」


 それは、受け入れているのかな。そうだとしたら、嬉しいな。


「友紀さん。俺はこれで失礼します」

「あぁ、はい。話してくれてありがとね」


 ハルカは門口の石段を上り、門に手を掛ける。刹那、彼は振り返った。


「友紀さん、雨が降ったら晴れると思いますか?」


 まだ歩き始めていない友紀に問えば、彼女は顎に手を添えた。


「んー……、一概には言えないと思うな」

「そう、ですか」

「曇天の場合も、雨の場合もあるからね」


 ――同じだ。ミノリと同じ。


「ハルカくん、なに笑ってるの?」

「いえ……、なんでもないですよ」


 彼女に言われて、自分が笑っているのに気付かされた。慌てて口許を手で覆う。


「あー、ごめんね。隠さなくていいの。ちゃんと笑っていいのよ」

「はぁ……?」

「貴方達が笑うのを見ていると、嬉しくなるの。だから、笑いたい時には笑っていてね」


 ちゃんと笑顔を見せて。それだけで元気が出る。要は一種の癒しだ。――彼等は知らないだろうけれど。


「っと……、話し込んじゃってごめんなさい。じゃあね」


 軽く頭を下げ、彼女はスーパーのある方向へ歩を進める。


「笑いたい時……、か」


 遠ざかる友紀の背中を見詰め、彼は呟く。


「俺はミノリに笑ってほしいよ」


 心から笑ってほしい。だけどそんなことは言えない。言ったら意味を成さなくなる。だから、黙って傍にいる。それが最もいい方法だと思ったから。


「あ……」


 顔を上げて空を見ると、闇が顔を出していた。オレンジ色とのグラデーションは、どこか儚さを醸し出している。無意識に綺麗だ、と呟いていた。

 夕日を見ると、今日も終わるのだと漠然と感じる。

 明日はどんな日になるのか。それを想像するのは頭を使う。思い通りにいった試しはないけれど。

 そうして今日になり、なにも変わらない日常が過ぎていっただけだと、夕日が教えてくれる。それは飽き飽きする人の方が多いだろう。それでも、なにも変わらない日常が心地好い。

