彼の想い、彼女の優しさ

 ミノリの家を後にして帰路に着けば、玄関には男性用の靴が並べられていた。


「……父さん、か」


 彼はそれを尻目に靴を脱ぎ玄関を抜ける。この間は動揺したが、今日はしなかった。気持ちが落ち着いているからだろう。


『――何度も言ってるけど、それはあの子を傷付けるだけなの』

『俺は変わったんだ』


 廊下を進めば、会話が耳に届いた。聞こえてくるリビングにそっと足を運んでみる。


「人はそう簡単に変われるものじゃないわ」

「いや、俺は変わった。後悔してるんだ。だからハルカを引き取りたい」

「――っ」


 小さく息を飲んで彼は目を見張る。あの人はなにを言っているのだろうか。そんな贖罪しょくざいみたいなことはしなくていい。いらない。離されたくない。

 ハルカは無意識に、ドアを開ける。蝶番ちょうつがいを擦る小さな音は声に掻き消されてしまった。


「ハルカ!?」


 先に気付いたのは伯母の美江子であった。父親はその声にそろそろと首を動かす。


「ハルカ……」


 彼はバツが悪そうに、少しだけ俯く。なにをした訳でもないのに、ツキン、と少し胸が痛んだ。


「……美江子さん、悪いんですけど、席を外してくれませんか? ……二人で、話がしたいんです」

「え、えぇ……。判ったわ」


 彼女は一度目を見張り、軽く頷いた後に席を立ってリビングのドアへと向かう。閉まるドアを見遣り、次いで父親に視線を遣った。


「公園で会った以来ですね」

「そうだな」


 彼は言葉を紡ぎながら父親と向かい合わせに座る。何回目だろう、と少し考えるが、邪魔になるだろうそれはすぐに消した。


「あの時、貴方は一緒に暮らそうと言いましたよね。俺はなにも言えませんでしたけど」

「あぁ」

「……そんなに、俺と暮らしたい理由はなんですか?」


 公園で会った時、いきなり『一緒に暮らそう』と言われて、そのまま電車の時間があるからと、走って行ってしまったのだ。理由は勿論、聞いていない。いや、気が動転してなにも言えなかったといった方が正しい。


「理由は、後悔したからだ。それ以外にはない」

「後悔するなら、初めから捨てなければよかったんですよ」

「あの時の俺はどうかしてたんだ……! 真里夏が死んで、忘れ形見のお前を見れば見る程真里夏を思い出した。……苛立ちと、憎しみがあったのは確かだ」


 無言で父親を見詰める。瞳に映る男は、両手を固く握りしめて項垂れていた。

 苛立ちや憎しみがあるのは当然だと思った。最愛の人を殺したのは、自分なのだ。怒りを買うのはそれ相応だと感じていた。しかし、捨てられるとは思ってもみなかったのだ。


「憎いなら、一緒に住むのは間違ってますね」

「もうそんな想いはない。解ってくれよ、ハルカ」


 弾かれたように顔を上げるその仕草が少しだけ笑いを誘うが、笑わずに気を引き締めた。


「本当だとしても、貴方と暮らすことはできません」


 そう言い放てば、父親は眉を下げて哀しそうな顔付きになった。


「……電車ということは、この街ではないところに貴方の家がある。ここには傍にいたい人がいるんです。離れたくありません」


 だから一緒には住めません、ともう一度言い放つ。父の目をまっすぐ見詰めて。


「傍にいたい人? それは誰なんだ?」

「誰でしょうね。当てて下さい」


 絶対に解る訳がないが、敢えて聞いてみる。悪戯心が芽生えたらしい。


「誰だ……?」


 『誰なんだ』と呟きながら頭を抱えている様は、少しだけ可笑しかった。

 壁掛け時計を見ると、十分程過ぎている。いい加減に諦めればいいのに。


「解らん……。教えてくれないか?」


 どうやら諦めたらしい。頭を抱えるのを止め、彼はハルカをじっと見詰める。


「俺の過去を受け入れてくれた、優しい人です」


 個人名を出そうか数秒悩んだが、止めておいた。言ったとしても解らないだろうし、仲がこじれたらそれこそ困ってしまう。


「そうか。判った」


 父親はそれ以上、なにも言わない。眉間に皺を寄せ、真剣になにかを考えている様に見える。なにを真剣に考えているのかは、判らなかったが。


「ハルカがここにいたいのはよく判った」


 言い放ちながら、彼は立ち上がる。そうしてハルカの頭を撫でた。


「でも俺は諦めない。ハルカが一緒に暮らしたいと思うまで、何度でも来るからな」

「そうですか」

「電車の時間がなければもっと話せたんだけどな……」


 淋しげに言い放つその声にまた胸が痛む。


「別に、話すぐらいなら何時でも来てください」


 紡いだその言葉に、父親は目を見開いた。可笑しなことを言った訳でもないのに驚かれるのはどうしてだろう。


「どうかしましたか?」


 問うと、『いや……別に』と曖昧な返事がきた。


「また、来るよ」


 そう言って、彼は歩き出した。リビングから出ていく背中を見遣り、ハルカは小さなため息を吐く。


『別に、話すぐらいなら何時でも来てください』


 言うつもりなんてなかったが、勝手に口から出てきてしまった。淋しそうな声を聞いたからか、淋しげな顔を見たからかは定かではないが、胸が痛んだ分、緊張が緩んでいたのだろう。

 解ったことは、自分もお人好しだということ。


「ハルカ」


 父親が出ていって数秒後、入れ替わるようにして伯母がリビングに入ってきた。


「美江子さん」

「話は終わったのね」

「そう、ですね。一応は終わりました」

「そう」


 彼女はハルカに近付き、腰を下ろした。


「ごめんなさいね」

「え? なんで謝るんですか?」


 突然謝られ、ハルカは首を傾げた。謝られることはなにもしていないのに、何故謝られなければならないのか。


「私がしっかりしていれば、朱吾が何度も来ることはないのよ。あの子が貴方に会いたがっているから……、つい甘やかしてしまうの……」

「大丈夫ですよ。もう、大丈夫です」


 ハルカは微笑う。そうして彼女の瞳を見詰める。


「あの人に会いたくないのが本音ですが、話さなければ解らないこともあります。俺には支えてくれる人がいますから――だから、大丈夫です」


 もし泣きたくなっても、もし心が壊れても、支えてくれる人がいる。それだけで強くなれる。


「ハルカ」


 伯母はハルカの手を取り、ぎゅっと握りしめた。


「支えてくれる人を、大切にしなさい」

「勿論、大切にしますよ」


 大切だから、一緒にいたい――。


「ふふっ」


 彼女は笑いながら、彼の頭を撫でる。くしゃくしゃと乱暴に。


「み、美江子さんっ?」

「やっとハルカにも大切な人が出来たのねぇ」


 余りにも綺麗な笑顔だったので、『やっとではない』と言葉に出来なかった。

 もしも追及されたら、どう答えればいいのだろう。ミノリの母親は二人の関係を受け入れてくれたが、彼女がそうとは限らない。しかし何時かはバレてしまうだろう。話して、どれ程大切か説いた方が得策か。


「……美江子さん」

「なにかしら?」


 髪をかき混ぜる腕を掴んだハルカに『ん?』と首を傾げる。


「あ、の……、ですね……、えっと……」


 いざとなると言葉は紡がれない。


「――俺、の」

「ハルカの大切な人なら、言わなくてもいいよ」

「えっ?」

「言わなくても、判っているもの」


 判っている? まるで母親みたいだ。紡いだ伯母に、彼は目を見開く。



「何時も見てるから、判るわよ」



 そう言って頭から手を離し、コホンと一つ咳を払う。


「ハルカが大切にしている人は、ミノリくん、でしょう」

「…………そう、です」


 なにか言われるのは、覚悟していた。同じ性別の人を好きだと言われたら、驚くだろう。


「ふふ、やっぱり。ハルカがあの子を見る目はとても優しかったから、すぐに判ったわ」


 彼女は楽しげにクスクスと笑う。


「そ……そんなに、判りやすかったんですか?」

「そうね。物凄く判りやすかったわねぇ」


 まだクスクスと笑う彼女を見詰め、『あ、なんだ。ちゃんと笑える人なんだな』と思った。

 伯母が笑っているところを見た記憶は、彼の中にはなかった。弱音を吐くこともなく、女手一つで育ててくれた。笑うことも、泣くこともなかった。たまにお酒を少量飲んでいたが、それでも弱音を吐かなかったのだ。この人は大丈夫だろうか? と何度も思った程だ。


「なに?」


 なにか言いたげなハルカに、美江子は声を掛ける。


「いえ。笑えるのかと、思って……」

「あら、酷い言い種ねぇ。ちゃんと笑えるわよ」


 胸を張る彼女の姿はちょっと可愛いかもしれない。


「俺の前では一度も笑ったことはありません」

「そうだったかしら?」


 胸を張るのを止めた美江子は首を傾げる。それは柔らかな物言いだが、本質を逸らそうとしている気がする。


「そうです。どうしてですか?」

「だって――ね。貴方が辛い思いをしているのに、笑える訳ないでしょう」


 観念したように言い放つその声は幾らか重みがあった。

 笑わなかったんじゃない。笑えなかったのか。


「ハルカが無理に笑っていることは知ってたわ。心から笑えていないことは判ってた。――だから私は笑わなかった」


 ハルカの瞳は彼女を捉えている。美江子の顔は真剣そのものだ。反して彼は無言で眉根を下げて、申し訳なさそうな顔付きになった。


「でも、もう必要ないでしょう。貴方はちゃんと笑えてるもの」


 今度は両手で頭をぐしゃぐしゃと撫でる。


「ちょ……、ちょっと、美江子さんっ?」

「ハルカがそんな顔をする必要はないの」


 言いながら、コツン、と軽く額を合わせた。顔が近付き、彼は恥ずかしさに少しだけ頬を染める。


「……美江子、さ……ん?」

「ねぇ、ハルカ。私達はまだ遠いわね。まだ、家族じゃない」


 伏し目がちに淋しげな声で言い放つが、それでも額は離さない。

 家族? 『家族』は、母親から産まれ、血が繋がっている人達のことだろ? 俺達が家族になれる訳ないよ。そう、彼女は伯母だ。実の親子ではない俺達が家族になるのは難しい。