 今日が過ぎて、明日になって。繰り返されるその日常――彼と過ごす日々が、確実に思い出になっていくのだから。



◇◆◇◆◇◆



 ハルカと話した内容を彼女に伝えるべきか否か。友紀を待つ間、美江子は考えを巡らせる。

 友紀は会計を済ませ、スーパーの買い物袋に品物を入れ、口を縛った。買い物カゴが積まれた場所にそれを置き、先に会計を済ませた彼女の元へと歩み寄る。


「すいません、待たせて」

「いえ。じゃあ、行きましょうか」


 店から外に出れば、空は薄闇に覆われていた。それでも空気が生暖かい。さすが夏だといったところか。


「――迷って迷って、結論を出しました」

「はい?」


 隣から聞こえた声に疑問符を放ち、友紀は美江子を見据えた。


「あの子がミノリくんに好意を持っていることは、すぐに判りました」


 真っ直ぐに前を見詰めながら淡々と語る彼女には、どこか決意めいたモノが在るように思えた。自分の思い込みかも解らないが。


「偏見は無くなってきたとはいえ、それでも同性同士ですからね、迷いましたよ。でも――『やめろ』とは言えなかった」


 コツ、と一歩足を出し、振り返る。


「離したら、傷付くことが判っていたから。なんて……ね、それを理由にしてたんですね」

「理由、ですか?」


 美江子が一歩踏み出したように、友紀も一歩を踏み出した。隣に並ぶ二人には、身長差がほとんどない。


「気付かないふりをして、逃げていた」


 友紀を見遣り、自嘲するかのように口端を上げる。


「逃げていたんですよ、私は。ずっとね」

「逃げてませんよ。貴女は向き合っているじゃないですか」

「そう見えますか? 本心で彼と向き合おうと決意したのは、二日前なんです。恋愛は自由なんだと思っていたけれど、いざそうなると否定的になる。可笑しいですよね」


 俯きながら頬を掻く。長い睫毛が伏せられていた。


「ハルカが幸せそうに笑うのなら、その分だけ私は向き合わなければいけません。腹を据えて私は彼と話をしました」


 そこまで言って、美江子は歩き始めた。友紀はすぐに彼女の姿を追う。


「大切な人の話――これは言わずもがな、ですかね」

「そうですね」


 薄闇の中でも蝉が鳴き、道路を行き交う車の音が、訪れた沈黙を消す。

 関節にビニールが食い込み、吹いた風が髪を靡かせる。


「向き合って、よかった」


 ポソリと紡がれた言葉。現状に吹っ切れたのだろう。後ろ髪を引かれない、安堵のようなモノか。それに返事をすることはなく、友紀はただ前を見詰めていた。


「人が人を好きになるのは、性ですよ。私は彼等が選んだなら、それを最後まで見届けます。助けを求めてきたのなら、手を差し出せるようにしたい」


 紡ぐ彼女を見遣り、美江子は再び自嘲気味に笑う。


「友紀さんは強いですね」

「全然強くないですよ。ただ愛しいから。それだけです」


 それが、全ての原動力。



◇◆◇◆◇◆



 友紀に話してしまったが、本当によかったのだろうか。今更ながら不安が募る。


「まぁ、過ぎたことだし……」


 後の祭で、元には戻らない。考えるのは止めようと頭を振る。


「それにしても――」


 携帯を片手に彼は、腰を掛けていたベッドに横たわる。

『……好きだよ……』

 先程の呟きが、未だに鼓膜を侵していた。やりかけた課題なんか手につく筈もなく、変わっていっていることが嬉しくてにやけてしまう。


「確信犯、とかじゃないよな……」


 言葉を紡いで、考え直す。――有り得ないか。彼にそんなことが出来る筈がない。……と思うが、本当のところは解らない。


「まぁ、確信犯でもいいけど」


 二つ折りの携帯を顔に翳し、パンダのストラップを空いている片手の指で小突けば、すぐにそれは左右に揺れる。眺めていれば、ノック音が聞こえた。


「うわわ……はいっ」


 急いで起き上がれば、無意識に正座になる。


「入って大丈夫?」


 外から聞こえる声は伯母のモノだ。仕事はどうしたのだろうかと疑問が浮かんだが、それを聞くのは後にした。


「大丈夫です」


 ゆっくりとドアが開き、彼女は領域に足を踏み入れ顔を見せた。


「美江子さん、仕事はどうしたんですか?」

「定時で終わりだけど?」


 そう言われ壁掛け時計に目を遣れば、定時はとっくに過ぎていた。そもそも、帰ってきたのは定時に近いことを思い出す。


「すいません。変なこと聞いて」

「いいのよ。それより、今日はハンバーグだからね」

「ハンバーグ、ですか?」


 きょとんとしながら問えば、彼女の口元が緩む。


「好きでしょう、ハンバーグ」

「好き、ですけど……」


 でも、なんで? という疑問が顔に浮かんでいる。可笑しそうに笑う彼女に思わず首を傾げた。


「子供の頃、一緒に作ったことは覚えてる?」


 言われて記憶を手繰る。それは七歳の時のことで、微かにあるだけだ。


「微かにですけど」

「十年も前のことだから、覚えてないのも無理はないわ。だから、もう一度、作るの」


 そう言って彼女は微笑う。綺麗な笑みだ。


「もう一度作って、どうするんですか?」


 彼が問えば、美江子はさらりと言った。


「思い出にするの」

「思い出に……?」


 新しく作れば、新しい記憶に変わるから、とも言って彼女は踵を返す。

 記憶というものは、鮮明なモノもあれば、記憶違いなモノ、あやふやなモノまでピンキリで、それが積み重なっている。消えて、覚えて、微かに残り、また消えて。そして――また覚える。その繰り返しだ。

『思い出にするの』

 彼女の言葉を心の中で反芻して。


「――はいっ」


 笑いながら彼は返答し、彼女の後を追った。



◇◆◇◆◇◆



「あら……」


 彼女がドアを開けて中を覗けば、彼は壁に凭れて気持ちよさそうに寝ていた。

 そっと部屋の中に入り、彼に近付く。ふと白い肌に視線を遣れば、異変があった。


「これは――」


 手を伸ばせばずるりと体勢が崩れ、ミノリはベッドに倒れ込んだ。軋む音が辺りに響く。


「そうね。高校生だもんね」


 優しく髪を撫で、彼女は部屋を後にする。

 なにかの音が、意識を戻させた。重たい瞼を押し上げれば、視界に入るのは見慣れた天井である。


「――あ……、オレ……寝てた、のか……」


 まだはっきりしない頭でそんなことを呟く。


「何時……?」


 ベッドフレームに置いた携帯に手を伸ばし、手繰り寄せる。ボタンを押せばサブディスプレイが点灯し時間が表示された。時刻は十八時五十二分。

 意識が覚醒されつつ、寝ぼけ眼を擦る。家に帰って来たのは、五時頃。ということは――。


「結構、寝てたんだな」


 あくびを噛み殺せば、目尻から涙が溢れる。拭えば、携帯が震えだした。

 サブディスプレイには『新着メール 1件』と表示されている。携帯を開き確認ボタンを押せばEメール画面が表示され、受信ボックスには『1』とあった。受信ボックスを開き、フォルダを開けばハルカからのメールだと判った。