「また難しそうな顔をしてる」


 言われてはっとする。難しいことを言われて、悩まない訳がなかった。


「美江子さんは俺と……俺なんかと、『家族』になりたいんですか?」


 彼は思ったことをそのままぶつける。本当の親に捨てられた自分なんかと――。


「ハルカ、『俺なんか』なんて言わないで」


 ふにっ、と両頬を軽くつねられた。


「へ?」


 彼は目を丸くする。


「『なんか』じゃない。ハルカには私がいる。ミノリくんもいる。ちゃんと大切な人がいるでしょう」


 その言葉が、優しい声が、胸に響いた。


「だから、自分を卑下しないで。自分を哀しませないで。貴方はもっと自分を大切にしなさい」


 つねっていた手を離し、『ね?』とその手で頭を撫でた。優しさが――くすぐったかった。優しく見詰めてくる目が、痛かった。


「っ……て、俺はっ、俺は母さんを殺したんだ!」


 その所為で、少なからず人に迷惑をかけた。伯母だってそうだ。寧ろ、一番迷惑を被っているのに、それを責めない。結婚もせずに、一人で子育てをする。それはどんなに大変なことなのか、容易には想像し難い。


「美江子さんに、迷惑をかけて……、ミノリだって……大変なのに、俺はミノリに依存して……っ」


 ダメな自分。弱い自分。そんな自分に嫌気がさす。卑下をすることでしか、自分を正当化出来なくて。


「私は迷惑だなんて一度も思ったことはないよ」

「嘘……言わないで下さい」

「嘘なんかじゃない」


 『嘘だ』と言って、『嘘じゃない』とは決まり文句だろう。本心で言っていたとしても、今のハルカには信じることなど出来なかったのだ。


「本当のことを言ってください」

「本当のことよ」


 細長くしかし節くれた手が頬に触れる。


「本当に、迷惑だなんて一度も思ったことはないの」


 向き合う伯母のに、自分が映る。今にも泣きそうな顔だった。


「……っ」


 泣いたら、楽になるだろうか。――いや、また誰かを困らせるだけか。考えて、ぐっ、と泣き出しそうなのを堪える。



「ハルカには感謝してるよ」



 感謝してるよ――。その言葉が鼓膜を通り、躯を巡った。


「か、んしゃ……?」


 感謝してくれていたなんて、初めて知った。それもそうか。美江子さんと本音で話し合ったのだって、今日が初めてだし……。


「ハルカが来て、私の生活は一変した。でもね、それは楽しい変化だった」


 優しい瞳。優しい声。優しく頬に触れる、温かい手。


「楽しい変化……?」

「子育てってね、大変だけれど楽しいものなのよ」


 頬に触れていた手が離れ、背中に回った。一瞬、びくりと躯が強張る。



「ありがとう、ハルカ」



 伯母は細い両腕でハルカをぎゅっと抱きしめる。

『ありがとう』

 それはどういう意味なのか。そして、この気持ちはなんなのか。――くすぐったいような気持ち。心が、温かくなる。

 ミノリにも『ありがとう』と言われたことがあるが、その時にもくすぐったいような気持ちになった。


「私は貴方が来たことで沢山のことを知ったし、沢山の思い出が出来た。貴方の成長を見るのが楽しみだった。勿論、今も楽しみよ。優しい貴方は私の自慢の息子なのよ。例え、お腹を痛めて産んだ子供じゃなくても――ハルカは私の息子なの」


 初めて言われた言葉の数々が、脳内を駆け巡る。嬉しい言葉。優しい声。それらに、目頭が熱くなった。


「美、江子さ……っ」


 頬を伝う涙は次々に溢れ、止まらない。嗚咽が漏れる。大きな声を出して、わんわん泣くことはしなかった。抱きしめられた腕の中で、ただ泣いた。



 『家族』になれるのだろうか――。



 そんな考えが、頭をよぎる。

 日本には養子縁組が存在しているので、なろうと思えば親子関係になれた。でもやっぱり、親子関係の血の繋がりが大事な世の中なのだ。『実の親子』に勝てる訳がない。


「親子、は……実子じゃなくても、なれますか?」


 親子の血には勝てないと解っている。それでも確かめたかった。養子縁組でも『実の親子』より親子らしい人達がいることも確かだから。


「なれるわよ。ちゃんと想いが在れば、『親子』になれるよ」


 その言葉は、ただの気休めかも知れない。けれどそれは、ハルカの胸に染み渡った。

 彼女の手が彼の髪を撫でる。


「少しずつでいいから、家族になっていこうね。ハルカ」


 ハルカは返事をしなかった。替わりに、小さく頷いたのだ。それが精一杯の応えだった。

 嬉しさで、涙なんて止まった。優しさで、心が満たされた。

 ――今日という日は忘れない。自分は大切な人に囲まれていたんだ。それが解った日。

 ハルカは腕の中、消え入りそうな声で『ありがとう』と呟いた。




 

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