 『作った』という文字の下には、添付された画像――皿に盛られたハンバーグがある。


「ハルカの家はハンバーグか」


 美味しそうなそれを見詰めていれば、お腹が鳴る。

 メール画面を閉じてメインディスプレイに戻ったのを確認し、携帯を折り畳んで胸ポケットへと突っ込む。

 ベッドから起き上がり、部屋を後にして階下に行った。床の冷たさがどことなく気持ちい。

 目の前のリビングのドアを開ければ、テーブルの上にはおかずが盛られた大皿や小皿が載せられていた。視線を外せばキッチンへと立つ友紀の姿がある。


「友紀さん……、部屋に入ってきませんでしたか?」

「入ったよ」


 振り返らずに答える。当たり前だが彼女は調理中であり、包丁を使用していた。危ないから振り返らなかったのだろう。


「そうですか」


 じゃあアレは、ドアを閉める音か。眠りから醒めさせたのは、なんでもない日常の音だった。

 トントンと小気味好い音が響く。なにを作るのか気になった。


「なにを作るんですか?」

「今日は麻婆茄子よ。ミノリの好きな麻婆豆腐にしようかとも思ったんだけど、生憎なことに豆腐が売り切れててね。諦めたわ」


 彼女は大袈裟に肩を竦める。


「麻婆茄子も好きだから大丈夫ですよ」


 過去にも何度か豆腐が売り切れていたことがあった。その度に、麻婆豆腐に替わるモノを作った。それは麻婆茄子であったり麻婆春雨であったり、はたまた全く別のおかずだったりと様々だ。


「そうね。ミノリは麻婆茄子も好きだったね」


 可笑しくないのに笑みが溢れる。それは嬉しいから。例え後ろ向きだとしても、彼と会話が出来ることが嬉しい。


「――あと、ハルカくんも、ね」

「なっ! っ……、ハ、ハルカは関係ありませんっ」


 慌てふためいた声が届き、また笑みが溢れそうになる。しかしそれを堪え、からかう様に言葉を紡いだ。


「あら? 好きじゃないの?」

「す、好き、ですけどっ、そ、それとこれとは……話が違いますよ」


 少し落ち着きを取り戻した彼は、母親を見据えて呟いた。


「ごめんなさい」


 そして――ありがとうございます、と。


「なにか言った?」


 問われて頭を振る。


「いえ、なにも」


 言葉を発するのと同時にリビングのドアが開き、父親が顔を出す。


「ただいまー。お、今日はミノリもいるのか」

「あ……、お父さん……。お帰りなさい」

「ただいま。なんか変わったな」


 頭に手を乗せられ、躯が竦む。だが、不思議と嫌悪感はない。


「な、なにが?」

「うーん……、なにかがぐらいにしか言えないなぁ。じゃあ、着替えてくるから」

「うん」


 離れていった手が触れた箇所に、自分のそれを乗せる。嫌じゃない。寧ろ嬉しかった。

 触れられるのが、嫌じゃなくなっている。それは、ハルカが変えてくれたのだろう。――ありがとう。心の中でそう呟いて、彼は小さく笑った。


「ミノリ、ちょっとお皿取ってくれる?」

「あっ、は、はいっ」


 頭部から手を離し、食器棚へと駆け寄る。白色の食器棚は、蛍光灯の光を受けて黄みを帯びていた。年月が経っているのが一目で判る。

 戸を引き開けて、三段ある内の上段に置いてある大皿を取り出す。カチャン、と食器同士がぶつかる音が耳に響いた。

 引き戸をゆっくりと閉じ、大事そうに抱えてシンクへと足を運ぶ。軽く水洗いをし、食器用布巾でそれを拭いて、隣で麻婆茄子を作る彼女に手渡す。


「どうぞ」

「ありがとう」


 友紀は笑みを浮かばせながら受け取り、中身をフライパンから皿へと移す。


「これ、持ってってくれる?」

「はい」


 湯気が顔に掛からないように腕を伸ばしながら、彼はテーブルへと運んだ。



◇◆◇◆◇◆



「送れた?」

「ちゃんと送れましたよ」


 携帯を畳んで、ズボンのポケットへと戻す。


「いただきます」


 子供の頃からの習慣を口に出し、箸を手にして一口サイズに切ったハンバーグを口に運ぶ。


「あ、言い忘れてましたけど、俺、明日、ミノリと一緒に課題をやります」


 口に入れる瞬間に、弾かれたように言葉が発せられる。


「そう。勉強もいいけど、遊びなさいよ。思い切り羽を伸ばしなさい」

「遊び……、ですか?」


 口に入れられようとしていたハンバーグは、まだ箸の中で。ハルカは瞬きを数回繰り返した。


「今は夏休みでしょう? 遊べる時に遊ばないと、息が詰まるわよ」

「遊んでますよ。海に行きましたから」

「楽しかった?」

「とても」


 少しだけ頬を朱に染め、目を細めて彼は笑う。


「そう。よかった」


 釣られたのか、彼女も顔を綻ばせた。

 彼はそれを眺めながら、少し冷めたハンバーグを口に入れて咀嚼する。


「美江子さんは――」


 目前に座る彼女を見遣る。彼女は目を白黒させた。


「なに?」

「雨が降ったら、晴れると思いますか?」


 友紀に出したのと同じ質問を彼女にする。単純に答えを聞きたかったから。


「雨だろうと、曇りだろうと、雪だろうと、最後には太陽が顔を出す。私はそう思ってるから、晴れるよ。ハルカは?」

「俺は……」


 逆に問われて戸惑った。聞くだけ聞いて、自分の意見を言わないのはやはりダメか。聞いても、これという答えなんてないのは解っている。だけど、これが正解だったらいいと思う。



「――晴れますよ」



 ミノリは否定をしたけれど、彼が知らないことがある。雨が降って、晴れたらさ――。


「ハルカ? ニヤニヤしてるけど、どうかした?」


 一瞬訝しげな顔をされたが、ハルカは両手を振った。


「え、あ……大丈夫です、大丈夫っ」

「大丈夫ならいいけど……」


 そう言って、彼女は止まっていた箸を動かし始める。ハルカも同じ様に箸を動かし、ハンバーグを切った。



◇◆◇◆◇◆



 甘辛い味が口の中に広がる。スプーンで最後の一口を食べ、それを皿に置いて手を合わせた。


「ごちそうさまでした」

「ミノリ」

「な、なに?」


 父親に名前を呼ばれた瞬間、躯が跳ねた。


「――埃、付いてる」


 手を伸ばし首筋に触れる。少しばかりくすぐったい。


「あ、ありがとう」

「課題やるんだろ?」

「うん。じゃあ、課題やってきます」


 イスから立ち上がり、彼はリビングを後にした。

 息子がいなくなったリビングには、父親の声が響く。


「なぁ、友紀。ミノリの首筋のアレさ……」


 言いながら自分の首筋に指を当てる。


「気付いた? まぁ、年頃だしね」

「やっぱ……ハルカくん、だよな」

「貴方の勘もたまには役に立つわね」


 感心した様な声が彼女の口から漏れた。


「『たまには』は余計だっての。お前から聞いた話で推測すると、自ずと答えが出るしな」


 麦茶が入ったコップを手に取り、口に含む。


「嫌?」

「嫌じゃないけど、複雑だな。なんつーか、一番好きなモノを取られた感じかな。こう、言葉に出来んモヤモヤ感が在るし……」

「そうね、私も同じ。……淋しくなるわね」


 短いため息を吐けば、スプーンが皿の中に滑り落ち、無機質な音を立てた。


「けど、ミノリが笑ってるなら俺等が口を出すことはしたくない。勿論、危険なことは止めさせるけどな」

「当たり前でしょ。なんだかんだ言って、本当に親バカだね。私達って」

「なに言ってんだ、大概の親はそうだろ」


 彼は口端を上げて躯を伸ばす。


「確かにね。さ、片付けましょうか」

「あいよ」


 一服を終えて、二人は机上の食器をシンクへと運び始めた。



◇◆◇◆◇◆



 ――バレているのか?

 父親が首筋に触れた時は驚いた。

 自分でもシャワーを浴びていた時に発見した、首筋にある小さな赤い印。俗にいうキスマーク。これはハルカに付けられた、生きている証。

 発見されないだろうと高をくくっていたが、同じ屋根の下に住む以上、何時かはバレるだろうとは思っていた。ただ早かっただけだ。

 そっと首筋に触れる。


「バレててもいいか」


 わざわざ経験を話す必要はないだろう。問われたら正直に話そう。


「課題、進めないとな」


 机の上にあるシャープペンシルを挟んだやりかけのテキストを開き、問題を解き始めた。




 

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